2008年10月14日火曜日

フジテレビ、2審も敗訴 医療事故の無罪報道

記事:共同通信社

提供:共同通信社


【2008年10月10日】


 東京女子医大で2001年、心臓手術を受けた群馬県の少女=当時(12)=の死亡事故をめぐり、業務上過失致死罪で1審無罪となった元担当医が、判決を報じたフジテレビの4番組で名誉を傷つけられたとして1500万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は9日、同社に100万円の賠償を命じた1審判決を支持、フジテレビの控訴を棄却した。
 渡辺等(わたなべ・ひとし)裁判長は1審同様に、4番組のうち1番組での名誉棄損を認定。「テロップで『未熟な医師』と表示し、専門家として力量が不十分だったため事故を予見できなかった、との印象を視聴者に与えたことは否定しがたい。無罪判決の判断とは重要な点で異なり、元担当医の人格的価値を損なった」と判断した。
 元担当医は05年11月30日、東京地裁で無罪判決を受けた。検察側は判決を不服として控訴している。
 判決によると、フジテレビは同日夕のニュース番組で、判決内容を報道した際、医師が未熟だったとする趣旨の弁護士のコメントを、テロップ付きで紹介した。

2008年10月6日月曜日

医師と医療行為

http://homepage3.nifty.com/dontaku/ijihou/CHAP1.htm

より



第1章 医師と医療行為

 医療は人間の生命や健康に直接関与するものであり,医師に無秩序に任されてよいとはいえない。ことに,医薬品の繁用,複雑で高度な医療器材の使用,多種の医療関係者のかかわるチーム医療など多様化する医療を適正に確保するためには,人と物に対する規制を必要とする場合も少なくない。 医療に関連する法としては,全市民が公平に医療を受けられる医療制度,医療事故の発生したとき適正な処理のできる法制度,さらに臓器移植,遺伝子操作などに対応する法規範などを必要とする。 また,規制は法規に頼るだけではなく,倫理的,社会的規範を基盤として,法はその上にあるものと考えるべきであろう。医療のように専門性の高い,医師と患者との信頼関係に依存する業務においては,ともあれ,まず倫理的,社会的コントロールが作動し,次いで法規範を問題とすべきものと思う。
1 医師と法律
 日本は法治国家である。したがって,医師の行動(医療)規範も法によって規制される部分が少なくない。しかし,法は抽象的であったり,限定された状況の範囲内でのみ適用されるものだったりして,具体的な行動規範としての指針に欠けることもある。その場合には,医師は法律を自分で解釈し,自己規制をしなければならない。そこで,医師には広い視野,深い洞察力が要求され,法の精神や意図を的確に認識し,それに基づき客観的な価値判断および行動を展開しなければならないことになる。 日本国憲法は,基本的人権の尊重を基本理念とし(第11条),生命権,自由権,幸福権(第13条),健康で文化的な生活(第25条)を維持する権利などを保障している。これらの権利を充足させるために諸制度は整えられることになる。そして,医療はそのうちの有力な一手段といえよう。 ここで特に触れたいことは医師の裁量権である。裁量権とは,医師が患者を診療するに当たって,考えられるいろいろな方法のうちからある方法を選択することのできる権利,そしてその選択について一定の範囲内では裁判所の介入をも許さない権利をいう。換言すれば,医師は専門家としての自分の行動を決定するに当たり,適正な手続きを経て,考慮しなければならない問題点に適切な対応をしておればよく,問題点の評価や勘案は自由であるということである。医師の裁量権は診療契約である委任契約とも絡んで広く認められている。医療のもつ高い専門性と緊急性のために,第一線の医師の判断が特に尊重されているのである。それゆえに医師の判断は的確でなければならない。
2 医師の定義
 医師とは,形式的には国によって医師免許を与えられた者であり,実質的には医療および保健指導に当ることを業とする者である。少し堅苦しい言葉で言い換えると,「人の生命および健康を管理する業務(医業)に従事するものとしての資格を国によって認められ,かつ,その旨を医籍と呼ばれる公簿に登載された者」と定義される。 このことをもう少し詳しく見てみよう。(1) 医師は,医師免許を受けた者である。 医籍は,医師という身分を示す公の台帳であり,厚生省に備えられている。医師国家試験に合格した後,医籍に登録されて医師の資格を得ることになる(医師法5条・6条)。この要件を満たさないものは医師ではない。したがって,いわゆるもぐりの医者がいかに優秀な技能を有していたとしても,それが医業を営めば無免許医業罪にあたる(医師法17条)。(2) 医師は,人の生命・健康を管理すべき業務(医業)に従事するものである。 生命と健康は人にとって最も大切なものである。そして医業は人の生命・健康に直接重大な影響を及ぼす危険な業務である。したがって,医業を行なう医師は高度の医学上の知識と技術経験を有する者でなければならない。(3) 医師は,高い倫理感を有する者である。 医師は,医療および保健指導を司ることによって公衆衛生の向上・増進に寄与し,もって国民の健康な生活を確保することを使命とする(医師法1条)。診療行為は患者の生命・健康の維持回復を目的とするものであるとはいっても,本質的には患者の身体に対する侵襲であることには違いない。したがって,高度の倫理性に医業が裏打ちされていなければ患者の精神や身体がどのように取り扱われるか保証されないということになる。
3 医療行為の条件
 医療行為は重大な危険を内包する行為である。このような危険は医療のすべての場面に潜んでいる。手術・麻酔はもちろん,日常的な検査,投薬,注射などいかなる場面でも,たとえ事故の起こる可能性は小さくとも,常に危険が伏在しているといっても過言ではない。この意味で医療行為は許された危険 das ealaubte Risko とよばれる。これは,ある業務が多少の危険性を内包していても,その業務の社会的な必要性や有用性が極端に高い場合には違法性はないとする法理である。つまり,医療は危険性をはるかに上回る有用性を持っているという理由で業務として成立しているのである。「医療は元来危険性を内包しているのだから,不測の事故が起こってもそれは許されるべきである」という意味ではない。 他人の身体を切開したり,劇薬を飲ませたりすると,刑法上の暴行や傷害の罪に問われる(刑法第204条など)。しかし,それを行うのが医師であって,それが業務であれば犯罪を構成しない。といっても自由気儘にそれが許されているわけではなく,それが医療行為として認められる場合にのみ合法なのである。医療行為がなぜ犯罪を構成しないか,については次の諸説がある。
(1) 医療行為は元来正当な行為であり,刑法でも問題にならない(正当行為説) (2) 医療行為は,患者の承諾があるから,傷害罪にならない(患者承諾説)(3) 医療行為が正当であることは慣習法がこれを認めているからである(慣習法説)(4) 医療行為は,国家が正当であると承認しているからである(国家承認説)(5) 医療行為は,小害で大害を排除するものであるから,犯罪にならない(必要行為説)(6) 医療行為は,人の身体に対する侵害を目的としないから,犯罪にならない(目的説)(7) 医療行為は,医師等当然の業務であり業務権に基づくものである(業務権説)
 いずれの説も医療行為を非行・犯罪であるとはしない。通説は,医療行為を法令による正当業務行為に相当する(刑法第35条)ものと解している。 医師の行為が医療行為と認められるためには,次の3つを充足していなければならない。
1. 治療を目的とすること 2. 医学上認められた手段および方法であること 3. 患者,保護者,代理人などの承諾のあること
 医師が善意であって,しかも過失もなく,目的が達成されても,前に述べた3点を充足していなければ原則的には違法行為である。逆に前記3点を充足していれば,患者に不幸な結果を招いたとしても医療行為であることに変わりなく,診療過程に過失の発見されない限りその責任を問われることはない。  ここで,医療行為が適法であるための3条件についてもう少し考えてみよう。
(1) 治療目的 つまり,行為の目的が治療でなくてはならない。ここでいう治療とは,疾病の予防や健康診断,アフターケアなどを包括する。なお,治療であるか否かは,医師の専門家としての判断に委ねられるもので,患者の一方的要求と合致しないこともありうる。患者からいかなる要求があろうと,医療目的以外に身体を侵襲することは医行為とはいえない。例えば,暴力団関係者の「指つめ」を手伝ってやることなどはそれに該当する。ところで,性転換手術は従来医行為ではないとされてきた。しかし,手術を望む者が性器の外形を変えることによって自己の性的同一性を取り戻すことができるのなら,それもある意味では治療行為と言えるとする見解もある。
(2) 医学上認められた手段および方法 これには以下の2つの要件が必要である。
1) 医学的適応性 : 疾病の治療手段がその当時の医学界で一般的に承認されていること。2) 医学的正当性 : 疾病の処置法が一般に承認されており,医学の準則(lege artis)に従ってなされていること。
(3) 患者の承諾 医療はあくまでも患者の利益のために行われるものでなくてはならない。したがって,どのような治療を受けるかは最終的には患者の決定すべき事柄に属する(患者の承諾権)。 患者(健康な人ではもちろん)の自己決定権は,生命権や健康権に劣ることのない高いものである。客観的に有効な治療行為であっても,患者の承諾のない場合,特に明示の意思に反したときは,違法とされる。手術の場合は術前に,また,胃の透視と手術の重なるようなときは別々に承諾を得る必要があろう。日常的な処置については,診療開始時の承諾に含まれていると解してよいとされている。 ここで患者の承諾と医師の説明義務との関連についてみておこう。 患者の承諾は十分に主体的判断であることを要する。処置の性質,危険性の程度,治療法,予後などを理解した上でなされた判断でなくては法律的に有効とはいえない。そのために医師の適切な説明が必要となる。説明義務は,医師法第23条の療養上の指導義務,あるいは診療契約としての委任における善管注意義務(民法第644条)および報告義務(民法第645条)などに基づくものと解されている。
4 例外的医療行為
 前に述べた医療行為としての3条件は常に完全に満たされなければならないわけではない。一つの条件が不十分であっても許されることもある。その場合には他の条件がより整っていることが望まれる。例えば,次のような例はそれに当たる。(1) 輸血用血液の採血 採血される本人にとっては医療ではない。しかし,延長線上には受血者の治療という明白な目的がある。したがって,他の2条件の揃うこともさることながら,事前の検診や採血した血液の性質などについて医師の責任は通常の医療行為に劣るものではない。(2) 実験的治療行為 新しい治療法の開発や新薬の治験の場合,前述の医学的適応性・医学的正当性の条件の不十分なこともある。すなわち,効果や安全性の点で必ずしも安定しているとはいえない。とは言っても,これらを全面的に禁止すると医療の進歩を阻害する。そこで,この様な行為も医療行為と認めざるを得なくなる。その場合は,次のような事項を厳格に守らなければならない。
1) 標準的治療方法を試みても効果のみられなかったこと。2) 効果や安全性について客観的なデータのあること。3) 患者に対して,治療行為,危険性,標準的(一般的,従来の)方法との相違や特異性などにつき十分説明し,患者の承諾を得ておくこと。
(3) 第三者の承諾 患者の承諾が直接得られぬことは医療の実際において少なくない。その場合,他の者の承諾をもってそれに代えることもできる。
1) 患者が幼児のとき,通常は親権者(両親)の承諾でよい。2) 理解力のある未成年者のとき,本人および親権者の一致した承諾が望ましい(12歳位以上)。3) 精神障害者のとき,原則としては本人の承諾を必要とする。しかし,精神保健法では特に保護義務者の承諾を求めることがある。(精神保健法第33条の医療保護入院)4) 患者が意識喪失状態のとき,配偶者など近親者が親しい順に承諾権を持つ。しかし,意識が回復すると承諾権は直ちに本人に帰属する。
 このように第三者の承諾を認める根拠は,第三者が本人の意思を推測して代弁している(意識喪失者),第三者の意思をもって患者の意思に代える(幼児)などがあるが,いずれも患者の直接承諾と比較して不完全である。したがって,承諾のとり方などにも十分の配慮が望ましい。特に幼児の場合,医療上または社会的に第三者の意思がきわめて不穏当なときは,それに従わなくてもよい状況も起こりうる。 患者の承諾を得られない強制措置によって治療を行いうることを法律は許容している。精神保健法上の医療保護入院・応急入院(第33条)がその例である。 患者の意識喪失の場合における診療は,いわゆる緊急事態に対する対応である。緊急を要する状況下では第三者の承諾を得る余裕のないこともあり,また医療施設の不備なところで治療を迫られることも少なくない。この場合にはいわゆる緊急避難の法理の適用となろう。緊急避難について刑法(第37条)は,次の3要件が整えば認められるとしている。
1) 患者の生命および身体に危険の存するとき2) 他に方法のないとき3) 患者の身体に侵襲を加えても,放置しておくより有益であるとき
 医療に《緊急避難》を適用しようとするとき,意思は諸般の事情を総合して的確に判断をしなければならない。 医療行為それ自体に対しては,医師の自由裁量の余地は広く認められる傾向にある。しかし,管理行為すなわち患者の近親者への連絡などについては,厳しい法的な判断が下されているのが実情である。医師のなかには管理行為に対して無責任に思える言動もあるが,チーム医療の責任者として医師の責任は重いことを銘記すべきである。
 
5 診療と契約
 患者が医師に診察と治療を依頼し,医師がこれに応ずることによって医療は成立する。この関係を法律的に表現すると契約ということになる。契約には,一般に雇用,請負,賃貸借,委任などの種類が知られ,それぞれに発生する権利と義務の性格は異なっている。 医師と患者の間にも,診療に際しては契約が成立している。しかし,診療契約においては,ことの性質上,契約書を作成することもなければ,履行期限を定めることもない。「傷病を治して健康体にして欲しい」という患者側の希望・目的は明らかであるが,その目的達成の可能性の有無・治療手段などの契約の具体的内容は個々の事例で異なり,一般的に論ずることはできない。 医師と患者の関係が順調なときには事態は問題なく推移する。しかし,患者と医師の間に齟齬が生ずると,両者間の権利と義務が問題となり,法的な紛争にまで発展することも少なくない。 診療契約には,一般の診療契約以外に,入院補装具貸与などの契約,また精神保健法などに基づく特別な対応もある。一般の診療と契約についても,どの種類の契約に属するのが適正であるか論議がある。ここでは通説として支持されている準委任契約について述べたいと思う。 1 委任契約 (民法643条) 委任契約とは,「一定の統一された高級な労務を,委ねられた者(受任者)がその意志と能力により,一定の裁量権をもって果たすことを約する」ことである。高級な労務が,法律行為でなくて,診療行為のような事実行為の場合の契約を準委任契約(民法656条)といっている。すなわち,委任者(患者)が受任者(医師)を信頼して労務(診療提供)を依頼するものとされている。
(1) 契約の成立 診療契約には一定の形式はなく,患者と医師の意志の合致だけで成立する。意志の表示は口頭でもよい。また診察室の中では黙っていても成立したものとみなされている。契約内容をどうするかは,原則として契約当事者の自由である。しかし,違法な堕胎のような刑法上の犯罪行為,無診察で処方箋を発行するような医師法に抵触するような行為を内容とした契約は,契約自体が無効であり,最初から権利や義務は発生せず,従って報酬の請求権も生じない。
(2) 契約の当事者 契約を締結する人は,通常は病院や医院の開設者(国公立病院の場合,国や都道府県)と患者とであり,この当事者間に権利と義務は発生する。患者が子供であったり,精神障害者のときは患者本人が契約当事者になり得ないこともある。この場合,親権者や保護者が患者に代わって診療を依頼し,依頼者が契約当事者となる。このような契約を第三者のためにする契約(民法537条)という。
(3) 無契約診療 (事務管理 : 民法697条) 交通事故の被害者で人事不省に陥っている患者を発見者が運び込み,医師が診察を開始する,という場面を考えてみよう。この場合は,契約関係は発生せず,医師が一方的に診療を開始したものと考えられている。これを事務管理(民法697条)とよんでいる。この場合でも医師は常に患者の利益に配慮する義務がある。
● 緊急事務管理(民法698条) 交通事故など緊急の場合,専門外の患者(内科医に外傷患者)運び込まれ,その診療を依頼されることがある。その治療が専門医としての医療水準に達していない場合であっても,故意や重大な過失のない場合には損害賠償の責任は免ずるとされている。
2 診療に伴うその他の契約 一定の業務を完成することを契約内容とするものは請負契約(民法632条)という。古くは,義歯の作成,正常分娩などが請負契約とみなされていた。ただし,医療契約を請負契約であるとする考え方には有力な反対意見もある。 差額ベッドは賃貸借契約に属するものである。医師に雇われ労働を提供する看護婦や検査技師などとの契約は雇用契約である。
3 診療を契約とみなすことの問題点 委任契約は経済活動上の契約であり医療上の契約にはそぐわないとして,新しく診療契約の法概念を構築すべきだという議論もある(無名契約説)。 また,医療契約の中に請負契約の考え方を持ち込むことは危険であり,すべて準委任契約として把握するべきだという意見もある。例えば分娩の場合,医師の責務は「妊産婦の妊娠および分娩が自然で正常な経過をとるよう助力すること,その間に発生するかも知れない病的過程に対処すること」であって,「必ず母児ともに健全な状態で出産に至らしめること」ではない。一般の疾患の診療でも医師は患者に対して「病気を診察治療すること」約し得るにとどまり「病気を治癒させること」までは約束できない。したがって,分娩の場合でも一般の病気の診療と同様に,請負契約ではなく準委任契約として捉えるのが適切であるとする。
6 インフォームドコンセントの原則
 インフォームドコンセントの原則(doctrine of informed consent)とは,患者が医師から治療・処置などを受けるに当たって,事前にその内容・目的・効果・リスク,またその他の異なる治療法のある場合にはそれらの説明を受けて,患者が納得した上でそれらの治療・処置を受けることが必要であるという原則のことである。換言すれば,患者の自己決定権を適正に行使できるよう,医師が助言指導をし,同意の上で医療行為を行うべきである,いうことになろう。この場合,医師の説明は,患者の理解できる言葉で,患者が理解できるまで行われなければならない。医師の説明が理解されて初めて,患者は主体的に判断し,承諾することが可能となる。したがって,インフォームドコンセントの前提となるのは患者の知る権利であり,その前提を満足させるために必要となる医師の説明義務を考えなければならない。 米国では,1950年代後半に医師の説明義務を法的義務とする学説・判例が出て医師の裁量権に一定の限定を与えるようになり,1972年にインフォームドコンセントの法理論が確立され,現在では当然のこととして捉えられている。わが国では1987年厚生省の国民医療総合対策本部「中間報告」の中にインフォームドコンセントという語が現われて以来,医療関係者の間でもよく議論されるようになった。 インフォームドコンセントの内容は具体的な個々の事例に即して判断されている。しかし,必ずしも各判例に共通した意義-要件-効果という基準は定まっていないようである。すなわち,誰が,いつ,何を,どの程度まで説明するのかに関しては個々の事例において医師の判断に委ねられている。医療行為は症状の客観的把握,医学的判断,取り得る措置の選択という連鎖的な行為であるから,予後内容,手術の危険性について不確定な要素が多い場合には,その不確定の部分にまで説明の範囲を広げる必要はないと思う。たとえば開腹術を予定するとき,腹壁からの感染によって敗血症を起こすことがあるとか,術前の導尿時に尿道損傷の危険があるとか,当該手術に直接関係のないことにまで言及する必要はないだろう。 実際の臨床の場で治療法の選択に困難を覚えることは多く,しかもそれらの治療法のそれぞれについて具体的な予後経過を正確に予測できる場合は少ない。また医学自体絶えず進歩しているものであるから,この手術の前にはこの形式で,といった固定的なフォーマットで説明を行うべきではない。あくまでも,個別の具体的な症例において,患者の自己決定権を尊重しつつ,自己の裁量権の範囲内でインフォームドコンセントは達成されなければならない。この意味では,説明の巧拙というのも医師の力量の1つといえるものなのかも知れない。

わが国の医療を考える

http://www.yano.co.jp/lifescience/japan/health/think_2001.o1.08.html

より



第1回 思惑とバイアスを排除する医療の実現に向けて
Evidence-Based Medicineの役割 医療の目的は、患者にとって適切と思われる治療・ケアを提供することによって患者のアウトカムを最適にすることにある。医療行為の適切性を向上し、その時点で最も理にかなった診療を行うために、 Evidence-Based Medicine(以下EBMと略す)が提唱され、わが国でも注目されている。 臨床意思決定には、経験によって生じる先入観、固定概念などが深く関与する。現実の臨床の場では、新しい研究の成果を考慮に入れず、このような経験や勘による短絡的な意思決定がなされ、結果として、医師により同じ疾患・病態に対しても治療法・アウトカムが異なること、また、それらにより適切といえない医療が提供される可能性があると指摘されている。  EBMは、「個々の患者のケアに関する臨床決断のために、現在ある最良の(臨床科学的)根拠を良心的で、明示的(explicit)で、妥当性のある用い方をして使用すること」と定義されている。ここでいうEvidenceとは、患者の情報をもとにする臨床研究結果を意味する。そして、バイアスが少ない臨床研究に高い価値をおき、権威ある専門家の意見・総説、教科書であっても、患者の情報をもとにしていない場合には、あくまでも専門家の参考意見として位置づけされる。 具体的には、1)解決すべき臨床問題を明確にすること、2)それらの問題を解決するためにベストと思われる臨床研究を Medilineなどで効率的に探し出すこと、3)探し当てた論文を批判的に吟味し、根拠の質を評価すること、4)研究が行われた診療施設の特徴、対象患者の生理的特徴と個別性の評価を行い、この研究が目の前の患者に応用できるかどうか判断すること、5)臨床応用の結果を評価すること、という一連のプロセスである。 臨床医が EBMに則った診療を行うためには、1)基礎研究による理論より再現性がありバイアスのない体系的に行われた臨床研究を利用すること、2)正確な文献の解釈のためには、臨床疫学などの理解が必要であること、3)科学的根拠を理解・評価するためには、複数の専門家にコンサルトしながら総合的に診療を行うことが必要となる。 臨床上の問題を解決するための意思決定には、臨床的な技能 (exertise)、研究結果からのエビデンス、患者の意向・現場の状況の3つを同時に考慮しなければならない。この観点からするとEBMは、Evidence-based medicine、experience-based medicine、 及びethics-based medicineを包含するものであることが理解できる。すなわち、患者アウトカムを最大化するためには、患者の意向と臨床研究からえたエビデンスの理解、そしてそれらを適切に使用できる臨床経験が必須となるのである。患者の個々の状況や自分の臨床経験を無視して、盲目的にエビデンスに従うのは、むしろEBMの理念に反するものと言える。 EBM に則った診療ガイドラインやクリティカル・パスは“医師の裁量権”を奪うものであると批判される方もおられる。“医師の裁量権”とは何であろうか。日本医師会総合政策研究機構の桑間氏は、「“医師の裁量権”とは、医師が、その専門知見を用いて、医学的問題を処理し判断する権限であり、専門知見をもたずに勝手気ままに何をやってもよいとなどという裁量権ではない。・・・・真のEBMは“医師の裁量権”がエビデンスを自由に使いこなすことで、個々の患者の医学的問題に対応していくことを最終目的としている。・・・この技術を使いこなせる高遠な“医師の裁量権”が期待される」と述べている。医師免許があれば、なんでも医師の裁量権を認める時代は過ぎ、専門知見が少ない“医師の裁量権”は狭いと考えるのが当然であろう。 EBM の理念であるバイアスの回避の必要性については、1~2世紀前から述べられてきており、必ずしも新しい考え方ではない。ジギタリスの薬効を発見し強心剤として治療に活かしたWilliam Witheringはその成果を「An account of the Foxglove and Some of Its Medical Uses; with Practical Remarks on Drpst and Other Diseases」(1785)にまとめた。その書の一説に、「薬が効いて治療が成功し、私の(医師としての)評判を高めるような症例だけを選んで記述するのは容易なことです。しかし事実と科学とはかかるやり方を罰するでしょう。ですから、私がジギタリスを処方した症例は適切だった場合もそうでなかった場合もまた成功した場合もそうでなかった場合も、全部を記述しました。そのようにしますと、初めから非難をしてやろうと決めている人々の非難に私自身をさらすことになりましょう。しかし、最善の判定を下そうとしている人々には心から是認されることでしょう。」と明記している。これは、バイアスを避けるというEBMの理念そのものであり、2世紀も前からその考え方が提唱されているのである。 William Osler は「医学は不確実性の科学であり、確率のアートである」と述べている。どんなに科学が進んでも、100%に効果がある医療技術がないため、より適切な医療技術を選択するためには、臨床疫学などの考え方を取り入れた意思決定が必要であり、意思決定するための医師の技能(アート)が必要であることをほぼ1世紀前に説いている。 “ EBMはわが国で定着するのか?”危惧を持つ方も多い。公的研究費の配分や医学博士の論文をみると、わが国では、臨床研究よりも基礎研究に価値をおいている傾向が強い。また、製薬企業を見ても、開発臨床治験には熱心であるが、phase IV(outcome research)などには熱心ではない。 現在、 EBMとタイトルが付いた医学書がかなり多くなってきているが、内容をみると随分かけ離れたものも多い。EBMは、これまで述べてきたように、患者アウトカムを最適にするためのツールであり、バイアスが入った意思決定を回避するという行動哲学でもある。すなわち、実践しなければ意味のないものである。流行病のようには総論的に取り上げるが、具体的な臨床成績を持たないというわが国の特徴があるが、EBMは具体的に展開しなければ、絵に描いた餅と同じであり、医療関係者の屁理屈の道具になると危惧される。 臨床治験だけでなく一般診療の場でもインフォームド・コンセントが要求される時代になり、今後、ますます情報開示と accoutability(説明責任)も要求される時代になる。 EBM の実践に際しては、意思決定に使用された根拠のバイアスがどの程度あるかを理解し、医師にも、コメディカルにも、患者にも、その議論の基礎となる情報を等しく共有できるように、意思決定の透明性を高めることが重要となるであろう。そのためには、提供する治療・ケアの根拠を明確にするEBMの必要性は大きくなり、基礎理論だけでなく、臨床の場でEBMを実践するための医学・薬学教育が必要になるであろう。

医の倫理と法

http://www.hirano-med.or.jp/Academy/Report_8.htm
より


第Ⅳ章 医の倫理と法 
本章では、規範の中でもとくに重要とされている倫理と法を中1L、に、どのような規範が医療の質を向上させるのに適しているかを考察する. なお、本文では、「倫理」を社会集団内で守られるべき道理とし、「法」を制定法(法律等)並びにその解釈や適用によってつくられる判例法を意味することとした.

1・倫理と法の性質 
倫理と法の両者の関係について、一般に非倫理的なことをすれば法律で罰せられると認識されている.そこで、この両者につき、従来から指摘されている性質の違いを確認したい.即ち、倫理は人の内面を対象にし、法は外面を対象にするといわれている.また、倫理は確定した評価規準とはならない.一方、法は確定的なものであり、そのため法に基づく裁判が可能であるのに対して、倫理に関しては非難という形の制裁しかなしえない.さらに、倫理には強制力がないが、法にはその力がある.しかし、これらの区別の基準には例外があり、完全な区別は不可能とされているが、両者は次元が異なる規範であること、したがって両者の優劣の関係を比較考量することは不可能である.

2.わが国の医療における倫理と法 
明治以降急速な近代化を迫られたわが国では、画一性、集権性、並びに実効性が求められたために、従来法的規範が優先されてきた.立法化しなければ何も始まらないという気風は現在もなお続いており、医療の分野でも問題の解決のために新たな法律を作るという傾向がみられる.とりわけ、医療過誤によって損害賠償請求訴訟を提起され、業務上過失致死罪等を科せられるという事態が最近とくに増えてきているため、どうしても医師の目は法の方に向きがちであり、欧米諸国と比べても、日本では医療への刑法の介入が著しいといわれる.近年、わが国でも病院内に倫理委員会を設けることが一般的となりつつあるが、規範としての倫理を諸外国ほど十分に医療の分野で活用していないのが現状である. 法は万能ではない。日本の医療にみられる法-の過剰な期待や怖れは.この点についての理解が不十分である。 とくに、医療の質を上げるといった局面では.法は不向きである。医療に携わる専門集団の日常的な問題意識に裏づけされた倫理規範によって、現場の事情に即した規制をする方がより効果的である。法が比較的得意なのは懲悪であり.勧善ではない。また.一口に医療といってもさまざまな部門があり.その複雑さも飛躍的に増大しつつある。したがって、その質の向上を法に委ねるのには無理がある。また、判例法はもともと該当事件の解決に向けられたものであり.医療の質を全体的に高める手段として適しているかどうかは極めて疑問である。医の領域には.歴史を経て培われてきた倫理原則が存在しており、その内容も洗練されている。したがって医師に質の向上を促す規範としては.法よりも倫理の方がより適しているといえよう。 法は全能な規範ではない。イェリネック(Georg Jellinek, 1851-1911)が端的に表現したように、法は「倫理の最小限(das ethische Minimum) 」にすぎない。たしかに非倫理的であれば法律が罰する場合が多いが.合法ということは一般には適格の最低線にすぎず、必ずしも倫理的であるとは限らない。法は.より道徳的に高い内容にはついていけない。医療の質の中には当然道徳的な側面が含まれているので.その質の一層の向上のためには倫理規範が法よりも適している。 逆に、このようにすれば法には触れないといった態度が、却って医療の質の低下を招くことがある。医療の質を向上させるためには、医師は最低線の道徳で満足するのではなく.高い理想像を追い求める必要がある。アメリカ医師会の倫理綱領が.患者の最善に反する諸要求が生じた場合、それらの変更に努める責務を会員に課しており.世界医師会理事会が、医の倫理に反する内容の法律には医師が改正を働きかけるべきであるという決議を2003年に採択したのも.今まで述べてきた理由による。 悪を排除するという場面ではたしかに法の方が効果的であり、その点に関しての法の支配の重要性にはいささかも疑問がない。しかし、法のレベルを超えて一層の向上を図ることができること、医療の実情に即した向上をもたらすことが可能である点、さらにわが国の医療では法の代わりに倫理を活用する余地が十分に残されている点を考慮すると、医師が誇りをもって医師職に邁進し、医療の質を効果的に向上させていくために、倫理規範がさらに広く活用されて然るべきである.

3・プロフェッションとしての倫理
 それでは、倫理規範の一層の活用に際して、内容的には今後どの点に注目すればよいであろうか.これまでの検討をふりかえってみると、倫理の内容をいくつかに分類することが可能である.即ち、人間社会で一般的に守られるべき道理、医療が行われる場で守られるべき道理、医師という職業集団内で守られるべき道理、の三つである.わが国で今まで主に想定されてきたのは一、二番目の道理であった.しかし、医療の質の向上を担う主体である医師の役割の重要性を強調するための道理は、職業倫理と呼ばれる第三番目の道理である. 職業といっても、とくに医師の場合は、弁護士等と同種のプロフェッション(専門職団体)であることに留意しなければならない.しかし、プロフェッションであることを強調すると、医師集団がいわゆる圧力団体となって自由や自益を損なう動きに反対し、却って医療全体の質を落とすのではないかという批判がある.本来、そのように外からの介入に反対を唱えるのがプロフェッションの姿ではなく、自らを律するのがプロフェッションのあるべき姿である.プロフェッションの特徴は、自律を通じた自治の継承にあるとされる.したがって、医師はフリーダム(消極的自由)を叫ぶよりも、オートノミー(積極的自由)を培うことに努めるべきであり、その意味でも職業倫理は極めて重要である.医師集団が職業倫理に基づく自律を実施することによって社会の信頼を勝ち取りながら、オートノミーを確立することが同時に医療の質の向上をもたらすと考えられる.プロフェッショナルオートノミーという概念は第2章でも検討されているが、このオートノミーが医療の質の向上を導く重要な鍵であることを強調したい.4.プロフェッション倫理の活性化をめざして 最後に、以上のような方向に進むための具体的な方策を述べ、本章の締めくくりとしたい.社会からの信頼を得るために倫理を培うといっても、確実な手段があるわけではなく、究極的には、ひとりひとりの医師が志を高くして自己の向上の道を生涯歩み続けるかどうかにかかっている.しかし、プロフェッション倫理ということを考えると、為すべき方策が少なくとも二つある. その中の一つは、自律の一環として、構成員に対する懲戒制度を整備することである.長期的には、日本医師会を強制加入団体にすることも考えられるが、現時点でもある程度その実施が可能である.たとえば医師会会員による自浄作用のより一層の活性化などもその例である. 次の方策は、自律の一環として、倫理教育を主体的に医師会が担うことである.例えば、現在一部の医科大学では医学部学生教育の段階で現場の医師らが教育を担当し、患者団体とともに医療の質について討論したり、法律家を加えて倫理、法、規範、責任などを事例ごとに取り上げることが行われているが、その活動をより活発化することなどが考えられる.

診療ガイドラインとプロフェッショナルオートノミー

http://www.hirano-med.or.jp/Academy/Report_6.htm
より




第Ⅱ章 診療ガイドラインとプロフェッショナルオートノミー

1.一般臨床医からみた診療ガイドライン

 EBMを従来から重視してきた欧米諸国では、各種疾患に対するガイドラインが数多く作製され、わが国の医師の中にはそれらのガイドラインを参照しているものが少なくない.一方、わが国でも日本医師会や各学会から様々なガイドラインが作製されている.前章の表1に示したガイドラインは厚生労働省がわが国の各学会に依頼して作製したものである.臨床医にはこれらの診療ガイドラインの内容を自らよく理解した上で、その内容を患者によく説明し納得してもらう努力が要望される. 本来、EBMは典型的な病態に対する医学的対処法として、文献情報などに基づくエビデンスを重要視し、従来よりさらに科学的、合理的であろうとするものである.EBMの中で診療ガイドラインは、EBMに基づく診療上の大枠の指針として提供されたものであり、臨床医にはその指針を参考にして千差万別な問題に対応することが望まれる.
そこでは、第Ⅰ章のEBMの項でも述べた如く、最良の医療を追究する個々の医師の裁量性は当然保証されている.医師は臨床的な判断をする際、患者のもつ個人的価値観、人生観などを当然考慮しなければならないし、医学的エビデンスと医師の裁量とを車の両輪の如くバランス良く利用することが重要である. 診療ガイドラインは、専門家たちが文献的情報を綿密に検討し、それをエビデンスとして日常診療に役立っよう意図したものである.しかしそれはあくまでも診療上の指針である.これを金科玉条とするのではなく、各患者の特性に応じて柔軟性をもって利用すべきである.医学知識・医療技術の進歩に対応するために臨床医には継続的な研鋒が要求されているが、診療ガイドラインの習得も医師の生涯教育の一つと考えるべきである.しかも診療ガイドラインは、医学知識の進歩とともに改定されていく.したがって、医師会にはその生涯教育の中に診療ガイドラインをとり入れることが要望される.

2.プロフェッショナルオートノミーとは 

オートノミー(autonomy)とは、自治、自律、自主性を意味する.自律とは「自分の気ままを押さえ.または自分で立てた規範に従って自分のことは自分でやっていくこと(岩波・国語辞典)」である.そもそもこの言葉は、カントの『実践理性批判』の中に出てくるが、「人間は何をなすべきか」という問いに対し、カントは理性、良心、善意志を説明し、人間の意志は善意志(道徳律)として働くときにおいてのみ意志の自律性が保たれると述べている.つまり自己が自己を律してはじめて人間理性は善なる意志の実践を確立できると考え、これを実践理性の自律とした.カントほど「理性、良心」という問題を深く掘り下げて思索した人はいないと言われるが、彼は人間の良心の自律性を強調している. プロフェッション(profession職業)とは、専門性をもった職業をさす.職業人らは一つの集団を形成するのが常である.それは組織と呼ばれ、規約を作って、それを尊守し自らメンバーを教育して高めあい、自主的に運営されていくという意味で自律的autonomicである.この自律性こそが、プロフェッションと非プロフェッションとを区別する鍵であり、プロフェッションの本質は自律、オートノミーにあるといえる.その意味で、プロフェッショナルオートノミーは、まさに自ら選んだ職業的責任を果たすために、他ならぬ自分が自己の決定を支配するという積極的自由positive freedomに他ならない.オートノミーの源泉は、カントの言う人間としての「良心、理性、善意志」ということになる.プロフェッショナルオートノミーは、専門職として医師が良心を基盤として自らを律し、積極的自由の精神をもって診療に従事することである. 一方、プロフェッショナルフリーダムという言葉もよく用いられている.この用語は、日本医師会武見太郎元会長によって提唱された言葉として有名である(日本医師会編 国民医療年鑑 昭和54年版).それによると、「聖職者・弁護士、医師ら古典的プロフェッションは、外的制約、干渉を受けないという意味で自由でなければならない」としながらも、「現代プロフェッションは・積極的・創造的活動を自由に行う姿勢をとることが必要である」と述べられている.その意味において武見元会長が提唱されたプロフェッショナルフリーダムは、消極的・受動的自由ではなく、積極的自由を指していたものと思われる. しかし現在、プロフェッショナルフリーダムというと、「干渉されたくない」というエゴイズムの烙印を一般社会から押されかねない.そうした誤解を避けるためにも、医師としての責任を果たすために理性に裏打ちされたプロフェッションとしての積極的活動を意味するプロフェッショナルオートノミーという用語を用いる方がよいと考えられる. 第39回世界医師会総会(1987年、 Madrid)では、 「Professional Autonomy and Self-Regulationに関する宣言」が採択され、医師が誇りをもって自己を律し.医療の質を向上させることの大切さを譲っている.



3.プロフェッショナルオートノミーからみた診療ガイドラインと医師の裁量 

プロフェッションとして積極的に行動するためには、干渉.束縛から逃れる消極的自由のみにこだわるのではなく、自らの理性によって自己の責任を果たすために意志決定をする積極的自由が大切であることは既に述べた.このことは、行動の主体が自己の理性によって自由に選択するという原理に基づいているo プロフェッショナルオートノミーは、こうした積極的自由を基盤としてその職業に固有の倫理規範を自主的に作成し、遵守するという意味で自律的ということである.診療ガイドラインを干渉・締めつけとして捉えては、プロフェッショナルオートノミーは作動しない.診療ガイドラインを作成したのも医師ならば、それを使うのも医師である.同じプロフェッションとして誰もが診療ガイドラインに積極的に関わって、自らがプロフェッションとしての意見を述べ、診療ガイドラインをよりよいものにすることが肝要である. 診療ガイドラインは、限られた専門家たちによって作成されるが、それを臨床の現場で使うのは一般臨床医である.前項のEBMと診療ガイドラインでも述べられているように、診療ガイドラインを実際に使った現場の医師からのフィードバックが最も重要である.診療ガイドラインの質の評価はこのようにして行われていく. 診療ガイドラインの将来の鍵を握っているのは、まさに作成するプロフェッションと利用するプロフェッションとの協力、コミュニケーションであり、そこにプロフェッショナルオートノミーが認識される. 診療ガイドラインを使用する際に医師の裁量ということが常に問題となる.裁量とは、「自分の意見によって裁断し処置すること」とある(広辞苑).医師の診療行為を診断、検査、治療に三大別すると、裁量は検査と治療のステップで関わってくる. わが国では、患者と医師の間の診療契約は.準委任契約であるとされているが.受任者たる医師は、ある程度の裁量をもって診療を行うことができる.ある程度とは医師としてのプロフェッションの範囲内で.裁量を発揮できる権限である.それは委任者たる患者の利益になることが大前提であり、患者もそれを期待している. したがって.医師には個々の患者に対して最高の医療を提供するために.自信をもったプロフェッションとしての意志決定をする権限が与えられている.そのためには、 ①医師としての良心 ②医学的知識・技術の妥当性 ③保険診療の範囲内などが裁量の要件となる. 診療ガイドラインの使用は.医師の裁量と何ら矛盾するものではない.むしろ医師の裁量に基づいた臨床判断(opinion-based decision making, OBDM)を発拝して、診療ガイドラインを利用することが望まれる.

EBMと診療ガイドライン

http://www.hirano-med.or.jp/Academy/Report_5.htm
より



2.EBMと診療ガイドライン 
EBMの実践に必須な最善の医学的根拠の収集に当たって、教科書、レビューを中心とした二次的医学情報誌、CD-ROM、インターネット、などが利用されるが、日常の診療に際して多忙な医師が目の前の患者に対するEBMに必要な情報を迅速に取得することは容易ではない.したがって通常EBMに利用されることを目的とした診療ガイドラインが作製され利用されている.診療ガイドラインはEBMを重視する欧米諸国で数多く作製されており、それを積極的に参考にしているわが国の医師も少なくない.一方、わが国でも日本医師会や各学会が様々な疾患に対して診療ガイドラインを作製している.厚生労働省医政局研究開発振興課医療技術情報推進室は、平成11年度から、関連する各学会に依頼する形で各種疾患に対する診療ガイドラインの作製を開始している.その経過を示したのが表1であるが、ガイドライン作製の対象とする疾患の選択に当たって、1)患者数の多さ、2)疾患の重症度、3)社会的な関心、の3つの事項に焦点が当てられている.また、診療ガイドラインの作製に際して『根拠に基づく医療(Evidence-BasedMediCine)の手法を用いた医療技術の体系化に関する調査研究(福井次矢)』、『日本におけるEBMのためのデータベース構築及び提供利用に関する調査研究(丹波俊郎)』の報告書が厚生科学研究費によって作成され、ガイドラインの内容が各疾患によって著しく異なることがないような配慮がなされている.

表1. 厚生労働科学研究費による診療ガイドラインの研究課題一覧
平成11年度 作成開始分 (計5課題)o高血圧 o糖尿病 o喘 息 o急性心筋梗塞 o前立腺肥大 症及び女性尿失禁→ 完成
平成12年度 作成開始分 (計7課題) o白内障 o胃潰瘍 oクモ膜下出血 o腰痛 oアレルギー性鼻炎 o脳梗塞 o関節リウマチ→ 完成

平成13年度 作成開始分 (計4課題) o肺がん o乳がん oアルツハイマー病 →完成 o胃がん →15年度 完成予定
平成14年度 作成開始分 (計4課題) o脳出血 (15年脳卒中) o椎間板ヘルニア o大腿骨頚部骨折 o肝ガン →15年度 完成予定
平成15年度 作成開始分 (計3課題) o急性胆道炎 o尿路結石症 o前立腺がん →16年度 完成予定

 医学の進歩が著しい現在では、診療ガイドラインに対しては常に更新することが要求される.上記の厚生労働省の医療技術情報推進室では定期的に既成の診療ガイドラインを更新することを目標としているが、疾患によっては短期間に更新することが必要となるであろう.各診療ガイドラインの評価に際しては当然ガイドラインを使用することによって各医師の診療行為が改善し、その結果として患者の状態が良くなったかということが最も重視される.したがって、診療ガイドラインを実際に利用した現場の医師からのフィードバックが最も重要である.わが国でも各医師から得られた現場からの情報を基にし、診療ガイドラインを更新することが計画され、そのための機構が(財)日本医療機能評価機構の中に「医療情報サービスセンター」を付設する形で作られている.各医師が診療ガイドラインを基にしつつ、最終的には自分の能力を十分に発揮した診療を行うことが、今回の日本医師会学術推進会議のテーマである「医療の質の向上」に直接つながることは言うまでもない.

Evidence Based Medicine

http://www.hirano-med.or.jp/Academy/Report_4.htm
より



1.Evidence Based Medicine
 Evidence Based Medicine(EBM)[(科学的)根拠に基づく医療]という言葉を最初に使ったのは、カナダのマクマスター大学のG.H.Guyattで、1991年のことである.その背景には、その当時既に過去30年にわたって無作為化比較対照試験等、信頼性のおける臨床研究が数多く行われ、その結果が蓄積されてきたこと、先進国の殆どの医師にとって、コンピューターが極めて身近なものになってきたこと、患者の側からも、より客観的なデータに基づく治療が求められるようになってきたこと等が挙げられる. EBMという概念の導入、EBMのための医学雑誌の発行、CD-ROMの作製、これらの情報のインターネットによるアクセスと、その結果の医療への応用が1990年代になって急速に欧米諸国で行われるようになった.わが国においても、臨床疫学者を中心に、EBMに関心を持つ研究者が増え、外国のデータを用いて実際にEBMを臨床に応用する医師も現れてきているが、わが国の医学・医療界のEBMに対する具体的な取り組みは欧米諸国に比べて遅れており、1998年に漸くEBMに関する検討会(厚生科学審議会先端医療技術評価部会会長高久史麿)が厚生省(当時)の中に作られた.その検討会では、わが国におけるEBMの普及と推進、その推進の一つの方策である診療ガイドラインの作製について討論され、1999年3月にその報告書(医療技術評価推進検討会報告書)が公表されている.その報告書の中では、EBMは「診察している患者の臨床上の疑問点に関して医師が関連する文献などを評価し、その結果を自分の患者に適用することの妥当性を検討した上で実際に医療に応用すること」と定義され、実際の手順として、
1)眼前の患者の臨床的な疑問点を抽出する、
2)疑問点を扱った文献を検索する(CD-ROMやインターネットの利用)、
3)得られた文献の信頼性を評価する、
4)文献の結果を眼前の患者に適用することの妥当性を評価する、
5)患者に適用した結果をフィードバックする、
等の一連の換作が挙げられている. 
EBM実践の効果として以下の点が挙げられている.すなわち、
1)経験が浅い医師や遠隔地に勤務する医師が、診療の場で最新且つ最適な情報に基づく診断・治療法の選択を行うことができ、その結果として患者が受ける医療の内容が向上する.
2)いつでも、またどこでも最新且つ最適な情報に基づく医療が受けられ、その結果として患者が受ける医療の公平性が保証される.
3)インフォームドコンセントの実践に有用である.医療に関する情報が巷に氾濫していることやコンピューターを介して患者や家族が関心を持つ疾患に関する情報が容易に入手できるようになった結果、インフォームドコンセントを得る場合、その内容がEBMに基づいたものであることが要求されるようになっている.
4)医療の透明性を高め、前述のEBMに基づくインフォームドコンセントの実施と併せて患者と医師との間の信頼を構築するのに有用である. 
EBMでは、この言葉が「科学的根拠に基づく医療」と訳されているように、わが国では科学的根拠ということが強調されている.それではEBMが強調される前のわが国の医療が科学的根拠に基づいて行われていなかったかというと決してそうではなく、各医師が様々な自己学習や自己の経験に基づいて得られた根拠を基本にして医療を実践してきた.EBMは今まで各医師が独自に取得してきた根拠に、より高い客観性を与えようとするものであり、医療の国際化を反映してEBMに用いられる根拠も国際的な内容のものを目指しているo
EBMの最初の提唱者の1人であり、Evidence Based MEDICNE(日本語訳;『根拠に基づく医療』1998年)の著者であるD.L.Sackettは1996年発刊のBritish Medical JournalにEBMに関して以下のように述べている.
(1)EBMは、個々の患者の診療に際して現在利用可能な最善の医学的根拠を正しく利用することである.
(2)EBMの実践ということは、各医師が有している診療能力と幅広い検索から得られた最善の医学的根拠とを組み合わせることを意味している.
(3)良い医師には自分が有している診療能力と利用可能な最善の医学的根拠を診療の場で利用することが求められる.各医師が十分な診療能力を有していなければ、最善の医学的根拠に関する情報を手に入れてもそれを利用することはできないし、逆にいかに優れた診療能力を有していてもEBMによって最新の医学情報の取得に努めなければ、現在行っている診療が時代遅れのものになってしまい、患者に不利益を与える可能性がある.
(4)EBMは料理本の指示通りに料理を行うような医療ではない.各医師が教科書、インターネット、CD-ROM等様々な方法で入手する医学情報はあくまでも情報であり、各医師の診療能力に取って代わるものではない.
(5)EBMは最善の医学的根拠と各医師が身につけている診療能力とを組み合わせた診療の実践である.
(6)各医師は幅広い情報検索によって得られた医学的根拠が各々の患者にそのまま適用できるものであるかどうか、又適用するならばどのようにしてそれを行うかを自分で決断しなければならない.
(7)診療ガイドラインを個々の患者に適用する際には、各医師はそのガイドラインが患者の現在の状態に適したものであり、且つ患者自身の選択に応えるものであるかどうかを各自の今までの臨床経験や能力に基づいて判断しなければならない.
(8)EBMは医療費の削減のためのものではないし、また各医師が患者に対して行う医療への自由な裁量を抑えるものではない.
 以上、Sackettが8項目にわたって述べたEBMに関する基本的な考え方を紹介したが、改めて強調したいことは、EBMはあくまでも医学的(科学的)根拠と各医師の診療能力とを組み合わせた医療の実践を推奨したものであり、科学的根拠のみを重視したものではないこと、さらにEBMは医師の自由裁量を侵害するものではないということである.なお、後者の診療ガイドラインと医師の裁量については、次章「診療ガイドラインとプロフェッショナルオートノミー」で詳しく述べているので参照されたい.