2026年2月13日金曜日

善光寺聖

 この鎌倉期においては、東は相模あたりから、北陸道、中山道、東海道、畿内はいうまでもなく、山陽道から九州にかけてまで、野にも山にも念仏が満ちていた。
 社会科の教科書ふうにいえば念仏門は法然にはじまって親鸞がこれを承(う)け、別派として一遍が存在する。やがて室町に入って親鸞の子孫の蓮如が、念仏の組織的な大問屋として大本願寺教団をつくりあげて、各地に一向一揆をおこし、本願寺蓮如の時に織田信長と対決するというふうになるが、実際には法然以前に古流(こりゅう)ともいうべき念仏集団が各地に多種類存在した。
それらが法然の出現を待って教学を与えられ、すこしずつ組織されるのである。たとえば高野聖(こうやひじり)を中心とする高野念仏もあれば、紀州の熊野にあつまっていた熊野聖たちの熊野念仏もあった。さらには信濃の善光寺を中心にあつまっていた善光寺聖という集団があり、善光寺念仏といわれていた。念仏の本尊はいうまでもなく阿弥陀如来である。
善光寺の本尊はこの古刹(こさつ)としてはまことにめずらしく阿弥陀如来で、日本最古のものといっていい。中世、阿弥陀信仰がさかんになってから信濃の善光寺という寺が、天下に喧伝されたかと思える。喧伝されるについては、善光寺の僧が才覚を働かせたのではなく、善光寺にいわば巣食っていた善光寺聖たちが、さまざまな伝説を創作しては諸国に触(ふ)れあるいたかと思われる。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P267

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

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長野県 善光寺

山伏文化

P104
近年の松会は、徐々に古様の形態が薄れつつある。惜しまれてならない。
そうした中で、桧原山正平寺の松会は、田行事に興味をおぼえる。
数年間連続してみているが、一定の形態を崩すことなく、守りつがれ行われているのである。戸様の形態を知ろうとするならば、この桧原山の田行事をみるとよい。
 明治の改変後の松会、田行事などをみて、種々記されているが、これはあまり意味がないであろう。本来の松会にもつ、神仏習合という仏事的作法が、前にも述べたが一蹴され、松会という山伏による祭りの面影はぬぐいさられ、新しく創作されたものが混じっているからである。
 桧原山は幸いにして、まだ祭りは神仏習合の中で行われており、山麓の人々の善意の行事が他山のように子供たちの手に変わることなく、自ら大人たちの手によって行事が進められており、これは宰領し、山を守る桧原氏の人柄でもあろう。
 この桧原山の祭りが古様の形態をもつのは、お田植の田行事の所作に傀儡(くぐつ)芸能がみいだされるからである。

P106
 当然、豊前の山岳寺院の祭りにも傀儡の参加があってもよい。そこで山の文化とは、僧侶、そして山伏、また山人たち、その中に傀儡の人たちの文化もあり、多岐にわたっていることが分かる。
これを山伏という人たちによって合一的な文化に育て形成したものが、いわゆる山伏文化であるといえよう。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2021/11/16
  • メディア: 単行本

 

国玉神社上宮 求菩提山 福岡県

いい犬


 世田谷区の古い住宅地に住みついて、もう六十年になる。その頃からこのあたりは車の通らなない静かな一かくだったが、時折子供が泣き声を上げながら通って行ったり、ピアノの練習曲の、同じ所のくり返しが堀際の植込みの向うから流れてきたり、冬の夜は、「焼きいもォ 焼きいもォ」の呼び声が聞こえる時があったり、ひと頃は拍子木の音と「火の用心!」の声が通って行くこともあった。そうした声やもの音は、平和な日常の彩りとしてなかなか好もしいものだった。
 その頃私はくる日もくる日も深夜を過ぎても机に向かって原稿を書くという生活をしていたが、周りが寝鎮まった夜更け(よふけ)に遠く犬の吠え声が聞こえてくると、懐かしいような、ほっとするような、しみじみと優しい気持ちになったものだった。
 どこかで一匹が吠え出すと、それに呼応するように別の犬が吠え始める。するとそれに誘われてか、負けん気からかよくわからないが、方々の犬が吠え出して、これはもしかしたら火でも出ているのではないか、怪しい者がうろついているのではないかと、寝ていた人も起き出してカラカラと雨戸を開ける音や人声などが聞こえてきて静かな夜がいっ時、ざわめく。
「犬が吠えても叱ってはいけない。犬は犬なりに一所懸命に職分を果たしているのだからね」
 などと人々はいい、その頃は犬にも「職分」が与えられているのだった。よく吠える犬は「いい犬」で吠えない犬は「ダメ犬」としてバカにされた。~中略~
 だがこの頃、犬のその職分はなくなった。吠える犬はうるさいと近所から文句が来るので、飼い主から叱られる。犬は頭にリボンをつけて、吠えないように訓練されてチョロチョロしているのが「可愛い」といってもてはやされる。
真剣に職分を果たしたい犬の方は、励めば励むほどうるさい、バカモンと邪険にされる。悲しく憤ろしい思いを抱えて、リボンのチョロチョロ犬を嚙み殺してやりたいと思っている。
しかし、もしかしたらチョロチョロ犬の方だって、思う存分、心ゆくまで吠え立てたい時があるだろう。それは犬の本能だから。

九十歳。何がめでたい
佐藤 愛子 (著)
小学館 (2016/8/1)
P51

九十歳。何がめでたい

九十歳。何がめでたい

  • 作者: 佐藤愛子
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2016/08/01
  • メディア: 単行本





 

 

 

島根県 一畑薬師

浅草本願寺

浅草本願寺 というのは、京の東本願寺 の江戸別院である。
西本願寺が豊臣秀吉の肝煎をうけたのに対し、東本願寺は家康の主教政策ということもあって、元来一つの本願寺が二つになって関ヶ原以後にできたもので、このため幕末にあっても西本願寺が長州びいきであったのに対し、伝統として佐幕であった。  

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P320  

花神(下) (新潮文庫)

花神(下) (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1976/09/01
  • メディア: 文庫

 

増上寺

P77
 (住人注;秀吉により関八州への国替えを命じられ)突然、故郷を離れることになった家康は、先祖の供養をするため三河の菩提寺であった大樹寺を参拝。そのとき住職より、
「いかなる地に赴くも、念仏を怠りなく。江戸の地には同門の増上寺があるよし、時に仏の道に思うことあらば、気がねせず訪ねよ」

 1590年8月1日、この日を江戸入府の日と決めた家康一行は、道玄坂、青山通と一路江戸城へ向かって進んでいたところ、お城までもう間近というとき、庶民たちが沿道群がる中、門前よりじっと見つめる一僧侶の姿が家康の目にとまったのである。
家康が近習に尋ねたところ、増上寺の住職・存應(ぞんのう)上人であると。
即座に行軍をとどめた家康は、山内で茶の接待を所望。そして翌早朝に、再び増上寺を参詣した家康は、「家臣の命を預かる大将の身分で菩提所のないないのは、死を忘れる亡者と同様。江戸に城を移す上は、 この地に帰依する菩提所をこの増上寺に願いたい」と語り、存應上人はその願いを聞き入れ、以後増上寺は徳川家一門の菩提寺になったと伝えられている。
大角 修

仏像探訪 (エイムック 2124)

エイ出版社 (2011/2/17)

仏像探訪 (エイムック 2124)

仏像探訪 (エイムック 2124)

  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 2011/02/17
  • メディア: 大型本

 

北海道 上野ファーム

聖武天皇

 聖武天皇というひとは、われわれに東大寺と大仏(鋳造物としての大仏が現存のものではないが)を遺したひとである。
奈良朝三代目のこの天皇はその後の日本の天皇からみるといかにも大者にふさわしい専制権をもち、即位した早々は累代つづいた律令体制の生産力が充実して、国庫が富んでいた。
 この富を一代で傾けるのである。しきりに土木を興し、都を奈良だけで満足せず、生涯で何度も変えた。~中略~
「唐の長安というのは大変なにぎわいです」
 と、唐から帰ってきた僧玄昉や吉備真備などからその様子をきき、唐文明のきらびやかさに眩惑されるところがあったのだろう。~中略~
「自分もゆきたい」
 と、少年期にむずかったことがあるにちがいない。行くことができないために、その一代で二度も遣唐使を出すということをしたのであろう。かれは十四歳で皇太子になり、十年後天皇になった。聡明であったことはかれが「華厳経」という世界構造を説いた経典の理解が深かったことでもわかるし、また感受性がゆたかだったことは、その華厳的世界を東大寺という華麗な伽藍と毘盧遮那仏(大仏)をつくることによって形として表現してみたいと思ったことでもわかるし、やや神経質な性格だったことは、いらだつように遷都をしつづけたことでもわかる。
 自分は仏法の奴(やつこ)であると宣言した聖武は本気で仏教を信じた。信じただけでなく、外護者になり、さかんに造寺造仏をしたが、そのことにみが政治だと思っていた。豪儀で無邪気な古代的帝王の最後のひとが、聖武といえるかもしれない。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P36

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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北海道 上野ファーム

織田信長

 織田信長は日本市場の人物にめずらしく世界感覚がいきいきしている。信長は極東の孤島の一隅でうまれた人間でありながら地球のかなたのイスパニア人やポルトガル人によっておこされた大航海時代という世界的な動向をいちはやく嗅ぎ知り、疑いもなくその潮流に乗った人物であった。
かれは農本主義よりも貿易による国家経営に魅力をもち、それに手をつけ、しかしながら中道で斃(住人注;たお)れた。  信長は、茶道を好んだ。
 茶道というサロンの芸術に対(むか)いあうものはそれよりも古典的な連歌であったが、連歌は無数の古歌を暗誦しておくという信長にとっては愚にもつかぬ教養が必要だったために、かれはそのグループに近寄らず(父親の信秀は連歌好きだったが)新興の茶道に熱中した。
そういう理由だけでなく、信長は詩歌そのものを好まず、それよりも造形芸術を愛した。かれは美術についての斬新な批評能力ももっていたし、それだけでなく、狩野永徳に大がかりな障壁画をかかせるといったふうに、一種のモダン・アートを指導者的な資質をもっていた。
 茶道とくに堺市民のなかで成立した茶道は、わびとかさびとかいうことはさることながら、モダン・アートを称揚し、それを茶室において鑑賞するというゆきかたをとっていたために西洋人のつば広帽子やラシャのマントを着て歩いたような信長としてはこよなき魅力であったであろう。
信長はオペラまで鑑賞した。こういう男にとって利休が大完成したわび茶などはどちらかといえば多少わずらわしかったかもしれない。
 それよりも、緑釉(りょくゆう)と黄釉で装われた舶来の香盒(こうごう)や、鉛のたっぷり入ったガラスの茶碗などを薄暗い茶室の中で手にとってながめるとき、それを運んできた東南アジアの湖のにおいや、異質の文明があるという欧州の天地を想像したに相違なく、それを思うときにかれの想像は、つねに世界性を帯びたにちがいない。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P175

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

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P84
織田信長は、ようやく耕地のなかに根を張った家柄に育ちはしたが、その行動と性格は野性味にあふれた枝葉であったといえる。 
 織田信長の飛躍のきっかけとなった桶狭間の合戦にも、彼の雑草性はいかんなく発揮されている。まず第一に、この男は他人に臣従できない性格だった。今川義元という巨大な勢力にも膝を屈せず、常識的に見て勝ち目の薄い戦いを挑んだ。
 柴田勝家、佐久間信盛ら体制派的性格の老臣たちが、弟の信行を担いだのは、他人に仕えられない信長の雑草性を危惧したためだったに違いない。
 桶狭間の戦術もそうだ。エリート作物的な家臣が薦めた籠城策を排し、一か八かの奇襲に出る。この男には戦術の常識に従うこともおもしろくなかったのだ。こういう発想はエスタブリッシュドやエリートなどの作物人間にはないものである。
 しかし、織田信長の雑草性は、むしろこのあとでますます濃厚になってくる。この男はまず、体制、つまり耕作者の管理を峻烈に拒む。織田家の伝統、つまり家中の旧体制を徹底的に打ち破る。 累代の重臣たちを排し、正体不明の雑草人間を配下に集めて重役を担当させる。滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、細川藤孝らがそれである。
 兵制も従来の体制を廃して兵農分離を進め、主な重臣を城下に移住させる。この過程で織田軍には浪人、流れ者、犯罪者などが大量に流入したに違いない。作物人間なら身の毛もよだつこの連中を、信長はよく使いこなした。彼には、旧秩序を尊重するような美意識は欠けていたらしい。
~中略~
 この男は、土地=農業を基盤とした日本社会のなかで商工業の実利とそれが行財政に与える影響を感じ取った最初の日本人であったろう。しかもここで彼は「楽市楽座」という凄まじい改革を行なう。

P233
 それではなぜ、弱兵、凡将の信長軍団が戦国時代に最大の成功を収めえたのかというと、その第一は資金があったことだ。そして、その資金を豊富にしたのは信長が既成の権威にとらわれなかったためである。
 すでに述べた兵農分離、職能主義的人材登用などはその一例だが、長篠の戦いなどでは決定的な意味を持った鉄砲の大量使用にしても、信長が鉄砲という新しい兵器に対して先見性を持っていたということよりも、大量の鉄砲を買うだけの資金があったこと、そして、鉄砲を持った足軽を戦争の主力にし、上士よりも優先するという発想ができ、しかも、それを実行に移すことができたことのほうがはるかに重視すべきだ。
 鉄砲が優れた兵器だということくらいのことは、戦国時代後半の大名なら大抵知っていた。しかし、それを三千挺も買う金がなかなか揃わなかった。その上、戦争の主力は上士で、足軽は付け足しという常識であり、それこそが上士たる者の誇りであったから、それを全く一転させて、足軽の鉄砲隊を戦争の主力にするなどということは、上士集団の抵抗でとてもできなかった。

P107
 既成の概念にとらわれない「価値からの自由(ヴェルト・フライハイト)」。それを徹底した織田信長が、奇妙な自己流の考え方を実行し、多数の部下を納得させ得たのはなぜか。それはおそらく、既成概念に代わる明確な尺度を示し得たことであろう。つまり、信長の言動は、一見、非常に奇怪に見えても、決して気まぐれではないことが、家督を継いでから数年間に、多くの人々に理解され納得されたのである。
 信長が、既成概念―伝統、慣習、既存の制度や体制、その時代の常識や通説など―に代えて打ち出した新しい尺度とは、「唯目的的評価」ということであった。

P109
 織田信長の唯目的的判断基準が最も明確に示されるのは、その人間評価においてである。
「信長は人間を道具として見た」と、司馬遼太郎氏は書いている。正しくうがち得ているといえる。目的に沿っているか否かを唯一の判断基準とした信長は、人間を機能的に見たのである。したがって、この男の人間評価には、自己目的の完遂に役立つ部分しか入ってこない。

P112
もしこの男(住人注;織田信長)が、あと十年生き長らえたならば、おそらく全日本を征服していたであろうし、日本の歴史は大いに変わっていたであろう。
 日本全土を支配した織田政権はのちの豊臣政権のような脆弱なものではなかったろうし、徳川幕府のような退嬰(たいえい)的なものでもなかっただろう。織田信長は、秀吉ほど軽率な男でも、家康のような保守主義者でもなかった。もしこの男の生命が続き、裏装が実現していたなら、日本は三百年早く近代化していたかも知れない。
 だが、事実はそうはならなかった。信長は天正十年(一五八二年)、明智光秀の起した一種のテロルによって殺されてしまう。まことに惜しい、といえばいえる。しかし、これが単なる偶然であったかとなると、必ずしもそうとは思えない。
 毛利の外交僧、安国寺恵瓊は、すでに十年前にそれを予測している。あるいはこれは、「まぐれ当たり」だったかも知れない。だが、安国寺をしてそう思わせる何物かがあったに違いない。 

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか
堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)

歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: 日経BP
  • 発売日: 2012/10/13
  • メディア: Kindle版

北海道 上野ファーム

山内一豊

P5
この山内夫妻がたった一人の愛児を天正地震で失った被災家族であったことは、今日あまり知られていない。
 天正地震がおきた時、山内一豊は、近江(滋賀県)の長浜城主であった。
~中略~
一五八六年一月、旧暦の天正一三年一一月二九日の夜中、長浜城は激震に襲われた。地盤は沈み、城下町ごと崩壊した。悪いことに、城主のの山内一豊が不在であった。
秀吉の甥・秀次の家老であったから京都に在り、妻と家老が留守を預かっていた。
 山内一豊と妻のあいだには「およね」という数え六歳の女の子がいるだけで、この子をたいそう可愛がっていた。
天正地震は、あろうことか、一豊の妻とおよねが寝ていた長浜城の御殿を一瞬にして、つぶした。
 その悲惨な光景については、山内家家臣の功績録「御家中名誉」が克明に記している。真っ先に駆けつけてきたのは、家老の後藤市左衛門であった。
~中略~
 この自分の山内家は二万石([武家事紀」)。足軽まで入れてようやく五〇〇人を超えるかという小さな家中と想像されるが「城内で(家臣の)乾彦作をはじめ数十人が相果」てた。
「建物が潰れた下から出火した所も数々あり、火災で焼死した者も少なくなかった。家中の人数が駆けつけ漸(ようや)く消し止めた」とある。
地震で建物が倒壊し、幼児など災害弱者の死に直面しながら、地震火災の消火を強いられるさまは、平成の世を生きる我々にとっても、まったく、他人ごとではない。

P8
 長浜でも武士町人が寒空に焼け出された。山内一豊の妻が「捨子(すてご)」をみつけたのは、その直後のことであった。
およねを失い、愁傷ひとかたならぬ時、左右の者がいった。
「城の外で捨子をみかけました。藁の編みカゴに入れられ、短刀一口がそえてあったので、武士の子ではないかと」。一豊の妻は憐れに思った。愛娘を失ったさみしさもあり、この男子を育てたくなった。
拾ってこさせ、「拾(ひろい)」と名付け、養育をはじめたのである。~中略~ はじめは「およねの供養になる」と思い、養ったのだが、だんだん情がわいてきて、一豊などは「俺には実子がない。丁度いい。養子にしよう」とまでいいだした。
 だが、一豊は有力大名への階段を上りはじめる。家中の手前、甥がいるのに、拾に跡を継がせるわけにはいかなくなった。
山内夫妻は一〇歳になった拾と話しあい、拾を京都の妙心寺に入れ、学問をさせることにした。学費として「黄金百枚」を用立てた(細川潤次郎「山内一豊夫人若宮氏伝」)。
 拾は優れた学才をもっていたらしい。湘南宗家という高名な学問僧となり、土佐藩を土佐南学で知られる学問藩にする貴重な人材となった。
また山崎闇斎という大学者を育てた。のちに山崎は会津藩主・保科正之に仕え、同藩の学問レベルを大きく引き上げた。
江戸初期は学者が少なく一人の存在が大きい。土佐・会津という幕末を動かした両藩の学問水準の高さは、山内夫妻の震災孤児支援と無関係ではない。
 山内一豊の妻について、私は教訓じみた「馬買い」の話よりも、こちらの話しのほうが、よほど知られるべきだと思っている。自身は不運だが、人の優しさで幸運のきっかけにも転化できる。震災後こそ、人の生き方が大切であると、つくづく思う。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史(著)
中央公論新社 (2014/11/21)

天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: Kindle版

 

北海道 上野ファーム

浅井江の生涯

P216
 江の晩年の生活は、江戸城大奥で将軍家御台所として諸大名との交流を円滑に維持することにあった。
~中略~
大名・公家・寺社との贈答関係も、欠かすことはなかった。

P247
 江は上方女のプライドを心の奥に秘め、「ふくさ」に生きる道を選んだのである。
刀を帯し、いつ武力を行使するかわからない男たちの前で、当時の女たちが生きるためにとった止むを得ない選択であり、それが賢く生き延びるための最善の策であったろう。

 その結果、江の生涯は、家光を疎んじ、忠長を鍾愛したと伝聞される以外は、目立つことなく地味に過ぎていったが、徳川将軍家御台所のなかで唯一人、将軍の生母として崇敬され、死後においても歴代将軍の正室・側室のなかで、三十三回忌が行なわれたのは江だけであった(山本梨加「幕藩体制下における将軍の御成」)。延宝三年(1675)9月には五十回忌法会も営まれている。
 江は、女性像の大きな転換点において「ふくさ」な女性として生きる道を選ぶことで、将軍家御台所としてのおおきな足跡を残すことができたのである。

P249
 浅井江は、将軍家御台所としての役割をはたし、その生涯を終えた。今後も彼女は、将軍徳川家光や東福門院和子の生母、また明正天皇の祖母として語り続けられるだろう。
そのこと自体は江も望んだことだろうし、「家光は自分が生んだ本当の子ではない」などと真実を語ることで、家光の「生まれながらの将軍」としての立場を貶めることは彼女の本意ではないだろう。
どこにでも表向きの話はあり、それをあえて暴いても仕方がない。知らないことが幸せということもある。
 しかし、彼女が将軍家御台所の役割をまっとうしたことによって、「六歳年上の姉さん女房で、多産のうえ嫉妬心が強く、将軍秀忠は恐妻の江には頭があがらなかった」というような誤った一般認識が生じてしまったのもまた不幸な事実である。こうした虚像からそろそろ彼女をかいほうしてあげてもよいのではないか。

福田 千鶴 1961年(昭和36年)、福岡県に生まれる。九州大学大学院文学研究科博士後期課程中途退学。博士(文学、九州大学)。専攻、日本近世政治史。東京都立大学人文学部助教授などを経て、九州産業大学国際文化学部教授 

福田 千鶴 (著)
江の生涯―徳川将軍家御台所の役割
中央公論新社 (2010/11)

江の生涯: 徳川将軍家御台所の役割 (中公新書 2080)

江の生涯: 徳川将軍家御台所の役割 (中公新書 2080)

  • 作者: 福田 千鶴
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2010/11/01
  • メディア: 単行本

 

北海道;上野ファーム

2026年2月10日火曜日

求菩提山の衰退

P77
 全国的にみても元禄という時代は、修験道にとって極めて重要な時期で、元禄一一年は山伏の開祖とする役行者の千年忌に当たり、各山々も盛大な法要を行い、本山の法要にも集まった。
求菩提山の本山は京都聖護院であるので、当時座主病中で役僧三名が上洛した。
 享保二〇年(一七三五)の領主の御取調べをみると、坊名を全部あげ、「以下百五拾弐戸は享保二十年ノ此迄在の坊中」とあり、坊の増大をみせている。狭い山中にこれだけの山伏が密集し生活をしていることに、今さらながら驚くのである。
 近世における修験道は、一応この頃がピーク時代とみてよいのではあるまいか。

P68
「求菩提山雑記」に、等覚寺のことについて、次のようなことを述べている。それによると、応永年間(一三九四~)僧徒たちは、神田の浜で敵を迎え討ったが、その時の僧徒の戦死の数は夥(おびただ)しかったとある。また、天正の兵火で堂社はことごとく消失したとある。
 豊前地方の山の消失は、この天正の兵火によるものが多い。この時が豊前地方の第一次の荒廃期であって、この中から立ち直りのできた山とできない山で大きく変わった。そして明治の廃仏毀釈が第二次で、これによって全滅したのである。

 

P78
修験者の生活基盤は、当時は檀家であった。その八割強は農家とみてよい。とすると、江戸中期から天災地変が大きな衰退の要因とも考えてよいものであろう。
修験者は生産者でなく、檀家に支えられた副次的なものであって、天災は農民大衆を苦しめ、それは直接山の修験者たちに影響を及ぼしたであろう。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2021/10/05
  • メディア: 単行本

 

鬼の石段 求菩提山 福岡県