2026年5月19日火曜日

我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり

人は須( すべか )らく自らを省察すべし。
「 天は何の故にか我が身を生出( うみいだ )し、我をして果たして何の用にか共せしむる。


我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり。
天の役に共せずんば、天の咎( とが )必ず至らむ」。


省察して此に到れば即ち我が身の苟( いやし )くも生( い )くベからざるを知( し )らむ。

       「言志録」第一〇条

     佐藤 一斎 著

        岬龍 一郎 編訳

       現代語抄訳 言志四録

       PHP研究所(2005/5/26)

       P17

[現代語抄訳]言志四録

[現代語抄訳]言志四録

  • 作者: 佐藤 一斎
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2005/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


私は眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く―すると、ごらん、
義務はよろこびだった。
タゴール(Rabindranath Tagore(一八六一~一九四一)。インドの詩人・小説家・哲学者。宗教的な抒情詩をベンガル語で書いた。一九三一年ノーベル賞受賞。

 そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。帰結が出てくるように、おのずと湧くのです。
しあわせはけっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
しあわせとは、タゴールの詩で義務といわれているものを果たした結果なのです。
~中略~
いずれんしましても、しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。

それでも人生にイエスと言う
V.E. フランクル (著), 山田 邦男 (翻訳), 松田 美佳 (翻訳)
春秋社 (1993/12/25)
P24


それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

  • 作者: V.E. フランクル
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1993/12/25
  • メディア: 単行本



P173
「この各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、―意識されれば―人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。
もっている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。彼はまさに彼の存在の「何故〔理由・根拠〕を知っているのであり、―従ってまた「殆どいかなる如何に〔苦しみの状態〕」にも耐え得るのである」
(「夜と霧」(フランクル著作集1、みすず書房、一九六一―一八八)。
解説 山田 邦男

フランクル著作集〈第1〉夜と霧 (1961年)

フランクル著作集〈第1〉夜と霧 (1961年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1961
  • メディア: -

 七 人に助けてもらうことを恥ずるな。なぜなら君は兵士が城砦を闘い取るときのように、課せられた仕事を果す義務があるのだ。
もし君が足が不自由であって、城砦を一人では昇ることができず、ほかの人の助けを借りればそれができるとしたらどうするか。

マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
P118

マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

  • 作者: 神谷 美恵子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
  • メディア: Kindle版

富山県 立山

死の国

P63
鈴木 そして私の前に光の源である生命に満ち、完全な人格を持つ方が存在していました。
私はその光そのものの方にすべてを理解され、すべてを受け容れられているという不動の確信に満たされてゆきました。
それは愛そのものだ、慈しみそのものだ、この方と自分が人格として相通じているという強い一体感を感じて、愛の極致とはこういうことだという実感がありました。

 そこにいつまでも留まりたいと感じていたのですが、何か下のほうから、「癒してください、癒してください」というたどたどしい日本語が聞こえてきましてね。
生命の光が、あの世に帰りなさいと私に促しているんです。
鈴木秀子

 玄侑 そこで”あの世”というのは、われわれがいまいる”この世”のことなんですね。

鈴木 そうなんです。そしてあの世で最も大切なことは二つしかない。「知る」ということと、「愛する」ということだ、と言葉ではなく、存在から存在に直接伝わるように以心伝心で伝わってきて、私の中に核になるような力で治まったんです。
その「知ること」、「愛すること」っていうことは、結局「叡智」と「慈しみ、慈悲」だということ。
だから、本当の人間に生きる叡智は、人を知れば知るほどその人を受け容れて、その人のすべてを理解すれば、愛さずにいられなくなる。そういう「叡智」と「慈愛」のようなものだということを体中で感じたんです。

玄侑 いまの”人格としての光”というのは、仏教で言えばまさに阿弥陀如来のことですね。

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)

多生の縁 玄侑宗久対談集

多生の縁 玄侑宗久対談集

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2004/03/24
  • メディア: 単行本

 

宮崎県 国見ヶ丘

非ムスリムも神が御許に召される

 イスラームでは、非ムスリムもまた、超越的絶対者としての神によって造られた存在です。
人類は、すべてのアッラーのもの、なのです。ですから、信徒以外の人にも、絶対者としての神の力がおよぶと考えます。
~中略~
人間の身に何が起こるかは、神にしかわからない。人間が[あれをすればこうなる]というように原因と結果を結びつける合理主義的な発想ですべてを理解した気になることをイスラームは認めません。
 とりわけ、最後の最後、人の生死に関することがらだけは、絶対に、人間の主体的意志や、合理主義にもとづく因果論を認めません。
病気があったから死ぬ、致命的な怪我を負ったから死ぬことはムスリムにも当然わかります。しかし、その人の死を前にして、因果論を述べ立てることだけは絶対にしません。それは、残された人に終わりのない悲しみと苦しみをもたらすからです。

イスラームから世界を見る
内藤 正典 (著)
筑摩書房 (2012/8/6)
P235

イスラ-ムから世界を見る (ちくまプリマー新書 184)

イスラ-ムから世界を見る (ちくまプリマー新書 184)

  • 作者: 内藤 正典
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/08/06
  • メディア: 新書

 

雲仙

キリスト教の正統

P248
爪 前略~ 一神教の特徴は、「人間のもの」と「神のもの」を厳格に区別する。そして、「人間のもの」に権威を認めないことです。
ところが、どうしてもある「解釈」(人間のもの)を下さないと教会が集団としてまとまらなくなる。ではどうする?聖書の編纂はすんでいるし。
 そこで考えられたのが、公会議です。  これは、各地の教会の指導的立場の人びと(主教)がみな集まる会議で、キリスト教の正しい教義(ようするに、解釈)はなにかを議論する。そして、結論を出す。
議論が分かれた場合は、多数派が正しいとされ、「正統」になります。少数派は多数派にしたがわないと、「異端」として教会から追放されてしまう。キリスト教会はこれを、何回も何回も繰り返したんですね。
 なぜこんなことができるかというと、公会議に、聖霊がはたらいているからです。人間が集まって下した結論(どの解釈が正しいか)でも、解釈を超えたものになる。公会議の決定には、すべての信徒は従わなければならない。これがキリスト教の習慣です。

 三位一体説も、そうやって決定された。学説としては問題が多く、有力な反対意見も多かったんですけど、すったもんだの末、三八一年の、第一回コンスタンティノーブル公会議でほぼいまのかたちに決定された。

P250
大澤 ちょっと細かいことですが、イスラム教では、最も重要な法源であるクルアーンでも、その次に重要な法源であるスンナ(ムハンマドの言行)でも、どちらでも決められないとき、イスラム法の大学者たちが話し合うイジュマーというものがあります。このイジュマーとキリスト教の公会議とは似たようなものと考えていいんですか?
橋爪 だいぶ性格が違います。公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。
イスラムのイジュマーは、全員一致でなければ決定できない。もしも、意見の違いがあれば、多数であっても少数であってもそれは人間の意見であって、神のものではないことになる。ゆえに、どちらをとたとしても間違い。多数決はないんです。でも公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。
大澤 前略~
 キリスト教の場合、第2部で確認したように、福音書の間にすでに不一致があります。神は単一ですが、それを経験した人間の視点や見解には多様性があって、こうした違いは聖典である新約聖書の中に孕(はら)まれている。
 一方、イスラム教の場合はは、ムハンマドがほぼ直接、神の言葉を受け取っているから、聖典であるクルアーンに多様性や多義性は入りようがないし、入ってはならない。スンナに関しても、それが伝承されてきた経路を正確に確定したうえで、内容を一義的に決定しようとする強烈な意志がイスラム教にはある。イスラム法の場合には、意見の不一致は本来ありえないことで、それ自体、スキャンダラスなことなのでしょう。だから、少しでも法の解釈に不一致がある場合には、結論がだせない。
しかし、キリスト教では、公会議でさまざま意見が出るのは当たり前のことです。つまり、不一致があるということをあからさまな前提にしながら結論を導くのではないかと思います。
   だからといって、キリスト教が、さまざまな解釈や意見に対して寛容かと言えば、そんなことはありません。むしろ逆です。多数派の見解が正統解釈とされ、教義として定着する。これと異なる見解は異端だといくことになる。

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 新書


イエスははたして人か神か

  イエスははたして人か神かということは、何世紀にもわたって議論されてきた問題である。
イエスも、そしてブッダも、人と神の両方の特性を備えていた。ある面で不滅だが、どちらも死すべき運命であった。
しかも皮肉なことに、二人は自分の体が神々しい光を放って変身する現場に弟子たちを立ち会わせることによって、彼らに死というこのきわめて人間的な事態への心構えをさせたのである。

~中略~
そして最も重要なのは、二人が天から降りてきて人類のために奉仕し、最後にはまたもとの場所に帰って行く神の化身とされている点である。
仏教においてもキリスト教においても、彼らは間違いなく人間と見なされており、それでいて奇跡の力を備えている。二人とも女性の腹から生まれているーただしその母親は処女であった。
従って人間の性質と神の性質、両方をあわせ持っているのである。

今枝 由郎 (翻訳), 鈴木 佐知子 (翻訳), 武田 真理子 (翻訳), マーカス・ボーグ
イエスの言葉ブッダの言葉
大東出版社 (2001/10)
P191

イエスの言葉ブッダの言葉

イエスの言葉ブッダの言葉

  • 作者: マーカス・ボーグ
  • 出版社/メーカー: 大東出版社
  • 発売日: 2001/10
  • メディア: 単行本


 ユダヤ人すなわちユダヤ教徒が、キリスト教徒に対して徹底的に反発したことの一つは、彼の偉大性は、その出生が違う点にあるというキリスト教徒の主張である。
~中略~

 モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、エリアから偉大なる預言者たちに至るまで、すべて、生まれたときはただの人である。彼らがなぜ偉大なる仕事をなしえたか、それは神に召し出され、神に命ぜられ、そしてその使命を立派に果たしたからに外ならない。
~中略~

人間はすべて神の前に平等である。そして、神から使命を託された人のみが指導者たりうる。これは神の一存によるのであるから、その使命によってある地位についたからといって、それを自分の所有物のように子孫に譲渡することなどはできない。
これはユダヤ人の根本的な考え方であった。
従って指導者はカリスマ的指導者となる(このカリスマという言葉は、驚くなかれ、近ごろは日本のジャーナリズムまで登場している。しかしどうも孫引きらしく、「贈物・下賜品」という原意を知らずに誤用されている場合もあるから注意してほしい)。
従ってユダヤ人の根本的考えは王制と相いれない。

日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P178

 

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

  • 作者: イザヤ・ベンダサン
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫





橋爪 前略~

ではイエスの役目は何かというと、人びとに、神の言葉をじかにのべることである。預言者と似ているけれど、預言者は聞いたことを話すでしょう。イエスは聞くのではなしに、自分が話す。ここが違う。

自分の頭にあることを、自然に話している。ふるまいは預言者なんだけれども、預言者ではない。そこが、神の子だと考えられる。

 で、神の「子」とはどういう意味かというと、親と分離している。イエスはイエスで完結した存在。独立の人格なわけですよ。けれど、この完結した人間存在が百パーセント、神の意志と合致している。つまりそれは、神の意志だとも見なければならない。こういう状態なんですね。

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P169

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 新書


2026年5月15日金曜日

一神教のGod(神)

P20
橋爪 日本人は、神様はおおぜいいたほうがいい、と考えます。
 なぜか。「神様は、人間みたいなものだ」と考えているからです。神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。
友達か、親戚みたいなもんだ。友達なら、おおぜいいたほうがいい。友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。  で、その付き合いの根本は、仲よくすることなんです。おおぜいと仲よくすると、自分の支えになる。ネットワークができる。これは日本人が、社会を生きていく基本です。
~中略~

 一神教のGod(神)は、人間ではない。親戚でもない。まったくのアカの他人です。アカの他人だから、人間を「創造する」んです。~中略~
 Godが人間を「創造した」のなら、Godにとって人間は、モノみたいなもの。所有物なんです。つくったGodは「主人」で、つくられた人間は「奴隷」です。
人間を支配する主人が、一神教の「God」なんですね~中略~
 Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだとおもう。 だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。Godは地球もつくったぐらいだから、地球外生命体でしょ?
 結論は、Godは怖い、です。怒られて、滅ぼされてしまっても当然なんです。

P23
橋爪 前略~
Godを信じるのは、安全保障のためなんです。Godが素晴らしいことを言っているから信じるんじゃなくて、自分たちの安全のために信じる。
 Godが考えているとおりに行動するには、預言者の言葉が手がかりになる。それが、Godとの「契約」になります。

P80
大澤 前略~
 神は、エデンに、智恵の気と生命の樹という、食べてはいけない実のなる樹をつくった。
しかし、「食べてはならぬ」とういうなら、神は、どうしてそんな樹をつくったのか。
だいたい、理由も言わずにただ「食べてはいけない」なんて言われたら、食べたくなりますよね。

神は、わざと、人間が罪を犯したくなるような状況をつくっておいて、人間を罪へと誘導しておきながら、人間を厳罰に科している。 

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

 

偶像崇拝がなぜいけないか

P88
橋爪 前略~
偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です。
~中略~

偶像崇拝がいけないのは、Godではないものを崇拝しているからです。それは人間の業(わざ)なんです。人間をあがめてもいけないし、人間がこしらえた偶像を崇拝してもいけない。 

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

 

神の国

P177
橋爪 「神の国」というと、天国のことかと思っている日本人が多い。死んだら肉体が滅んで、霊魂がいく場所だ、みたいに考えている。
  こういう考え方は、キリスト教と関係ありません。もちろん、イエスがそんなこと考えていたはずもない。

P181
橋爪 前略~
イエスのいう「神の国」は、まず、ユダヤ人でも行ける人といけない人がいる。行けるかどうかは、神に委ねる。つぎに、神の国に、政治は存在しない。経済は存在しない。性別や家族も存在しない。これらすべてがない状態で、神を中心に、楽しく生きていきましょう、と言っているわけだ。
大澤 うーん、それはほんとうに楽しいですかね(笑)。キリスト教の場合、神の国は「永遠の生命」ということのなっていますよね。
ようするに死なない。そうすると、逆に退屈な可能性もありますよね。ずっと生きていなくちゃいけなくて、性別もなければ、お金も権力もないとなると、人がふつう欲望するようなものは何もないのですから。
 ちなみに、神の国に行けなかった人はどうなりますか? 地獄に行く?
橋爪 「地獄」というものは、ありません。聖書には書いていない。
 火で焼かれる。
 火で焼かれるとは、まず、洗礼者ヨハネが言っている。実を結ばない樹木みたいに、斧で伐って焼かれると。イエスも言っている。
~後略
大澤 前略~
 で、ぼくはいつも思うんだけど、神の国があって、そこで一部救われる。他方で救われない人がいて、火で焼かれる。なんかそれも、残酷といいますか・・・・。

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

天国にひとりでいたら、
これより大きな苦痛はあるまい。
(「格言的」から)

ゲーテ格言集
ゲーテ (著), 高橋 健二 (翻訳)
新潮社; 改版 (1952/6/27)
P84

 

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2021/12/21
  • メディア: 文庫

神の計画

P188
橋爪 キリスト教徒は世界を、「イエス以前」「イエス以後」で分ける。西暦は、イエス・キリストの生誕を基準にする、キリスト教暦です。
 じゃ、ユダヤ教はどこで分けると思う? ユダヤ教にも「旧い世界」「新しい世界」という考え方がある。
大澤 分けるとすれば、モーセが律法をもらったところですか?
橋爪 違いますね。
大澤 そうするとノアの方舟?
橋爪 そう、「洪水前」と「洪水後」。そこで一回、神が直接介入しているでしょう。人間があまりに罪深いので、自ら手を下して人間を滅ぼしているんですよ。
~中略~
 ノアの前、なぜ人間が神に背くようになったかというと、預言者もいないし、律法もなくて、言わば野放しの状態だった。
そこで神は、介入を強めることにして、モーセの律法を下したのです。人間はこうして、何が正しく何が間違っているか、律法に照らして認識できるようになった。
すると、律法(神の命令)に、従うことも反することもできるでしょう?ここで「罪」という概念が、明示的に生まれた。ノアの前は律法なしの罪だったのが、今度は、律法に照らしての、ルール違反なんですね。
 イエスの出現はこの延長線上なんです。
 キリスト教からすると、まずノアの洪水(神の直接行動による処罰)があって、それから、契約(モーセの律法)によって人間に規範を与えた。でも、ルール通りにできない罪をどうするかという問題になり、それが無視できないまでになったとき、イエス・キリストが現れた。

P190
橋爪 まず、いまのべたように、イエスが十字架で死んだりしないで、直接、最後の審判が行われたら、たぶん、ほとんどの人間は、救われない。
大澤 そうですね。その場合は全員救われないというのがたぶん正解でしょうね。
橋爪 神は、それをしたくなかったんです。
 そこで、別な計画(シナリオ)を用意した。それによると、最初にイエスが、ただの人間(人の子)として現れて、人間の罪を背負ってみじめに死んでしまう。そして、復活する。そのあと、天に昇った。
 天に昇ったのは、やがて再臨するため。そのときは、本格的な神の介入になる。イエス・キリストは、人に殺されたので、人間に復讐する資格がある。人間は、どんな罰を受けても文句は言えない。
でも逆に、イエス・キリストは人間を赦す資格がある。イエス・キリストは人間として死刑になったので、罰はもう済んだと言える。どちらになるかは、イエス・キリストの裁量です。

イエス・キリストが再臨する「主の日」に、最後の審判を行う。こういう、ワンクッションを置いた。これが、キリスト教の考える、神の計画です。 

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

天草 熊本県

三位一体

大澤 前略~ イエスの死後、何百年か経ってから、キリスト教には三位一体という教義が出てきます。これはキリスト教の非常に特徴的な教義ですね。
 教科書的なことだけ言っておくと、「三位」というのは何が三位かというと、「父なる神」と「子なるキリスト」と、それから「聖霊」ですね。
この三つが三つにして一つであるというのが「三位一体」の主張なんですね。

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P242

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

 

天草 熊本県