2026年5月9日土曜日

唯識

P91
唯識では、わたしたちの五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と意識という表層の六種の精神感覚作用の他に、深層意識(無意識)の領域での二種の働きを想定し、それをアーラヤ識、マナ識と呼びます。
「識」とは大ざっぱに心の働きのことです。
  第一に、アーラヤ識は深層意識の最下層にあって、自己と自己以外のすべての存在、つまり「世界を仮構」しています。
主体(自己)が在り、客体(対象)が在るという認識の基本構造は、「心理的な仮構・仮想にすぎない」わけです。
アーラヤ識は深層意識で働くので、主体(自己)の認識がそれにより仮構されたものだという事実には気づかない。つまり、すべての生物はその仮構する世界(つまり環境世界)こそが現実の世界だと思っているということです。
 アーラヤ識が世界を仮構する働きは、情報の種子(しゅうじ)として蓄えられます。
アーラヤ識は「情報集積体」とも意訳されますが、その情報は、まず「生命情報伝達」と「生命維持」の働きにかかわるものです。~中略~
 第二に、アーラヤ識の種子は、記憶された情報源として現在の認識や行動に影響しまう。
一方、わたしたちの五感と意識、それにマナ識、つまり七識を使った現在の行為(「現行」と呼びます)の影響は、逆にアーラヤ識に種子として刻印される。
この過程は、花の香がしみつくことに似ているので「薫習(くんじゅう)」といわれます。
現行と薫習がくりかえす相互影響は、一瞬一瞬生じては消え、起こっては消える活発な循環過程であり、行為は種子として記憶され、記憶はすぐに次の行為に影響するのです。
 現行と種子の相互影響は、コミュニケーションにおける情報と情動という二重の刺激さようにおいても観察できます。
たとえば認知症の人に強い情報刺激を与えると、「情報」として理解されずに、不安や怒りを起こす情動刺激の種子としてしっかり薫習されます。したがって不快な情動刺激を与え続ける家人は、ついつい攻撃や妄想の対象にされ、それが昂ずれば「人殺し」「泥棒」に変身させられるでしょう。
 さてマナ識は、アーラヤ識の働きを受けて、それを自我(私、私の、私に)へのい執着で汚染させるといいます。「自我への執着」という汚染は「根本煩悩」と呼ばれますが、この深層心理作用を分析しますと、どうしても自己(自我)という「実体」がいると思い込んでしまうこと(我見)、自己本位に思ってしまうこと(我慢)、自己に愛着・執着してしまうこと(我愛)、さらに、実はそのような自我が存在しないことに気づかないこと(我癡(がち)あるいは無明)から成り立っています。ちょっと分かりにくいでしょうか。
 つまり、「私」を「私以外」と峻別し、何をするにせよ自己に執着し、自己本位で、自己が永続的存在であるという深層意識が常時働いているということです。
~中略~
一般に痴呆症の男性は誇り高く、人間関係を結ぶことが下手で孤高を守ることが多いのです。
かつての大将とという方が認知症で入院された際、医師は入り口で「閣下、入ります」と挙手の礼をしたそうです。それは一面では矜持や誇りとも呼ばれますが、唯識にあてはめてみますと、自己が今も大将であるという思い込み(我見)、おれは偉いという考え(我慢)、そういう自己に気づかぬ我癡(無明)の表現といえます。

P150
 生物学的にいいますと、アーラヤ識は遺伝情報を伝えるだけではなく、世界認識(世界仮構)をも含めた、生命維持にもっとも基本的なはたらきをする仕組みです。
 生命維持のはたらきの一つは、外界からの刺激を受けとり、それに反応することです。刺激の種類を認識し、生命維持に適していれば受け入れ、不適当なら遮断する。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

 結局のところ、わたしたちが体験するものはすべて、わたしたちの細胞とそれらがつくる回路の産物です。
ひとたび、いろんな回路が、からだの内側でどんなふうに感じられるか耳を澄ませば、あなたは世界の中でどうありたいかを選ぶことができます。
個人的には、恐れや不安を抱くときのからだの中の感じが大っ嫌い。こうした感情が押し寄せるとき、わたしはいてもたってもいられず、自分の肌から抜け出したいとさえ思います。
恐れや不安が引き起こす生理的な感覚が嫌なので、そうした回路にはあまり、つなぎたくありません。  わたしが一番好きな恐怖の定義は「誤った予測なのに、それが本当に見えること」。あらゆる思考が、単なる束(つか)の間(ま)の生理現象だということさえ忘れなければ、左脳の物語作家が「暴走」して勝手に回路につないでしまっても、慌(あわ)てる必要はありません。 宇宙とひとつであることを思い出せば、恐怖の概念はその力を失います。

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
ジル・ボルト テイラー (著), Jill Bolte Taylor (原著), 竹内 薫 (翻訳)
新潮社 (2012/3/28)
P284

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/03/28
  • メディア: 文庫

 

奈良県 興福寺

禁欲と無欲

「かゆいときに掻くと気持が良いけれども、
たくさん掻いた気持の良さよりも、
全然かゆくないことのほうが、もっとよい」
      ナーガールジュナ(龍樹)

ダライ・ラマ14世テンジンギャツォ (著), Tenzin Gyatso H.H.the Dalai Lama (原著), 谷口 富士夫 (翻訳)
ダライ・ラマ 365日を生きる智慧
春秋社 (2007/11)
P91

ダライ・ラマ 365日を生きる智慧

ダライ・ラマ 365日を生きる智慧

  • 作者: ダライ・ラマ14世テンジンギャツォ
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本


P40
イエス
 だから言っておく。自分の命について、何を食べて何を飲むかということや、自分の体に関して何を着るかなどということを心配してはならない。
食べ物より命、服よりも体の方が重要ではないのか。
空の鳥を見よ。種をまくこともせず、刈り入れもせず、倉に納めもしないが、天の父は鳥たちを養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないのか。
マタイ伝
ブッダ
 蓄えず、食物を 知りつくした上で食べ、空にして形のない自由な境地にいる人は、空の鳥のように後を追いがたい。
欲望を捨て、食物に執着せず、空にして形のない自由な境地にいる人は、空の鳥のように後を追いがたい。

今枝 由郎 (翻訳), 鈴木 佐知子 (翻訳), 武田 真理子 (翻訳), マーカス・ボーグ
イエスの言葉ブッダの言葉
大東出版社 (2001/10)

イエスの言葉ブッダの言葉

イエスの言葉ブッダの言葉

  • 作者: マーカス・ボーグ
  • 出版社/メーカー: 大東出版社
  • 発売日: 2001/10
  • メディア: 単行本


 玉木文之進によれば、侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない、というのが持説であり、極端に私情を排した。
学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である、というのである。
「痒みは私。掻くことは私の満足。それをゆるせば長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」
~中略~
「侍は作るものだ。生まれるものではない」

世に棲む日日〈1〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)
P25

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/03/10
  • メディア: 文庫




島根県 美保関

方便と智慧

大乗仏教では方便と智慧の両方を修行すべきだといわれますが、
方便とは慈悲のことであり、
智慧というのは現実を理解する哲学的見解のことです。

ダライ・ラマ14世テンジンギャツォ (著), Tenzin Gyatso H.H.the Dalai Lama (原著), 谷口 富士夫 (翻訳)
ダライ・ラマ 365日を生きる智慧
春秋社 (2007/11)
P71

幸福は抑制された心に根ざし、苦しみは抑制されていない心に根ざしています。
日常生活でダルマ(仏法)を実践するというには、自分の心をよく調べることです。
P174

 

ダライ・ラマ 365日を生きる智慧

ダライ・ラマ 365日を生きる智慧

  • 作者: ダライ・ラマ14世テンジンギャツォ
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本


知恵=般若
私たちは、自分を中心として、その外側にあるものー客観的に存在するものについて知るのを知識(ノリッジ)といい、自己そのもの、あるいは、自己に内在するもの、つまり主観的事実を学ぶのを知恵(ウイズダム)と申します。
知恵の原語を、パーリ語(南方仏教の聖典用語)でパンニャーといい、音訳して「般若」といいます。
この知恵を中心に説かれたのが「般若心経」です。

松原 泰道 (著)
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
祥伝社 (2003/01)
P40


般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫)

般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫)

  • 作者: 松原 泰道
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2003/01/01
  • メディア: 文庫

室戸岬 高知県

自己調節、自己管理の教え

P67
人は生まれによって聖者たるにあらず
~中略~
自己のよりどころは自己のみである
自己のほかにいかなるよりどころがあろうか
自己のよく調御せられたとき
人は得がたいよりどころを得るのである

~中略~

(1)よく教えの道理を会得したるものが自由の境地をえてのちになすべきことはこれなり
有能、率直、そして端正なること
よき言葉を語り、柔和にして、高慢ならざること

(2)足ることを知りて、養い易きこと
雑事に係わらず、簡素に生きること
五根を清らかにして、聡明、謙譲なること
檀越(施主)の家におもむいて貪りなきこと

(3)卑賤のわざをなして識者の非難をうくることなかれ
ただ、かかる慈しみをのみ修すべし
生きとし生けるもののうえに幸いあれ、平和あれ、安楽あれ

(4)目に見えるものも、また見えざるものも
遠くになるものも、また近きものも
すでに煩悩尽くるものも、また尽きざるものも
生きとし生けるもののうえに幸いあれ

(5)あたかも、母性がそのひとり子をおのが命に代えてまもるがごとく生きとし生けるもののうえにかぎりなき慈しみの思いをそそげ

(6)また一切の世間に対してかぎりなき慈しみの思いをそそげ
上にも、下にも、また四方にもうらみなく、敵意なく、ただ慈しみをのみそそげ

 

(釈迦の言葉は増谷文雄訳による。増谷文雄・梅原猛「仏教の思想Ⅰ 知恵と慈悲<ブッダ>」=角川文庫=より)

梅原猛の授業 仏教
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2002/01)

梅原猛の授業 仏教 (朝日文庫)

梅原猛の授業 仏教 (朝日文庫)

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2006/10/01
  • メディア: 文庫

 

梅原 仏教の思想の根底に、世界は苦であるがその苦の原因は人間の欲望にある、という考えがある。
この欲望を完全にコントロールするのが仏です。

仏の発見
五木 寛之 (著), 梅原 猛 (著)
平凡社 (2011/3/8)
P39

 

仏の発見

仏の発見

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2011/03/08
  • メディア: 単行本

 

 

 

三七〇 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を絶ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

ブッダのことば―スッタニパータ
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1958/01)
P77

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

  • 作者: 中村 元
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/01/26
  • メディア: Kindle版

最後の言葉

P96
五一 そこで尊師は修行僧たちに告げられた。「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう。―もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから三ヶ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう」と。
尊師、幸いな人、師はこのように説かれた。このように説いたあとで、さらに次のように言われた。―
「わが命は熟した。
わが余命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
わたしは自己に帰依するこおとをなしとげた。
汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、
よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも終滅するであろう」と。

P158
七 そこで尊師は修行僧たちに告げた。―

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい」と。

 これが修行をつづけて来た者の最後の言葉であった。 

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1980/6/16)

ブッダ最後の旅: 大パリニッバーナ経 (岩波文庫 青 325-1)

ブッダ最後の旅: 大パリニッバーナ経 (岩波文庫 青 325-1)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1980/06/16
  • メディア: 文庫

英彦山 福岡県

自燈明

  前略~
私の死は、間近に迫っている。
ゆえに君は私に依存したりなんかせず、自らを灯とし、他の何にも依存せず突き進むように。
ただひたすら君の身体を見つめ、君の感覚を見つめ、君の心を見つめ、心の法則を見つめながら。
私が死にゆくにあたって、君たちはこう嘆くかもしれない。
「われわれに先生はいなくなった。悲しいよぅ」と。
否。
私が君たちに伝えてきた法則と生き方の指南が 私の死後、君たちの先生となるだろう。
長部経典「大般涅槃経」

超訳 ブッダの言葉
小池 龍之介 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2011/2/20)
一八八  

超訳ブッダの言葉

超訳ブッダの言葉

  • 作者: 小池龍之介
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

 

英彦山 福岡県

天之御中主神

  百五十億年前にビッグバンでいまの大宇宙ができた。これは天文学で分っているでしょう。これを言っているのが「古事記」で一番初めに天之御中主神(あめのみなぬしのかみ)が最初におられたと書いてある。天之御中主神というのが、つまりこの大宇宙の生みの親である「心」です。これから始まるわけです。「古事記」に神代篇に、「天地初発の時、高天の原に成りませる神の名は天之御中主神」と書いてある。

葉室 頼昭 (著)
「神道」のこころ
春秋社 (1997/10/15)
P167

〈神道〉のこころ(旧版)

〈神道〉のこころ(旧版)

  • 作者: 葉室 頼昭
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1997/10/15
  • メディア: 単行本

 

P12
しかし一番まとまっていて、また広く知られているのは、前八世紀の詩人ヘシオドスが「神統記」に書いているものだ。以下それにしたがって大体を記してみる。

 世界のはじめは、形もはっきりしないどろどろした塊りで、天も知も海もみなごちゃごちゃにまじりあっていた。これを、カオス<混沌>という。このカオスから最初に生まれたのがガイアだった。
ガイアは大地を象徴した女神で、広い胸をもっていた。そこでその胸があらゆる神々の住所になった。
このガイアから、愛の神エロス、暗黒の神エレボス、天の神ウラノス、海の神ポントスなどが生まれた。これらの神々を、ガイアはひとりで生んだという。

 ところがガイアは、愛の神エロスのはたらきで、やがて、自分の生んだ天の神ウラノスと結婚することになり、ウラノスが、神々の王となった。~後略

P228
北欧の神話と伝説を書きしるした古い本としていちばんゆうめいな「エッダ」(スノリ・ストルルソン(1179~1224)

 さて、これらの神々はアサ神族とよばれて、アスガルド(アサ神の園)という美しい天上の都に住んでいると考えられた。
そのアスガルドは、宇宙をつらぬいてそびえるイグドラシル(宇宙樹)という巨大なとねりこの木の上にあって、いくつもの大きい宮殿が雲にそびえ、宇宙の中心だとされた。

 アスガルドの首領はオーディン(ドイツやイギリスではウォーダン、あるいはウォータン)とよばれる。<万物の父><戦いの父><あら猟師><片目の男>その他いろいろの呼び名があって、神々と人間の世界を支配している。
きらきら輝く金のかぶとをかぶり青空色のマントを着て、真白いひげをはやし、片方の目はつぶれているがもう一方の目は何物をも貫くほど鋭い光をはなっている。

~中略~
そして人間の住むミッドガルト(中の国)の向こうには、黒々と不気味に巨人の国ヨツンヘイムがひろがっている。そこは高い山とあやしい谷々におおわれ、見るからにすさまじい姿をしていて、そこに住む霧の巨人や山の巨人は、いつでも神々や人間に害をくわえよう、これを滅ぼしてしまおうと、すきをうかがっている。
だからこそオーディンは、いつでもアスガルドや人間の世界をまもるために、見はっていなくてはならない。

山室 静 (著)
ギリシャ神話―付・北欧神話
社会思想社; 再版版 (1962/07)

 

ギリシャ神話―付・北欧神話 (現代教養文庫)

ギリシャ神話―付・北欧神話 (現代教養文庫)

  • 作者: 山室 静
  • 出版社/メーカー: 社会思想社
  • 発売日: 2021/03/19
  • メディア: 文庫

 

熊野那智大社 和歌山県

浄不浄をきらわず

P80
 熊野詣が盛んになった背景にはいくつもの「物語」は必要であった。この地でいかなるご利益があったのか、いかなる奇跡が引き起こされたのか。多くの人びとがそれを待ち望んだことから、熊野をめぐるさまざまな説教節(仏教的な説話を興業的に語って聞かせるもの)が日本中に広まっていくことになる。なかでも小栗判官が湯の峰温泉のつぼ湯で蘇生したというエピソードほど人気を博した物語は他にないだろう。
~中略~
 この物語が広く普及したのには、その背景に「浄不浄をきらわず」という熊野信仰の神髄がよく表されているからだといえよう。
それでなくとも、小栗の精力絶倫ぶり、照手姫とのロマンス、閻魔大王、餓鬼阿弥、供養、死と再生、熊野の霊験、つぼ湯の奇跡など、読み物としても奇想天外のおもしろさを兼ね備えており、その流行により、熊野と「小栗判官」とは切り離すことができない関係となっていったのである。
 この「浄不浄をきらわず」という点において、「小栗判官」と並んでよく引き合いに出されるのが、和泉式部の熊野詣のエピソードである。
彼女は伏拝(ふしおがみ)王子付近にやってきたところで月の障り(生理)になってしまい、これではせっかく来たのに本宮参拝もままならぬと次のような歌をよんだ(加藤隆久監修「熊野大神」」戎光祥出版、二〇〇八年、一四八-一四九頁)。
 晴れやらぬ 身のうきくものたなびきて 月の障りとなるぞ悲しき
 (せっかくここまで来たのに、こんなところで月の障りにあってしまうなんて)
ところが、その夜に熊野権現が夢に現れて、次のように告げたという。
 もろともに 塵(ちり)に交わる神なれば 月の障りもなにか苦しき
 (もともと世俗と交わる神であればこそ、月の障りなどまったくかまいませんよ)
 その信託を得た和泉式部は無事に本宮参拝を果たすことになる。

P122
 たとえば、十四世紀の出来事として、熊野と高野山が課税権であらそった事例が残されている。
高野山側は、高野山は「鎮国安民の道場、高祖明神常住の霊崛(れいくつ)であるのに対して、熊野は「他国降臨の神体、男女猥雑の瑞籬(みずがき)」と非難している。(高野山文書、一三七二年)。
すなわち、高野山は、国を鎮め民を安らかにする道場で、弘法大師が常住している霊妙なところであるのに対して、熊野は、外国から来臨した神を祀っており、境内には男女が入り乱れているというのである(小山靖憲「熊野古道」、一〇六頁)。
 しかし、いまから考えると、高野山が女人禁制を厳しく守ったのに対して、熊野が女性や下層民のみならず、すべての人びとを「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」受け入れたというのは、当時としてはむしろかなり例外的なことではなかったか。高野山が日本屈指の聖地であることは否定できないが、当時は不治の病とされていたハンセン病患者もためらわず受け入れた熊野の懐の深さにはまた驚きの念を禁じえない。~中略~

そもそも高野山にしても、インドの仏陀なくしては存在しえなかったのではなかろうか。 

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

和歌山県 熊野本宮大社

加持祈祷

P124
当時の社会(住人注;源氏物語の頃)では、物の怪にはさまざまな種類があると考えられたが、その代表的なものが生霊と死霊であった。

~中略~
突発的な苦しみや病の原因を物の怪に帰するのは、平安時代に広くゆきわたった病院論である。そういう場合は、比叡山などから験者や加持僧を呼んできて、加持祈祷をさせるのが通例であった。
治療のため「くすり」を用いることがなかったわけではないけれども、しかし主たる病気退散の方法は、あくまでも加持僧による祈祷に求められたのである。

P133
桓武の死後、平安王朝はにわかに仏教僧による加持祈祷の儀礼を重視しはじめた。
というのも怨霊信仰がしだいに広く流行するきざしをみせ、それに対応する呪的装置を制度化する必要が出てきたからである。そしてその制度化のために活発に運動したのが空海であった。

山折 哲雄 (著)
講談社 (1983/7/18)

神と仏 (講談社現代新書)

神と仏 (講談社現代新書)

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1983/07/18
  • メディア: 新書

 空海そのひとも、その生涯において、加持祈祷をさかんにおこなったということは、なさそうである。
 ただ、平安期にあって、かれの末流が、ほとんどそのことについて専業化した。というより、世間がそのように要求した。貴賎ともに密教者に対し、死者をよみがえらせるほどの法力を期待した。

密教とは、日常的には、病舎の病むところを癒し、産婦には安産を保証し、ときに怨敵を調伏するという体系であるとした。末流の学侶、行人、聖、さらには雑密の験者にいたるまで、その次元において世間に応えた。

空海がその元祖の大親玉であると思われてしまったのは、まことに気の毒であるといわねばならない。
高野山管見ー金剛峰寺
 司馬遼太郎

井上 靖 (編集)
私の古寺巡礼(四)
光文社 (2005/1/6)
P174


私の古寺巡礼(四) (知恵の森文庫)

私の古寺巡礼(四) (知恵の森文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2005/01/06
  • メディア: 文庫
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信仰の敵は信仰そのものの裏にある

菩薩とは人心の機微のあわいを遊行してゆくもの、云わば微妙さに身を横(よこた)えているものだ。
信仰にとって最重大事は、微妙な心に精通することである。生硬な信仰は無信仰よりも罪悪的だ。人に懺悔(ざんげ)を強(し)い、告白を聞いて裁断し、触るべからざる悲しみに触れて、一層人の心を傷つけるような信仰者がある。たとえば中宮寺の庭を泥足で歩むようなものだ。人間の心に粗暴な足跡を印することは最大の罪悪だ。
 信仰の敵はいつでも信仰そのものの裏にある。外からの迫害は決して恐るべきものではない。
法難とは信仰の拙劣な自己弁解にすぎない。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P115

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2024/12/06
  • メディア: 文庫

中宮寺 奈良県