2026年3月19日木曜日

有馬氏

 三田は地勢としては丹波高原に属するが、旧分国では丹波国ではなく、摂津有馬郡(ごおり)である。~中略~ 「有馬」 というこの広い地域の山里は、戦国期では有馬氏という小豪族の領地であった。有馬氏は室町期に栄えた播州の赤松氏の支族で、三田に居館をもっていた。  せいぜい二、三万石ほどの身分だったのであろう。豊臣政権下で所領を安堵されたのもその程度で、秀吉の命で遠州横須賀に移封されたときも、三万石である。  この有馬氏が、徳川期になってなぜ筑後久留米において二十一万石という大大名になったかということが、まったくの謎である。 ~中略~  織田勢力が近畿から中国にかけて伸びてきたとき、この山中の有馬家の当主は則頼であった。 則頼はいちはやく新興勢力の織田方に属し、織田方の武将の羽柴秀吉と懇意になりはしたが、その後戦功があったわけではない。元来、武勇の人ではなさそうであった。もしくは政略の達者でもなく、要するに政戦ともに秀吉の役に立ったわけではなかった。  ただ、ひどく人好きのする人だったらしい。~中略~  則頼―以下、有馬法印とよぶ―は、その三法印(住人注;他のふたりは飛騨の大名金森長可(ながちか)入道して素玄)と美濃の大名徳永寿昌(ひさまさ))のなかでもとりわけぬけめがなく、時勢のさきが読めるひとだったのであろう。秀吉の在世中から豊臣政権の短命を見越して、徳川家康にも懇親を通じていたらしく、この点については新井白石も、
「入道、また徳川殿にも親しく伺候す」
 とい書いている。秀吉が死んだ直後、伏見城内外の政情が騒然としたとき、有馬入道はその子の豊氏とともに伏見城外の家康の屋敷にかけつけて、頼まれもしないのにその警備に任じた。
~中略~
 関ヶ原では、徳川方についた。
 が、べつだんの戦功はなかった。表向きの戦功がないために加封はわずかであった。
 有馬入道は、むしろ畳の上の遊泳家であった。その家を保つために、家康の養女をもらい、子の豊氏の夫人とした。家康の養女といっても、長沢松平家の娘で、徳川家との血縁は濃くない。
濃くはないが、なんといっても家康の養女という名目があったから、徳川家の外戚になった。婚礼は慶長七(一六〇二)年七月十九日で、入道はその二日前に死んでいる。この当時、有馬家は八万石であった。
 元和元(慶長二十)年の大坂夏の陣で豊臣家がほろび、数年して有馬家が飛躍した。
築後久留米二十一万石に封ぜられた。
 徳川家は薩摩の島津氏をおさえこんでおくために九州にはもっとも信頼しうる外様大名を置く方針をとった。筑前福岡の黒田氏、肥後熊本の細川氏、肥前佐賀の鍋島氏などがそうで、そういう「西国大名」という大手のなかまに有馬氏も一躍加えられたのである。
 その理由はさきにものべたようにまったくわからないが、おそらくは有馬入道則頼という人物が、よほどきめのこまかい対人接触の芸をもったひとで、家康やその幕僚のような疑いぶかい三河人たちを存分に蕩(たら)しこんでしまったのにちがいない。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P164

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2021/04/15
  • メディア: -

 

福岡県 久留米城址

山口

P186
山口県というのは自然がまろやかで、気候は温和であり、お行儀や言葉づかいの品のよさというのは日本のどの県よりよく、一県に、なお武家の気品というものが地熱のようにして残っている。

P242
長州が勢いをもりかえしたとき、ふたたび藩庁を山口に置いた。
この藩が山口に固執したのは、この町が領内の交通上の要衝にあるため幕末風雲期における情報入手や命令伝達につごうがよかったからである。
長州藩が添窩に野望をもつとき、萩を不自由とし、山口を固執したということは、これを逆にみれば、徳川初期、毛利氏を萩に閉じこめようとした当時の幕府の治政感覚がきわめて的確であったことを証拠だてることにもなる。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか (朝日文庫)

街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫

 

山口市 瑠璃光寺

津和野藩

「哲学」
 ということばが西周によって作られたように、日本の人文科学の術後の多くは西周の翻訳もしくは創作にかかる。
こんにちわれわれがようやく表現力に富む日本語を共有できるようになったその明治期の基礎にこの西周が巨人として存在し、さらにはその西家と川をへだてて向いにうまれた森鴎外に負うところが多い。
ただし、小藩である。
 長州藩に攻められてはひとたまりもないであろう。しかも地勢上、長州藩領の徳佐付近が台形の形状をなし、それが隣の津和野藩城下になると急に落ち込んで谷になる。長州からはじつに攻めやすい。  

花神 (中)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P444 

花神(中) (新潮文庫)

花神(中) (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1976/09/01
  • メディア: 文庫

 

「津和野とは、ツワブキの生える野」
 という意味です、ということをしばしば耳にした。ツワブキとは石蕗 などと書く。
われわれは旧長州藩領からいきなり入ってしまうが、この入り方は、このツワブキの里に対して礼を失した入り方かもしれない。
 日本海岸から川をさかのぼって入るという旧三陰道をとるべきかもしれない。海へそそいでいる川は高津川である。それをのぼってゆくと、西側の山がしだいにせまって津和野川にいたる。
 さらにのぼると、この山峡のはてに桃源郷があるのではないかという気分になり、ついに津和野にゆきつく。
 が、われわれはそれとは逆に、内陸の旧長州藩の国境から入った。津和野にとって裏口ともいうべき方角であり、もし津和野に地霊があるとすれば、この方角から津和野に入ることをきらうにちがいない。
~中略~
 この谷底の城下町の藩医の長男にうまれた鴎外森林太郎は、このとき満四歳であった。すでに藩儒米原綱善の家に通って素読の教授をうけていた。城下の頭上におしよせてくる長州軍についての恐怖をどう感じていたであろう。
 幕府からは、軍目付(いくさめつけ)として長谷川久三郎いう者が乗り込んでくる。この長谷川に対する応接は、国学者福羽美静の父の幸十郎が担当し、一方、長州藩に対しては、子の美静が出かけていって、
「津和野を攻めないでほしい」
 と、頼みこんでいる。福羽美静は明治帝に最初に「古事記」を進講した人物であり、明治政府の神祇官として神道行政を総攬した人物である。
津和野は小藩ながら国学がさかんであった。同時に西周などを輩出したように蘭学もさかんであり、要するに当時の日本の多くの小藩がそうであったように、武よりも文が盛んであった。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P244

街道をゆく〈1〉長州路ほか (1978年)

街道をゆく〈1〉長州路ほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

 

島根県津和野町

足立山

 関門海峡に突出した企救半島の脊梁部が企救山地だ。宇佐八幡宮(大分県宇佐市)へ向かう和気清麻呂にも、その主峰の竹和山(ちくわやま)(五九八メートル)は美しく見えただろう。
神護景雲三年(七六九)、「道鏡を皇位につければ世は治まる」との宇佐神宮の神託を確かめるため、清麻呂は豊前に下された。
~中略~
 結局、清麻呂が復命したのは、「わが国は君臣の別が定まっており、帝位は必ず皇統の者で継がしめよ。無道の人は早く掃い除くべし」との神託だった。 道鏡の即位はならず、清麻呂は足の筋を切られたうえに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられ、大隅国に流された。
~中略~
 宇佐八幡宮で、今度は「企救郡の山の上に温泉を涌かしてやるから入湯せよ」との、少し気の抜けるような優しいお告げを聞いた。と、突然3百頭を超えるイノシシの群れが出現。うち一頭が清麻呂を乗せて走り、竹和山の麓の温泉に運んだという。
湯治によって切られた足の傷を回復した清麻呂は山の頂上まで駆け登り、宇佐八幡に「足が立った」ことを報告した。よってこの山を「足立山」と呼ぶようになったという。

あなたの知らない福岡県の歴史
山本 博文 (監修)
洋泉社 (2012/10/6)
P36

あなたの知らない福岡県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない福岡県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2012/10/06
  • メディア: 新書

 

 

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足立山 北九州市

博多

P188
  もともとあの地は、博多という名だった。八世紀にはもう博多と呼ばれていたそうだ。
 ところが、一六〇〇年の関ヶ原の戦いに軍功のあった黒田長政は、筑前五十二万石を与えられ、ここに新しく城(福岡城)を築いたので、城下の名前が福岡ということになった。

 その福岡の名は、黒田家が三代をかけて家を再興した備前(岡山県)福岡からとっている。
自分たちの思い出の地の名を、新領地の街につけてしまったのだ。それまでの名を無視して。

P205
 福岡から釜山までの距離は、福岡から広島までの距離にほぼ等しい。あっちからどんどん人が遊びに来て何の不思議もないのである。
~中略~

 遣唐使や朱印船貿易の時代から、博多は東シナ海、南シナ海を通じてアジアとつながっていたのだが、今もなおその性質は続いているのだ。あそこはアジアへの表玄関なのである。
~中略~

 

 つまり、九州は、日本の端っこなのだ。そこに住めば、日本の真ん中あたりに住むよりは、近隣の国との関係が気になり、こっちを守ろう、という気にもなるのではではないか。
 つまり、元寇の時の土塁だ。
 私は福岡=博多へ行って、そういう国の輪郭線を見たような気がするのである。

どうころんでも社会科
清水 義範 (著),西原 理恵子 (イラスト)
講談社 (1998/11)

どうころんでも社会科 (講談社文庫)

どうころんでも社会科 (講談社文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2022/01/31
  • メディア: 文庫

 

博多駅

豊後日田

P160
 豊後日田は、江戸期では三万二千石、堂々たる天領の地であった。土地ではヒダといわず、ヒタと澄む。
「日田は水郷です」
 と、由布院の宿の女中さんがいったが、この場合も、関東の潮来(いたこ)のように「水郷(すいごう)」とは言わない。スイキョウという。
 日田は高原をなして、いわば僻地というにちかいが、江戸時代は漢学がさかんで、広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)などは全国からこの遠国(おんごく)のそのまた不便な高原の町に子弟があつまり、門人三千余人といわれた。~中略~
 スイキョウなどという音(おん)も、この町に漢学書生が充満していたのと無縁ではあるまい。漢学者は、坊主よみといわれる呉音(郷の場合はゴウ)を卑しみ、漢音のキョウをとるのである。
「日田」
という地名について考えると、飛騨の国の飛騨と音が共通している。(日と飛が古代において同発音だったかどうかは不明として)ところからみて、ヒタとは、ある種の形態をそなえた高原のことを指すのであろうか。
 それとも、常陸(ひたち)という地名の語源がヒタミチ(直(ひた)な道)からきたともいわれるから、日田へのぼってゆく道が、「直な道」であるからだろうか。
岐阜県(美濃国、飛騨国)の古い道を考えてみると、美濃北部の金山あたりから飛騨の高山へゆくのに、下呂温泉を通って益田川に沿う道も、馬瀬川に沿う道も、めざす飛騨の国が山国にもかかわらず、険阻な峠がなく、道は直(ひた)である。
 それとおなじように、由布院から日田へも、玖珠川ぞうの道はいかにも直(ひた)で、高原へゆくような感じはなかった。

P164
 日田の町は、典型的な盆地といっていい。四囲ことごとく山で、山々から運ばれてくる水は玖珠川や三隈川にそそぎ、それぞれの水流が、たがいに枝をなしたり、迂回路(バイパス)をなしたりして、なるほど水郷であった。
 しかも四囲の山々は、迫って威圧することなく、人の心を和らげるように遠山をなして、藍色にかすんでいる。

P179
ここはかつて漢学書生が町中を闊歩していた町なのである。
 江戸末期の日田が全国に有名であったのは、 広瀬淡窓の塾である咸宜園(かんぎえん)あるによってであった。
淡窓は、日田の富商の家にうまれ、年少のころ福岡で学んだだけで、そのあとは多病なために江戸などに留学せず、日田に帰って私塾をひらいた。
二十四歳で開講して五十年教えつづけた。その間、入門簿によれば三千八十一人という多数の青年がこの塾で学んだ。それらの出身地は奥州のはしから対馬まで及び、六十余カ国のうちで隠岐国と下野(しもつけ)国の二ケ国が欠けているだけであった。
 このように漢学書生が町中にあふれていたために、ついかれらのつかう漢語や漢語よみが、町の言葉の中に遺った。

P181
咸宜園は、往時は「外塾」と称する寄宿舎が三棟もあった。講義がおこなわれる建物は「内塾」といい、二棟あったといわれるから、相当な景観だったにちがいない。
 しかし淡窓の居宅だった「秋風庵」しか遺っていない。
その建物のそばに、
「史跡 咸宜園 日田市」

 というたてふだが立っており、建物はよく補修されていて、日本のわらぶき建築の一見本としても保存されていい価値をもっている。 

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

大分県日田市 高塚地蔵尊

平清盛

 平清盛は、経世家としては、頼朝以上だったであろう。かれは海運をさかんにし、対宗貿易をもって立国しようとしたという点で、日本最初の重商主義の政治家だったといっていい。頼朝は農地問題の累積した不合理性をただすという旗幟(きし)をかかげ、清盛は公家による農地支配体制を温存したまま商業と貨幣経済を興すことに賭けた。
 清盛はこのため、外洋航海の基地としての一大港市を設けようとし、大輪田(おおわだ)の湊(みなと)(いまの神戸港)を建設した。この港は遣唐使船時代以来の良港とはいえ、一条件だけ欠けていた。つまり西に和田岬が突き出て風浪をふせいでいるが、東にはなにもなく、風むきによっては停泊中の船までひっくりかえってしまう。清盛はこの東側に人工島(経ヶ島)を築くという当時としては大がかりな工事をやって、外洋船が安んじて泊まれるようにした。
当時、このあたりは福原といった。清盛は晩年、瀬戸内海水路の奥ともいうべき福原に帝都を遷(うつ)そうとしたほどにこの貿易政策に熱中したが、しかしながら当時、国民経済としての商品経済が、ほとんど無いにひとしく、いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会だったために、ひとびとは清盛の感覚についてゆくどころか、理解さえできなかった。
 ともかくも清盛は大宰府に腹心の家人を置いていまの博多港(当時は、大津浦)を管理し、また下関港を整え、さらには途中の寄港地としての安芸海岸の厳島に氏神を奉じて社殿を壮麗にし、かつ福原をもって貿易基地にしようとした。
この構想力は、まだ農業だけが産業というこの時代に適(あ)わなかったとはいえ、ただの人間ではなかったことを思わせる。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P160

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

宮島 広島県

鵯越の「坂落し」はありえん

P16
 比較的坂道に強いとされる在来馬にあっても、険阻な山坂道には弱く、そのような街道での運搬は近代にいたるまで牛が使用されていた事実を知るとき、むしろ現実には ありえないことだからこそ、人々を魅了する英雄伝説として広まったと理解されよう。
そもそも同時代史料によれば、義経の軍勢は山陽道を東進して一の谷を攻撃しており、 山方の鵯越は通っていないのである。(「玉葉」寿永三年二月八日条)。

P50
 このデータから、中世の軍馬の多くが日本の在来種の中型馬、今日の木曽馬・御崎馬・北海道和種に相当する大きさであり、なかには一二一センチメートル以下のトカラ 馬のような小型馬も含まれていたことが、明らかになったのである。
~中略~

それにしてもこれらを現在の馬の分類にあてはめると、すべてが一四ハンズ二インチ(一四八センチメートル)以下の馬、つまり今日でいう「ポニー」に相当してしまう。

 

P60
 たとえば、サラブレッドの疾走が時速六〇キロメートルを超えるのにたいして、木曽馬は時速四〇キロメートルにおよばないのである(末崎真澄前掲論文)。
~中略~
 ふつう、駈歩(かけあし)は分速で約三〇〇メートルであるが、実験馬(住人注;中世軍馬に近いものに45キログラムの砂袋+馬術部員))は分速一五〇メートルにしか達せ ず、乗馬して十分後には大きく首をふりやっと走っているという状態になって、実験を終了している。

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究
川合 康 (著)
講談社 (2010/4/12)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

  • 作者: 川合康
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2022/01/21
  • メディア: Kindle版
奈良県 丹生川上神社

平家物語

P17
   (住人注;「平家物語」の冒頭の一節の)ねらいは、「おごれる者」「猛き人」が「久しからず」「滅び」る点にある。
もともと、勝者が敗者に堕ちて死ぬという構想は、こうした軍記物語の基本設定にあった。
 しかも、死者が権力者である場合、その魂は静かに安らかな往生を遂げるとは考えられなかった。そこで、荒ぶる霊威を恐れて、鎮魂するために軍記物語の編集が要請された。
「平家物語」もまた、平家一門の浮かばれぬ諸霊を慰める長大な弔辞の意義を担っていた。 哀調を帯びた美文の底には、慰霊の深い祈りが込められている。

P290
(住人注;平家物語の作者は確定できていないが、作成にかかわりがあると思われる盲人の)生仏が東国出身だったので、東国武士からさまざまな情報の提供を得ることができた、 と「徒然草」は記している。「平家物語」の合戦描写のは、東国の源氏武士の戦場体験が反映されているのである。
 言い換えれば、「平家物語」は、平家からみれば仇敵の源氏の資料提供によって制作されたことになる。たしかに、ほぼ全滅といってよい平家に、戦闘詳報を求めるのは酷であろう。
~中略~
 だが、「平家物語」が仇敵源氏の資料提供によって制作されたという皮肉な事実は、思いがけない波及効果をもたらした。
武士階級のなかに、敵味方の憎悪を超えた武士の情がはぐくまれて、武士道という独特の倫理が意識されはじめた。

平家物語
角川書店 (編集)
角川書店 (2001/09))
 

 

新平家物語(吉川英治著)が出版されてから、これを史実のように考えている人があんがい多いのに驚く。
 歴史小説と史実のけじめはつけ難い。史実と伝説の境すら明確に説明はできない。
厳密にいって史実として信頼のおけるものは少なく、伝説また具体的な事実に結びついて語られ、たえず歴史化、合理化される傾向をもっている。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
はじめに

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=4903868 

関門海峡

2026年3月18日水曜日

大名は、植木

 会津藩はこの当時、日本最強の武士団という評判があったが、しかしこれはあくまでも武士階級だけのことで、のち、会津若松城の攻防戦のとき、領民はこの武士たちの戦いを冷淡に見ていたばかりか、官軍に協力し藩軍の様子を通報する者もいた。
おなじ戊辰戦争のときの越後長岡藩の戦いもそうで、領民は傍観していた。
領民をもって藩の防衛力をつくるなどとてもできるものではないほど、両者のあいだは断絶している。どの藩も、江戸期を通じ、徳川家の大名対策によって転封やら移封やらさせられており、
「大名は、植木」
 とまでいわれていた。大名という植木をひき抜いて、他の鉢―領土領民―へ植えかえるということをやっており、このため藩と領民の一体感というものはない。
 地生(じば)えの大名というのは長州藩のほかに、仙台伊達家、薩摩藩島津家、津軽藩、南部藩などがあるが、これらのどの藩でも、
「諸隊」
 をつくるなどは不可能であった。この四藩は武士階級の優越意識が、長州藩とはくらべものにならぬほどに強烈で、武士からみれば百姓階級は虫けらにちかい。
 ともあれ、長州藩には高杉晋作がその独創によって創設した騎兵隊があり、その後その方式によってつくられた諸隊というものがある。ついでながら、軍隊のことを「隊」と言いだしたのは、日本史上、長州のこの諸隊が最初である。

世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P300

新装版 世に棲む日日 (3) (文春文庫) (文春文庫 し 1-107)

新装版 世に棲む日日 (3) (文春文庫) (文春文庫 し 1-107)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/04/10
  • メディア: 文庫

P26
 ロシア貴族(皇帝をふくむ)は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有地の上に載っている農奴も私物でした。農地・農奴は持主の貴族の意思によって売買されます。おなじ土地でも農奴が何百人、何千人載っているかで、値段の上下がきまります。
 これからみると、江戸期の大名(将軍を含む)は、はかないものでした。ロシア貴族個人にとって、「おれ」という意識は「おれのもの」という私的所有の実感と不離なものだと思うのですが、これにひきかえ、日本の大名個人には、「おれ」も「おれのもの」もまことに希薄なものでしかありませんでした。
 たとえば江戸期の大名には、自分の城を売却する権利がありません。それどころか、お国替という配置転換の命令があると、城を空け、掃除をし、つぎの大名にあけわたしたのです。

P28
 長州藩毛利家の版図はいまの山口県で、三十六万九千石でした。ロシア史のほうから「日本史における江戸期の大名はロシア貴族と似たようなものだろう」と見るのは大まちがいだというのは、毛利家が、山口県の地主ではなく、また農民の私有者ではなかった、ということでもわかると思います。
江戸期における地主はあくまでも農民でした。大名は、かれらを統治し、そこから行政費として(という思想はあったと思います)租税をとりあげ、行政をしてゆく、という存在でした。

P30
 維新後、太政官府は、諸藩の反乱をふせぐため、大名を東京にあつめ、やがて大名の時代はおわりました。明治政府は、実質をうしなった大名に対し、廃藩置県したあと、石高に応じ、家禄をあたえました。~中略~
 ここで旧大名は、はじめて「私有」という権利を得ました。”大名の解放”というべきものでした。家屋敷も一般の者と同様、元大名たちにとって完全な私有になりましたし、政府から給与されるものも、それをどう使ってもいい性質のものになりました。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版
萩城址 山口県