2026年3月2日月曜日

大悲山峰定寺

P34
大悲山峰定寺は古来山伏の行場だったから、峰にも谷にも、よくなめした濃緑の皮革のような葉をもつ石楠花(しゃくなげ)の灌木が、あちこちに群落している。
修験道というのはこの高山植物を好む。石楠花のあるの自生する山には霊気があるという伝承がその世界にあるらしい。  峰定寺は勅願寺だったから、むかしもいまも檀家がない。
 むかしは山林があったから何とか維持できた。それでも維新をむかえたころは寺域は荒れ放題で、山門など倒壊寸前だったらしい。
この寺には、歴代、住職がいなかった。山伏の本山である聖護院の別格本山のようになっていて、聖護院門跡が兼務する。
門跡は、江戸期では皇族が頭を剃ってその位置につく。維新でそういう法親王がもとの俗人に戻り、東京へ行ったしまったが、その前後に兼務していた峰定寺の山村のほとんどを売り払ってしまったらしい。
このため、もともと立ち行かない峰定寺が、いよいよ荒廃した。
 いまも聖護院門跡がこの寺を兼務していることになっているが、その親元の聖護院そのものが本山を旅館にしたりして四苦八苦しているため、洛北の山中で風化しつつある峰定寺のために援助をするというような甲斐性はとてもないのである。

P41
 明治後、昭和初年までこの寺は無住であった。食えないために僧侶が入らず、結局は山形県から来た青年が、昭和四年にこの寺に居つき、キコリ同然の暮らしをして寺を護持した。

 

P39
 いまは、庫裡にせよ、仁王門にせよ、また行場の岩壁に架かっている舞台づくりの本堂にせよ、修復がよくゆきとどいてきれいである。
なにしろ主要な建物が三棟とも重要文化財だし仏像六体もそれに指定されているから、経営の苦心もさることながら国家の金も十分に生きているにちがいない。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

 

奈良県 室生寺

山人(やまひと)

P190
  山人(やまひと)という語は、この通り起源の久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神 が末二つに分かれ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたとみるのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓(よ)ませているのであります。

P190
 自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニに鬼の漢字を充てたのは随分古いことであります。その結果支那から入った陰陽道の思想がこれと合体して、「今昔物語」の中の多くの鬼などは、人の形を具えなかったり、孤立独住して種々の奇怪を演じ、時として板戸に化けたり、油壺になったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終枝この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。
斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞(うずく)まって、大きな笠を着て顋(あご)を手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰(ふかん)していたという鬼などは、この系統のもっとも古い一つである。
~中略~
 また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とすりょうな兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。

P194
村に住む者が山神を祀り始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、あるいはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵(さいしょう)と開墾の障碍(しょうがい)なきものを禱(いの)るもので、すなわち山の神に木を乞う祭り、地を乞う祭りを行うのが、これらの社の最初の目的でありました。
そうしてその祭りを怠った制裁は何かというと、怪我をしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして道の畔(くろ)に、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。

 

P195
 天狗を山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。あるいは山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く。手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、「太平記」以前のいろいろの物語には、随分盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことをちゅういしませぬ。
仏法の解説ではこれを魔障とし、善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず一方には天狗の容姿服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験山伏とよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、尊敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細のあることでなければなりませぬ。
恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、共にある程度までは参与していたのを、平地の宗教が段々にこれを無視しまたは忘却していったものと思っております。
 今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねてみる他はないのであります。
山人考

山の人生
  柳田 国男 (著)
  角川学芸出版 (2013/1/25)
  

山の人生 (角川ソフィア文庫)

山の人生 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/01/25
  • メディア: 文庫

 

P111
 世界史的にみても、富より貧のほうがまもりやすい。
 中国の高地に住む少数民族の種類はじつに多いが、おそらく紀元前からその俗を守ってきたといえるであろう。
山郷で武をみがいて低地人の近づくことを阻(はば)みつづけ、低地でもって多くの漢族や騎馬民族の王朝が交代したが、苗(ミャオ)族ら高地に籠るひちびとは、そういう権力や歴史といっさい無縁であるという態度を持(じ)しつづけた。
~中略~
 十津川郷民を苗族になぞらえるのは唐突すぎるが、しかし日本の歴史のなかで、低地の政治に対し関心をもちつづけた唯一の山郷といえるし、さらには低地の権力に対し一種の独立を保ちえた唯一の山郷ともいえるのではないか。
 壬申の乱で天武天皇に接触し、大坂ノ陣で徳川家康に接触するのは、山民たちがかれらを好きだったということではないであろう。一貫して自分たちを伝統のまま置き捨てておいてもらいたいということであり、ひいては十津川の伝統的な堵(と)を守り、それに安んじていたいための保証のとりつけであったといっていい。

P114
 幕末、十津川の人はじつによく働いた。
 幕威が大いに衰退して長州の過激勢力が大いに騰(あが)った文久三年(一八六三)、十津川郷士は長州藩の口ききで御所の守護をつとめることになり、その旨、中川宮令旨(りょうじ)という形で、一郷にくだった。~中略~
当時、十津川ではこれを、
「京詰」
 といった。
 京に、諸藩の藩邸のようにして十津川屋敷ができる(寺町通三条下ル円福寺)のは文久三年八月九日である。~中略~
 御所の諸門は、会津藩をはじめ、薩長土その他の諸藩それぞれ担当を決めて守っている。が、諸藩はいずれも政治性がつよく、薩と会が結び長を都から蹴落とすといったこともあり、翌年には長州藩が武装上洛していわゆる蛤御門ノ変をおこすという騒動もあったが、十津川郷士二百人は諸藩の政略とは無縁にただひたすらに門の番につとめた。
「今夜は十津川の者が門を守っているから、安心してねむることができる」
 と、孝明天皇がつぶやいたという話が十津川につたわっている。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/10/07
  • メディア: 文庫

 

奈良県 山上ヶ岳
龍王院 福岡県豊前市 求菩提

奥駈修験道

 紀伊は木の国、山の国。
 この半島を旅する者はみな、重畳と波打つ山々のはてしのない連なりに驚き、森の深さに気圧(けお)される。
 だが、見晴るかす緑の山並みに目をこらすと、そのほとんどがスギ、ヒノキの人工林であることを知る。熊野川をはじめ豊かな水流は、いたるところ大きなダムによって寸断されている。
下流域は水量が減り、清らかだった流れが濁り、生態系が変わってしまった。
 時代が変わり、拡大造林は時代から見放された。山と川に依拠して暮らす木の国の人々は、山から離れ川から離れた。造林とダムは土地にわずかな富をもたらし、山の文化を殺した。
 熊野を古来、隠国(こもりく)という。隠国とは使者の隠れるところ。「日本書紀」によると、熊野はイザナミが祀られる黄泉の国であり、根の国だった。奈良、京の都の文化とは異質の文化をもつ謎の国だった。
~中略~

 その表と裏を結ぶ山岳道がある。修験の道、奥駈(がけ)道である。紀伊半島の中央から少し東、背骨のように南北に横たわる全長一八〇キロに及ぶ大峰山脈の稜線伝いに、ける奥駈道はつけられている。
 山脈の北の端が吉野、南の端が熊野である。その吉野と熊野に、それぞれ別々の修験道が発達した。一〇世紀ごろ、ふたつの修験道、生の国の修験道と死の国の修験道とが大峰山脈で結ばれた。
以来、大峰山脈縦走は奥駈修験道場として、修験道最高の行場となった。

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳
(著)
平凡社 (2001/01)
P178

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

  • 作者: 加藤 則芳
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: 単行本

 

P181
 つまり、役小角を開祖とする立場をとれば、修験道は七世紀に成立した日本独自の山岳宗教と理解されることになるが、平安後期になって観音信仰、浄土信仰が浸透し始めてからの山伏の登場を修験道の成立とすれば、十二世紀末ということになる。たしかに「修験道」を一つのまとまった実体としてとらえようとしても、なかなか一筋縄ではいかないだろう。
山間の呪術は七世紀よりはるか以前から流行しており、そこまで遡って考えないと、山中におけるさまざまな祭場跡の発見や祭具・経文などの出現については説明がつかなないのではないか。
久保田展弘は、「弘法大師空海が、中国の、当時の国際都市長安から密教を持ってくる以前に、すでに大和の葛城山(かつらぎさん)から吉野山・金峯山のあたりは、必ずしも大日如来を中心とはしない〈雑部(ぞうぶ)密教〉(=雑密(ぞうみつ))が活動していたものと思われる」としている(久保田展弘、「修験道・実践宗教の世界」新潮社、一九八八年、二-四頁参照)。
彼ら山岳修行者らの信仰は、実際のところ、神道とも道教とも関係していたであろうが、とりわけ仏教の正式な伝来にによって大きな影響を受け、さらに空海・最澄による密教の伝来によって、その理論的基礎がつくりあげられていったというのが全体の流れではないかと想像される。
あくまでも彼らの信仰の根源には、病気を治したり作物の収穫を祈ったりする加持祈祷の類が取り入れられており、それこそが実践的な宗教である修験道成立のバックグラウンドとなっていたはずである。


P182
 修験道の開祖とされる役小角こと役行者(えんのぎょうじゃ)は、奈良時代に大峯山(山上ヶ岳)で一千日の修業に入って金剛蔵王権現を感得し、山上に祭祀したと伝えられており、一説にはそれが修験道の始まりとされている。
まだ仏教が一般庶民に広がりをみせていない時代のことであった。そして、役小角が大峯開山のときに、蔵王権現に先立って感得した弁財天を鎮守として弥山に勧請したのが、天川大弁財天社の始まりである。
 では、役小角は、山上ヶ岳で厳しい修業に励んでいたとき、なぜ「最初に」弁財天を感知したのだろうか。それというのも、天川および洞川は修験にとって大峯山系に入るきわめて重要な地点であったからである。そのような場所に女性神格である弁財天が祀られているというのは一見奇異な感じを与えるかもしれない。しかし、ここで思い出すのは高野山における
丹生都比売の存在である。~中略~ かつて、「聖地の想像力」のなかで、山上ヶ岳と弥山とは、あたかも男性原理と女性原理との対照を表すかのような位置づけにあると指摘したことがある(植島啓司「聖地の想像力」、一四三頁、一四八頁)。
修験の肉体鍛錬は男性原理であり、天川における「籠もり」や「瞑想」による受身の喜びは女性原理を表しているのではなかろうか。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 

奈良県 山上ヶ岳
奈良県 天河大弁財天社

山伏

 山伏は、大日如来の化身は不動明王とし、不動明王の化身は、自分たち山伏としたのである。
山伏特有の理論と発想は、奇妙なようにもみえるが、そこには宇宙自然、そして神と仏といった、いわば超宗教的な自然信仰に基盤にもち、他の宗教にみられない、独自な哲学理念を持っていたのである。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P8

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2021/07/01
  • メディア: 単行本

 

 平安末期から幕末までの社会で、修験者(山伏)は特異なものであった。有髪(うはつ)で、ひたいに兜巾(ときん)をいだき、鈴懸(すずかけ)の衣を着、法螺をたずさえ、錫杖(しゃくじょう)や金剛杖をもち、諸国の霊山にのぼるのだが、諸国のうちとりわけ吉野の金峯山が根本道場だった。吉野群山のうちのひとつの玉置山三所権現は当然かれらの根城のひとつで、十津川郷が中世以来、都の政治情勢にあかるかったのほ、玉置山に出入りする修験者によるものだったかと思われる。
 修験者のもたらす情報が公家方に偏り、武家方に薄かったであろうことは、多少の傍証がある。
このことは歴世の十津川郷の政治的性格を公家方へ方向づけることに、あるいはかかわりがあるかもしれない。
 本来、修験道という山岳信仰は、太古の信仰に源流があるであろう。奈良朝のころその教祖的存在だった役(えん)ノ小角(おづね)にしても原始信仰のほかに多少の仏教的知識と雑密(ぞうみつ)的な呪法をもっていた。
それが平安期になって、天台宗と真言宗の両派を吸収してゆくのだが、組織としては天台宗は聖護院門跡、真言宗は醍醐の三宝院門跡がそれぞれこれを統括した。
門跡とは僧形(そうぎょう)の宮廷人(親王・公卿)だから、山伏(修験者)はいわばそういうひとびとの野にある家来といっていい。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)
P167

街道をゆく〈12〉十津川街道 (1983年)

街道をゆく〈12〉十津川街道 (1983年)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2021/07/01
  • メディア: -
福岡県田川郡添田町  高住神社

幣切り行事

 等覚寺(とがくじ)の祭りは四月一九日である。
 ここで最高の見物は、高い松柱を立て、その柱の上で山伏が御幣を切る一場面がある。
松会のクライマックスは、この一瞬である。
 それはどういうことかというと、斎庭で行われる田行事、お田植の行事を女性の陰にみたて、高い松柱を男性の陽となぞらえ、松柱の上で切り落とされる御幣を神の御種子とし、一種の交合の世界をリアルに演出したもので、山伏らしい祭りの在り方がここにある。
~中略~
いよいよ幣切り行事になると、これまで御幣は御輿の前に安置されており、これを御田盛一臈(祭りの当務役)が背に負い、葛(かずら)をつたって登ってゆく。ところがこの御幣とは、いわゆる権現である。
権現とは仏の権(かり)の姿で、仏様の意味をもつ。山伏の祭り、また権現の祭りとは神仏習合という二重構造をもち、御輿に仏が乗ったということと、御幣に内在する神は仏であり、また仏が神であるという姿のものである。
~中略~
 さて、その御幣が切り落とされた。白い弊紙が空を舞ってひらひら落ちる。その様は、この祭りの最高潮のときで、これは神の世界の陰陽交合を表したものである。そのとき参詣の観衆たちは、大きな拍手を送りどよめく。
 斎庭には、お田植行事の中でモミ種が蒔かれるが、これには神の御種子が宿り、観衆はそのモミ種を拾い自家のモミ種に交合して、苗代に蒔く。
 秋の実りは、このように神の御種子の交配により、豊穣が約束されるのである。祭の効用は霊験あらたかなものとなって現れる。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P98

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2023/03/01
  • メディア: 単行本

 

福岡県田川郡添田町 高住神社

求菩提山の神々

P25
もともと山の信仰とは、古い時代から山を崇拝してきており、山自体を神とした奈良の三輪山は著名である。
また日光の二荒山(ふたらさん)、九州では大宰府の宝満山がそれである。ところで、名もない地方の山ではどうなのか、など考え、これまで丹念に調査してみた。  

P112
 ところで、求菩提山は二所権現で、その御本地が十一面観音と薬師如来である。英彦山は三所権現で、釈迦如来、千手観音、阿弥陀如来である。そして権現である神は、この御本地が権(かり)の姿(神の姿)で現れたのが権現という神である。

P113
 ところで、山岳信仰には歴史的時間の流れがあり、実のさまざまな信仰の付随性があり、一概に特定づけがむずかしい。求菩提山の二所の権現をみると、御本地の十一面観音の垂迹神を基本的に白山の白山姫とし、また伊弉册尊としており、他の一所の御本地薬師如来の垂迹神を大己貴神とし、この神を地主神としているのであるが、伊弉諾尊も垂迹神であり、複数の神をもつ。
 ところで求菩提山信仰には、三輪神道が入り、そのことは「縁起」に「欽明天皇即位元年現大三輪神大己貴命也(オホアナムチノミコト)」とあり、また、「御嶽最初鎮座地主神明大己貴権現」とある。

P114
 英彦山は、古く、日子の山といわれ、次に彦山となって、江戸時代の中期に「英」という字があてはめられるようになって、今の英彦山の名がある。
 さて、その英彦山は、求菩提山と同じように伊弉諾尊、伊弉册尊(天神七代)の二神と、その御子の地神第一の神、天照大神の御子、日の御子(天忍骨尊 )を祀ったことから、日子の山、彦山となったことが考えられる。

 

P114
 豊前地方は天台寺院の展開していたところで、白山信仰の展開を多くみるところである。  求菩提山上宮棟札に、「仏法大棟梁白山妙理大権現御本地十一面観音菩薩」とある。そして薬師如来の御本地、地主神の大己貴神の二神が、求菩提山二所権現である。ところでこの白山の神は、越(えつ)の白山から勧請したとある。いうならば、三輪の神と白山の神が権現ということになる。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2020/07/15
  • メディア: 単行本


求菩提山 福岡県豊前市

山伏たちの巣窟地帯

P8
旧豊前路とは、北部九州の瀬戸内に面したところである。福岡県の東部と、大分県の北部からなる。 都市名で言うと、北九州市から宇佐八幡宮の鎮座する宇佐市の間である。
ここが、かつての鎮西修験道とよばれた地域で、山伏たちの巣窟地帯であった。

P9
 日豊本線小倉駅から宇島(うのしま)駅に向かう途中、行橋(ゆくはし)という駅がある。ここは京都郡(みやこぐん)の一部である。
ちょうどこの辺の海に、大和からの舟が着いた。最澄はここから大宰府に向け歩いた。峠の向こうに最澄が祈った香春(かわら)の山があり、その山麓に古代寺院の跡、天台廃寺跡がある。
 京都郡は、古代の都を思わせるようにその名があり、多くの古代寺院が立ち並んでいたところである。~中略~
 ところで、この行橋駅から遠望するところに英彦山がある。左に山々が続くが、この山なみの中にそれぞれ独立した山岳寺院が営まれていたところで、ここが山伏の巣窟地帯である。
この山なみは、宇佐八幡宮のの元宮とされる御許山(おもとさん)に続く。そして、国東六郷満山の山なみにと続く。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2021/07/02
  • メディア: 単行本

 

 

求菩提山 福岡県豊前市

修業験得


筆者は以前山伏の人たちとよく山に分け入り、その修行を時折り観察させてもらった。積雪の中の寒中行は、自分自身厳しさを体得したが、その中で山伏たちの滝行には異様なものを感じた。素裸の行者の体から白い煙のようなゆげが立ちのぼる様は、信仰というものがなくては出来ないわざであった。
~中略~
 あるとき、一四、五人の山伏たちに同行し、野宿の一泊行に山に入ったことがある。これは一つの集団の修行で、若い山伏に種々なものを初体験させるものであった。
~中略~
 目的の山中の洞窟に着くと、先逹は腰に巻いていた白い布をほどき、それを木々にゆわいつけ、ただちに神々や諸仏をその白布に勧請した。やがて一行はその前で勤行を始めた。
勤行が終わると、同輩の一人の山伏は気分が悪いと横に臥した。他の山伏は、早速降霊術で物怪(もののけ)を取り払った。すると臥していた山伏は気分がよくなったといって起き上がった。
 またあるとき、二人の行者が求菩提山の山頂で一週間の断食行に入った。この間、般若心経を一万巻奉唱した。一日目はそでほど疲労をみせなかったが、二日目から疲労の度が増し、心経の奉唱のスピードがやや落ち、三日目が疲労の最高潮で、夜になると行者たちの耳に何か聞こえるものがあったという。また目の前のお堂が真っ赤になって焼け落ちるようであったともいう。四日目の朝、夜が明けるとさわやかな気分になり、小鳥の声を聞き、朝日が樹木の中からだんだんさしこんでくると、まるで浄土のようであったという。
~中略~
 山伏の行う修験とは、「修業験得」といい、修行の中で「験(しるし)」を得るということである。その験とは、前述のようなものを言うのである。したがって、霊を信じ仏を信じるのである。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P131

山伏まんだら: 求菩提山修験遺跡にみる (NHKブックス カラー版 32)

山伏まんだら: 求菩提山修験遺跡にみる (NHKブックス カラー版 32)

  • 作者: 重松 敏美
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 1986/11/01
  • メディア: 単行本

 

求菩提山 福岡県豊前市

千手観音堂 岩屋山泉水寺

 宇島駅から求菩提に行くバスの途中、才尾(さいお)というバス停がある。そこで下車し、二〇分ほど歩くと千手観音堂がある。
 千手観音堂は、もと岩屋山泉水寺(いわやさんせんすいじ)といい、平安時代の古い寺の跡である。
寺は岩窟からなり、岩屋山の山号がある。岩壁から二条の霊水がほとばしり、このことから泉水寺の名がある。
収蔵庫には、重文の千手観音像が安置されている。横に不動明王像も安置され、共に平安時代後期の作品である。
千手観音の尊容は優美さをもち、心が洗われる思いがする。寺跡の前には川が流れ、そのせせらぎは都会の喧騒さをわすれさせてくれる。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P10

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2021/07/06
  • メディア: 単行本

 

岩屋山泉水寺 福岡県豊前市

2026年2月27日金曜日

旅に出よう

  [第十五段] どこでもよい、しばらく旅に出ると、目がさめるような気持ちがする。
その辺、あっちこっち見あるき、特にまた、田舎びた所や山里などは、甚だ見なれないことばかり多い。
都へ幸便を求めて、手紙をやる。「そのことも、あのことも、序(ついでに)忘れないように。」などといってやるのも、面白い。
そういう旅先でこそ、万事に気配りされる。
~後略

徒然草―現代語訳
吉田 兼好 (著), 川瀬 一馬
講談社 (1971/12)
P196

 

徒然草 (講談社文庫)

徒然草 (講談社文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: Kindle版

 

数年前に出版した本(邦題「運のいい人にはワケがある!」)の中で、私は柔軟で独創的な発想や行動につながる四つの法則について書いた。その方法をここで簡単にご紹介しよう。

ちがうことをする
~中略~
視点を変える
~中略~
遊ぶ
~中略~
好奇心をもつ

その科学が成功を決める
リチャード ワイズマン (著), Richard Wiseman (原著), 木村 博江 (翻訳)
文藝春秋 (2012/9/4)
P133

 

 

 

 

 

その科学が成功を決める (文春文庫)

その科学が成功を決める (文春文庫)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2012/09/04
  • メディア: 文庫

 

東京を逃げ出し、八ヶ岳山麓に住みはじめて二〇年。今の森に移ってからも、一〇年がたった。
旅が好きで、八ヶ岳が好きで、好きさ余って住み着いてしまった。
 矛盾である。旅は移動するからこそ旅なのだ。好きだといって、そこに留まってしまっては、旅は成立しない。
八ヶ岳が好きだからと、なんども八ヶ岳に旅したのに、住んでしまえば、八ヶ岳は日常になってしまう。日常には、旅という非日常のハレのときめきがない。変化を楽しむという、冒険心の充足もない。
 ところが一方では、好きだからこそ住む、という理屈もまた成り立つ。当然の原因と結果であり、理想的な理由でもある。
~中略~
出かけては、忙しい忙しいとぼやくぼくに、「そんな素敵な森に住んでいるのだから、庭にテントを張ればいいじゃないか」などと、友人たちから揶揄される。でも、それは旅ではない。日常にテントを張っても意味がない。

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳 (著)
平凡社 (2001/01)
P8

 

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

  • 作者: 加藤 則芳
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: 単行本

 

兵庫県 斑鳩寺