2026年6月17日水曜日

評判と信頼

 ネット取引をする場合に、評価システムを利用する目的が、当初は「危ない人」を見つけるためだったのが、「付き合っても大丈夫そうな人」を見つけるために変わったというわけなのです。
 この結果から分かったのは、評判には「追い出し」作用と「呼び込み」作用の二つがあるということです。
~中略~
 すなわち、悪い評判を流すことで相手を追い払うのではなく、いい評判を積み重ねていくことで自分のところに人が集まってくるようになるということです。
 老舗が人々の信頼を集めるのは、長年にわたり正直な取引を続け、客の期待を裏切らなかったからこそその店は「老舗」になれたのだろうとみんなが考えるからです。それが「ブランドの信用」というわけですが、ネット社会ではそうしたブランド化が企業のみならず、個人のレベルでも起きているということが言えるのではないでしょうか。
~中略~

 しかし、このオークション実験が示唆しているのは、見知らぬ他人が「泥棒」ではないかと過度に警戒してビクビク生きていくよりも、他人のいい評判に目を向け、そうして評判を確立した人たちと積極的に手を結んでいくほうが、信頼社会を構築するうえで重要なのではないかということです。

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点
山岸 俊男 (著)
集英社インターナショナル (2008/2/26)
P223

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点

  • 作者: 山岸 俊男
  • 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
  • 発売日: 2008/02/26
  • メディア: 単行本

 

太宰府市

茶道

P14
茶道は貴婦人の居間に浸透したし、身分いやしい者の栖(すみか)にも入った。われわれの田夫は花を活(い)けることを知り、野人も山水を尚(たつと)ぶことを知るようになった。
人がその人生の劇に起る厳粛にして滑稽な関心事に無感動であるならば、われわれはそういう男を、俗に「茶気がない」と言う。逆に、浮世の悲劇に無頓着に自由奔放にはしゃぎまわる抑制のない審美家には、「茶気がありすぎる」という烙印を押す。

P34
 日本の茶の湯にわれわれは茶の理想の頂点をみる。一二八一年の蒙古襲来を首尾よく撃退したために、わが国は、中国がこの遊牧民族の侵入のために不幸にも断たれてしまった宋の文化運動を継続することができたのである。
茶はわれわれにとっては、飲む形式の理想化以上のものとなった。それは生の術の宗教である。その飲料は純粋と精巧にたいする崇拝の口実となり、主人と客が一緒になって、この折に現世の無上の幸福を作りだす神聖な役割を果たすものとなった。
茶室は生存の寂寞たる荒野の中のオアシスであり、疲れた旅人はそこに出会って、芸術鑑賞という共同の泉から渇きをいやすことができた。茶の湯は、茶、花、絵画を素材に仕組んだ即興劇であった。茶室の調子を乱す一点の色もなく、物事のリズムをそこなうもの音一つ立てず、調和を破る身の動き一つなく、周囲の統一を破る一言も口にせず、すべて単純に自然に振舞う動作―こういうものが茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことに、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理がひそんでいた。茶道は変装した道教であった。

茶の本
岡倉 天心 (著),桶谷 秀昭 (翻訳)
講談社 (1994/8/10)

英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)

英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1994/08/10
  • メディア: 文庫

 

旅の恥はかき捨て

P50
 「日本人らしさ」なるものは、実は日本の社会で生きていくための知恵、むずかしい言葉でいえば「戦略的行動」に過ぎないのではないかというのが私の考えであり、私が研究している「社会心理学」の考えであるのです。
 つまり、日本人とアメリカ人の行動パターンの違いは、文化に違いがもたらしたものというよりも、その人が置かれている「環境」、つまり社会のあり方がもたらしたものにすぎないというわけです。

P128
 つまり、普段その人のおとなしい性格や、真面目な行動はその人自身の心の働きや心の性質から生まれたものではなく、そういうふうに振る舞うのが「戦略的にトクをする」から、そうしているだけのこと。
したがって環境が変わって、大人しく振る舞わなければいけない状況がなくなれば、大胆なことでも平気でできるし、それを恥ずかしいとも思わない。まさに「旅の恥はかき捨て」になってしまうわけです。

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点
山岸 俊男 (著)
集英社インターナショナル (2008/2/26)

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)

  • 作者: 山岸俊男
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/05/31
  • メディア: Kindle版

太宰府市

謝意は受け取れ

 感謝を本気で拒絶すると、相手は侮辱されたと思う。
「曙光」

超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦 (翻訳)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/1/12)
146

超訳ニーチェの言葉

超訳ニーチェの言葉

  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

 

P210
実のところ、これは今に至るまで私の痛恨事の一つである。どうして私はあの時、差し出された缶コーヒーを断ったのだろうか。
 本当に、どうして断ったのだろう。私はもともとコーヒーが好きではない。また、その時は後で駅の喫茶店で何か飲もうと、約束はしていた。
しかし、そんなことが理由になるのか。あの時、身動きとれず、できることがほとんどない状況で差し出された、患者さんの好意と感謝のしるしを断るなんて、今となっては人非人の所業と思える。
いや、今となってから思うのではない、あの時患者さんの病室を辞した時以来、ずっと私は後悔し続けている。
~中略~
 以降私は、次のことを自分に課しており、また私の後輩たちに言っている。  回診の時に、時々患者さん(中高年の女性が多い)から、「先生もどうですか」などとお菓子や果物を勧められることがある。その時には決して断ってはならず、礼を言ってもらった上で、その場で食べなければならない。ここが重要である。~中略~
大袈裟に言えば、これは私の会得した、臨床医の極意の一つだと、本気で思っている。私はこれを心理学の用語で説明することはできないが、しかし、これが「極意」であることは欠片も疑いをもっていない。
~中略~
 柄にもなく慌てて付け加えるが、別に患者は金品を差し出せと言っているのではない。
差し出すと何か良いことがあるかというと、普通は何もない。医者の方は、誰から何をもらったか、ほとんど覚えていないからである。
だから何かを贈ったからといって扱いがよくなることを期待はできないし、医者との関係が特別良くなることもないだろうと思う。
いつか、私の病院に、「金品を贈ったにもかかわらず、それを受け取られたにもかかわらず、扱いが良くならなかった」という患者からの苦情があったそうだが、そういう時、医者連中は「何と卑しい人だ」と、むしろ患者の側を軽蔑する。
したがって、そうした下心のある場合はへたに贈り物などしない方がよいかも知れない。
 最近はどこの病院に行っても、「もらいものはお断り」の札が貼ってあるし、実際全部断るところもあるようだが、くれるというんものは受け取るべきであろう。
この「お断り」は看護婦の方が徹底しているようで、私も子供が生まれた時に、退院時に病棟へ菓子折りを差し出したが、頑として受け取ってもらえず突っ返された。非常に不愉快であった。
 もっと極端な例では、私の病院で、患者さんが自分の畑でとれたという葡萄を病棟宛に送ってくれたが、看護部が返せと命令し、病棟が「丁重な礼状」とともに送り返したそうだ。患者さんはそれならと担当医宛に送りなおしたが、それが届いた時には葡萄は腐ってしまっていたという。
こういうことはまことに失礼であるし、不人情この上ない。~中略~
 人情は、「倫理」や規則よりも上位である。
 もらう側にも礼儀は必要である。恐縮して、また喜んで、もらわねばならない。

P216
 正直に白状するが、誰からいくらもらったか覚えてなくても、総体として何がしかの「お礼」があると、医者は嬉しいしモチベーションが上がる。それを卑しいというのであれば、もちろん卑しい。しかし開き直るようだが、何かを頼むとき手土産の一つも下げるのは世の中の常識の一つではないのか?
~中略~ 汚職は国を滅ぼさないが正義は滅ぼすと喝破したのは山本夏彦翁であった。ちなみに、患者になったときにいろんな裏工作をしてどうか便宜を図ってもらおうとするのが一番目に余るのは新聞記者をはじめとするマスコミ関係の人間だ、というのは医者の間でよく言われることの一つである。

P217
 私がまだ二十代のころ、そのとき勤務していた病院に、地元のヤクザの親分が入院してきた。付き添っている子分ともども、物腰は非常に丁寧であった。入院二日目か三日目に、何か封筒に入れたものを渡された。どうしたわけか病院の封筒であったので、何かの書類かと思い受け取ってしまった。
~中略~
ナースステーションで開けたら大枚のお金であり、たまたまそこにいた部長に相談したところ、「バカ野郎!すぐ返して来い!」と怒鳴られ、病室に戻りなんとか押しかえしてきたが、すぐに子分二人がやってきて「先生、社長がお呼びだからおいでください」。
 大男にはさまれて震えながら病質に行ったところ、親分からあくまでも丁寧に紳士的に受け取ってくれと頼まれた。とにかく上がうるさいので、という情けない言訳の一転張りで逃げ帰ってしまうのがやっとだった。
 別の日、子分の一人が婦長に「この病棟の看護婦さんは全部で何人か」と何気なく聞いたので、婦長も何人です、とすぐに答えてしまった。次の日、その人数分の高級菓子の詰め合わせセットを子分が重たそうに運んで、「皆さんへ」。婦長も真っ青になってしどろもどろで親分の病室に返しに行く、さすがに親分憮然として「一体何だったら受け取ってもらえるんですか」。
婦長も気の毒になったのか、「お花くらいだったら」とうっかり答えてしまったところ、その翌日はものすごく立派な胡蝶蘭が何鉢も届いた。これはそれでもなーすステーションにしばらく飾ってあった。
 もちろん親分に悪気があったわけではなく、またこれで医療者の歓心を買おうなどというようなケチな根性ではなかったのだと思う。そもそも当然のごとく特別室に入って、初めから違う扱いを受けていたわけであるし。
私は今、あのときの部長の年齢と同じくらいになっているが、今だったら、まあ大枚の現金は別として、あのお菓子は病棟を代表してお礼を述べた上で、有り難く頂戴してもよかったかなという気もする。
 こういうのではなく、いわゆる心のこもった贈り物というのももちろんある。一番嬉しかったのは、以前、高校生の男の子からもらったものである。
~中略~
 何はともあれ良くなって、親御さんにも感謝された。もらったのは、広島かどこかへの修学旅行のお土産のしゃもじである。もちろんつまらないものには違いない。ただ、私の記憶と理解が正しければ、修学旅行で子供が使えるお小遣いは決まっているはずである。
その子は、大したことない予算の中から私のために幾許(いくばく)かを使ってくれたのだから、これを喜ばずしてなんとしよう。
~中略~
 さてつい先日のことである。私は外来の診察室に六十代後半男性の患者さんを呼び入れた。肺癌で化学療法の後、頬部に放射線の照射を行ったが、その後急激に腰椎の転移が出現また増悪し、強い腰痛のため車椅子でこられた。 ~中略~ 診察室に車椅子で入ってこられたとき、その患者さんは手にホットの缶コーヒーをもっていた。わたしを見るなり「先生、コーヒー飲むかい?」と差し出された。
冬場であったが診察室は暖房が効いており、私はのどが渇くのでペットボトルのミネラルウォータを脇において飲みながら外来診察をしていたが、すぐに(と言いたいが、もしかしたら一瞬の間合いはあったかもしれない)「あ、ありがとうございます」と受け取って缶を開け、飲みながらその患者さんの診察をした。
~中略~
 ご長男は診察室から出られる前に、私に「コーヒー飲んでいただいて有難うございました」とにっこり笑って礼を言われた。
 私はこの時、うれしそうに、また美味しそうに、コーヒーを飲めていたのだろうか。

偽善の医療
里見 清一 (著)
新潮社 (2009/03)

 

偽善の医療 (新潮新書)

偽善の医療 (新潮新書)

  • 作者: 里見 清一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/03/01
  • メディア: 新書
竈門神社 太宰府市

一人でいられる能力


イギリスの精神分析家で小児科医でもあったドナルド・ウッズ・ウィニコットは、まさに「一人でいられる能力」について書いています。
それによると、赤ん坊が一人でいられる能力は、孤独を経験させることで高まるのではありません。
むしろ、母親に愛された赤ん坊のほうが、その能力が高いといいます。

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹
(著)
青春出版社 (2015/4/16)
P101

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者: 和田 秀樹
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書

 

竈門神社 太宰府市

受け入れてくれる人間を探せ

 リアルな人間関係の中で本音をいい合える親友が見つからないのであれば、ネットも使いようによっては悪くないと思います。
 ただし、その場合、「表」と「裏」を使い分けることが大事。たとえばフェイスブックでも、「表」の投稿欄やコメント欄で言葉をやり取りしているだけでは、建前のパーティ・トークにしかなりません。ほかの人には見えない「裏」のメッセージ機能などを使って、本当にわかり合える人と本音を共有した方がいいでしょう。
 こういうことに真面目な人ほど罪悪感を抱いてしまうものですが、人間同士のコミュニケーションに表と裏の二面性があるのは当たり前のこと。その当たり前のことを否定的に考える風潮が強いから、いまの世の中は建前ばかりが横行するのです。
それが人々の心をいかに不安定なものにするのかを、もっと深刻に考えるべきでしょう。
どんなに邪悪なものであっても、その本音をわかってくれる相手がいることは、私たちメンタルヘルスにとって、きわめて大切なことなのです。

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹
(著)
青春出版社 (2015/4/16)
P185

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者: 和田 秀樹
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書
九州国立博物館 太宰府市

大きにお世話と大きにご苦労

P149
  世話の字に二つの意味あり、一は保護の義なり、一は命令の義なり。
保護とは人の事につき傍らより番をして防ぎ護り、或いはこれに財物を与え或いはこれがために時を費やし、
その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。
命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを差図し、不便利ならんと思うことには異見を加え、心の丈を尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。

~中略~
 保護の至る処は即ち差図の及ぶ処なり。差図の及ぶ処は必ず保護の至る処ならざるを得ず。
もし然らずして、この二者の至り及ぶ所の度を誤り、僅かに齟齬することあれば、忽ち不都合を生じて禍の源因となるべし。
 ~中略~
差図の世話は厚きに過ぎて保護の世話の痕跡もなきものなり。諺にいわゆる大きにお世話とはこの事なり。 ~中略~
5升の御救米を貰うて三升は酒にして飲む者なきに非ず。
禁酒の差図も出来ずして漫(みだり)に米を与うるは、差図の行き届かずして保護の度を越えたるものなり。
諺にいわゆる大きに御苦労とはこのことなり。

福沢 諭吉 (著)
学問のすすめ
岩波書店; 改版版 (1978/01)

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

  • 作者: 福沢 諭吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/01/17
  • メディア: 文庫

 

千金も一時の歓を結び難く、一飯も竟(つい)に終身の感を致す。


蓋(けだ)し愛重ければ反って仇となり、薄極まりて翻(かえ)って喜びを成すなり。


           洪自誠 

              守屋 洋 (著), 守屋淳 (著)

              菜根譚の名言 ベスト100

              PHP研究所 (2007/7/14)

              P127

せっかく大金を与えても「ありがとう」の一言すら聞けない場合もあるし、
いちど飯を恵んだだけで、一生感謝される場合もある。
思いやりも、度が過ぎれば反感を買い、わずかな施しでも、心から喜んでもらえる場合もあるのだ。

 

菜根譚の名言 ベスト100

菜根譚の名言 ベスト100

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2013/02/01
  • メディア: Kindle版

 

 

 

P74
アドラー心理学では「これは誰の課題か」といういい方をします。
誰の課題かは最終的に誰が責任を引き受けなければならないかを考えればばかります。 あるいは、ある選択の結末を誰が最終的に引き受けるのかを考えればわかります。
 たとえば、勉強は誰の課題かといえば子どもの課題です。 勉強が子どもの課題であるとすれば、いきなり「勉強しなさい」と親がいうことは 、子どもの課題に踏み込んだことになり、子どもとの衝突は避けることはできません。
他方、子どもが勉強をしないことが気になるとすればそれは親の課題です。
原則的にいえば人の課題を引き受けることはできませんし、 自分の課題を他の人に解決してもらうこともできません。
~中略~
これは誰の課題、これは誰の課題というふうに課題をきちんと分けていかなければなりません。これを「課題の分離」といいます。
 頼まれてもいいないのにこちらが勝手に判断して、相手は助けを必要としているであろうと考えて手出し口出しをしないということです。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
岸見 一郎 (著)
KKベストセラーズ (1999/09)


アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

  • 作者: 岸見 一郎
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 1999/09/01
  • メディア: 新書

 

宝満山 太宰府市

孝悌の道ををしゆべし

  いとけなき時より、孝弟の道を、もつぱらにをしゆべし。
孝弟を行ふには、愛敬の心法をしるべし。愛とは、人をいつくしみ、いとをしみて、おろそかならざる也。
敬とは、人をうやまひて、あなどらざる也。父母をいつくしみ、いとをしみて、おろそかならざる也。
~中略~

 およそ愛敬二(つ)の心は、人倫に対する道なり。
人にまじはるに、わが心と顔色をやはらげ、人をあなどらざるは、是善を行ふはじめなり。わが気にまかせて、位におごり、才にほこり、人をあなどり、無礼をなすべからず。

和俗童子訓 巻之二 
総論 下

養生訓・和俗童子訓
貝原 益軒 (著), 石川 謙 (編さん)
岩波書店 (1961/1/5)
P225

養生訓・和俗童子訓 (岩波文庫 青 10-1)

養生訓・和俗童子訓 (岩波文庫 青 10-1)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2024/12/02
  • メディア: 文庫

 

竈門神社 太宰府市

2026年6月16日火曜日

マイナス思考からの脱却法

 神経的のくだらぬ心配は健康上大害がある。
これを除くには学問を立脚地として、
精神修養の功を積むほかはない。
「渋沢栄一訓言集」立志と修養

渋澤 健 (著)
巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」
講談社 (2007/4/19)
P130

巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」 (講談社BIZ)

巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」 (講談社BIZ)

  • 作者: 渋澤 健
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/04/19
  • メディア: 単行本

 


 ポジティブ心理学の創始者のひとりである故フィル・ストーンは、私にとって教師以上の存在でした。
1999年にフィルは私を第1回ポジティブ心理学サミットに連れていってくれました。学会2日目は、9月のありふれた一日でした。空はいくぶん曇りがちで、風はさわやかでした。午前中の講演の後、フィルは「歩きに行こう」と私を誘いました。
「どこへ?」と私は尋ねました。「ただ歩くのさ」と彼は答えました。
 これは私がそれまで学んだ中でもっとも重要な教えのひとつでした。
 外へ歩きに出かけましょう。ただゆっくりと時間を過ごすという以外には何も目的をもたずに。そして、この世界の豊かさを味わい尽くしましょう。
町の鼓動、村の静けさ、海の広さや森の生命力を感じ取る時間をとりましょう。
 ただ歩くことを習慣にしてください。

ハーバードの人生を変える授業
タル・ベン・シャハー(著), 成瀬 まゆみ (翻訳)
大和書房 (2015/1/10)
P147



ハーバードの人生を変える授業

ハーバードの人生を変える授業

  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2014/03/07
  • メディア: Kindle版

P74
 失敗した―と思うことは、仕事でも、人間関係でも、人生全般に、必ず起こります。
 大事なのは、そこで凹(へこ)まないこと。けして自分を否定しないことです。
 しかし、「判断」という心の反応は厄介なもので、すぐに「評価を下げたかも」「自分は向いていない」「なんてダメな人間なんだ」と。自分を責めてしまいます。
 人によっては、コンプレックスや挫折感、「生きている価値がない」とまで、思い詰めることさえあります。今の時代には、多くの人が自分を否定して苦しんでいます。

P76
  では、どんなときも自分(相手)を否定しないためには、どうすればいいでしょうか。
~中略~
  それは、①一歩、一歩と外を歩く、②広い世界を見渡す、③「わたしはわたしを肯定する」と自分に語りかける、という方法です。

P77
①一歩、一歩と外を歩く
 一つは、すぐに外に出ること。散歩することです。一時間でも、二時間でも、歩けるところまで、歩いてみてください。
 このとき肉体のキャッチする「感覚」に意識を向ける(感じ取る)ようにしてみましょう。仏教が教える「感覚が生まれる場所」は五つあります―目・耳・鼻・口・肌・―です。その一つにひとつに、これまで以上に意識を向けてください。
 たとえば朝、昼、夜と、時間帯によって、空の色も、街の光も、木々の緑や流れる川の色も、違って見えるはずです。今この瞬間に、世界はどう見えるのか―目を見開いて、視覚をフルに使って、よく観察する(見つめる)ようにしましょう。
 鼻先から入ってくる空気の匂いも、濃密さも、季節や一日の時間によって違います。
~中略~
 今たしかに存在するのは、「感覚」です。さっきまでアタマを占領していた「苦悩」は、この瞬間にはありません。「もうひとりの自分」「もう一つの人生」が、ここにあります。
あなたはすでに、これまでとは違う新しい人生を”生きている”のです。
~中略~
 あの比叡山では「千日回峰行」といって、毎日三〇キロから八〇キロメートルにわたる距離を、足かけ七年かけて歩きつづける修業があります。
「自己否定を抜けるための散歩」も、一つの修業です。修行という言い方が重たければ、「練習」「実践」「生活」「心がけ」というのは、どうでしょうか。
どれくらいの期間歩けばいいのか、決まった答えはありません。でも、ただ歩けばいいのですから、難しくありません。何か月でも、何年でも、自分を否定する判断が消えてなくなるまで、散歩しつづけてみるのです。
~中略~
 ②広い世界を見渡す
 外の世界を見渡せば、いろいろな人が生きています。実は、あなたを「否定」してくるような人間は、自分が思っているほど多くはいないものです。
 買い物途中の親子づれや、街角の交番のおまわりさんや、お店で働いている店員さんたちを、眺めてみてください。外で見かける人はみな、それぞれの日常を生きています。道を訊ねてみれば、驚くくらいに親切に答えてくれることでしょう。
 世の中には、たくさんの、心優しい人、良心的な人がいるものです。
 人を否定するという発想すらなく、毎日を一生懸命生きている人が大勢います。
~中略~
 ③「わたしはわたしを肯定する」
 「自分を否定しない」もう一つの方法は、「ただ肯定する言葉」をかけることです。「わたしはわたしを肯定する」と、自分に言い聞かせてみましょう。
 この「肯定する」という言葉は、世間でいう「ポジティブ・シンキング(積極思考)」とは違います。
 よく「自分はできる」とか「日増しに良くなっている」というようなポジティブな言葉を自分に語りかけよう、という話を聞くことがあります。
 たしかにこうした言葉が、「暗示」として効くことはあると思います。しかし、前向きな言葉があまりに「現実」とかけ離れていると、心が「ウソ」を感じ、効かなくなってしまいます。~中略~
 仏教は、「正しい理解」を基本にすえるので、現実と合致しない言葉がけ(ある意味、妄想)というのを、当てにしません。
「こうなったらいいな」という”方向性”は考えますが、それはあくまで将来のこと。それだけなら、妄想の領域です。
 問題は、今自分を否定してしまう判断を、どう止めるかなのです。そのためには、判断そのものを停止させる、シンプルな言葉のほうが効きます。
それが、「わたしはわたしを肯定する」という言葉です。

P84
 以前、私が修業した禅寺で、ある朝、若い修行僧が、寝坊して勤行に遅れてきたことがありました。本人は「坊主失格だ・・・・」と落ち込んでいましたが、その寺の和尚は
「バカもの、今だけを見よ(喝)!と叱り飛ばしていました。
 この和尚の理解は、正しい理解です。
「過去を引きずる(過去を理由に今を否定する)」というのが、それ自体、心の煩悩、邪念、雑念なのです。
 人生に、あやまち、失敗はつきものです。ただ肝心なのは、そのとき「どう対応するか」なのです。
 落ち込まない。凹まない。自分を責めない。振り返らない。悲観しない。
 それより、今を見すえて、正しく理解して、「すみませんでした」と率直に謝りましょう。それも含めて、もう一度、新しくやり直すのです。

 過去の汚れを捨てて、新たな汚れを作らない。
 智慧にめざめた人は、思い込みから自由になって、自分を責めることをしない。
 心の内側も、外の世界も、よく理解するがよい。
 ただそれによって自分の価値を測ってはならぬ。
 その想い(判断)は、よろこびにつながらないからである。
 「自分は優れている」とも、「劣っている」とも、「等しい」とも判断するな。
 さまざまな言葉を受けても、自分の価値を判断しないようにせよ。
 さまざまな煩悩(評価・計らい・判断)が消滅した境地こそが、よろこびである。
 その者は、すでに勝利している。他者に負かされることは、もはやない。
                    ―スッタニパータ〈論争について〉〈速やかな成就〉の節

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

  • 作者: 草薙龍瞬
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2015/07/29
  • メディア: Kindle版
禅定寺 京都府

禅というもの

P108
それで(住人注;仏教の)形式主義というのはその一方を代表している。それに反対して達磨が出て来た。
そしてこの達磨が出て来たということは形式主義でなくして、今度は精神主義、主知主義でもなく論理ということでもなくて、論理以外のところに、人間生活のいきた原理を捉えなければならぬということを示したものである。その主張がすなわち禅なのである。

P109
この達磨というものが、いかにそのころの形式主義、主知主義に反対したものかということが明らかである。禅宗の方では、教外別伝、不立文字ということを唱えるであろう。これはちょうどその形式主義の裏、その主知主義の裏を唱えたのである。
 そこでこの教外別伝、不立文字ということを、今日の哲学者、宗教者の使う言葉をもって言うと、神秘的経験ということである。
教えの外に別に伝えたというので、いろいろと別な教えはないけれども、そういうものによらないで別に釈迦の精神を伝える。それを神秘主義と言うのであるが、それを教外別伝、不立文字という言葉で言い表したのである。
これを達磨が伝えたということになる。

P111
 禅というのは、すなわち神秘的経験ということである。神秘的経験とはどういうことになるかというと、人の心の働きには理屈で説くことのできない一つの経験がある。
その経験というものを経て来なければ人間というものの生命がのらぬ。形式になってしまう。その経験にふれたならば、形式そのものさえも変わって来る。そして生命が流れる。その経験ということのみに力を集中してかかろうというのが禅である。
禅宗というものはお経を頼らぬ、教外別伝というので禅宗は経典を無視したものである。

P114
そこで一方に論理的なものがなければならぬと同時に、一方には主観的神秘的経験というものがなければならぬということは、また当然の帰結なる。
これが両々相まって行かねばならぬ。が、両方がいつも並行して行くものでない。
そこでいずれを重んずるかというと、結局のところは、やはり、自分が出発点となり、合わせて帰着点となるのである。つまりはそれ自身本来の性質の傾向、すなわち主観に決することになる。
したがって禅の極致は、心理的方面になければならぬ。すなわち神秘的体験の上になければならぬということである。
それで禅宗とは、どんなものかというと、これは哲学では断じてない、その基礎は心理学の上におかれているものと言ってよい。
この心理的体験というところに、禅の生命がある。これが禅の根本である。それがすなわち教化ということである。
もう一度言うと、禅はいつも自分に戻るということになる。

P116
つまりわれわれの心というものは、自覚しているだけでなくして、その心の働きというものは、自分が思っているそれ以外のところにまで働いて行くものだということなのである。
それゆえ、いつも自分のこうと自覚している範囲だけに、意識が限られているのではなくして、ずっと、その上に、その下に広がっているというのである。

P121
公案は表面、論理に陥るようであるけれど、畢竟は心理的な結論で、それで落ち着くものと私は思う。
われわれのこの心理的、神秘的体験を、言葉に言い現わすというときに、公案となって出る。
公案というものは論理から出てきたものでなくして、われわれの心理的体験から出たものである。それをするには、意識の上に現れているところの、すべてのものを斥けてしまって、そしてその下に突き込んで行くことができるときに、その体験が生ずるのである。
それで禅は論理の上に基礎をおくというよりも、心理的に進んで行かなければならぬと信ずるのである。

P224
自覚聖知ということは、どんな意味か。それは自分で体験するということである。人から教えられないで、自分でやるということである。
自分でこうだと、一つのことに気がつく、これが禅宗の根本である。
それが楞伽経(りょうがきょう)の自覚聖知ということを、本に立てているゆえんである。
体験を重んじで、理屈は重んじない。自覚というところに、禅宗の落ち着くところがあるであるから、それを哲学とか、心理学という風に言うならば、楞伽経はなくてもいい。他の経でさしつかえないのである。楞伽経でなければならない。ことに達磨が楞伽経を持ちだしたというのは、この自覚聖知にあるということになるのである。

禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 鈴木 大拙
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: Kindle版

 

禅定寺 京都府