山伏は、大日如来の化身は不動明王とし、不動明王の化身は、自分たち山伏としたのである。
山伏特有の理論と発想は、奇妙なようにもみえるが、そこには宇宙自然、そして神と仏といった、いわば超宗教的な自然信仰に基盤にもち、他の宗教にみられない、独自な哲学理念を持っていたのである。
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P8
山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2021/07/01
- メディア: 単行本
平安末期から幕末までの社会で、修験者(山伏)は特異なものであった。有髪(うはつ)で、ひたいに兜巾(ときん)をいだき、鈴懸(すずかけ)の衣を着、法螺をたずさえ、錫杖(しゃくじょう)や金剛杖をもち、諸国の霊山にのぼるのだが、諸国のうちとりわけ吉野の金峯山が根本道場だった。吉野群山のうちのひとつの玉置山三所権現は当然かれらの根城のひとつで、十津川郷が中世以来、都の政治情勢にあかるかったのほ、玉置山に出入りする修験者によるものだったかと思われる。
修験者のもたらす情報が公家方に偏り、武家方に薄かったであろうことは、多少の傍証がある。
このことは歴世の十津川郷の政治的性格を公家方へ方向づけることに、あるいはかかわりがあるかもしれない。
本来、修験道という山岳信仰は、太古の信仰に源流があるであろう。奈良朝のころその教祖的存在だった役(えん)ノ小角(おづね)にしても原始信仰のほかに多少の仏教的知識と雑密(ぞうみつ)的な呪法をもっていた。
それが平安期になって、天台宗と真言宗の両派を吸収してゆくのだが、組織としては天台宗は聖護院門跡、真言宗は醍醐の三宝院門跡がそれぞれこれを統括した。
門跡とは僧形(そうぎょう)の宮廷人(親王・公卿)だから、山伏(修験者)はいわばそういうひとびとの野にある家来といっていい。
街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)
P167

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