2025年1月11日土曜日

代替医療を疑え

P184
ひとことでいうと、これまでの治療成績のデータに基づいておこなわれている医療が標準医療で、それ以外のものが代替医療です。
「がんにおける代替医療とその生存に対する影響」と題された論文が、エール大学の研究チームから発表されました。(JNCI,2018)。
JNCIというのは、米国国立がん研究所によるがん研究分野での一流雑誌です。けっこう大きく報道されたその内容は、代替医療だけを受けた人の死亡リスクは、標準医療を受けた人の2.5倍というものでありました。
~中略~
 ただし、少し注意が必要なのは、その論文は、代替医療だけを受けた人についてのデータとの比較である、というところです。
標準医療に代替医療を組み合わせたものは「統合医療」、それから標準医療に組み合わせて使う代替医療は「補完医療:と呼ばれます。こういったケースと、代替医療の単独治療のケースは区別して考える必要があることはいうまでもありません。
ひっくるめて考えると、少なくとも代替医療だけに頼るのはやめといたほうがよろしい、ということになります。

P186
 標準医療と代替医療の違いは、医学的な裏付けがあるかどうか、すなわち、治療についてのエビデンスがあるかないか、です。研究が進んで、代替医療とされていたものが標準治療に格上げされることは、当然ありえます。
なので、すべての代替医療が絶対に効かない、と断定するのはきわめて困難です。しかし、がんのように放置すると死に至る可能性が高い病気において、エビデンスのない治療法に身をゆだねるのは、あまりに危険すぎるとは思われませんか?
ほかに治療法がないと診断されたので代替医療を、という人もおられるかもしれません。その心情が理解できない訳ではありません。しかし、ほとんどの医師は、たとえ自分がそのような状況になったとしても、代替医療に大枚をはたいたりしないでしょう。

P187
その本(住人注;アルトゥール・ガワンデというハーバード大学教授の「死すべき定め―死にゆく人に何ができるか」(みすず書房))では、末期のがん患者の場合、緩和ケアをしっかりうけるようにした方が、抗がん剤などの治療を中止するタイミングもホスピスに入るタイミングも早くなった、そして、臨終の苦痛が少なかった、という研究が紹介されています。
でも、そんなことをしたら寿命が短くなってしまったのではないかと思われるかもしれません。わたしもそんな気がします。しかし、実際は逆で、平均25%も長生きしたというのです。
末期がんで代替医療に身をゆだねるよりも、心の平穏が得られるし、この方がはるかにいいと思うのですが、いかがでしょう。

(あまり)病気をしない暮らし
仲野徹 (著)
晶文社 (2018/12/6)

(あまり)病気をしない暮らし

(あまり)病気をしない暮らし

  • 作者: 仲野徹
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2018/12/06
  • メディア: 単行本

2025年1月10日金曜日

自己決定権は自己責任

考えてみると、こういう患者発信の本が、現代ほど必要な時代はありません。
なぜなら、現代の医療は、以前の「先生にお任せ」といった医者中心の医療ではなく、患者が自分で治療法などを選択しなくてはならない変革期だからです。
患者の自己決定権を大切にする医療へと変化してきているからです。
でも、私たち日本人は、長い間「お任せ」医療の中にいましたから、「自分で決めなさい」と言われても、おたおたするばかり。

 市場に出回っている医者の側から発信されたガン関係の本の多くは、病状や治療法であり、知識の吸収にはすこぶる有益。
でも、患者は実はそれらとは次元の違う実際的なことで悩んでいるんですね。
病院はどうやって決めたらいいのか?手術ってしなくちゃいけない?手術するとしても、執刀医の腕は信じられる?看護師の態度に傷ついちゃうけど、仕方ないの?
手術する入院の時の病室は個室にしたほうがいいのか?
 患者は、こういう現実的な問題で困惑しているのです。

大学教授がガンになってわかったこと
山口 仲美(著)
幻冬舎 (2014/3/28)
P9

大学教授がガンになってわかったこと (幻冬舎新書)

大学教授がガンになってわかったこと (幻冬舎新書)

  • 作者: 山口 仲美
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: 新書

2025年1月9日木曜日

医師の見識

(住人注;余命)「あと、どれくらいですよ」というのは、明らかに統計学ですから、何例中何例という話です。
これは大体、偏差値の高い人たちが好きなんですよ。たくさん集めて平均したらこのくらいだと。もちろん統計にも幅がありますから、短めのところはこのへんで、長めのところはここだと。
いま玄侑さんの話のように、家族に聞かれた時にお医者さんは、その話をしているわけです。
だけどガンの患者さんは、一人ひとりが全部違うわけですから、他人の集まりの、しかも気候も風土も生きてきた歴史も違うものを集めて統計で作ったものを、個人の患者さんに当てはめるというのは、尺度が違う場面のほうが多いわけですから軽々にいってはいけないところがあるわけです。

しかし、通常は家族などがある範囲の誤差を承知の上で聞きたいというケースもありますので、その時に医師の見識が大切になります。
だから私が常にいうのは、ガンの患者さんを統計学的に診てはいけない、一人ひとり全部違う病気を考えることが大切で、一人ひとりが、いつもすべて新しいわけですから、全力投球しないといけない。
だからといって、「先生、あとどのくらいでしょうか」といわれた時に「一例一例違うのに、分るわけないじゃないか」とはいえない。
それでは「統計学的にはこうですよ」という話をしたらいいのかというと、そうでもないですよね。

そこのところは、お医者さんの人間性というかね。
坪井栄孝 

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P127

多生の縁 玄侑宗久対談集

多生の縁 玄侑宗久対談集

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2004/03/24
  • メディア: 単行本

 

2025年1月8日水曜日

イヌ

イヌがヒトを咬んだりすれば飼い主が責任を問われる。
だから紐でつなぐ。イヌは外からの危険を知らせたり追い払ったりする存在だったが、おかげでなんのためにヒトがイヌを家畜化したのか、わからなくなった。
だから中山間地域では鳥獣害が問題になる。イヌがいないんだから、当然であろう。クマもイノシシもサルも、あるいはタヌキもアナグマも、畑に喜んで出てくる。作物のほうが野生のものより栄養価が高く、美味に決まっている。そこにヒトと動物の違いはない。
 イノシシが来ないように、電気柵を設ける。シカはそれを跳び越すので、二メートルを超える金網を張る。それでもサルが上るので、漁網の古いのを横全体に張る。子ザルが網に引っかかって、動けなくなるらしい。あとは上空から侵入してくるカラスだけである。そこも網を張るしかないであろう。
ヒトがなぜイヌを飼うようになったのか、現代日本社会、たとえば鳥獣害を見ていると、しみじみわかる。そこでイヌを放すと、保健所が捕獲に来ることになる。ご苦労様というしかない。

遺言。
養老 孟司 (著)
新潮社 (2017/11/16)
P185

遺言。(新潮新書) 「壁」シリーズ

遺言。(新潮新書) 「壁」シリーズ

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/11/24
  • メディア: Kindle版

2025年1月7日火曜日

朝鮮民主主義人民共和国


佐藤 北朝鮮に送金できるようになると、その金で何をやるか。北朝鮮は安全保障をリアリズムで考えています。
リビアのカダフィ大佐の教訓から学んでいる。それからイランやイラクの教訓からも学んでいます。
要するに、下手に出ても、核を持たなければ、つぶされるということです。
アメリカに到達する弾道ミサイルをもつことが、アメリカからの安全保障をとりつけるための唯一の方策だというのが、今の金正恩政権の発想です。

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方
池上 彰(著), 佐藤 優(著)
文藝春秋 (2014/11/20)
P157

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2014/11/20
  • メディア: 単行本

2025年1月6日月曜日

日本での茶

 日本での茶の資料の初見は、弘仁六年(八一五)の「日本後記」で、崇福寺の大僧正永忠が嵯峨天皇に茶をたてまつったとある。
また日本に将来された茶は宮廷儀礼のなかでわずかに命脈を保ったが、まさに消滅しようとしたとき、栄西禅師によって茶の種が日本に蒔かれたとされる。
 そして明恵上人によって宇治に茶畑の開園を行ったという。ところで、、栄西は九州の今の佐賀県神埼郡東背振村にある背振山に茶を蒔いたという。この背振とは、修験活動の一拠点で、茶の伝播は修験者たちの動的行動性に負うところが大きいであろう。
 求菩提山では、永禄六年(一五六三)には京都聖護院に進物として送っている。「芳茗五十御進上尤珍重云々」とあり、「芳」とは香り高い、「茗」は茶で、珍重されたことがわかる。
 また当時の戦国大名、大内、大友、黒田、細川氏なども茶を進物として送っている。大名たちへの進物の時期が、ほとんどが年頭の新年あいさつのとき、必ず御祈祷の巻紙を一枚そえて、茶を五〇袋、または三〇袋を送っている。これをみたとき、茶が単なる珍重ということだけにとどまらず、長寿的な正月の寿をもつものであったことが分かる。したがって、まだ茶は薬呪的な要素がみうしなわれちなかったものと思われる。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P151

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 作者: 重松 敏美
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 1986/11
  • メディア: 単行本


世界遺産 栂尾山 高山寺 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町
求菩提山 福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田

2025年1月5日日曜日

出雲民族

P224
  話は枝葉へゆくが、その一例をあげよう。いまから数年前に、私は島根県の地方紙の元旦号を読んだ。その新聞の元旦号もそうであるように、全面広告の欄がある。
しかし、私のみた欄は、ありきたりな商品広告ではなかった。年賀広告なのである。
県知事および地方自治団体の首長が、県民のみなさんおめでとう、と呼びかける年賀あいさつなのだ。

 ことわっておくが、これも新聞広告の慣例として、めずらしいことではない。どこの新聞でもやることだが、島根県の新聞のばあいはすこしちがっていた。
たしか、紙面の上十段のスペースに正月らしく出雲大社のシルエットがえがかれ、「謹賀新年」と活字が組まれ、そこに、ふたりのひとの名前が出ていた。

ひとりは、とうぜんなことだが島根県の知事田部長右衛門氏の名前である。それにならんでもうひとつの名があった。「国造、千家尊祀(せんげたかとし)」という。われわれ他府県人にとって、これは「カタリベ」の存在以上に驚嘆するべきことである。

 これは化石の地方長官というべきであろう。出雲では、他府県と同様、現実の行政は公選知事が担当するが、精神世界の君主としてなお国造が君臨しているのである。

 

P229

話の解釈はどうでもよい。いずれにせよツングース人種である出雲民族は、鉄器文明を背景として出雲に強大な帝国をたて、トヨアシハラノナカツクニを制覇した。

その何代目かの帝王が大己貴命(おおなむちのみこと)(以下大国主命という)であった。
そこへ、「高天ガ原」から天孫民族の使者が押しかけてきた。国を譲れという。いったい、天孫族とはナニモノであろう。おそらく出雲帝国のそれをしのぐ強大な兵団をもつ集団であったにちがいあるまいが、ここではそれに触れるいとまがない。とにかく、最後の談判は出雲の稲佐ノ浜で行われた。
天孫民族の使者武甕槌命(たけみかずちのみこと)は、浜にホコを突きたて、「否(いな)、然(さ)」をせまった。
われわれはここで、シンガポールにおける山下・パーシバルの会談を連想しなければならない。

出雲民族の屈辱の歴史は、この稲佐ノ浜の屈辱からはじまるのである。出雲人の狷介(けんかい)な性格もこの屈辱の歴史がつくった、とW氏はいう。

 話は枝葉に多すぎるようだが、しばらくがまんしていただきたい。
 この国譲りののち、天孫民族と出雲王朝との協定は、出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないということであった。
哀れにも出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに住んだ。三輪氏の祖がそれである。
この奈良県という土地は、もともと、出雲王朝の植民地のようなものであったのだろう。神武天皇が侵入するまでは出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ない。
滝川政次郎博士によれば、この三輪山を中心に出雲の政庁があったという。
神武天皇の好敵手であった長髄彦(ながすねひこ)も出雲民族の土酋(どしゆう)の一人であった。~中略~
 むろん、長髄彦の年代(?)は、古墳時代以前のものであるから妄説に過ぎまいが、大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい(現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神(おおみわ)神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。
かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先きや」という。
かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫


大神神社 (おおみわじんじゃ) 奈良県桜井市三輪

P82
 出雲おんなというのは、性的魅力がある点で古来有名である。京の公卿は、平安時代から、女は出雲、として、そばめとして京へ輸入した。いわゆる京美人は出雲おんなが原種になっている。
 出雲おんなは、美人というよりこびが佳(よ)い、と古書にある。歌舞伎の元祖といわれる出雲のお国が、出雲女性の舞踏団をひきいて、戦国中期の京にあらわれ、満都の男性を魅了したのも、出雲おんなの佳さが、すでに天下の男性の先入観念にあったからだ。
~中略~
 彼女らは、ひと革の眼が多い。
 顔の肉がうすくて、ややおもながであり、男好きがする。
 彼女らの顔は、出雲の地下から出土する弥生式の土器と同じ系列のものだ。それらの土器は、朝鮮、満州、蒙古から出土するものとほぼおなじものとみられている。
出雲女性の血には、ツングースの血がまじっているのであろう。

P84
 この神武天皇が、葦原中国を征服したとき、さっそく女房をもらった。
 その女房の名は、媛蹈鞴五十鈴姫というのだが、名というより美称だろう。
~中略~
 この姫は、出雲王朝の皇帝事代主命(ことしろぬしのみこと)のむすめで、天孫族と出雲族の融和のためにはるばる出雲の地から大和へとついできた。政略結婚である。
 とはいえ、古代的英雄である「神武」という征服王が、その男性的気質からみて、たんに政略だけで女房をえらぶまい。やはり当時から、男どものあいだで、「おんなは出雲」という定説があったように想像する。
(昭和36年12月)


司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)

 

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫


P254
 出雲飯石郡吉田村は、地図の上では虫眼鏡で見てやっとわかる程度の地名にすぎないが、この村に、中国山脈のほとんどを所有しているといわれる大山林地主の田部(たなべ)長右衛門家が存在することで、その方面の学者の世界では高い知名度をもっている。
 出雲―というより中国山脈―は古代から中世、近世にかけて、さらには明治期に及ぶところの砂鉄王国であった。 
 中国山脈は、良質の砂鉄を蔵しているが、山陽側よりも三陰側のほうが質が良く、とくに出雲国がよい。田部家は中世末期に紀州田辺から出雲に移り、やがて最大の砂鉄業者になった。
 ~中略~ 田辺家は江戸期から明治にかけて大いに稼働した。その結果として中国山脈のほとんどを所有するはめになった。戦後の農地解放では山林が除外されたから、田部家は日本最大の山持ちになった。(もっとも田部家をはるかに凌ぐ山林地主は天皇家のはずであったが、こんにち国有林のうちのどのくらいがいわゆる「御料林」なのか、それについて公表された数字を私は知らない)。
 田部家の当主の長右衛門氏が、昭和二十年代から何期か、島根県知事になった。自分でなりたいと思ってなったものではなく、適当な人がなかったために、推されてほとんど無競争で選出されたちというのが実情だったらしい。
 出雲は古い国である。神代から途中の中間がなくていきなり現代がある、というような言い方をする人もある。こういう土地だから、田部家より古い家系が幾軒かあって、たとえば神話の国譲りの家系伝説をもつ出雲大社の千家家(せんけけ)・」北島家などはその最たるものとされている。
~中略~
出雲を古代に支配した家と、新憲法下の公選知事が連名で県民にあいさつしているというのも、なにやら
縹渺(ひょうびょう)としていて出雲的だが、その知事さんが中世以来の砂鉄の家で、中国山脈を山脈ぐるみ持っているというのも、中世がそのまま続いているみたいで、これも出雲的といえるかもしれない。

P258
 田部氏は、おっとりとしたその風貌にすれば意外なほど早口である。さらに話されているうち、どこか凄味があって、とても殿サマや公卿サンのような感じではない。
そのように言うと、我が意を得たりといったふうに笑って、
「出雲には、私の家だけじゃなく、こういう仕事の家が十指を超すほどありました。それらは普通、タタラモンとよばれていまして、決して上品なもんじゃない」
 といった。
 田部家が宰領してきたような採鉱冶金の現場は「山内(さんない)」とよばれ、鉄師(かねし)である田部家を首領とする一国のようなもので、江戸初期から幕府公認による独特の法と慣習がおこなわれていて、犯罪者なども鉄師の裁きによって断罪された。
~中略~
「タタラはアラシゴトでしたよ だからぼくなんぞは、山賊の親玉のようなもんで」
 と、田部氏は笑わずに言った。


P260
「シマリアイというのをやかましく言いましてね、田部の家はとても節倹な家風で、たとえば私の子供のころなどは昼に茶を用いない、ということになっていました。茶のかわりに御飯の釜底の焦げに湯をかけてのむのです」
 さらに、
「(田部家が)長く続いたのは、こんな不便なところに本拠を据えていたことと、それに、シマリアイで、万事質素にやってきたからでしょう」

P264
 田部家がこの菅谷に製鉄(タタラ)場をすえたのは大阪夏ノ陣のあった元和元年(一六一五)年であった。
菅谷タタラは江戸期いっぱい稼働し、明治後もつづき、一般に砂鉄製鉄が西洋式の製鉄にとってかわられたあとも独りここだけは稼働していて、大正十二年にその長すぎるほどの歴史の幕を閉じた。その間三百余年である。工場の歴史としては日本でもっとも古い。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)



 

街道をゆく (7) (朝日文芸文庫)

街道をゆく (7) (朝日文芸文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1979/01/01
  • メディア: 文庫


出雲大社 島根県出雲市大社町杵築東