2025年7月30日水曜日

夜ばい

P78
後藤 ほんとにかわりましたのう。夜ばいもこの頃はうわさもきかん。はァ、わしら若い時はええ娘があるときいたらどこまでもいきましたのう。美濃の恵那郡の方まで行きましたで・・・・。
さァ、三、四里はありましょう。夕ハンをすまして山坂こえて行きますのじゃ、ほんとうに御苦労なことで・・・・。
  わしら若い時ゃ 恵那までかようた 恵那の河原で夜があけた
という歌がありますが、ほんとであります。女の家へしのびこうで、まごまごしていると途中で夜があけたもんです。
 すきな娘があったかって?そりゃすきな娘がなきゃァ通わないが、なァに近所の娘とあそぶだけではつまらんので・・・。無鉄砲なことがしてみたいので。
金田茂 今の言葉でいうとスリルというものがないと、昔でもおもしろうなかった。はァ、女と仲ようなるのは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい。~中略~
みなそうして遊うだもんであります。ほかにたのしみというものがないんだから。そりゃ時に悲劇というようなものもおこりますよの、しかしそれは昔も今もかわりのないことで・・・・。

P97
この村に言いごとのすくないのは、昔から村が貧乏であったおかげでありましょう。とびぬけた金持はなかった。それに名主は一軒一軒が順番にやっております。小作人でも名主をしたものであります。それはいまもってつづいております。今も区長は順番にやることになっております。はい、それはこの村だけでありません。このあたりの村はみなそうでありました。
 そういう風でありますから、嫁どりもそれほど家柄をやかましく言う者はいなかったのであります。まァ親類中に年頃の娘があればそれをもらう事にしておりました。それはなるべく費用がかからんようにということからでありました。
 そうでないものでも、本人同士が心安うなるものが多くて、親は大ていあとから承諾したものであります。はァ、申すまでもなく、夜ばいは盛んでありました。気に入る娘のあるところまではさがしにいって通うたものであります。しかしなァ、みながみなそうしたものではありません。一人一人にそれぞれ性質があり、また精のつよい物もあれば弱いものもある。~中略~
しかし、みな十六、七になると嫁に行きますから、娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。よばいを知らずに嫁に行く娘も半分はおりましたろう。
若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻りの娘の家が多かったのであります。はいはい、よばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。はい、男がしのんでいっても、親はしらん顔をしておりました。あんまり仲ようしていると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。
 さァ、親におしつけられた嫁というものが七十年まえにありましたろうか。この村にはありません。よい仲をさかれたというのはあります。

知らん娘を嫁にもらうようになったのは明治の終頃からでありましょう。その頃になると遠い村と嫁のやりとりをするようになります。おのずと、家の格式とか財産とかをやかましく言うようになりました。それから結婚式がはでになって来たので・・・。・それはどこもおなんじことではありませんかのう。 

忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/04/20
  • メディア: Kindle版

岐阜県 白川郷

女帝の不文律

 第一に、女帝は例外なく歴代天皇の男系の子孫であると指摘できる。女系子孫や外部から嫁いで来た女性が天皇になったことはない。~略~
 そして第二に、先帝の皇后が女帝になることを原則としている。まさに推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇は皇后であった。~略~
 また第三に、女帝はいったん即位すると、結婚した例も、出産した例もなく、これらを禁止した不文律が成立していた点を指摘しなくてはいけない。
女帝は、在位中はもちろんのこと、退位した後も未婚の立場を貫き通さねばならない運命にあった。~略~
 そして第四に、女帝の係累は側位することができないことが指摘できる。元来女帝の擁立は、皇位継承を巡る政治的緊張を緩和させるのが趣旨であり、女帝の息子に皇位継承権があるならば、決して緊張緩和にはならなかったことからも明らかである。 女帝とはその係累の皇位継承を事実上否定された天皇であった。

 また、女帝は通常の天皇とは区別されていたことは注目すべきである。女帝を「中天皇(なかつすめらのみこと)」 と称して区別したことや、泉涌寺(京都市東山区)に江戸期の歴代天皇の肖像画が保存されているが、女帝の肖像画だけがないこと、そして本来天皇が成人すると、摂政(天皇に代わって政務を行なう役職)は関白(天皇の政務を補佐する役職)に置き換えられるのだが、江戸時代の女帝には、天皇の成人後も摂政が置かれ続けたことが挙げられる。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
竹田 恒泰 (著)
小学館 (2005/12)
P50

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」

  • 作者: 竹田 恒泰
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/12
  • メディア: 単行本


奈良県 平城宮跡

2025年7月29日火曜日

四国は尾根でつながっている

P123
龍馬追跡に終止符を打った私たちは松山市を目指した。檮原町の中心地から松山市までは国道四四〇号を経由し、国道三三号で約二時間。山間を貫く高架やトンネルが舗装され、快適だ。山の中腹に小さな集落がいくつも点在している。
「あんな山奥にも家があるんだなぁ」と不思議そうにいう。
稲作を中心に生活が組み立てられる日本列島の農村は、川を軸に形成されている。川岸を上がると道があり稲田があり、畑があって山際に集落、そして森がある。山奥は野獣や山賊、天狗の領域だから、里人は恐れてめったに入らなかった。
 ところが四国山間地においてはこの領域が度々、逆転するのだ。
「四国の山は尾根でつながっているので、尾根道を縦走できるという特徴があるんです」
と私は正面の山を眺めながら説明した。
 尾根道が主要道で、尾根の枝道に沿って下ってゆくと集落があるのだ。
 集落はおよそ山の中腹にあり、周りはかつて焼き畑が広がっていた。住民ははるか谷底の川まで降りることはなかったという。
つまり、人と情報の出入り口は川ではなく、尾根なのだ。
「いったい、どういうわけだんだね」としきりに首をひねっている。
「稲作に依存しない社会の姿なんですよ」と私は答えた。
 焼き畑とは森を焼いて麦やアワ、ヒエ、ソバ、トウキビなどの穀物を育てる農業で、稲作よりも古く、アジアの熱帯雨林や照葉樹林で広く行われてきた。
「高知県と愛媛県境の山中では平成に入るまで続けられていたそうです」
「ほう・・・・」
「どうして川の側に住まなかったんだ?」
「四国山中はV字の深い谷なので午前中は霧がたまり、日照時間が短いんです。集落のある辺りまで上がると明るくて見晴らしがよく、気分がいいですよ。山々が波のように見えましてね、飛んで行ってしまいたくなるくらいです」
P126
 車は国道四四〇号から国道三三号へ合流した。国道三三号は仁淀川上流の久万川に沿ってV字谷の底を縫うように走る。鉛線にほとんど集落はない。
「稲作農耕と焼き畑では人の心も違うのか?」
「稲作農耕地帯は、集団と集団が微妙な力関係でバランスをとりながら社会全体を運営するので、どうしても全体主義というか、封建的になりがちで、人間関係の上下や手続きに敏感なように感じます。ところがもともと焼き畑をしていた地域は家族主義で、人当たりもおおらかな感じがします。が、妙に頑固なところがありまして・・・・」
「狸と狐はそれに置き換えたのかなぁ」と氏はつぶやくようにいった。
「狐は稲作の神だが、稲作は鉄と封建制度を伴って中国大陸から日本列島へ入ってきたんだ。狸はっそれ以前から続いていた森林文化の象徴・・・・、とすると」
P83
 四国にはこんな民話が残っている。
「昔、昔。狸と狐が喧嘩ばかりしていた。そこで弘法大師が狐の一族にいうたんじゃ。瀬戸内海に鉄の橋が架かるまで、四国から出て行け!と」
 四国は弘法大師空海の故郷だ。西日本最高峰の石鎚山から海辺まで、お大師さまの伝説に満ちている。天孫降臨した天つ神系よりも土着の国つ神系の神々を祀る神社が多い。赤い鳥居をくぐると、狐ではなく狸が祀られ、山奥には天狗伝説が息づく。神と仏、狸と天狗が、平然とした表情で共生しているのである。
P128
「(住人注;四国は)尾根道と尾根道の交差点に市場が発達したそうです。そこで種の交換をしていたようです。こうしてより優秀な種が選別されていったのでしょう」
「市は山の上にあったんだな」
「さらに尾根道の交差点を辿りながらどんどん高いところを目指して行くと、西日本最高峰の石鎚山に行き着きます。そこは日本七霊山の一つで山岳修験道の聖地です。七月一日から十日までは全国から参拝者が訪れる石鎚神社の夏季例大祭”お山開き”が行なわれますが、古くは”お山市”といわれたそうです。石鎚山は四国周辺の漁師さんからの信仰もあつく、小山開きは山と野と海の人たちが合流し、交流する機会でもあったのです。海の人たちは銭を山に落とし、山の人たちは茶や薬草、干し柿などを提供しました」
「四国や山陽、北九州などでは十三歳から十五歳になると通過儀礼として村の大人が石鎚山に連れて行っていたそうです。初めて石鎚山に登ることを”初山を踏む”というのですが、男子は初山を踏んで田畑が持てたり、嫁がもらえたそうです」
山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
山折哲雄の新・四国遍路 (PHP新書)

山折哲雄の新・四国遍路 (PHP新書)

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: 新書
樫本さんは、少年の表情にかえっている。
「わしのお祖母(ばあ)さんが、夜、浜へゆくと、海のタヌキが大ぜいで灯をつけて出て来よりましてな」
べつにいたずらはしないが、そんな光景をたしかに見て、孫の樫本さんに話されたという。
~中略~
 四国はキツネの民話がほとんどなく、タヌキばなしで充満している。讃岐の禿狸、伊予の八百八狸、さらに阿波へゆくと、タヌキにも何左衛門とか何兵衛とかという名ある者ががいて、あちこちの山に陣をかまえ、たがいに多数の郎党をひきい、ついには何河原で合戦に及んだりする、淡路は、ナヌキについては濃厚に四国の影響をうけているのである。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P147
街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -
愛媛県 石鎚山

伊豫豆比古命神社

長曾我部(住人注;伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ) 第十四代宮司 長曾我部 延昭氏) 「古事記」ではイザナギとイザナミが最初淡路島、次に四国を生みます。
ここで「四国は身一つにして面四つあり」とあり、現在の愛媛県、高知県、徳島県、香川県に男女神の名が記されているわけですが、愛媛は女神「愛比売命(えひめのみこと)」として登場します。愛比売命の夫が男神伊与主命(いよぬしのみこと)です。
 この夫婦神は一旦、お隠れになり夫婦神「伊豫豆比古命」「伊豫豆比売命」として再臨します。
私どもの神社は夫婦神が巡り合った「居相(いやあい)の地」にございますので、いまも町名は「居相(いあい)」と申します。伊豫豆比古命は第七代孝霊天皇の第三皇子にあたります。


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P180

山折哲雄の新・四国遍路 PHP新書

山折哲雄の新・四国遍路 PHP新書

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2014/12/12
  • メディア: Kindle版

 社家としての長曾我部家は、二十何代かつづいている。
「あの長屋門は、社家としての門ですか」
 江戸時代、門というのは家格の象徴だから許しがなければつくれない。社家の神主はふつう郷士ていどにあつかわれればいいほうだから、すこし大きすぎるように思われた。
「いいえ、医者としての門です。神主であって医者も兼ねていました。私の曾祖父の代までそうでした。漢方ですが」
「藩の医者ですか」
 藩医でも、殿様とその家族を診る者は身分が高く、以下藩士の階級ごとに藩医がいて、足軽の扶持程度の藩医もあり、その藩医の身分によって門の形も変わってくるのです。
 「いいえ、町医でした」
 と、宮司さんはいう。
 町医は、身分は百姓なみえである。その社会生活も、百姓町人と同様、庄屋や町年寄の支配をうけなければならない。苗字を呼称することは黙認されているが、あくまでも黙許であって、つまりは役者の姓と同様、芸名のようなあつかいと考えればよく、正規のものではなかった。だから純粋な町医は門を構えることがゆるされなかった。
 私には、よくわからない。思い直して、
「すると、このあたりの庄屋でしたか」
 と、きいてみた。
 庄屋は百姓側に立っての農村代表だが、その藩でもおおきな長屋門を許している。その理由は、徳川体制になってから身分がひくくなったが、戦国のころは地侍(じざむらい)であった場合が多く、いわば前時代の既得権として、庄屋の門は大きいのである。
「いいえ、このへんの村では庄屋のつぎの家でした」
 といわれる。いよいよわからなくなった。
 ただ町医でも名医の場合、藩がほんのわずかながら名目的な扶持をあたえ、いまでいう嘱託のようなかたちにして士分の待遇をあたえる場合がある。こんにちでも部長待遇や重役待遇の嘱託があるように、藩から上士身分のあつかいをうける町医もありえた。
医者兼社家の長曾我部氏は、あるいはそれであったかもしれない。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P24

街道をゆく14

街道をゆく14

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/10/07
  • メディア: Kindle版

 

42番佛木寺 愛媛県宇和島市

幡多

P136
 宿毛市から足摺岬、四万十市の四万十川流域にかけての地域を幡多といい、土佐や伊予とは一線を画した独自の文化を育んできた。サンフランシスコ講和条約を結んだ吉田茂の実父、竹内綱は宿毛出身の武士で戊辰戦争に参戦後、板垣退助、後藤象二郎らと自由民権運動の闘士として活躍。~中略~
 また綱の長男で茂の兄、竹内明太郎は小松製作所の創設者で、日産自動車の前身、快進社を設立したほか、早稲田大学理工学部を創設するなど、工業立国・日本の礎を築いた。日本人離れした、ともいえる網や明太郎、茂のスケール感は、黒潮の通うこの土地の風土に起因しているのだろうか。

P137
「すくも」とは藻屑、または枯れた葦という意味で、「宿毛」という地名は海水の入った釜を藻屑で焚いたことに由来するらしい。つまり、塩の産地だったのだ。室町時代初期になると土佐国司の一条家が宿毛湾に埠頭を築き、盛んに対明貿易を行ったため、中国人や諸国の商人でにぎわったという。
戦国時代には土佐を征した長曾我部家の所領となり、江戸時代になって山内家が治めた。
海の道で全国はおろか中国大陸ともつながり、文化を蓄積していたのだ。

P141
 足摺岬の西約五キロにある景勝地「臼碆」は黒潮が日本で最初に接岸する磯といわれ、太平洋を見晴らす断崖の上に龍宮神社が祀られている。ウスバエのウスは渦、ハエは南風を意味するのだろう。地元、土佐清水市の観光案内によると龍宮神社は豊漁の神様で、昔、漁師の婦人たちが社殿の前で着物の裾を捲り上げ、足を見せて大漁を祈願し、願いがかなうとお礼参りで大胆に裾をたくし上げて、陰部を露出する―とあった。驚くべき祈願法である。
 ところが、田村会長の聞き取り調査によると、婦人たちが裾を捲り上げる理由は切実だった。
 川のように流れる黒潮は古来から、漁師たちを情け容赦なく海の彼方へ連れ去っていくことも度々だった。家族を連れ去られ、悲しんだのは漁師の婦人たちである。婦人たちは行方不明になった夫の無事を神仏に祈願したが、それでもかなわぬ時は、黒潮が接岸する臼碆で仁王立ちとなり、海に向かって裾を捲り、露出したというのだ。まさに奥の手だったのだ。「ここに帰っておいで」という意味なのか・・・・!?
「いかにも南方古俗ですね」と、私は感動していた。頭には天の岩戸に隠れた天照大御神を呼び戻すため、陰部を露出して躍ったアマノウズメの神話が浮かんでいた。アマノウズメは、神がかりして、詔を告げるシャーマンの姿そのものであり、芸能のルーツともいわれる。


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)

山折哲雄の新・四国遍路

山折哲雄の新・四国遍路

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: ペーパーバック

 

高知県 足摺岬

2025年7月28日月曜日

イカワ

P145
平和の緑の色に一ように取りつつまれた沖縄の村々も、水の一点だけにはいちじるしい幸不幸がある。
概して言えば新しい村ほど、飲み水の不自由を辛抱せねばならなんだようである。
那覇などもずいぶん古い湊であるが、当初今日ほどの繁栄を予期しなかったために、近く良い井戸のある家はまことに少なく、他の多くは入江の対岸のウチンダ(落平(おちびら))の泉から、はるばるとくんできて用いている。

P147
島尻地方などの岡の根方に、珊瑚岩層の割れ目から、澄みとおった清水が滾々としてわきかつ流れているのを見ると、実際誰でも神の恩恵を考えずにはおれない。中世の南山王国の廃墟は、今は神社と公園と小学校とになっている。
その石崖の東北隅に立って見おろすと、屋古の古村の共同井がよく見える。~中略~
おおよそ一村の生活は皆この泉をい中心とするかのごとく、結局水くみ場のただ一か所であるのも、むしろ部内の親睦を増す道であるように思われた。
「琉球国旧記」その他の古い書物に、由来を伝えられた嘉手志川(かでしがわ)は、すなわちこの清水のことである。屋古は名を改めて今は大里と呼んでいる。~中略~
嘉手志は沖縄語で、人の集まってくることを意味するというが、はたしてそうであろうか。
土地の一説では、古くはまたカタリガーとも称えた。すなわち伝説の存する泉ということである。
昔、大早の年に人々船を仕立て、水を他所(よそ)の岸に求めんとしているとしているところへ、一匹の犬が全身ぬれそぼたれてやってきた。不思議に思ってしばらく船出を見あわせ、その犬を先に立てて林の奥深く入ってみると、はたせるかなかくのごとき立派な清水がわいていた。そうして犬は水中に入ってたちまちに石と化し、その石は今なお泉の上に安置せられて、郷人の尊敬を受けている。
古来の口碑はかくのごとくであるが、別に他村の霊泉にも同じ類の話がある上に、東方諸民族の間においては、これはむしろありふれたる物語であった。
現に台湾山地に住む幼稚なる部落の間にも、犬に導かれて清水を見出したという旧伝が、いくらともなく存在するから、おそらくはこの島にあってもまた、話の方が泉よりもまお一層古かったのである。
P146
 井戸をカワと言うのは、必ずしも沖縄の諸島だけではない。九州でも広くこれをイカワと呼んでいて、飲み水の供給が最初はみな天然の流れからであったことと、その流れをせきとめて水を一所に止住(しじゅう)せしめたのが、すなわちイという語の起源なることを示している。
やまとの島で普通に見る掘り井戸を、宮古でも八重山でもツリカーと称えている。釣瓶をもって水を釣る井戸の意味で、その釣瓶は蒲葵の葉をもって、たくみに鸚鵡貝(おおむがい)のような形に縫うてある。~中略~
こういう井戸へ村中から、くみにかよう者は他の多くの民族と同じく、ことごとく村の女たちであった。
ツリカーにくらべるとウリカーの方がさらに苦しい。ウリカーはすなわち降りてくむ井戸のことで、宮古の平良(ひらら)などにはこればかりしかないようである。

P149
 いわゆる白鳥処女の伝説は、かつて高木敏雄君によって、その起源と分布とを説かれたことがある。神が人間界に配偶を求めたもうこと、鳥の形をしてこの世と往来したもうことは、いたって広くかつ久しい伝承であるが、それが進んで三穂の松原や、近江の余呉湖の様式を取るにいたたのには、またその地方に相応した何ぞの事情があったはずである。
そうして沖縄の島では泉の神の信仰が、明白に物語の一要素をなしていたことを認めざるをえない。

P138
要するに沖縄諸島の神女は、ことに沐浴を愛した。あたかも村々の祝女が霊泉によって、その清浄を保とうとしたのと同じである。
その泉はまた酒をかもすにも必要であった。酒造りもまた女の仕事である。そうして仲城安里(なかぐすくあさと)の佐久井などのごとく、井の畔で神女に逢い、夕ごとに一壺の酒を賜った話もある。

女房がほれを嫉んで行ってみると、壺の酒はすでに変じて水となるということ、本州諸国の強清水(こわしみず)という泉に、しばしば、「親は諸白、子は清水」の話を伝えるのとよく似ているが、ただ沖縄の酒泉伝説においては、その村のノロは長くこの井の水をくんで、稲祭の日に神に供えていたのである。
暑くして水の大切な島であるがゆえに、泉に伴う神の口碑が多いのか。はたまた女性が祭りと水とをつかさどるがゆえに、水の辺に神を拝するの風が、次第に恋しなつかしの情緒をさそうようになったのか。許田の手水を始めとして、美しい多くの夢物語が、往々にして清水と処女とを結びあわせ、島人の文字に向かって無限の涼味と休息とを供与せんとしているいずれにしてもそのよってくるところは久しいのである。
 これにくらべてみるとやまとの島のわれわれには、少しばかりきまりの悪いことがある。
こちらの方でも海近くなどの水の恋しい地に、はからず清冽甘美なる泉を見出すことはあるが、そういう場合には多くは弘法大師を説き、かつこれに配するに一人の老婆子をもってする。あまりとしても彩色がくすんでいる。昔はきっとこうではなかったろうと思う。
大師が全国を行脚して、水ばかり求めていたのもよろしい。たった一杯の水の親切にめでて、立派な清水を善良なる老女にあたえたまではよろしいが、少しく不親切な隣の婆があれば、すぐにまたその制裁をくだして芋を石芋にし、井戸を塩水、泥水にして行ってしまったといのは、仏法の祖師よりもむしろはるか以前の神様のごとき、はげしい愛憎ではなかろうか。

沖縄へは幸いにしてこんな弘法大師は渡らなかったが、やはり若干の最も世話焼きなる、かつなかなか機嫌の取りにくい旅人が昔あるいていた。 

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫

 

【お乳水】(福岡県の湧水)北九州市門司区伊川(いかわ) 飲むと不思議とお乳の出がよくなるという岩清水
https://yusui.sumai.biz/archives/4551
より引用させていただきました

素戔嗚尊

P236
鳥上山というのは、スサノオノミコトがその山で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して天叢雲剣(あめのむらくものつるぎを獲った所として知られる。「古事記」にいう「肥河上(ひのかわかみ)なる鳥髪の地(ところ)」なのである。

 神話の中で、スサノオに退治られる鳥上山の八岐大蛇というのは、鳥上山にいた古代の砂鉄業者であるという。出雲ではたれもがそのように言うし、もっともな解釈かと思える。
 古代には砂鉄を採集し山中でこれを鉄にする専門家が群れを成して中国山脈を移動していた、というのが、この解釈の前提になっている。想像するに一団は百人以上だったであろう。
製鉄に人手がかかるだけでなく、採掘にも鉄穴(かんな)流しにも、そして山林の伐採や炭焼きにもおおぜいの人でが必要で、しかも仕事柄、かれらはチームを組まなければならない。このチームは当然ながら山間の盆地で稲を作っている農民の利益とは食いちがってしまう。
 山林を乱伐すれば雨期にはたちまち洪水がおこって田畑を流すし、水流に土砂がまじって、その水を引いている稲田が埋まってしまうこともある。
 しかし農民は結束力が弱いために、山中にいる砂鉄採りにとても抵抗ができない。
ここで、スサノオのような流浪の英雄の登場が必要になってくる。スサノオは高天原を追放されて出雲を放浪するうちにこの山村の村にきて農民のなげきを知り、鳥上山の山中のおろちに酒を飲ませ、酔ったところを見はからい、剣をふるって退治してしまう。
そのあと、土地の耕作者である脚摩乳(あしなづち)の娘である奇稲田姫(くしなだひめ)をめとるのである。
 前期の解釈でいう砂鉄とりの集団は、当然、出雲の沖のかなたにある朝鮮半島からやってきたひとびとであろう。近世でも砂鉄にたずさわる連中は山中で男ばかりの暮らしをしているために気が荒く、ふもとの農村とのあいだにたえずトラブルがあった。そういう暮らしの中にいた出雲のひとびとにとってこの神話の解釈は、解釈というよりも暮らしの反映であるともいえる。

P237
 古代史家水野祐氏は、江戸期の籐貞幹が「素戔嗚尊(すさのおのみこと)は辰韓の主なり」といった直観力を讃え、その著「出雲風土記論攷」(早稲田大学古代史研究会刊)において、スサノオとは、
  巫覡(ふげき)的英雄神で、新羅系の客神として、朝鮮半島方面より出雲に渡来した外来神であった。
とされている。
 さらにスサノオが新羅から出雲に渡って「直ちに斐伊川(ひいがわ)(古名・簸川)の上流をめざして直行したと伝えるのは、この神を奉斎した新羅系の一団は、所謂、「韓鍛冶(からかぬち)」の一団で、やはり砂鉄を求めて移動したものではなかったかと思う」と述べられている。
 水野祐氏によれば、スサノオによってたすけられたひとびとは、農民ではないという。ふるくからここで砂鉄をとっていた集団で、つまり砂鉄とりが八岐大蛇の被害者だった。加害者―八岐大蛇―は、古くから先住民族として出雲の海岸にすんでいた海部(あま)部族で、かれらは舟に乗って川をさかのぼり、砂鉄の交易を強要したり、あるいは掠奪したりしたために山間のひとびとは悩まされれていた。
なぜ八岐大蛇が海人部族であるのかについては出雲における海人についてのくわしい論考がこの論旨に先行してなされている。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

 

 

島根県 須佐神社

2025年7月26日土曜日

三輪山

ついでながら、三輪山は、山全体を神体とする神社神道における最古の形式を遺している。こういうものを甘南備山(かんなびやま)という。
出雲にも甘南備山が多い。「出雲神賀詞」にはカンナビの語がやたらと出る。
ツングースも蒙古人も山を崇ぶが、そこまで飛躍せずとも、出雲民族の信仰の特徴であるといえるだろう。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P231

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

奈良県 大神神社

由布院

 由布院の由布という言葉の意味には諸説あるが、木棉(ゆふ)であると決めこんでも、ほぼ間違いはないように思える。
 木棉(ゆふ)は、今でいうもめんのことではない(もめんは、いうまでもなくインドが原産地である。 インドから明朝のころ中国に伝わったことは、はっきりしている。日本には、戦国末期のころに中国から伝わった。
秀吉のころの大名などがもめんを衣装に用いることがあっても、堺で荷揚げされた輸入品で、贅沢な感覚のものだったに相違ない)。
ゆふ(木棉、由布)は上代語で、木の皮から繊維をとりだした布のことをいう。
 こうぞなどの木を剥ぎ、その繊維を蒸し、水でさらし、それをこまかく裂いて織った布を、われわれの先祖は着ていた。もっとも「万葉集」一三七八に、「木棉懸けて斎(いつ)くこの神社(もり)越えぬべく」とあることからみると、ユフという白い布は主として神事用いられたようでもある。
上代、普通の人間は麻を着、神にユフを捧げていたとすれば、ユフは麻よりさらに時代の古い繊維だったという想像もなりたつ。~中略~
 もっとも、木の皮の繊維などを着ていては、冬などずいぶん寒かったろうと思われる。その保温力を増すために、ススキの穂などをまぜて織ったにちがいなく、そのためにはただのススキよりも、トキワ・ススキのように羽毛に似た穂を織りこむほうが上等だったかもしれない。
ともかくも、牧畜に生活文化を依存する度合が、皆無か、きわめて希薄だったわれわれの古い先祖たちの防寒のための衣類は、貧寒としたものだった。
~中略~
 この豊後の由布については、「豊後風土記」速見郡の中の記述が、よく引かれる。
 此の郷ノ中に栲(たく)(こうぞの一種)ノ樹多(さわ)ニ生(お)ヒタリ。
常ニ栲ノ皮ヲ取リテ、木棉(ユフ)を造る。因(よ)リテ柚富(ゆふ)ノ郷トイフ。
 考証じみたことが過ぎるようだが、ともかく私はこの由布院という地名が昔から好きであった。
考証じみたことのついでに、院とは、いうまでもなく、奈良朝のころの官設の倉庫のことである。
各地から田租を「院」におさめておく。とくに九州に院と付く地名が多いのは、一面、大宰府の統括力の強さをあらわしているといってもいい。
この「院」のつく土地に集積された田租がやがては大宰府に運ばれ、大宰府から京へ差しのぼらされるのである。由布院の場合、この官倉に集積された田租は、由布院→日田→大宰府というぐあいに運ばれたいった。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P120

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

湯布院 金鱗湖 大分県

死者を許す文明

  が、そのなかでも特に私がはっと思ったのは、魯氏(吉林大学日本研究所所長・魯義(ルーイー)氏がA級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝問題に触れて、「日本人は死者を責めないけれども、中国人は死者であっても許さない」といっている点だった。
~中略~
あえていってみれば、死者を許す文明と死者を許さない文明、ということになるだろうか。

~中略~
それ(住人注;韓国の文芸評論家・李御寧(イオリョン)氏の「恨(ハン)の文化論ー韓国人の心の底にあるもの」によると、韓国文化の母体となっているものがそもそも「恨の文化」である。
日本語で「恨み」は「怨」と「恨」にあてられ、ほぼ同じ意味に用いられているが、韓国ではその二つの言葉は区別されなければならない。
すなわち、「怨」というのは他人に対して抱く感情であり、外部の何かについて抱く感情である。ところがこれに対して、「恨」はそうではない。それはむしろ、自分の内部に沈殿し、鬱積していく情の塊なのだという。
「怨」は熱っぽい。復讐によって消され、晴れる。だが、「恨」は冷たい。望みがかなえられなければ、解くことができない。「怨」は憤怒であり、「恨」は悲しみである。だから、「怨」は火のように延々と燃えるが、「恨」は雪のように積もる。

山折 哲雄 (著)
天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相
日本文芸社 (2010/1/27)
P240

天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相

天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: 日本文芸社
  • 発売日: 2010/01/27
  • メディア: 単行本


土居ヶ浜遺跡 山口県