P128
終末期の痴呆老人をケアしていると、しばしば看取られている人が「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」世界にいる、という印象を受けます。終末への道行きを歩む人の「私」は、現実世界に住む人たちとは確かに違っています。
わたしたちが理解する「私」とは、名前、年齢、家族、職業などいわば属性や社会的関係、さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」です。それらをつなげているのは、いうまでもなく記憶です。
しかし、それらのつながりによって結ばれた「私」は、この世とあの世が入りまじった幽明界では、解けほどけていくような印象を与えます。
京大大学院で臨床心理学を専攻していた久保田美法氏は、老人病棟や老人ホームでの観察から次のように述べています(註⑧)。
自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れていかれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。
それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、「他ならぬ私」の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりのあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。
それは文字通り、ゆっくりと「土に還っていく」自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか。
以上の過程において、「私」は、しばしばこの世の人とあの世の人との間を行ったり来たりして、双方につながりを持っているように見えます。
初めてそのような現象を観察したとき、わたしは、ちょっとショックを受けました。
八十代のその女性は、往診のわたしをいつも笑顔で迎えてくれました。娘さんが「この頃、母は祖母やもう亡くなった人たちと話しているんです」と言うので、「ご両親と会われるそうですね」とたずねました。すると彼女はわたしの左肩の後ろを指差し、「ええ、そこに来ています」とにっこりしました。
現時点で現世の筆者と会話する彼女の心的状態を正常と規定するならば、あの世の人と話す彼女は幻覚、幻視の状態であるということになります。しかし、その時の彼女は幽明の境がなくなったように、自在にこの世の人とあの世の人との間を往来する様子が印象的でした。
P83
彼(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)は、この表題の現象を「探索像が知覚像を消してしまう」と表現しています。
ひらたく言えば、見ているものの代わりに、見たいと思っているものを見ているということ。
彼には、その個人的経験例がありました。
彼は友人の家にしばらく滞在していました。毎昼食時、陶器の水差しがテーブルの上に置かれていたが、ある日召使いが誤って割ってしまい、ガラスの水差しが代わりに置かれた。
彼は水差しを探したが、ガラスの水差しは目に入らない。友人に水はいつもの場所に置いてあると言われて、突然ガラスの水差しが目に入ったのです。
これは俗に「見れども見えず」という現象ですが、何かものを見て、それと認知するためには、見る側の「意図するイメージ」と「見られるものの形」が一致したときに初めて可能であることを示唆しています。 意図するイメージとは、哲学者ブレンターノが言い出した「志向性」(intentionnality)と同義でしょう。
P96
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。 だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」
これは阿保(住人注;阿保順子)氏の「痴呆老人が創る世界」についての解説ではありません。ハーバード大学の神経生理・心理学教授のスティーブン・コスリンが、ふつうの人間の認知メカニズムについて最近述べたものです。
「知覚が期待によって左右されるという認識は、認知研究の基本である」
これもユクスキュル(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)の発言ではありません。やはりオレゴン大学の神経学者マイケル・ポスナーのコメントです(註⑥)。
これらの言説は、両方ともアーラヤ識とマナ識の働きを思い出させます。
外界を認識するときは、今まで種子として薫習されてきた記憶と、それにも増して自身の抱く種々の煩悩に影響されざるを得ません。しかも、煩悩が働いているという心理的事実に、まったく気づかないという無明があります。
最前線の神経心理学が、古代に洞察された認識論の正当性を追認しているようにも見えます。
「ヒトは見たいものを見る」という現象は、神経生理学者と同時に、哲学者の一部もとり上げています。
たとえば、オートポイエーシス・システムについての議論がそうで、その構造と機能の論理は、神経システムをモデルにして組み立てられます。
~中略~
いとしい、恋しいと思う人の顔はいつでも見ていたいものです。今目の前に肉親や恋人がいなくとも、眼を閉じてただちに顔を思い浮かべることができます。わたしの意識を現している心的システムは外的刺激に対応して作動しているのではなく、みずからの産出的作動を反復しているのです。
入力がなくとも作動が継続するということは、外部刺激に依らず、純然たる内的意向によってよって生じた感覚(幻覚)と区別がつかないことになります。
あるものを強く見たいと念ずれば、実際にそのものを見ることは可能である、とするならば以下の幻覚(幻視)の例も理解できるでしょう。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)/p>

0 件のコメント:
コメントを投稿