2025年8月4日月曜日

住吉の神

 住吉大社は大阪の住吉区にあるお宮だが、古代、応神・仁徳という天皇名で残っている大阪湾沿岸の王朝のころから、現在の場所にあったらしい。その王朝が、安曇と呼ばれている九州から瀬戸内海にかけての海人族を支配下に置いたとき、海人たちがそこに自分たちの海の神を祀ったのであろう。その伝承が、「古事記」のなかにも説話化して取り入れられている。
~中略~
 右の住吉の神は、もとは筑紫で奉ぜられていたのが、海人族の東進とともに、大阪湾沿岸の墨江(すみのえ)の浜に移された。
 元の住吉神社も、残っている。福岡市の博多駅から南西へすこし行ったところにあり、ここもいまは市街地化しているが、古代はこの付近一帯は海部(あま)郷といわれ、海人族の根拠地であった。
 古代海人の神である住吉の神が、いまも淡路の由良の漁民にたちに尊崇されて、漁船の半分までが「住吉丸」という名まえがついているというのは、漁村における伝統の持続力のつよさをおもわせる。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P153

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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博多港 福岡市
北九州市門司区

2025年8月2日土曜日

鎮守の森

日本の神社は、常に森林におおわれている。高い樹の梢からつたってカミが降りてくるという信仰があり、樹々はカミのよりしろであるから、伐ってはならないという禁忌が長く伝わっていた。
その下草もまた、生うがままに繁っていた。神社をこわすということは、すなわちそれをとりまく神林を伐採することであった。伐採した樹木を払い下げることに利益があったから、地方役人と利権屋が結託して、神社合祀令を濫用することもしばしばあった。
南方は、植物学者として、神林の濫伐が珍奇な植物を滅亡させることを憂えた。民俗学者として、庶民の信仰を衰えさせることを心配した。
また村の寄合の場である神社をとりこわすことによって、自村内自治を阻むことを恐れた。森林を消滅させることによって、そこに棲息する鳥類を絶滅させるために、害虫が殖え、農産物に害を与えて農民を苦しめることを心配した。
海辺の樹木を伐採することにより、木陰がなくなり、魚が海辺によりつかず、漁民が困窮する有様を嘆いた。 産土社を奪われた住民の宗教心が衰え、連帯感がうすらぐことを悲しんだ。 そして、連帯感がうすらぐことによって、道徳心が衰えることを憂えた。
南方は、これらすべてのことを、一つの関連ある全体として捉えたのである。
自然を破壊することによって、人間の職業と暮しとを衰微させ、生活を成り立たなくさせることによって、人間性を崩壊させることを、警告したのである。

南方熊楠 地球志向の比較学
鶴見 和子 (著)
講談社 (1981/1/7)
P223

南方熊楠 地球志向の比較学 (講談社学術文庫 528)

南方熊楠 地球志向の比較学 (講談社学術文庫 528)

  • 作者: 鶴見 和子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1981/01/07
  • メディア: 文庫

 

 日本は資本主義国だというが、たとえば英国やフランス、アメリカといった国で、農地や山林を投機や思惑の対象にしてほうり投げあいをしているような状態があるだろうか。
フランスの百姓は悠々と葡萄をつくり、ロンドン近郊の牧場主が、坪いくらするなどという滑稽な計算をすることなく、ひたすらに牧草をそだてている。  日本では、本来自然であるべき大地が、坪あたりの刻み方で投機の対象に化(な)ってしまっているというのは、元来、生産を中心とするはずの資本主義でさえないのである。
現行の経済社会そのものを自滅させつつあるバケモノのような奇妙な経済意識が日本人の心と自然を荒廃させたあげく、その異常な基盤のなかから総理大臣の座まで成立させてしまった。日本は、日本人そのものが身の置きどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっているのである。
 日本は、土地を財産としても投機対象としても無価値にしてしまわねば、自然の破壊などという前に、精神の荒廃が進行し、さらには物価高のために国民経済そのものが破産していまうにちがいない。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P188

 

街道をゆく7

街道をゆく7

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版
奈良県 春日大社

久留島氏

P154
 それで、理解できた。(住人注;三島公園、別名童話公園に)碑があって、読んでみると、児童文学者の久留島武彦(一八七四~一九六〇)の顕彰碑だった。
久留島武彦といえば口演童話の草分けをなした巨人で、それがこの玖珠町森の出身であったことに、はじめて気付かされた。であればこそ久留島武彦の生涯を記念して桃太郎の銅像が建てられ、後縁の別称も童話公園になっているのであろう。
 そのとき不意に、この豊後森の殿様が、久留島氏だったことを思い出した。
 久留島氏はもともと伊予の来島水軍の大将で、豊臣政権下で一万数千石の大名になり、朝鮮侵略のときに水軍の一将となって出陣し、朝鮮の水師提督李舜臣と戦って当主の兄弟とも戦死した。
 その後、徳川政権下になって家姓を久留島とあらため、伊予海岸から移されて、この豊後森の領主(一万二五〇〇石)になった。
徳川幕府の草創のときの大方針の一つは、水軍を絶滅させることにあった。
織田・豊臣家の水軍である熊野水軍の九鬼(くき)氏を、丹波の山奥に移封させたように、久留島氏も、この豊後森というような海とまったく無縁の山奥に移されたのである。
(この公園は、久留島氏の城跡ではないか)
 とおもってまわりを見まわすと、山肌に張りついて枯山水の庭園が、遺跡のように残っている。枯山水は、久留島氏の屋敷跡の痕跡でもあるとも考えられた。考えてみると、一万石あまりの身上では大名ではあっても城持ちの資格がなく、城の代用の陣屋を持つことだけが許されるのである。

 P157  そのあと、私はやむなく自分の手持ちの資料類で調べてみると、およそのことがわかった。

久留島氏はここに移封されたとき、ツノムレ城址の山麓(童話公園の敷地)に陣屋を作った。
 ところが、八代通嘉という人物が、よほど奇妙な自意識をもった男だったのか、幕府の目をごまかして城を築こうと思い立った。久留島氏の氏神の三島神社を改築するときうことを表むきにして、内々、あのツノムレの森の中に城を築いていまったのである。一八二四(文政七)年に起し、十三ヵ年を要して完工した。これが見つかればおそらく一万二千五百石は取り潰しになったであろう。
 この無用の築城のおかげで、農民の上に重い租税と賦役がのしかかったに相違なく、その恨みは深刻なものがあったであろう。「喜藤次泣かせの石」を運ばせたのは、この八代通嘉だったのである。
 いまなお、役場が、これを森城とも角牟礼城とも、あるいは称しがたく思っているとすれば、この城の性格のあいまいさと伝承の暗さと無関係ではないと思われる。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

春日様式

 大原野神社は、都が奈良から長岡京に遷るとき、ともに新都に移らねばならない藤原氏が自分の一族の氏神として新都の西北角にあたるこの山ふところに地を相し、春日様式でもって建てた。
 社殿は小ぶりで、美しく朱装されている。境内の林と言い、池と言い、すべてが「古今」「新古今」の美学で造型化されていていかにも王朝風であり、考えてみると奈良の春日大社といい、河内枚岡(ひらおか)の元春日と言い、藤原氏の神社というのは総じて華やかなところに共通性があるようにおもえる。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P130

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

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奈良県 春日大社

阿蘇信仰

P23
「隋書倭国伝」をひらけば、六世紀すでに阿蘇信仰が遠く大陸まで知られていたのがわかっている。そこには次のような描写が見られる。(熊野文化企画編「今昔・熊野の百景」はる書房、二〇〇一年。)

  阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接する者、俗以て異となし、因って祷祭(とうさい)を行う。
如意宝珠あり。その色青く、大いさけい卵の如く、夜は即ち光あり。いう魚の眼精なりと。
(阿蘇山がある。その石は、故なくして火が起こり天に接するもので、習慣として異となし、よって祷祭を行う。如意宝珠がある。その色は青く、大きさはにわとりの卵のようで、夜は光をはなつ。魚の眼精<めのたま・めだま〉だという)

 すなわち、阿蘇では早くから火山信仰が行われていて、のちにそれを中心に山岳信仰の場として阿蘇のカルデラの外縁には古坊中(ふるぼうちゅう)が栄えるようになったのだった。坊中とは僧侶や山岳修行者らが居住する場所で、三十七坊中

P203
 つまり、当時の阿蘇山はかなり特別な場所だったということである。飛鳥を訪れたはずの隋の使いがなぜ阿蘇について書き記したかというと、そこが当時の大和朝廷にとっても重大な意味をもっていたにちがいない。そう、阿蘇山は、かなり古くから信仰の対象であったことにまちがいなく、そこにはすでに多くの山岳修行者らが集まってきていたのである。
阿蘇神社の祭神、健磐龍命(たけいわたつのみこと)はもともと火山神であったが、その後さまざまな恩寵をもたらす神として祀られることになる。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)

五十一庵が立ち並ぶ一大霊場として想像を絶する盛況ぶりをみせたのである。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 

火と宇佐の大神


「遠野物語」の中には、深山無人の地に入って、黄金の樋をみたという話があるが、それが火と関係あるか否かはまだ確実でない。しかし少なくとも火神の本原が太陽であったことだけは、日と火の声の同じい点からでもこれを推測し得るかと思う。日本には火山は多いが、わが民族の火のはじめはこれに発したのではなかったらしい。
天の大神の御子が別雷であって、後再び空に帰りたまうという山城の賀茂、または播磨の目一箇(まひとつ)の神の神話は、この国のプロメトイスが霹靂神であったことを示している。
宇佐の旧伝が同じく玉依姫を説き、しきりにまた若宮の相続を重んずるは、本来天火の保存が信仰の中心をなしていた結果ではなかったか。
~中略~
これを要するに炭焼き小五郎の物語の起源が、もし自分の想像するごとく、宇佐の大神の最も古い神話であったとすれば、ここにはじめて小倉の峰の菱形池の畔に、鍛冶の翁が神と顕れた理由もわかり、西に隣した筑前竈門山の姫神が、八幡の御伯母君とまで信じ伝えられた事情が、やや明らかになってくるのである。
いわゆる父なくして生まれたまう別雷の神の古伝は、いたって僅少の変化をもって、最も広く国内に分布している。
神話は本来各地方の信仰にねざしたもので、そのお互いに相いれざるところあるはむしろ自然であるにもかかわらず、日を最高の女神とする神代の記録の、これほど大いなる統一の力をもってするも、なおおおい尽くすことを得なかった一群の古い伝承が、特に火の精の相続に関して、今なお著しい一致を示していることは、はたして何事を意味するのであろうか。
播磨の古風土記の一例において、父の御神を天目一箇命と伝えてすなわち鍛冶の祖神の名と同じであったことは、おそらくはこの神話を大切に保存していた階級か、昔の金屋であったと認むべき一つの根拠であろう。火の霊異に通じたる彼らは、日をもって火の根源とする思想と、いかずちと称する若い勇ましい神が最初の火を天より携えて、人間の最も貞淑なる者の手に、お渡しなされたという信仰を、持ち伝えかつ流布せしむるに適していたに相違ない。
宇佐は決してこの種の神話の独占者ではなかったけれども、かの宮の神の火は何か隠れたる事情あって、特に宏大なる恩沢を金属工芸の徒にほどこしたために、彼らをして長くその伝説を愛護せしむるにいたったので、炭焼長者が豊後で生まれ、後に全国の旅をして、多くの田舎に仮の遺跡を留めておいてくれなかったなら、ひとり八幡神社の今日の盛況の、根本の理由が説明しがたくなるのみでなく、われわれの高祖の火の哲学は、永遠に不明に帰してしまったかも知れない。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P199

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫

 

宇佐神宮 大分県

2025年8月1日金曜日

山崩

P80
「土砂災害」という言葉は江戸時代にはない。古文書を検索するにはキーワードが必要である。歴史的に、土砂災害が、そのような言葉で表現されてきたかを、まず抑えておかなければならない。
 筑波大学の西本晴男教授の「土砂移動現象及び土石流の呼称に関する変遷の研究」によれば、「山崩(やまくずれ)」という表現は古代からあったという。土石流のほか、地震、火山噴火による災害にもこの用語を使った。
江戸時代になると、土石流現象を表わすのに「山崩」のほかに「山津波」「山潮」という言葉が生まれた。「地すべり」「泥流」は比較的新しい言葉で、大正・昭和初期にならねば、国語辞典に登場しない。
「土石流」は一九一六(大正五)年、東京帝大の砂防工学教授・諸戸(もろと)北郎が翻訳造語した可能性が高いが、「鉄砲水」などとともに、使用が一般化したのは、昭和になってのことらしい。

P91
土砂崩れがおきそうな場所は歴史が教えてくれる。自治体や鉄道会社は事前に手を打っておいたほうがよい。

P92
「あの広島の土砂崩れ現場の古文書を見直しておきたい」。悔しさを胸に、私は浜松から新幹線に乗り、東京都立中央図書館で、八木地区に関する古い記録を探した。まず八木が広島市に合併される前の自治体史「佐東町史」を見た。
「本町の扇状地は、背後に急斜地を持つことから、幾度もの土石流が重なって形成されたと考えられる。角ばった巨礫を多く含み、斜面の途中に突き出た段丘が見られる(中略)が、これは土石流の原型といえる。
段斜面は、現在県営住宅を中心とした宅地化が進み、平坦化されている所もある。(下略)。そう書いてあり、住宅地にありありと残る土石流のあとの竹やぶの写真が掲載されていた。
 土石流が繰り返され、現物が残っているすぐ脇に、県営住宅などの団地を建設していったことが、地元の町史には、はっきり書いてあった。
八木地区の団地造成は、一九三七(昭和一二)年に三菱重工広島製作所の従業員団地の造成を相談されたことから、始まった。そして、高度経済成長期には、グリコや雪印の牛乳工場の誘致とあいまって、団地化が急速に進んだ。 この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。
自然はコントロールできると、人間の優位を驚くほどに信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。
 この地の領主が「自然に勝てる」と思いはじめたのは、戦国時代のことであったらしい。
前近代には土砂崩れは「蛇崩れ」「蛇落」などといい、大蛇の出現になぞらえられた。

 

P94
広島藩の地誌「芸藩通志」によれば、「八木」は平安中期の「倭名抄」(和名類聚抄)に「養我(やぎ)とある古い地名である。この八木村の土地台帳「地ぶり帳」(一七六二〔宝暦一二〕年をみると、上楽寺(上楽地)という字(あざ)がある。
そういう名前の寺があるからだが、気になるのはこの地にある観音堂が「陀落地観世音菩薩堂」とよばれ、さらに、近所に「蛇王池大蛇霊発菩薩心妙塔」と刻まれた碑が立っていることだ。
この碑自体は新しいものだが、土砂崩れをおこす大蛇の霊を祀ってなぐさめ、菩薩心をおこさせて、村の安寧を祈ってきたさまが想像される。蛇王池は、香川勝雄が退治した大蛇の首が飛んで落ちた地だという。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史
(著)
中央公論新社 (2014/11/21)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書

広島県 宮島

お寺の事情


 本堂を背にして四人で山々を眺めた。
「あれ、あの斜面、UFO来たみたいに削れてる」
 みうらさんがそう言うと、御住職が照れるように答えた。
「墓地を造ろうと思いまして」
 お寺の経営にも様々な問題があるのだろう。
しかしともかく、息子さんが仏教系の大学を出て後継ぎになったことが何よりですねと我々は御住職に話しかけた。
御住職は深くうなずいた。

見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)
P102

見仏記ガイドブック

見仏記ガイドブック

  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本
山口県 龍蔵寺

社会福祉施設としての寺

立松 そして彼ら(住人注;凶状持ちや世間から疎まれた人たち)が最終的に逃げ込むところに、必ずお寺がありましたね。
五木 寺は、昔は権力の立ち入ることのできない場所だったから。
立松 西大寺なんかがそうでしょう。奈良の般若寺もそうです。それから日蓮上人の、東京の池上にある本門寺もそうでしたね。そういう、もう一つの世界があった。
いまは施設とか、刑務所に入れるという隔離政策じゃないですか。でも、何か悪いことをしでかしてしまったり、業病に取りつかれてしまったりした、苦しみを得た人が生きられる場所というものが、かつては仏教の中に設定されていたんですよね。
五木 光明皇后なども、ものすごく社会活動をやっていましたね。病者のための風呂をつくるとか、行き倒れの人たちを野辺送りするとか。そういう活動も聖として大事な仕事だったわけだ。
真言律宗などはとくにそうでした。今はお寺が・・・・・。
立松 いまはもう、立派な寺に逃げ込んだら、たちまち追い出されますから(笑)。文化財を盗みにきたかと思われる。~中略~
五木 そうです。時宗は昔から社会奉仕をすごくやった人びとです。
立松 明治の始まるぐらいのときには、そういう精神が仏教にも生きていたんですね。国家に服(まつろ)うというか、国家そのものの仏教の体系があり、もう一つは別に服わぬ仏教の体系があって、もっと自由奔放に生きた聖の世界があって、仏教といっても非常に層が厚いですね。

親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P239

親鸞と道元 (祥伝社新書)

親鸞と道元 (祥伝社新書)

  • 作者: 五木寛之 立松和平
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: 新書

 そのとき勝鬘夫人は、十のおおきな誓いをたてました。
~中略~
それから(第六に)、私は、財産を受けたもつとしても、自分のためにはいたしません。
受けたものはすべて貧しい人、苦しんでいる人を豊かにするために使いましょう」と言います。
 ここはとくに大乗仏教を、従前の伝統的・保守的仏教と区別する一つです。社会事業というようなこともここにふくまれます。
悩み苦しんでいる人々を救うという活動は、伝統的・保守的仏教でもなされていました。
アショーカ王は施しの家というものをつくりました。その施しの家で実際に人々に施しをしているその光景は、南インドのアマラーヴァティの浮き彫りにも出ています。ですからインドでは以前から行なわれていたのですが、大乗仏教でとくにそれを強調するようになりました。
 そしてここに出ているこの「勝鬘経」の精神を、聖徳太子は実際に具現しました。聖徳太子が四天王寺総本山をつくったときに、四箇院(しかいん)という人々を救う施設をつくったのです。

『維摩経』『勝鬘経』 (現代語訳大乗仏典)
中村 元
(著)
東京書籍 (2003/06)
P100

『維摩経』『勝鬘経』 (現代語訳大乗仏典) (現代語訳大乗仏典 3)

『維摩経』『勝鬘経』 (現代語訳大乗仏典) (現代語訳大乗仏典 3)

  • 作者: 中村 元
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2003/06/01
  • メディア: 単行本

法華寺 奈良県

中国の禅とは違う

P64
五木 前略~ そういう意味では道元の禅は、僕が見てきた中国の禅とはちょっと違うような気がする。
立松 全然違いますよ。僕は中国の天童寺でも座禅をさせてもらったんです。そうしたら、緩やかでね。
五木 何宗禅を見てたら、団扇を片手に座っていて、すこぶるカジュアルな座禅だった。
立松 肩をこうやって上げ下げしたり、本当に緩やかなんです。ある意味で楽ですよ。ところが道元禅、永平寺の座禅は、ビシッと、姿勢が一回決まったら、ずっと動いちゃいけないんです。そこまではなくても、日本の禅堂はどこも厳しいですよね。
~中略~
五木 たとえば永平寺に行って食事をするでしょう。「五観の偈」という食事訓を最初に唱えますね。そして食事の間、音をたてちゃいけないという。それで僕がタクアンをパリッと嚙んだら、キッとにらまれたことがありましたけれど(笑)。
中国の韶関(しょうかん)というところへ行って、南宗禅の根拠地として知られた南華寺で食事もしたし、座禅も一緒にしたんです。でもあちらの人たちは、食堂でもってボリボリ音たてて食べてますよね。
立松 ピチャピチャ食べてますよ。
五木 「五観の偈は?」って聞いたら、「いや、心の中で唱えているからいいんだ」と澄ました顔でいう(笑う)
~中略~
立松 前略~ 
 たぶん道元の時代は、本当に貧しかったんだと思います。
「正法眼蔵」の中にも中国の僧堂の話として書いているんですが、弟子が師に「お米がありません」って言うんです。「正法眼蔵」になるとおりに言いますと、「粥を炊きなさい」
「粥にも足りません」「じゃあ重湯にしなさい」「重湯にもなりません」「湯を飲んで、座禅していればいいではないか」と、そういう世界なんです。
五木 道元の語録の中には、学ぶものは、学ぶ者は貧しくあれ、「学道の人衣糧(えりょう)を煩うこと莫(なか)れ」(「隋問記」一-一六)と、もう徹底的にそう言っていますよね。そういう面もありますが、それでもやはり、中国の禅の緩やかさというか、のんびりした雰囲気は、やっぱり日本とは違いますね。

P68
五木 黄檗宗は、日本の中で唯一、中国色を色濃く残している宗派なんですね。
それで、食前に「いやー、永平寺でも大変叱られたんですけど、何かおたくのほうの食事の作法はありますか」とうかがったら、一笑して「和気藹々と(あいあい)とやってください」と言ってくれた。
食べている間は笑顔を絶やさずに、和気藹々とやってくださいと言われたので、同じ禅でもこんなに違うかと思いました。

立松 永平寺は三黙道場といって、僧堂とトイレとお風呂では黙っていなくちゃいけない。食べるときも決められた作法どおりに食べるんですけれど、慣れない人間にはつらいですね。 

親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)

親鸞と道元 (祥伝社新書)

親鸞と道元 (祥伝社新書)

  • 作者: 五木寛之 立松和平
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: 新書

 

京都府 万福寺