2026年3月26日木曜日

応神天皇

  大阪湾沿岸の平野における弥生式農耕が最初の大成熟期をむかえるのは、三世紀末から四世紀にかけてであろう。
この時期に、応神天皇といわれる専制者が、出現した。その古墳はよく知られているように大阪府旧南河内郡にある巨大な陵墓だが、要するにこれだけの大土木を可能にするだけの大権力が成立するほど、生産があがり、人口がふえ、支配圏がひろがった。
 ―応神天皇は、応神王朝という新しい王朝の始祖である。
 という水野祐氏のすぐれた説は、その後、その説の上に、他の多くのあたらしい見方が築かれた。
たとえば応神の権力には、海外へのひろがりがある。この時期、朝鮮半島でも、大変動があった。
四世紀はじめに中国支配圏の楽浪がほろび、本来の朝鮮半島民族である高句麗がおこり、南鮮の小さな部族国家が滅んで、新羅・百済という広域国家ができあがった。この朝鮮半島の大変動によってはみ出たひとびとが、海をわたって応神王朝の傘下に入った。
伝説上の学者である王仁(わに)や阿知使主(あちのおみ)といった漢文化を身につけたひとびとが朝鮮半島から渡来したとされるのも、この時期である。応神王朝は日本における最初の広域権力であろう。
「日本書記」の記述を信ずるわけではなく、これを想像の手掛かりにするとして、応神天皇の五年八月のくだりに、諸国に令して「海人部(あまべ)」と「山守部」をさだめたとある。そのときに淡路の漁民が、海人部という、王朝直属の技能民として支配された。獲れたあわびなどを船にのせ、大阪湾を漕ぎわたり(おそらくいまの西宮市の浜に上陸したであろう)それら海の幸を宮廷の台所におさめるのである。農業で成立した広域権力が、漁業を隷属させた。
 部(べ)というのは津田左右博士はその語源が朝鮮半島南部の百済のことばであるとされた。部の制度もまた百済の制度にあったにちがいない。それを応神朝という名称で象徴される大阪湾沿岸の古代権力がとり入れた。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P120

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

神戸

金屋子神

 カツラの木は、古代以来、山で砂鉄を吹くひとびとにとって、聖木なのである。山中でタタラをおこすとき、そばに鉄の神の金屋子神(かなやこかみ)を祭るのが常だった。
その金屋子神というのは天から天降(あも)りするときにカツラの木を伝って降りてくる。このため、タタラのそばにかならずカツラの木が植えられた。
 金屋子神というのは、「古事記」や「日本書紀」には出てこない神である。
「古事記」や「日本書紀」に出てくる冶金の神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)で、彼女はたしか天香具(あまのかぐ)山で鏡をつくったというし、また鹿の皮を剥いで天羽鞴(あまのはぶき)(フイゴであろう)をつくる技術ももっていたといわれている。
 余談だが、先日、紀伊の一ノ宮の日前宮(にちぜんぐう)(ひのくまぐう)に行って、宮司の紀さんから紀州鍛冶の話をうかがったとき、
 ―そういえば、このお宮に、石凝姥命も祀られています。
 と、いわれた。紀ノ川流域は古代から鍛冶がさかんで、その鍛冶たちが自分たちの技術の祖であるとされる石凝姥命をまつった。しかし中国山脈系では、この「記紀」による筋目の神は、まつられていない。
 中国山脈系はあくまでも金屋子神なのである。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P212

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -
奈良県 丹生川上神社

P171
中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きい想像力をはたらかせなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。

P172
 戦国中期に日本にきた耶蘇会士ヴィレラは、
「日本において堺の町より安全な所はない。諸国に動乱があってもこの町にはかつてあったためしがなく、町はつねに平和で、諸人はたがいに睦まじく暮らし、他人に害を加えるという者はない」
 さらに、外にあって敵味方である者もひとたびこの町に入れば仲よく暮らす。しかしながらかれらが町壁の外に出れば、たとえ石を投げたほどの距離を離れただけでも「すでに町外なり」といって剣を抜き、互いに殺傷しようとするのである、という旨のことを書いている。
堺という、あらゆる勢力に対して局外中立であったというこの町の不文律が、いかにみごとにその外部からまもられていたかがわかるであろう。~中略~日本には鎌倉以来、各地の著名の社寺に「守護不入」という不文律があった。
守護とは、鎌倉体制以後の大名のことである。大名の行政権も軍事権も、中立地帯であるこの社寺の境内に入るべからず、という意味で、戦国期にあってもこのことはよく守られていた。
国際的な貿易都市である堺の中立性は、そういう慣習があったからこそ、ごく抵抗なくまもられることになったに相違ない。  ただし、かつてのドイツの自由都市やいまのスイスがそうであるように堺も重厚な武力はもっていた。海戦ができるような船隊ももっていた商人もあり、個々に牢人部隊をやしなっている者もあり、また富商階級が金を出しあって市中見廻りの傭兵隊をつくり、かれらをして門の警備や市中の治安に任ぜしめていた。
「市街にはことごとく門があって、番人をつけている」
 とも、ヴィレラが書いている。

P175
博多は、堺に似せてつくられた。堺にせよ、それを模倣した博多にせよ、
「町人を基礎としてつくられた国家のごとき制度」(ルイス・フロイス)
 をもっていた。中世末期の堺をみるとき日本史のなかにおける宝石のようなまばゆさを感ずるというのはそういうあたりである。

P177
しかしながら結局は堺は信長に屈した。
   信長は堺に命じて軍事力をもつことを禁じ、傭兵隊を解散させ、自治制を廃止させて、自分の奉行を送りこんで行政にあたらせた。
自由都市である堺はこれによって死滅するのだが、しかしながら信長の意図はそれを遙かに超えたものであったであろう。かれは自治を縊(くび)り殺したかもしれないが、その国家構造では堺の貿易を国家規模にまでひろげ、瀬戸内海を通じてゴヤを見、ローマを見、マドリッドを見ようとしていた。

P180
「堺の市民は高慢とみえるほどに名誉心に富んでいた」
 と、フロイスが書いていることは、ごく個人的な、たとえば千利休が秀吉に対して終始とりつづけた態度でもうかがえる。中世末期の堺の町人を、江戸期の町人などから類推すれば大きくまちがうことになるであろう。
その自尊心と美的教養と国際知識と、そして富こそ軍事力を超える力だとする自信などからみても、日本史上のあらゆる時代を通じてこういう種類の日本人集団が出現したことはなく、ほとんど異国人を見るような思いがする。
 かれらは起居言動に、中世人特有の節度を持っていたという点では、なまなかな室町武家などよりも端然たる紳士であったかもしれない。さらには船舶の運用に当たってはたえず海賊に備え、ときにはそれと戦って殲滅しなければならないという点では、日本武家以上の豪胆さを必要としていた。かれらの対明貿易の必要と京の五山(大徳寺、相国寺など臨済禅の諸本山)の僧と結ばなければならなかったという理由もあるがほとんどが禅宗に帰依し、日常の精神を禅的な死生観でもってささえていた。 さらにはそれを美的意識に転化して文明創造をする力ももっていた。

こんにちの経済界の構成者たちとくらべると、よほどちがった存在であったようにおもえる。 

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

 

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -
大台ヶ原山 奈良県

屋久島


 屋久島を書く人のだれもが引用する林芙美子(はやし ふみこ)の「浮雲」の、有名な一節をぼく自身も何度も使った。
「屋久島はひと月に三五日雨が降る」。これほど明快に屋久島を語る表現はない。
 菜種梅雨のことを、屋久島では「木の芽長雨(ねげし)」、あるいは「木の芽流し」という。雨の多い島ならではの言葉で、ぼくはこれが気に入っている。
 ところが、じつは雨がこの季節に限って多いわけではない。むしろ、梅雨、台風、秋雨の季節は飛躍的に多い。
 雨は、屋久島のすべてともいえる。雨が巨木を育てた。

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳 (著)
平凡社 (2001/01)
P188

自然の歩き方50: ソロ-の森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

自然の歩き方50: ソロ-の森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

  • 作者: 加藤 則芳
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: 単行本

 

大分県 九重連山

大坂の学問

 近世にはじまった大坂の学問もまた、町人の手で築かれた。ざっと見ても、国学の下河辺長流(しもこうべ ながる)、僧契沖、上田秋成、
漢学の三宅石庵(みやけ せきあん)、中井甃庵(なかいしゅうあん)、五井蘭洲(ごいらんしゅう)、富永仲基(とみながなかもと)、中井竹山(なかいちくざん)、同履軒(りけん)、山片蟠桃(やまがたばんとう)、大塩平八郎、経済学の草間直方(くさま なおかた)、蘭学の橋本宗吉(はしもとそうきち)、緒方洪庵、福沢諭吉、たちがその系譜である。武士は、大塩と福沢ぐらいだった。
 彼らの学問には、ほぼ一貫した思想が流れている。まず、実証である。あくまでも事実にもとづき自分の目で冷徹に確かめたことしか信じなかった。考え方は合理主義である。
神秘や超自然を嫌い、客観的で理性的だった。権威や教条や因習や形式からは、自由であった。
いつも定説を疑う。だから、清新である。学派や学問の範囲にとらわれない。蟠桃などは何学者に入れるべきかと迷う。人文科学や自然科学に及び、大きく広い。
根底には平等の思いがあり、あの封建の世にあって身分にこだわらない。学問を堅苦しく考えないで、楽しくやればいいと思っている。実際の役に立たない空理空論を退けた。多くは利を追う商人の出であり、その学問は実学であった。ところが、いったん学問に没入すると、ひたすら心理を求めた。実利を忘れ、お上の禁制をも恐れなかった。学問で職を求めようとはしない。名利のために学問をしたのではない。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P166

大阪学 (新潮文庫 お 41-1)

大阪学 (新潮文庫 お 41-1)

  • 作者: 大谷 晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/12/01
  • メディア: 文庫

 

長谷寺 奈良県

漫才の土壌

P32
「大阪人が二人寄れば漫才になる」と言われる。漫才の土壌が大阪にあったのである。
河内生まれの玉子屋円辰が、玉子を行商して歩くうちに覚えた河内音頭に江州(ごうしゅう)音頭を加えて改良したうえ、その間に軽口という簡単な掛け合いをはさんだ。それは三河萬歳をアレンジしたものだった。
これを明治三十四年(一九〇一)ごろに、大阪の千日前の寄席で演じる。こうして、円辰が漫才の祖となった。

P33
 大正五年(一九一六)ごろには、萬歳から万才という略字も使われるようになる。昔からあった軽口、掛け合い、仁輪加(にわか)、女道楽などの多様で猥雑な大道芸を貪欲に吸収して行く。漫才は大坂の諸芸の集大成なのである。< br> 一方、吉本せいなる希代の女興行師があらわれた。家業の荒物問屋をほうり出して芸人道楽にうつつを抜かす夫の仕事にと、明治四十五年(一九一二)に天満天神裏門前の第二文芸館を買い取り寄席を始めた。のちの天満花月(てんまかげつ)である。
だが、亭主はまた女道楽をしたあげくに若死にしてしまう。せいは、女の腕一本で奮闘し、大正七年(一九一八)に寄席の本場の法善寺花月を手に入れた。やがて、今日の吉本興業を築き上げる。

P34
 道頓堀の弁天座で初めて万歳大会が開かれたのは、昭和二年(一九二七)であった。
同年(一九三〇)にエンタツ・アチャコのしゃべくり漫才が出現し、漫才は近代化した。

P36
この(住人注;東京)落語と(住人注;大阪)漫才の笑いには、本質的な違いがある。落語では、与太郎などという少し頭の弱い人物を作って、そのしくじりのお話を落語家が第三者の目で見たように語る。演者は、だから高度な洗練された話芸を持っていなければならない。いや、聞き手の方もある程度の教養知識を持っている必要がある。通でなければならない。だから、東京人が大坂漫才というときは、それを低級だと見下しているのである。
~中略~
 これに対して、大阪の生んだ漫才は、それを演じる漫才師自身が阿呆になる。阿呆な事を言うだけではなく、どつかれたり、打ち倒されたりする。見物客は、作った人物の馬鹿さを笑うのではなく、漫才師そのものを阿呆だとして笑うのである。聞き手に優越感を与えて作り出す笑いである。
 この方法は、実は漫才だけのことではない。芸人全部にそういう傾向があるといってよい。落語でも最も大阪らしいと言われた二代目桂春団治がそうであった。

P40
これに対して、東京の落語家はまるで違う。高度な芸を披露しているんだという気持ちである。志ん朝や談志のように「おれは偉いんだ」というのが露骨に出ている。大坂では鼻持ちならない。たけし、タモリの笑いはこの東京の笑いの伝統の上に立つ。 

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)

大阪学 (新潮文庫 お 41-1)

大阪学 (新潮文庫 お 41-1)

  • 作者: 大谷 晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/12/01
  • メディア: 文庫

 

長谷寺 奈良県

英雄

英雄は普通の人より勇気があるのでなく、
五分ほど勇気が長続きするだけの話だ。
[ラルフ・ワルド・エマーソン] 米国の思想家 | 1803-1882

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法
水野敬也 (著), 長沼直樹 (著)
文響社 (2012/12/11)
42

人生はワンチャンス!- 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 人生は~シリーズ

人生はワンチャンス!- 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 人生は~シリーズ

  • 出版社/メーカー: ミズノオフィス
  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: Kindle版

 

大台ヶ原山 奈良県 大蛇嵓

毛利高慶

  全国的にはあまり知られていないが、これ(住人注;和歌山県の広村(現在の広川梃)にヤマサ醤油の七代目・浜口儀兵衛が築いた広村堤防)よりもさらに約一五〇年前、九州で長大な津波堤防が築かれていた。
大分県の佐伯に二万石の小さな大名がいた。この家は奇妙なところで堤防に縁があった。もともと森氏といった。森高政というのが当時の当主の名である。
高政は羽柴(豊臣)秀吉に仕え、中国地方の大大名、毛利輝元と戦ったのだが、このとき世に名高い備中高松城水攻めに参加した。低湿地に築かれた敵城のそばに堤防を築き、水没させたあの戦いである。~中略~
残された高政の家臣や黒田官兵衛には、秀吉から密命が与えられたとも伝えられる。
「もし毛利軍が信長の死を知って背後から攻めてきたら、水攻め堤防を切れ」。そうすれば、水が氾濫して、毛利輝元軍の追撃を遅らせることができる、というのである。~中略~
 この毛利高政が佐伯藩の藩祖であるが、宝永四(一七〇七)年一〇月四日、六代藩主・毛利高慶(たかやす)の時、宝永津波が佐伯を襲った。佐伯毛利家は水軍で有名。海に近い浦方を拠点にしていた。
そのため佐伯の城下町は三・五~四メートルといわれる津波の被害をまともにうけた(羽島徳太郎「九州東部沿岸における歴史津波の現地調査」)。
 六代藩主が驚くべきリーダーシップを発揮したのは、この時であった。津波の直後、城下町全体を防潮堤で護ることを決意した。なんと被災一七日後から着工。二ヵ月の突貫工事で、新堤防一・三キロを含む総延長約四キロの防潮堤を完成させた。
藩主高慶みずから現場に出て工事を督励。動員された労働者はのべ三万四七九三人に達したという。
 赤穂浪士もそうだが、おおむね一七〇〇年頃までの近世武士は行動的で決断が速かった。しかし平和が続き、世襲が重なると、近代武士は次第に行動が格式張ってきて「機能的」でなくなる傾向が見られた。幕末頃になると、むしろ民間の活力がすばらしく、浜口梧陵のような民間の篤志家が防潮堤建設などという公益事業でも活躍する姿がみうけられるのである。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P74

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書 2295)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書 2295)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書

 

大分県佐伯市 蒲江

中江藤樹

藤樹の日常態度について、「藤樹先生行状」は次のように記している。
「顔色温和にして言語正し。神気安定にして、平居のあいだ従容(しょうよう)たり。
その人と交わる礼容を見るに、謙遜にして陋劣(ろうれつ)ならず。つねに雑語なしといえども、温厚なるはゆえに、坐にあるものおのずから悦与たり」と。

中江藤樹 人生百訓
中江 彰 (著)
致知出版社 (2007/6/1)
P83

中江藤樹人生百訓

中江藤樹人生百訓

  • 作者: 中江 彰
  • 出版社/メーカー: 致知出版社
  • 発売日: 2007/06/01
  • メディア: 単行本
滋賀県 日吉大社

大塩平八郎

 大塩平八郎の洗心洞は、「天満風のわがまま学問」と人にいわれた。彼は代々の大坂東町奉行所の与力の家に、寛政五年(一七九三)に生まれた。
文武に励み、儒学を学ぶ。権威的で形式的な朱子学にあきたらず、陽明学を信奉した。陽明学は儒学の一派で、学問の実践を尊ぶ。三十八歳で隠居し、自宅に家塾の洗心洞を開いた。いま大阪市北区天満一丁目の造幣局構内に、「洗心洞跡」の碑がある。そこに、天満与力の役宅があった。
 大塩は町人ではない。幕藩体制に連なりながら、官学である朱子学よりも簡明で実行力のある陽明学に傾いた。自由な大坂の儒学の雰囲気のゆえであろう。
 自分が思ったことは絶対に正しいとする。かんしゃく持ちで、激情家である。~中略~
 凶作が続いた。豪商が米を買い占め、米価がつり上がる。耐えかねて、群衆が米屋に押しかけて打ち壊す。~中略~ 大塩は収拾策を上申したが、無視された。三井や鴻池に救済資金の借り入れを申し入れ、断られた。大塩は激憤した。蔵書を売り払い、貧しい人に銭を分ける。天保八年(一八三七)二月十九日だった。大塩は四十五歳になっている。
 東西両奉行所はあわてて混乱していた。一挙にそこを突けば、どうなっていたか分からない。が、反対方向へ進み、汚職のうわさのある役人の家に大筒を打ち込む。次は北浜に現われて鴻池や三井から金と米を奪い群衆に与える。そこへ奉行が押しかけ、大塩勢は逃げ散った。
大塩は、靭(うつぼ)にある大塩家出入りの商人の離れに潜んだ。同年三月二十七日に捕り手に包囲され、火を放って自殺した。
 大塩一党の放火で、天満と北船場の一万二千五百戸が焼けた。が、人々は大塩に同情を寄せる。それは幕府の政治権力への大坂の批判であった。幕府の軍事力が案外にもろいのが暴露され、倒幕運動の口火になった。
 彼は幕府を打倒して権力を奪う気は毛頭ない。反乱の計画も組織づくりも、実に大まかである。議論より行動に走る大阪人一面が見られる。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P176

大阪学

大阪学

  • 作者: 大谷晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/05/24
  • メディア: Kindle版

 

呼子 名護屋城跡