2026年6月16日火曜日

マイナス思考からの脱却法

 神経的のくだらぬ心配は健康上大害がある。
これを除くには学問を立脚地として、
精神修養の功を積むほかはない。
「渋沢栄一訓言集」立志と修養

渋澤 健 (著)
巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」
講談社 (2007/4/19)
P130

巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」 (講談社BIZ)

巨人・渋沢栄一の「富を築く100の教え」 (講談社BIZ)

  • 作者: 渋澤 健
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/04/19
  • メディア: 単行本

 


 ポジティブ心理学の創始者のひとりである故フィル・ストーンは、私にとって教師以上の存在でした。
1999年にフィルは私を第1回ポジティブ心理学サミットに連れていってくれました。学会2日目は、9月のありふれた一日でした。空はいくぶん曇りがちで、風はさわやかでした。午前中の講演の後、フィルは「歩きに行こう」と私を誘いました。
「どこへ?」と私は尋ねました。「ただ歩くのさ」と彼は答えました。
 これは私がそれまで学んだ中でもっとも重要な教えのひとつでした。
 外へ歩きに出かけましょう。ただゆっくりと時間を過ごすという以外には何も目的をもたずに。そして、この世界の豊かさを味わい尽くしましょう。
町の鼓動、村の静けさ、海の広さや森の生命力を感じ取る時間をとりましょう。
 ただ歩くことを習慣にしてください。

ハーバードの人生を変える授業
タル・ベン・シャハー(著), 成瀬 まゆみ (翻訳)
大和書房 (2015/1/10)
P147



ハーバードの人生を変える授業

ハーバードの人生を変える授業

  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2014/03/07
  • メディア: Kindle版

P74
 失敗した―と思うことは、仕事でも、人間関係でも、人生全般に、必ず起こります。
 大事なのは、そこで凹(へこ)まないこと。けして自分を否定しないことです。
 しかし、「判断」という心の反応は厄介なもので、すぐに「評価を下げたかも」「自分は向いていない」「なんてダメな人間なんだ」と。自分を責めてしまいます。
 人によっては、コンプレックスや挫折感、「生きている価値がない」とまで、思い詰めることさえあります。今の時代には、多くの人が自分を否定して苦しんでいます。

P76
  では、どんなときも自分(相手)を否定しないためには、どうすればいいでしょうか。
~中略~
  それは、①一歩、一歩と外を歩く、②広い世界を見渡す、③「わたしはわたしを肯定する」と自分に語りかける、という方法です。

P77
①一歩、一歩と外を歩く
 一つは、すぐに外に出ること。散歩することです。一時間でも、二時間でも、歩けるところまで、歩いてみてください。
 このとき肉体のキャッチする「感覚」に意識を向ける(感じ取る)ようにしてみましょう。仏教が教える「感覚が生まれる場所」は五つあります―目・耳・鼻・口・肌・―です。その一つにひとつに、これまで以上に意識を向けてください。
 たとえば朝、昼、夜と、時間帯によって、空の色も、街の光も、木々の緑や流れる川の色も、違って見えるはずです。今この瞬間に、世界はどう見えるのか―目を見開いて、視覚をフルに使って、よく観察する(見つめる)ようにしましょう。
 鼻先から入ってくる空気の匂いも、濃密さも、季節や一日の時間によって違います。
~中略~
 今たしかに存在するのは、「感覚」です。さっきまでアタマを占領していた「苦悩」は、この瞬間にはありません。「もうひとりの自分」「もう一つの人生」が、ここにあります。
あなたはすでに、これまでとは違う新しい人生を”生きている”のです。
~中略~
 あの比叡山では「千日回峰行」といって、毎日三〇キロから八〇キロメートルにわたる距離を、足かけ七年かけて歩きつづける修業があります。
「自己否定を抜けるための散歩」も、一つの修業です。修行という言い方が重たければ、「練習」「実践」「生活」「心がけ」というのは、どうでしょうか。
どれくらいの期間歩けばいいのか、決まった答えはありません。でも、ただ歩けばいいのですから、難しくありません。何か月でも、何年でも、自分を否定する判断が消えてなくなるまで、散歩しつづけてみるのです。
~中略~
 ②広い世界を見渡す
 外の世界を見渡せば、いろいろな人が生きています。実は、あなたを「否定」してくるような人間は、自分が思っているほど多くはいないものです。
 買い物途中の親子づれや、街角の交番のおまわりさんや、お店で働いている店員さんたちを、眺めてみてください。外で見かける人はみな、それぞれの日常を生きています。道を訊ねてみれば、驚くくらいに親切に答えてくれることでしょう。
 世の中には、たくさんの、心優しい人、良心的な人がいるものです。
 人を否定するという発想すらなく、毎日を一生懸命生きている人が大勢います。
~中略~
 ③「わたしはわたしを肯定する」
 「自分を否定しない」もう一つの方法は、「ただ肯定する言葉」をかけることです。「わたしはわたしを肯定する」と、自分に言い聞かせてみましょう。
 この「肯定する」という言葉は、世間でいう「ポジティブ・シンキング(積極思考)」とは違います。
 よく「自分はできる」とか「日増しに良くなっている」というようなポジティブな言葉を自分に語りかけよう、という話を聞くことがあります。
 たしかにこうした言葉が、「暗示」として効くことはあると思います。しかし、前向きな言葉があまりに「現実」とかけ離れていると、心が「ウソ」を感じ、効かなくなってしまいます。~中略~
 仏教は、「正しい理解」を基本にすえるので、現実と合致しない言葉がけ(ある意味、妄想)というのを、当てにしません。
「こうなったらいいな」という”方向性”は考えますが、それはあくまで将来のこと。それだけなら、妄想の領域です。
 問題は、今自分を否定してしまう判断を、どう止めるかなのです。そのためには、判断そのものを停止させる、シンプルな言葉のほうが効きます。
それが、「わたしはわたしを肯定する」という言葉です。

P84
 以前、私が修業した禅寺で、ある朝、若い修行僧が、寝坊して勤行に遅れてきたことがありました。本人は「坊主失格だ・・・・」と落ち込んでいましたが、その寺の和尚は
「バカもの、今だけを見よ(喝)!と叱り飛ばしていました。
 この和尚の理解は、正しい理解です。
「過去を引きずる(過去を理由に今を否定する)」というのが、それ自体、心の煩悩、邪念、雑念なのです。
 人生に、あやまち、失敗はつきものです。ただ肝心なのは、そのとき「どう対応するか」なのです。
 落ち込まない。凹まない。自分を責めない。振り返らない。悲観しない。
 それより、今を見すえて、正しく理解して、「すみませんでした」と率直に謝りましょう。それも含めて、もう一度、新しくやり直すのです。

 過去の汚れを捨てて、新たな汚れを作らない。
 智慧にめざめた人は、思い込みから自由になって、自分を責めることをしない。
 心の内側も、外の世界も、よく理解するがよい。
 ただそれによって自分の価値を測ってはならぬ。
 その想い(判断)は、よろこびにつながらないからである。
 「自分は優れている」とも、「劣っている」とも、「等しい」とも判断するな。
 さまざまな言葉を受けても、自分の価値を判断しないようにせよ。
 さまざまな煩悩(評価・計らい・判断)が消滅した境地こそが、よろこびである。
 その者は、すでに勝利している。他者に負かされることは、もはやない。
                    ―スッタニパータ〈論争について〉〈速やかな成就〉の節

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

  • 作者: 草薙龍瞬
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2015/07/29
  • メディア: Kindle版
禅定寺 京都府

禅というもの

P108
それで(住人注;仏教の)形式主義というのはその一方を代表している。それに反対して達磨が出て来た。
そしてこの達磨が出て来たということは形式主義でなくして、今度は精神主義、主知主義でもなく論理ということでもなくて、論理以外のところに、人間生活のいきた原理を捉えなければならぬということを示したものである。その主張がすなわち禅なのである。

P109
この達磨というものが、いかにそのころの形式主義、主知主義に反対したものかということが明らかである。禅宗の方では、教外別伝、不立文字ということを唱えるであろう。これはちょうどその形式主義の裏、その主知主義の裏を唱えたのである。
 そこでこの教外別伝、不立文字ということを、今日の哲学者、宗教者の使う言葉をもって言うと、神秘的経験ということである。
教えの外に別に伝えたというので、いろいろと別な教えはないけれども、そういうものによらないで別に釈迦の精神を伝える。それを神秘主義と言うのであるが、それを教外別伝、不立文字という言葉で言い表したのである。
これを達磨が伝えたということになる。

P111
 禅というのは、すなわち神秘的経験ということである。神秘的経験とはどういうことになるかというと、人の心の働きには理屈で説くことのできない一つの経験がある。
その経験というものを経て来なければ人間というものの生命がのらぬ。形式になってしまう。その経験にふれたならば、形式そのものさえも変わって来る。そして生命が流れる。その経験ということのみに力を集中してかかろうというのが禅である。
禅宗というものはお経を頼らぬ、教外別伝というので禅宗は経典を無視したものである。

P114
そこで一方に論理的なものがなければならぬと同時に、一方には主観的神秘的経験というものがなければならぬということは、また当然の帰結なる。
これが両々相まって行かねばならぬ。が、両方がいつも並行して行くものでない。
そこでいずれを重んずるかというと、結局のところは、やはり、自分が出発点となり、合わせて帰着点となるのである。つまりはそれ自身本来の性質の傾向、すなわち主観に決することになる。
したがって禅の極致は、心理的方面になければならぬ。すなわち神秘的体験の上になければならぬということである。
それで禅宗とは、どんなものかというと、これは哲学では断じてない、その基礎は心理学の上におかれているものと言ってよい。
この心理的体験というところに、禅の生命がある。これが禅の根本である。それがすなわち教化ということである。
もう一度言うと、禅はいつも自分に戻るということになる。

P116
つまりわれわれの心というものは、自覚しているだけでなくして、その心の働きというものは、自分が思っているそれ以外のところにまで働いて行くものだということなのである。
それゆえ、いつも自分のこうと自覚している範囲だけに、意識が限られているのではなくして、ずっと、その上に、その下に広がっているというのである。

P121
公案は表面、論理に陥るようであるけれど、畢竟は心理的な結論で、それで落ち着くものと私は思う。
われわれのこの心理的、神秘的体験を、言葉に言い現わすというときに、公案となって出る。
公案というものは論理から出てきたものでなくして、われわれの心理的体験から出たものである。それをするには、意識の上に現れているところの、すべてのものを斥けてしまって、そしてその下に突き込んで行くことができるときに、その体験が生ずるのである。
それで禅は論理の上に基礎をおくというよりも、心理的に進んで行かなければならぬと信ずるのである。

P224
自覚聖知ということは、どんな意味か。それは自分で体験するということである。人から教えられないで、自分でやるということである。
自分でこうだと、一つのことに気がつく、これが禅宗の根本である。
それが楞伽経(りょうがきょう)の自覚聖知ということを、本に立てているゆえんである。
体験を重んじで、理屈は重んじない。自覚というところに、禅宗の落ち着くところがあるであるから、それを哲学とか、心理学という風に言うならば、楞伽経はなくてもいい。他の経でさしつかえないのである。楞伽経でなければならない。ことに達磨が楞伽経を持ちだしたというのは、この自覚聖知にあるということになるのである。

禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 鈴木 大拙
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: Kindle版

 

禅定寺 京都府

接客行

P134
 「機嫌」という言葉自体は、「人の気持ちや気分。時機。都合」という意味があると辞書にはあります。

 この言葉がもともと仏教用語だったことをご存知の方はさほど多くないせしょう。

 しかし仏教における「機嫌」は、言葉の意味がだいぶ違ってくるようです。
「人々がそしりきらい、不愉快に思うこと」 もともとは「譏嫌」と書くようで、「譏(そし)り嫌うこと」ですから、かなりネガティブな意味だったようです。
 その由縁は、修行に励むお坊さんたちが、世間から「譏り嫌わ」れないように、「譏嫌戒」という戒律を設けたところにあるようです。
~中略~

 「人のご機嫌を取る」というと、「あいつは人の顔色ばかりをうかがっている」と、悪い意味にとらえられることもあります。しかし、家庭でも恋愛でも、人間関係がうまくいっていないときというのは、得てして相手の機嫌を取ることを怠っているときです。
「相手のことを思って行動する」のは、人間関係の基本です。相手の機嫌をちゃんと取って、「ご機嫌」になってもらえば、回り回ってこちらの「機嫌」も良くなります。
~中略~

「ご機嫌を取る」と似たような言葉に、「相手の身になって考える」というのがあります。しかし「相手に身」というものが本当はどういうものかわかるはずもありません。
あくまでこれは「自分の考える相手の身」です。しかし、「ご機嫌を取る」であれば、これは「相手の身」にならなくてもできるはずです。
 なかなかそう上手くいかないのが人間ですが、それも「修行」だとあきらめて、人の機嫌を取ろうではありませんか。

P149
しかし考えてみれば、どんな仕事でも「機嫌を取る」行為から免れることはできません。
 キャバクラ嬢やフライトアテンダント、レストランのウエイターさんといった接客業をはじめ、サラリーマンやOLも、部下は上司の、上司は社長の、社長はお得意先の・・・・・というように、「ご機嫌うかがい」は無限にループしていきます。
 人間はみんな「接客行」なのです。

マイ仏教
みうらじゅん (著)
新潮社 (2011/5/14)

マイ仏教 (新潮新書)

マイ仏教 (新潮新書)

  • 作者: みうらじゅん
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/07/01
  • メディア: Kindle版

嫌だと思っている人と付き合うときに、この人のこと嫌な人だ、と思って付き合い始めると、その人との付き合いはそういう付き合いにしかなりません。
朝起きたときにほとんど無意識といっていいくらいに頭の中にメッセージが流れてきます。「嫌だなあ、またあの人と今日も一緒だ」と。まだ何も起こっていないうちから、嫌だなというように感じてしまいます。
そのように思ったらそのようになります。たとえそうでないことが起っても、先の例と同じで、例外と片付けられてしまうことになります。
 ですから、一度、これまでのことはすべて水に流して、今日私はこの人と初めて会うのだ、と思ってみるのです。
これはかなり難しいことである、といわなければなりません。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
岸見 一郎 (著)
KKベストセラーズ (1999/09)
P172 

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

  • 作者: 岸見 一郎
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 1999/09/15
  • メディア: 新書

 キャバクラが好きな男性は、お姉さんたちとセックスしたいから行くわけではなく、(もちろんそこは見え隠れするわけですが、手っ取り早くセックスしたいなら、ほかのサービスを利用しますよね)、お姉さんたちから「山本さんってすごーい!」「田中さんのこういうところが大好き」「なんか好きになっちゃいそう」なんて言ってほしくて、行くのではないでしょうか?
 キャバクラを選ぶということは、言語による快感を求めているということ。慣れているお姉さんは、お客さんに、「社会的報酬」を与えることが上手なんですね。男性は、彼女たちが与えてくれる擬似的な「社会的報酬」を買いに、キャバクラに行くのです。

脳はどこまでコントロールできるか?
中野 信子 (著)
ベストセラーズ (2014/8/19)
P32

脳はどこまでコントロールできるか? (ベスト新書)

脳はどこまでコントロールできるか? (ベスト新書)

  • 作者: 中野信子
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2015/07/17
  • メディア: Kindle版

接客業の人材教育の専門家から、目の前の人を好きになるコツを聞いたことがある。
 その人のセミナーでは、まず、目の前の人のいいところ、好きだなあと思えるところを五つ、書き出してもらうそうだ。制限時間は一分間。つまり、ほとんど反射的に、相手のいいところを見る、そういう訓練を繰り返すのである。
 接客業でこうした訓練をするには理由がある。短時間の接客の間であっても、相手を好きにならなければ、相手から好意を持てもらえないためだ。
 つくり笑いやマニュアルどおりのほめ言葉を口にしても、お客の心は動かない。お客の心が動かなければ本当の満足を与えることはできないから、たとえばリピーターをつかむというような、成果にはつながっていかない。  これは、ふだんの人間関係にもあてはまる。まず、相手のいいところを見るようになれば、相手の欠点や嫌いなところはそう気にならなくなる。

精神科医が教える50歳からの人生を楽しむ老後術
保坂 隆 (著)
大和書房 (2011/6/10)
P113

精神科医が教える50歳からの人生を楽しむ老後術 (だいわ文庫)

精神科医が教える50歳からの人生を楽しむ老後術 (だいわ文庫)

  • 作者: 保坂 隆
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 文庫

高野山 奈良県

ブッダの教えは宗教ではない

  あるときブッダに感銘を受けたひとりのバラモン司祭がかれに「バラモン教をやめるので弟子にしてほしい」と頼んだことがあります。
それに対するブッダの答えは、筆者には素晴らしいものに映ります。

「君はバラモンの司祭として信者の人々に儀式をあげる宗教の仕事をしている。
仕事を投げ出して私のところにきたら無責任だろう。君は今のまま仕事をつづけて、休みのときは私に瞑想を習いにくればいい」と。

 ここからは、ブッダに教わるために、他の宗教を否定する必要はないのだということが読みとれることでしょう。
そしてここでブッダは間接的に、自分の教えているのは宗教ではないということを言っているように思われます。

 ブッダの教えが「宗教」であるならば、それを実践するのに他の宗教は邪魔になります。なぜなら宗教とは「これのみが正しい」と言い張るものなのですから。
 ところがかれが教えているのは心を操縦するための心理学とトレーニング・メソッド。
それは宗教としての色彩を持たないために、バラモン教徒だろうとジャイナ教徒だろうとイスラム教徒だろうと、誰だって活用することができるのです。
小池 龍之介

超訳 ブッダの言葉
小池 龍之介 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2011/2/20)

超訳ブッダの言葉

超訳ブッダの言葉

  • 作者: 小池龍之介
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

 

P4
 もともと、ブッダの教えとは「心のムダな反応を止めることで、いっさいの悩み・苦しみを抜ける方法」のことです。その内容とは大きく二つ―①心の反応を見ること、②合理的に考えること、です。
「心の反応を見る」(①)とは、おなじみの「座禅」や、最近よく聞くマインドフルネスやヴィバッツサナー瞑想のこと。面白いことに、心の反応・心の動きをよく見れば、ザワついた心は静かになります。これは、ストレス解消、気分転換にもってこいの方法です。
 ~中略~
 また「合理的に考える」(②)とは、目的がかなうよう、筋を通して考えること。この本での私たちの目的は、「ムダに反応しない」「悩みを増やさない」こrとです。~中略~
 原始仏教には、多くの人が「仏教」という言葉から連想するような”宗教”的な内容とはまったく異なる、実用的で、合理的な、現代にも使える「考え方」があふれています。

P47
”ブッダ”とは、「正しい理解をきわめた人」という意味です。「目覚めた人」「覚者(かくしゃ)」とも呼ばれています。
 ここは仏教に興味がない人にも大切なポイントになるのでお伝えしておきますが、「正しい理解」とは、「自分が正しいと考える」ことではありません。「自分流の見方・考え方で理解する」ことではありません。
 むしろ逆に、「自分はこう考える」という判断や、解釈や、ものの見方をいっさい差し引いて、「ある」ものを「ある」とだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きの”ニュートラル”な目で、物事を見すえることを意味しています。
「正しい理解」に「反応」はありません。ただ見ているだけです。動揺しない。何も考えない。じっと見つめているだけです。そういう徹底したクリアな心で、自分を、相手を、世界を理解することを、「正しい理解」と表現しています。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)

 

奈良県 唐招提寺

老仏儒

善悪倶(とも)に忘る、老の高き所以なり。
善悪倶に容(い)る、仏の大なる所以なり。
善を善とし、悪を悪とす、儒の正しき所以なり。
(「老仏儒三教に就いて」)

山田方谷のことば―素読用
山田方谷に学ぶ会 (編集)
登龍館 (2007/07)
P65

山田方谷のことば (サムライスピリット 3)

山田方谷のことば (サムライスピリット 3)

  • 出版社/メーカー: 登龍館
  • 発売日: 2007/07/09
  • メディア: 単行本

 

島根県 荒神谷遺跡

P174
松の翠(みどり)は大和絵や桃山の障壁画の画題だっただけでなく、「古今」「新古今」で定着した日本の名勝には、かならずといっていいほど松がある。日本三景といわれる天ノ橋立、松島、厳島も、松がなければ成立しない。

 私は戦時中、中国の東北地方にいたが、敗戦の前に朝鮮半島を南下して釜山まできたとき、いままでの大陸風の淡いみどりが、この半島の南端の海岸町で急に濃くなったことに驚いた。
気づいてみると、釜山の西郊に赤松の林があり、この色彩が、溜め息が出るほどに佳かった。
佳いというのは美的な意味でなく、理屈もなにもなしに、松でおおわれた故郷がもう一衣帯水のむこうに横たわっている、という感動だった。
室町期の倭寇どもも、東シナ海をもどってきて、はるか沖合に根拠地の松浦半島の松がほのかに見えはじめたとき、おそらくこういう感動をもったのではないか。
われわれの故郷についてのイメージの底には、かならず松が作る景色があるように思える。

P176
京大の四手井綱英(しでいつなひで)教授が、昭和四十九年11月十八日付の「サンケイ新聞」(大阪)に寄稿されている文章がおもしろいので切り抜いておいた。「マツタケ」の文化という題のものだが、マツタケと生態的に縁の深い赤松の植生について触れておられる。
~中略~
「日本のアカマツ林は決して現在のような広い分布をもっていたものではない」 
 と、いわれる。たしかに松が肥料分のすくない瘦地(やせち)をこのむというのは、常識である。
日本では本来温暖で湿潤な土地だから樹木が密生し、その落葉が山につもって、自然に山の土が肥えてしまう。だから、瘦地を好む松がいたる所にはえているということは以前は決してなかったというのが、右の文章の意味であろう。
 右の文章につづいて、
 恐らくやせ尾根や岩石地など、肥えた土地を好む他の樹木の育ち得ないような所に小群状で暮らしていたものと思う。
ところが平野部の農業が次第に進んで里山の落葉や下木草が集められ、炉で燃やされて木炭としてカリ肥料にされるようになってから、里山は次第にやせてゆき、やせ地に最も強いアカマツ山に変わってゆく。
 とある。
~中略~
 四手井氏の指摘は、明快である。かつて赤松山から農民があつめてきた落葉や枯枝の灰は家々の灰小屋で貯えられ、カリ肥料になるだけでなく、あくぬきなどにも使われた。
農業は、里山に依存していた。
 それが、戦後の化学肥料の使用の増大で状況がかわり、「里山依存の農業文化は失われ」た、という。農業文化が一変したといっていい。
 農民が里山に入らないために赤松の根もとに落葉や枯枝が積もって土の栄養がゆたかになり、これがために瘦地ずきの赤松の樹勢がおとろえ、松にかわって照葉樹がふえはじめたという。
日本の農耕があまり進んでいなかったむかしは、照葉樹林がこのくにを覆っていたから、いまの農村の文化状況によって、里山ももとの照葉樹林にもどるのだと四手井氏はいわれる。赤松のある景色はあかるいが、照葉樹林になると暗くなる。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

島根県 足立美術館

ギリシアの神々と日本の神々

 ギリシアの神話と日本神話―従って、我々の昔話―との類似は、単にひとつのモチーフの共通性ということではなく、実はその根本的な構造において一致点をもっている。
それは、男性神の暴行によって、大女神が怒って身を隠し、そのため世界は実りを失って困りはてるが、神々がさまざまな手段によって大女神の心をやわらげ、それによって世界の状態が正常に復す、という根本構造において一致するのである。

昔話と日本人の心
河合 隼雄 (著)
岩波書店 (2002/1/16)
P87

昔話と日本人の心 (岩波現代文庫 学術 71)

昔話と日本人の心 (岩波現代文庫 学術 71)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2002/01/16
  • メディア: 文庫

 

私は、常々、狩猟採集民の言い伝えや神話に興味をもってきた。日本のアイヌの人びとやオーストラリアのアボリジニの人びと、カラハリ砂漠のクン族の人びと、そんな人たちの言い伝えの中にも動物をめぐる話はたくさん出てくる。
 それらの言い伝えや神話の内容の解釈をめぐっては、人類学、心理学をはじめとして、さまざまな分野からの研究があるが、私は動物行動学の視点から次のような解釈をしている。
 まず、言い伝えの特性として主に以下の四点があげられる。
(1)言い伝えに登場する動物は、人間にとって大きな害を与えたり、食料になったりするような、要するに影響力が大きい動物である。
   たとえば、アイヌの人びとの言い伝えでは、クマやヘビ、シカ、サケといった動物である。
(2)人間の”生き死に”に大きな影響を与えるような出来事が含まれることが多い。
   たとえば、「・・・・したので死んでしまった」とか「魔物のようなものが襲ってきた・・・・」「命を投げ出して・・・・」「道に迷って・・・・」といった内容である。
(3)人以外の生物については擬人化して描くことが多い。
   「(クマが)子どもを失って悲しんで・・・」、「(タヌキが)死んだふりをして逃げてやろうと思って・・・・」「(キツネが)大変喜んでお礼に・・・・を差し出した」といった具合である。
(4)一応、話の因果関係的なつながりはつけようとする。ただし、そのつながりは合理的ではない場合が多い。ちょうど夢の中で起こる出来事の内容のつながりに似ている。
~中略~
別の例として世界中で大ヒットした映画「ロード・オブ・ザ・リング」をあげることもできる。
 ロード・オブ・ザ・リングは、ヨーロッパに広く伝えられている神話の典型をもとにつくられた話だと聞くが、
(1)人間の命を脅かす凶暴な動物やそれが姿を変えた魔物
(2)命をかけた行為・出来事
(3)動物や植物の擬人化
(4)全体を結びつける因果関係
といった、前述の特性がそこここにちりばめられている。
 ハーバード大学のエドワード・ウィルソンやミヒャエル・ヴィッツェルは、世界の神話は、共通の要素と構造を持っていることを説得力をもってのべている。彼らが指摘する要素と重なるものもあるし、重ならないものがあるか、いずれにしろ本質的には大きな違いはない。
 それは、みな同じ視点から神話を分析しているからだと思う。その視点の一つは、「われわれホモ・サピエンスの脳は、周囲の自然や社会の中で生きていくうえで有利になるような”癖”をもっており、その脳が癖に影響されながら神話や言い伝えをつくり出したり記憶したりしている」ということである。
~中略~
 はっきり言えば、脳は完全に無秩序なものは把握も記憶もできないのである。前述のウィルソンは、神話も含めた芸術は、知性によって引き起こされた混乱に秩序を与えていると主張している。
~中略~
 言い伝えはこのようにして、一部の対象についての真理を含みながら、脳の癖にフィットするように編曲され伝えられてきたのではないだろうか。

先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!―鳥取環境大学の森の人間動物行動学
小林 朋道 (著)
築地書館 (2007/03)
P64

先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!: 鳥取環境大学の森の人間動物行動学

先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!: 鳥取環境大学の森の人間動物行動学

  • 作者: 小林 朋道
  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本

 

山折 日本のさまざまな神を大別すると天つ神、国つ神のニ系統に分かれますが、一般の信仰は国つ神を中心に形成されてきました。
 天つ神はお隠れになりますが、これは亡くなるという意味ではありませんね。隠れてもまた現れる神だからです。天照大神の天の岩屋隠れなどはその象徴です。 
 ところが、高天原から地上に下って国つ神となった神々は、やがてなくなって葬られます。葬られることでそれぞれの土地に鎮まり、私たちは先祖として祀ったり、清めたり、土地の発展を祈ったりするわけです。

山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)
P182

 

山折哲雄の新・四国遍路 PHP新書

山折哲雄の新・四国遍路 PHP新書

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2014/12/12
  • メディア: Kindle版

 

 

折口信夫(おりぐちしのぶ)は一九五二年に「産霊(むすび)の信仰」という特別講義の中で、神道関係者たちを前にして、日本の神々には二つの系列があると語ったことがある。
「現在、我々の信仰しつづけている神道は、謂(い)わば、宮廷神道に若干の民間神道の加わったものがつづいて来ている湧だが、産霊の神の信仰になると、少し特殊なところがある。
其点をお話しして、あなた方に注意して貰いたいと思う。産霊の神は、天照大神の系統とは系統が違うので、其点をはっきりして置かないと、考えが行き詰って了う」。
 古代の宗教や信仰について語るとき、われられはどうしても「古事記」「日本書紀」などの文献に頼りがちになる。しかし、それらはのちの中央権力によって政治的な意図を含んで編まれたものであり、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大神、素戔嗚尊などをメインにした神々のパンテオンにすべてを吸収しようという企みのもとにまとめあげられたものである。
おそらく古代にこの列島に分布していた神々はもっと多様だったはずなのに、そのパンテオンから外された神々はいつのまにか正統ではないものとして排除されていったのだった。
しかし、実際にはそれらの神々が拠って立つ基盤なくしては、日本の固有信仰成立することもなかったのである。
折口のいう「産霊の神」とはそれらを指しており、千数百年も生き延びてきたそうした神々も、明治以来のいく度かにわたる宗教弾圧(行政による宗教への介入)を経て、いまや風前の灯といった状況である。ところが、熊野を中心とする紀伊半島にはいまもそうして神々がきあすかに息づいており、それゆえに人びとは熊野に強く惹かれるのではないかと思われる。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P3

 

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

 

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 

 

 

島根県 須佐神社

2026年6月15日月曜日

仲間と一体であるという安心感

P66
 ニホンザルは、仲間が自分から空間的に離れた時に、むしろ声を出し合うことがわかる。そうすることで姿は認めなくても、相手が自分の周辺にいることを確認しているのだろう。
彼らが生活する森のなかは視界がよくない、へたをすると仲間からはぐれてしまう危険が存在する。それを防ぐためにおしゃべりが役に立っている。
自分が声を出して応答があることで彼らは仲間と一体であるという安心感を得ているらしい。

P119
 現代の日本人は若者を中心として、過去のような対人関係を営むことが難しくなってきている。このような風潮は、「関係できない症候群」の蔓延と呼んでも差支えないだろうと私は考えている。

 

その背景にあるのは、社会の高度情報化、端的にIT化にほかならない。それを象徴化するのがケータイの流布である。
 ケータイを使いだすと、常に身につけてないとどうも不安な気分に陥ってくる。
「常につながっていないと気が安まらない」という感覚ーそれは、私たちがコミュニケーションの媒体そのものの共有という事実にもとづいて、集団としての連帯を確認するようになってきたことを示唆している。ともに同じホームページにアクセスしているとか、同じアイドルの情報を共有しているとか、そういうことのみで一体感を味わうのである。

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
正高 信男 (著)
中央公論新社 (2003/09)

 

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

  • 作者: 正高 信男
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2003/09/01
  • メディア: 新書

P125
すねたりいじけたりしている人は、治療者が「鏡」として機能しようとしても、「理想化」として機能しようとしても、素直に乗ってきません。
 たとえば、相手の話を聞いていれば、「ここで褒められたいのだろう」と思うポイントが出てきます。
ところが、そういう人は、そこを褒めてあげても、「先生は仕事でやってるからそんなお世辞をいうんでしょ」と思ってしまう。これでは、治療者を鏡自己対象として体験できず、したがって自己愛も満たされません。
 また、こちらが理想化自己対象として機能しようと振る舞い、「私がついているから大丈夫ですよ」などと不安を解消しようとしても、安心感を得るどころか、ひがんでしまう人もいます。
「そんなことをいわれても、自分みたいな人間はエリートのお医者さんとは違うから」というわけです。
 では、このような患者にはどんな心理ニーズがあるのか。そして、それはどのようにすれば満たすことができるのでしょう。
 コフートがたどり着いたのが、「双子」の概念でした。
 前述したとおり、「鏡」や「理想化」で自己愛が支えられないのは、その自己対象が「自分とは違う種類の人間だ」と思ってしまうからです。
つまり、自分が「他人とは違う」ことで自己愛が傷つき、拗ねたりひがんだりしている。なので「自分が人と同じ人間だと思いたい」という心理ニーズを満たしてあげる必要があるのです。
~中略~
コフートは人間には「他人と同じでありたい」という根源的な欲求があることに気づきました。コフート理論を「自己愛の心理学」だと考える人はあまりここに注目しないのですが、私はこれこそがコフートの大発見だったと思います。

P129
 ちなみにこのような「双子感」が役に立つのは、一対一のカウンセリングだけではありません。
たとえばアルコール依存症の人たちが集まる「アルコホーリクス・アノニマス(AA)や断酒会、ギャンブル依存症の人たちの集まる「ギャンブラーズ・アノニマス(GA)」と呼ばれる自助グループにも、そういう効果があります。
 前述したとおり、「一人でいること」が依存症の共通点ですから、患者たちはふだん同じ苦しみを抱えている人に会っていません。つまり、深い疎外感を抱いている。でも、AAや断酒会やGAに行くと、「こういうときに、つい飲んでしまうんですよね」とか「ギャンブルをやめられない自分がイヤになります」といった告白を聞くことで、「自分だけではないんだ」という安心感を得られるのです。

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹 (著)
青春出版社 (2015/4/16)

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者: 和田 秀樹
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書

馬島 小倉北区

 

プレ・パフォーマンス・ルーティン

 P34
ボストン・レッドソックスの上原浩治投手も、シーズン中に判で押したような毎日を送るそうです。試合当日も、ナイトゲームなら昼過ぎに球場に入り、ほぼ決まったメニューの食事をとり、マッサージを受ける。それからウェイトトレーニングを行い、試合前のウォ―ミングアップ。試合がはじまれば、二イニングか三イニング目にブルペンに向かうといいます。

その一連の流れが上原投手の準備であり、それを積み重ねるからこそ、結果が出る―上原投手は著書のなかでそのように語っています。
 事実、長生きされている方も、毎日同じ時間に起きて、同じものを食べて、同じことをする・・・・・というリズムを崩さない方が多い。そうすることが心理的安定につながっているのです。

P36
 パフォーマンスの前に行うルーティンがあるなら、パフォーマンスのあとに行うルーティンはないのか?
 じつはあります。プレ・パフォーマンス・ルーティンに対して、ポスト・パフォーマンス・ルーティンと呼びます。ポスト、つまりパフォーマンスのあとに、一定の動作を、一定の順序、リズムで行うのです。
 よく見れれるのが、テニスでミスショットをした選手が、そのあとで素振りをするケース。あれは、失敗したら、必ず成功したときのことをイメージして素振りをすることで、ミスを引きずらず、次のプレーに集中して臨むことができるようにするために行うものです。

 

P42
 スポーツにかぎったことではありませんが、自分でコントロールできない、変えられないことに対して気を揉(も)んでも、何の解決にもなりません。時間とエネルギーを浪費するだけです。
ならば、その時間とエネルギーを自分ができることに費やすほうが、よほど建設的だと思いませんか?

ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」
荒木 香織 (著)
講談社 (2016/2/19)

ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」 (講談社+α新書)

ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」 (講談社+α新書)

  • 作者: 荒木香織
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: Kindle版


 私の場合は、「好きな音楽」を使って「自分をコントロールする習慣を持っています。
~中略~ この曲を聴けば「パブロフの犬」のごとく、歩く姿勢が堂々となるのです。
 このことは、心理学用語で「アンカリング」とも言います。アンカリングとは、五感の情報をトリガーとして、特定の反応が引き出される仕組みのことを指します。船のアンカーを降ろすがごとく、ある事柄を心に根差すことにより、反応を深層心理より起こすのです。
 休憩時間を必ずコーヒーブレイクとする、ストレッチをする、おいしいものを食べるなど、きっかけは何でもオーケーです。定期的に実践し、日常生活の一部にこのサイクルを定期的に組み込んでしまいましょう。
 要は、サイクル化することで、自分を良好なサイクル、つまり、「快」の状態を意識的に作りあげてしまうことが重要です。

ワーキングストレスに向き合う力-スポーツ分野で話題のストレスコントロール手法<コーピング>でビジネスに強くなる-
坂上 隆之 (著)
日刊工業新聞社 (2015/2/25)
P93


 梅干しを見ていると、すっぱい感覚がわきおこり、自然に唾液が出てきます。
「仰げば尊し」のメロディーを聴くと、いや、「仰げば尊し」という曲名を聴くだけでも、卒業式が頭に浮かびます。
 このように、何らかの刺激が引き金となって、特定の反応が起きることはよくあります。
 刺激と反応の組み合わせは、自然にできるものもありますが、意図的に作り出すこともできます。
刺激と反応の組み合わせを作ることを「アンカリング」(anchoring)といいます。
 アンカリングは自分の中にスイッチを作るようなものです。アンカリングによって、勉強するときは集中力のある状態になることができます。
 バッターボックスで特定のしぐさをすることによって集中力の高い状態を作り出すプロ野球選手がいますが、これもアンカリングの一例です。
 特定の反応を起こす引き金となる刺激のことを「アンカー」(anchor)といいます。アンカーは「碇(いかり)」という意味です。碇を下した時のように、自分の状態が固定されるものです。
視覚、聴覚、体感覚といった五感の刺激がアンカーになります。

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

前田 忠志 (著)
実務教育出版 (2012/3/23)
P166

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

  • 作者: 前田 忠志
  • 出版社/メーカー: 実務教育出版
  • 発売日: 2012/03/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


九重連山 大分県



チョーキング

P124
 極度のプレッシャーや不安に対処しきれなくて、パフォーマンスが悲劇的に悪くなる―
こうした状態を「チョーキング」と呼びます。
「チョーク」とは「息がつまる」「窒息させる」という意味。文字通り、パフォーマンスの途中で窒息してしまったかのように、身体が動かなくなる状態がチョーキングです。
ゴルフでは「イップス」と呼ばれることが多いですが、スポーツ心理学ではチョーキングと表現します。
 チョーキングが起こりやすいのは、自分自身や周囲の期待が高いときです。
「どうぢても勝ちたい。勝たなければいけない」「勝たなければ意味がない」「見る人を感動させるような最高のパフォーマンスをしたい」・・・・・。
 過度に思うと、そういう状態に陥ります。また、自分のパフォーマンスに疑いがあるときにも生じることがあります。

P126
 チョーキングは、何の前触れもなく突然襲ってきますから、試合中に修正することは不可能、ないしは困難です。そこで、チョーキングは起こるものだと想定して、日ごろから準備をしておくことが必要となります。
 その方法として、以下のものが考えられます。
・プレッシャーを受け入れる
・プレッシャーのなかで意思決定をする経験を積む
・不安のレベルを下げる方法を身につける
~中略~
 金メダルを期待されていることを「重荷」ととらえてしまえば、苦しくなってチョーキングに陥りかねない。けれども、
「期待されているということは、自分に可能性があるからなんだ」
 と考えることができれば、それはエネルギーになります。
 つぎに「プレッシャーのなかで意思決定をする経験を積む」。これは、トレーニングのなかで試合を想定してパフォーマンスをするということです。考えうる状況を設置して、そのなかでつねに冷静にふるまえるよう、訓練をするわけです。~中略~
「不安のレベルを下げる方法」にはまず、「呼吸法」が挙げられます。一回、または二~三回、ゆっくりと深い息をしましょう。大切なのは、「落ち着くために深呼吸するのだ」と意識してすること。無意識にするのとでは効果が違ってきます。
 もうひとつの方法は「注意や集中を自分の内から外へ変える」ことです。
 たとえば、ラグビーでボールを落としやすい選手は、「落とさないように、落とさないように」と考えてばかりいます。
でも、以前にも述べましたが、人間は、自分の考えていることが行動に出ます。「落としたらダメだ」と考えるから落としてしまうのです。
「落としたらダメだ」
 そう思うから、「ダメだ」と思うことに集中してしまう。そうではなくて、「落とさないためには何をすればいいのか」を考えるのです。


ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」
荒木 香織 (著)
講談社 (2016/2/19)

ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」 (講談社+α新書)

ラグビー日本代表を変えた「心の鍛え方」 (講談社+α新書)

  • 作者: 荒木香織
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: Kindle版

 

九重連山 大分県