2026年2月10日火曜日

求菩提山の衰退

P77
 全国的にみても元禄という時代は、修験道にとって極めて重要な時期で、元禄一一年は山伏の開祖とする役行者の千年忌に当たり、各山々も盛大な法要を行い、本山の法要にも集まった。
求菩提山の本山は京都聖護院であるので、当時座主病中で役僧三名が上洛した。
 享保二〇年(一七三五)の領主の御取調べをみると、坊名を全部あげ、「以下百五拾弐戸は享保二十年ノ此迄在の坊中」とあり、坊の増大をみせている。狭い山中にこれだけの山伏が密集し生活をしていることに、今さらながら驚くのである。
 近世における修験道は、一応この頃がピーク時代とみてよいのではあるまいか。

P68
「求菩提山雑記」に、等覚寺のことについて、次のようなことを述べている。それによると、応永年間(一三九四~)僧徒たちは、神田の浜で敵を迎え討ったが、その時の僧徒の戦死の数は夥(おびただ)しかったとある。また、天正の兵火で堂社はことごとく消失したとある。
 豊前地方の山の消失は、この天正の兵火によるものが多い。この時が豊前地方の第一次の荒廃期であって、この中から立ち直りのできた山とできない山で大きく変わった。そして明治の廃仏毀釈が第二次で、これによって全滅したのである。

 

P78
修験者の生活基盤は、当時は檀家であった。その八割強は農家とみてよい。とすると、江戸中期から天災地変が大きな衰退の要因とも考えてよいものであろう。
修験者は生産者でなく、檀家に支えられた副次的なものであって、天災は農民大衆を苦しめ、それは直接山の修験者たちに影響を及ぼしたであろう。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2021/10/05
  • メディア: 単行本

 

鬼の石段 求菩提山 福岡県

21番太龍寺

P71
 太龍寺の麓には那賀川という清流が流れています。

この川の名前が青年時代の空海に迫るキーワードです。インドのサンスクリット語では龍をナーガと発音します。ナーガが那賀に置き換えられたのではと思い、私はハッとしたのです。龍は雨乞い信仰につながります。空海はさまざまな祈祷を行った人ですが、最も重要なのは雨乞い、つまりそこに流れる龍神信仰だったのではないかと思います。

P164
二つ目の峠を越える頃、再び(住人注;太龍寺ロープウエイの)ガイドさんの説明に力がこもった。
「もうすぐ右手の岩の上に大師様の座像が見えてまいります」。乗客は身を乗り出すようにして岩を探した。その岩こそ、空海が修行した大瀧獄とされる舎心獄らしい。
~中略~
 たしかに、空海らしき人影が岩の上に座っていた。といっても銅像である。
 ガイドさんの説明によると像は東を向いているのだという。舎心獄の空海は昇る朝日を見つめていたのだ。その視線の彼方に高野山がある。
ほどなく、駅舎に到着した。「先生、海が見えますよ」と駅舎から景色を眺めていると、いつのまにか傍らにいたガイドさんが「東に見える海は紀伊水道です」と教えてくれた。対岸の町やその背後の山並は和歌山県という。
「北に青々と横たわっているのは淡路島です」
~中略~
 青年時代の空海は、ここから黒潮が流れ込む紀伊水道を眼下に、高野山と瀬戸内を臨んでいたのである。空海にとっては瀬戸内は生誕地であり、高野山は入定地である。自らの過去と未来を見据えるようかのように坐していたのだ。
「高野山はお隣なんだなぁ」と山折氏が軽やかにいった。
大龍寺が「西の高野山」といわれることが腹に落ちた。


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)

 

山折哲雄の新・四国遍路

山折哲雄の新・四国遍路

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: ペーパーバック

 

徳島県 21番太龍寺;

伊達家宇和島十万石

P131
 伊達家宇和島十万石は独眼竜で知られる伊達政宗の長男、秀宗から九代宗徳まで続き、明治を迎えた。
藩を築くにあっては仙台藩から武家をはじめ職人、商人なども多数移住したというから、東北の上質な文化が、のどかな西南四国に移住し、濃い歴史を重ねたのである。
空海ゆかりの霊場八十八カ所のある四国は真言宗の寺院が多いが、こと旧宇和島藩領に限っては、伊達家ゆかりの臨済宗妙心寺派の寺院が多く、祭りには旧仙台藩の流れを汲む「八ツ鹿踊り」が受け継がれる。
 伊達博物館は宇和島藩伊達家に伝わる宝物や文書類などを保管する。
 伊達家は諸侯の中でも名家といわれ、八代藩主、宗城(むねなり)は島津斉彬や松平春嶽らとともに幕末の四賢侯に数えられる。飛び抜けた見識と外交手腕で、幕末から明治維新への推進力となったのだ。

P132
 浦賀にペリー提督率いる黒船が来航したとき、宇和島藩主伊達宗城は、密偵をを放って調査をさせたという。ペリーの顔を絵にした密偵がいたとしてもおかしくないわけだ。

そもそも宗城は幕府のお尋ね者だった蘭学者、高野長英を内密に雇って海岸に砲台を築き、海防に力を入れたほか、身分こそ百姓医に過ぎなかった蘭学者、村田蔵六(のちの大村益次郎)を見出して武士に取り立て、初の国産蒸気船の試作にあたらせた曲者大名なのだ。 


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)

山折哲雄の新・四国遍路 PHP新書

山折哲雄の新・四国遍路 PHP新書

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2014/12/12
  • メディア: Kindle版

 

P108

 南伊予は、中世の闇が濃かった。
 律令の亡霊のような公卿の西園寺氏を戴きつづけてきたというだけでも平安期の形態である。
大小の地侍(名手)層が農奴を擁しているのも荘園時代の残映が濃い。そこへにわかに近世がやってきたということは、変革というより革命にちかかった。そのため当然ながら南伊予社会をあげての大反発があり、流血があった。
戸田(住人注;伊達氏が宇和島に入る前、豊臣政権下の大名としてここを領した、戸田民部少輔(みんぶしょうゆう)勝隆)が狂人に近い男だっただけに、事態が凄惨になった。
~中略~
「伊予宇和島は、戸田、富田の悪政によって荒れはて、民力の回復はよほど困難である」
というのは江戸城内での常識になっていたから、新領主伊達秀宗のやり方次第では富田氏の轍(てつ)を踏んで改易になってしまうというおそれがあった。
 これについて行政にあかるい者ほど強い緊張感を持ったはずで、その意味でもっとも強い危機感を持って事態を見つめていたのは仙台の伊達政宗であったにちがいない。
 その証拠に、政宗は、長子秀宗の入部にあたって、六万両を貸すのである。

P89
 江戸末期のある時期、蘭学は宇和島といわれたときがあった。わずか十万石の、それも江戸や上方からはるかに離れた南予という僻遠の地でたらしい学問の花がひらくには、それなりの経済の裏打ちが必要であったろう。
藩が一冊二十両、三十両という洋書を長崎や江戸で購入させ、早い時期には高野長英、ついては村田蔵六などの蘭学家を遠くから招聘し、その他、理化学や医学の器械、器材を購入するなど、新学問の育成というのは大変物入りなものであった。
この藩の財政が農業にのみ依存せず、小藩なりの規模で殖産興業と商品経済に力をいれていたことをその裏側の実情として見逃すことはできない。

P101
 伊予の方言は、上方語圏(かみがたごけん)になる。
 ただし宇和島だけはちがっていて、アヅマ方言が微妙に混入しており、いまでも宇和島の高校を出て大阪へ就職する人はすぐ大阪弁になり、東京へ就職するとごく自然に東京弁になるといわれている。
このふしぎさは、伊達氏の人数が一挙してこの地方に入り、支配層を形成したことが唯一の原因であるという。
 風習も仙台の民俗で宇和島もそれを共有しているものが多い。仙台ふうの七夕祭や鹿(しし)踊りなどがそうである。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1985/05/01
  • メディア: 文庫
愛媛県 43番明石寺

黒田 官兵衛

 織田勢力が播州まで伸びたときに、播州の大小の勢力はこれをきらい、毛利・本願寺方についたが、官兵衛は四面ことごとく敵という政治的惨境のなかにあって織田方に与(くみ)し、信長の代官である羽柴秀吉に属するという思いきったカードを選んだ。
中世末期の人として官兵衛のおもしろさはこのことにすべてを賭けて、たじろがなかったことである。
自分の個人的信念をあくまでも持(じ)しぬくという点では、日本の歴史の中ではめずらしい存在といっていい。
かれは自分の累代の居城である姫路城まで秀吉にくれてしまい、かれ自身は住まいがないまま、家族と家臣をひきい、姫路の北方十里の山里である山崎に移った。
自分の賭けに対するこれほど思いきった忠実さとか、あざやかな見きわめといった感覚は、ひとつには官兵衛の祖父が商人(目薬の委託販売)であったことからも来ているといってよい。
この点、かれは江戸期の武士や文人よりはるかに痛烈な合理主義をもっていたといっていい。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P112

街道をゆく9

街道をゆく9

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

姫路城

上田秋成

P160
 西鶴が死んで四十年して、大坂の曽根崎新地で上田秋成が生まれた。享保十九年(一七三四)だった。堂島の島屋という大きな商家にもらわれた。紙や油を商う。~中略~
 二十八歳で養父が死に、家産を継ぐ。暮らしに不自由がないのをいいことに、好きな文芸や国学にふけった。明和三年(一七六六)に、浮世草子「諸道聴耳世間猿」を出して作家として世に出た。
翌年に「世間妾形気」を書く。だが、西鶴にはじまった浮世草子はもう低落していて、秋成はあきたらない。
「雨月物語」をほぼ書き上げたのは、明和七年(一七七〇)だった。

P162
 秋成は本居宣長と大論争を起す。宣長が昔を絶対、日本を絶対とするあまり、非合理な復古を主張している。これに食ってかかる。~中略~
 その考えはあくまでも合理的で、広く、柔らかい。浪漫的な怪異小説を書いていても、秋成はやはり大阪人であった。
 この論争は今ならだれが見ても秋成の勝ちであろう。だが、宣長は膨大な弟子を擁し、幕府や紀州徳川家や朝廷と結びつく大学者である。一方の秋成は、一介の町医者に過ぎない。世間は権威ある宣長に軍配を上げた。
真実を解した人は沈黙した。みじめに傷ついたのは、秋成だった。現在にもよくある風景である。
「癇癖談(くせものがたり)」を書いた。当時の世相や人心の堕落のさまを写した。とくに大坂は金がすべてを支配し、虚偽が横行している。それへの憤りをこの本にたたきつけた。これは西鶴が写した大坂の後日であり、他の一面でもある。
へそ曲がりとか、偏屈だと秋成は人にいわれる。

P164

文化六年(一八〇九)六月二十七日に、秋成は七十六年の生涯を終えた。その墓のある南禅寺畔の西福寺の住職は、「大坂出生歌道之達人」と過去帳に書き入れた。やはり、秋成は大坂人であった。 

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)

大阪学 (新潮文庫 お 41-1)

大阪学 (新潮文庫 お 41-1)

  • 作者: 大谷 晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/12/01
  • メディア: 文庫

大阪府

大村益次郎

P546
  この時代の要請に応えて、維新史の決定的瞬間に彗星のように現れたのが、近代兵制の創始者といわれる村田蔵六こと大村益次郎である。 彼が果たした役割について、木戸孝允は晩年つぎのように語っている。 「維新は癸丑(きちゅう;ペリーが来航の嘉永六年)いらい、無数の有志の屍のうえに出できたった。  しかしながら最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就はむずかしかったにちがいない」 

P549
 大村は文政七年(一八二四)、山口県の三田尻に近い鋳銭寺村の医者の子として生まれ、明治二年(一八六九)、守旧派の刺客に襲われた怪我がもとで四十五歳で没した。
彼が維新史の表舞台に初めて姿を見せるのは、慶応二年、幕府の第二次長州征伐を迎え討つ長州側の指揮官としてである。時に年四十二。没年まで三年を余すにすぎなかった。しかし、彼はこの三年余に驚異的な仕事を着々と成し遂げている。

P550
 晩年の数年間に開花した彼の才能は、それ以前の時期、つまり村田蔵六として書物に埋もれていた雌伏時代に徐々に貯えられていったのである。
解説 赤松大麓

P496
 かれは軍事上の重要施設を東京に置かず、大阪に置いた。大阪は大阪湾にのぞむ町で、兵器や物資を瀬戸内海経由で九州へ直送することができる。
~中略~
 さらに彼の周到さは、日本第一等の西郷が反乱をおこした場合、西郷に匹敵する頭目が新政府にいないことを憂え、それにかわるべき権威として公家をかつごうとしたことであった。その人選もひそかにやった。 その人選もひそかにやった。まだ年若い男ながら西園寺公望をひそかにかつぐつもりで、西園寺が江戸にくるのを待ちうけ、まるで息子がにわかに出現したほどに蔵六はこれを可愛がった。
 西園寺公望はその後、壮年になってから蔵六のこの意図にふと気づき、愕然としたらしい。そのころには蔵六も西郷も死んで、この世にいない。

P543
 要するに蔵六は、どこにもころがっている平凡な人物であった。
 ただほんのわずか普通人、とくに他の日本人とちがっているところは、合理主義の信徒だったということである。 このちがいは一見ほんのわずかに見えるが、考えようによっては、日本的風土のなかでは存在しがたいほどに強烈なもので、その強烈さのために蔵六はその風土を代表する政治的狂人のために殺された。
 若いころ、田舎医としての蔵六は、はやらない医者であった。すでにこの作品の中でふれたように、患者が「お暑うございます」とあいさつすると、「夏は暑いのがあたりまえです」と人の顔を逆撫でするようなことをいった。患者たちは腹をたてて近寄らなくなった。
この調子を後年、蔵六はぬけぬけと日本的規模のなかでやってのけて、腹をたてた「患者」どもから国賊として殺されてしまったのである。

あとがき 

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)

花神(下) (新潮文庫)

花神(下) (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1976/09/01
  • メディア: 文庫

 

萩城 山口県

一向宗

P48
一向宗というのは、本願寺教団のことである。鎌倉期に親鸞がひらいた浄土真宗というのは、親鸞自身が「自分はひとりの弟子をもっていない」といったように、教団形成の意思はなかった。

親鸞はなるほど浄土真宗の立宗を宣言してはいるが、この場合の宗は多分に思想体系を指し、教団という意味はわずかしかなさそうに思う。
 この親鸞の子孫は、京都で親鸞の墓をまもっていた。墓守のことを留守職(るすしき)といった。
この留守職の家系から蓮如が出るにおよび、室町の乱世のなかで爆発的に教勢が伸び、やがて西日本において人口の一割以上の者がその信徒になるという盛況を示した。
 室町期は、農業生産高もあがった。諸国で開墾地主がふえ、それらが小作人という戦闘力を隷属させ、従来の守護・地頭という公式な支配体系を軽んずるようになった。そういう新興勢力が村々で孤立していればそれぞれ小粒だが、横に連繋すれば旧勢力からの自衛にもなる。その横に連繋する機能として、一向宗が大いに社会的効用をはたした。たとえば加賀ではそのような新興地主群が、
「守護(室町の正規大名)に租税をおさめるのはばからしい。それよりも一向宗におさめるほうがいい」
 として、ついには守護大名の富樫氏をたおし、加賀一国をそのような地侍(じざむらい)どもの協議制のもとで自治をおこなうことが二十数年もつづいた。加賀一揆がそれである。紀州のいまの和歌山市付近の雑賀の土地もそうであった。
一向宗は地侍連合の接着材として効用し、そういう全国組織の中心的な機関として本願寺が存在した。

P50
 一向宗の側からいえば、新興の地侍階級を掌握したことで教勢が伸びたといえる。かれらは家来や小作人を持っていたため、新興の地侍一人が入信すれば一統ぐるみが一向宗になるわけであり、地侍の場合からいえば他から攻められる場合、一向宗の組織がまもってくれることになるのである。
このため、地侍の次男坊あたりが、一向宗の僧になった。寺を実家でたててもらい、家来たちが檀徒になる。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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西本願寺 京都府

鉄砲伝来

P254
 種子島への鉄砲伝来についての諸資料をみても、十六世紀の種子島は琉球や南中国に対する貿易基地として相当なにぎわいを見せていたことは、たしかである。
 当時、中国に対する官貿易も私貿易も、輸出品の最大の品目は日本刀であった。種子島においても日本刀はさかんに打たれていたに相違なく、また日本刀だけでなく琉球に対して鋼塊(たまはがね)の輸出も多かったかと思える。
このように考えると、室町期の種子島は、いまでも「全島からカナクソがでます」と(住人注;市立種子島博物館の)鮫島さんがいうように、島をあげて鉄と鉄の連製品をつくっていたのではないかという想像が、ほぼ鮮明な形を帯びてくる。
 有名な鉄砲伝来というのは、天文十一(一五四二)年か、それともその翌年であるかという点で確定はしていないが、いずれにしても、種子島における製鉄および鉄加工のもっとも盛大な時期に舞いこんだ事件であるといっていい。

 鉄砲は、よく知られているように、この島に漂着したポルトガル船の乗組員がもたらし、二挺を当時の島主種子島時堯(ときたか)に多額な金額でゆずった、ということになっている。
日本側の最古の記録としては、伝来後半世紀以上経った慶長十一年に種子島家で撰せられた「鉄砲記」があり、またイエズス会の宣教師ロドリゲスの「日本教会史」にも、それに関する記述がある。
~中略~
「鉄砲記」では、種子島時堯が、鍛冶数人をしてその製法を調べさせた。
 似たようなものは出来たが、ただ銃身の底をどう塞いでいいのかわからなかった。底がねじになっているのだが、当時の日本にはねじの知識がなく、この点を知るのに非常な苦心があったとされている。
 いずれにしても、鉄砲は未開の孤島にやってきたのではなく、鉄についての産業が当時の日本なりに高水準に達していた島にやってきたということが、歴史のおもしろさであるかと思える。

P256
 鉄砲は伝来後またたくまに日本全国に普及するのだが、そのころにはこの元祖よりはるかに銃身が長大になっていて、その一点においても戦国期というのがいかに苛烈な時代であったかを想像しうる。
 鉄砲の出現は、山城を無用にした。
 戦国前期というべきそれまでの時代は日本全国に無数の小豪族が山城にこもって割拠していたのだが、鉄砲の出現でそれが無用になり、大勢力に亡ぼされるか統合されるかして、ついには数ヵ国を統(す)べる大勢力を出現させ、天下統一を可能にした。

 この点、種子島家もこの運命の例外ではなかった。薩摩の小勢力にすぎなかった島津氏が鉄砲を多数用いることによって、わずかな期間に薩摩、大隅、日向の三ヶ国を統一し、大隅半島のむこうに浮かぶ種子島をも併呑してしまった。種子島家にとっては何のために二千両も出して鉄砲を買い、島の技術力をあげてねじの問題を解決したかということになるのだが、 昔も今も、このようなことは無数にあるように思える。 

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

P75
日本で最初の鉄砲戦がおこなわれたのは長篠の戦(織田・徳川の連合軍と武田勝頼の合戦)で、これが一五七五年のことであった。すなわち、種子島の鉄砲伝来から三十二年後のことである。
 そのわずか三年後の一五七八年には、ヤソ会士の書翰(しょかん)によれば、大坂本願寺に鉄砲が八千挺もあったという。
 鉄砲だけでは戦争はできない。鉄砲を撃つ人間が要る。大坂本願寺だけで、そんな人間を一万人近くも集めることができたわけだ。このころ日本では、猫も杓子も鉄砲打ちを習ったのであろうか?
~中略~
 ところで、ポルトガル船が、はじめて中国に着いたのは、一五一四年のことであった。
場所は広東省の屯門(トウンメン)である。ポルトガル人の種子島漂着に先立つこと二十九年なのだ。
 秀吉の第一次朝鮮出兵は、文禄元年―一五九二年であった。
~中略~
 明軍の鳥銃隊は、朝鮮の役後につくられた。
 ついでにいえば、一六三五年ごろの日本の貿易品リストのなかに、銃弾一万一千六百九十六発というのがある。輸入ではなく、日本からの輸出なのだ。種子島から百年もたたぬうちに、日本は弾薬の輸出国になってしまった。

P77
 朝鮮で日本の鉄砲にさんざん悩まされて、明国ではやっと鳥銃隊をつくったものの、その育成にはまるで力をいれていないようだ。
 明の天啓(てんけい)年間というから、一六二〇年代、つまり朝鮮の役から三十年もたったころだが、満州族が東北でしきりに軍事行動をおこすので、やっと明廷はマカオ在留のポルトガル人を召して、本格的に将兵に鉄砲の技術を授けさせた。
 のんびりした話である。
 日本はどんなものでも、「役に立つ」とわかれば、それを採り入れるのに敏速であり、かつ熱心だった。
 明治以後の文明開化のスピードぶりは、けっして唐突なことでなく、「猫も杓子も」的な熱狂ぶりは、すでに先例があったのである。 

日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険
陳 舜臣 (著)
祥伝社 (2016/11/2)

日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険 (祥伝社新書 487)

日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険 (祥伝社新書 487)

  • 作者: 陳 舜臣
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: 新書

 

根来寺 和歌山県

2026年2月9日月曜日

出足を早く、引き足を早く

  なかなか手をつけない、またいつまでも終わらない。
それは、心に不平と不満、そして不安があるからだ。
「早く始めて、さっと終わる」習慣を身につければ、
頭の中はスッキリして、身も心も明るくなる。

丸山 敏秋 (著), 倫理研究所
幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝
近代出版社 (2001/11)
P20

文部科学省生涯学習政策局認可の社会教育団体で、全国に五十万人を超える会員をもつ団体、社団法人倫理研究所。その創始者である丸山敏雄が唱えた、生活の法則と幸せの法則、彼の人と生涯、思考・美学・感性などをまとめる。

 

幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝

幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝

  • 出版社/メーカー: 近代出版社
  • 発売日: 2020/04/01
  • メディア: 単行本


夫れ兵を鈍(つか)らせ鋭を挫(くじ)き、力を屈(つ)くし貨を殫(つ)くすときは、則ち諸侯その弊(へい)に乗じて起こる。
智者ありと雖(いえど)も、その後を善くすること能(あた)わず。
故に兵は拙速なるを聞くも、未だ功久(こうきゅう)なるを睹(み)ざるなり。夫れ兵久しくして国の利する者は、未だこれ有らざるなり。

新訂 孫子
金谷 治 (翻訳)
岩波書店; 新訂版 (2000/4/14)
P36 

 

新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2000/04/14
  • メディア: 文庫


丸山敏雄生家 福岡県豊前市天和

早起きの秘訣

早起きの秘訣?
そんなものがあるものですか、ただ「やればできる」のです。
「さあ明朝から早く起きるぞ」ときめて起きたらよいのです。
「清き耳」より

丸山 敏秋 (著), 倫理研究所
幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝
近代出版社 (2001/11)
P11

文部科学省生涯学習政策局認可の社会教育団体で、全国に五十万人を超える会員をもつ団体、社団法人倫理研究所。その創始者である丸山敏雄が唱えた、生活の法則と幸せの法則、彼の人と生涯、思考・美学・感性などをまとめる。

幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝

幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝

  • 出版社/メーカー: 近代出版社
  • 発売日: 2020/03/18
  • メディア: 単行本


   やる気がなくてもまず始めてみる。年賀状を書く気になれなくても、まずは机に座って書き始めてみる。そうすることで、脳が次第に活性化し、やる気が出て、のめり込んでいく、ということがあります。これを「作業興奮」といいます。
興奮とは、「脳の神経細胞が活性化する」という意味です。
 私は、本当は朝が弱いのです。布団から出ないでもっと寝ていたい。とくに冬は、温かい布団の中が気持ちよくて、起き上がりたくないと、強く葛藤します。
でも、「作業興奮」とおいう脳の現象を知ってからは、すぐに動き出すようにしています。

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?
池谷 裕二 (著)
祥伝社 (2006/09)
P58  

 

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

  • 作者: 裕二, 池谷
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/05/28
  • メディア: 文庫


P24
 一 あけがたから自分にこういいきかせておくがよい。うるさがたや、恩知らずや、横柄な奴や、裏切者や、やきもち屋や、人づきの悪い者に私は出くわすことだろう。この連中にこういう欠点があるのは、すべて彼らが善とはなんであり、悪とはなんであるかを知らないところから来るのだ。しかし私は善というものの本性は美しく、悪というものの本性は醜いこと(1)を悟り、悪いことをする者自身も天性私と同胞であること―それはなにも同じ血や種をわけているというわけではなく、叡智と一片の神性を共有しているということを悟ったのだから、彼らのうち誰一人私を損ないうる者はない。というのは誰ひとり私を恥ずべきことにまき込む力はないのである。
また私は同胞にたいして怒ることもできず、憎む事もできない。なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両眼瞼(がんけん)や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互に邪魔し合うのは自然に反することである。そして人にたいして腹を立てたり毛嫌いしたりするのはとりもなおさず互いに邪魔し合うことなのである。

P71 
 一 明けがたに起きにくいときには(1)、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。
「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。
「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか。それとも行動するために生まれたのか(2)。
小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序形作っているのを見ないのか。
 しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果すために馳せ参じないのか。
「しかし休息もしなくてはならない。」それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。どうように食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。
ところが君はその限度をこえ、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。  結局君は自分自身を愛していないのだ。

マルクス・アウレーリウス 自省録
神谷 美恵子 (著)
岩波書店 (2007/2/16)

マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

  • 作者: 神谷 美恵子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
  • メディア: Kindle版

 

丸山敏雄生家 福岡県豊前市天和