2026年6月2日火曜日

龍馬脱藩の道

P117
文久二(一八六二)年三月二十四日、高地城下を出奔した龍馬は翌二十五日、檮原の志士、那須俊平、信吾邸に宿泊。翌二十六日、村内の宮野々番所、松ケ峠番所を抜け、四国カルスト西端の韮ケ峠を越えて伊予国へ脱藩した。私たちは龍馬の足取りを追い、那須父子邸から旧街道を辿った。
「龍馬脱藩の道」と記された標識が所々に立てられ、無言で道案内をしてくれる。車を走らせながら「昨夜、資料を見ていると茶や谷というところで、民俗学者の宮本常一氏が「土佐源氏」の聞き取りをしているようです。地図を見てみると茶や谷には龍馬脱藩の道も通っています」と報告すると、「それは面白そうじゃないか。思わぬ発見に出くわすかもしれんぞ」と氏は目を剥いた。
「土佐源氏」は宮本常一氏の代表作「忘れられた日本人」に収録される作品で、宮本氏が戦前、檮原の老人に取材した逸話を戦後発表したものだ。

P129
 後日、私は茶や谷に「D'a Pan屋(だっぱんや)のオーナー、下元秀俊さんを訪ねた。
下元さんは地域活性化を目的に坂本龍馬や檮原出身の志士を顕彰する檮原龍馬会を立ち上げ、「龍馬脱藩の道」の標識を揚げてまわった張本人であった。
聞けば「土佐源氏」のモデルとなった、山本槌造氏の玄孫(やしゃご)になたるのだそう。
 下元さんの話によると、槌造氏はその橋のたもとの自宅に暮らしていた。土地に縛られることなく牛飼いとして各地を歩き、得た知識を老後、地域に還元したようだ。槌造氏が造った水車の跡はいまも川のほとりに残っていた。


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)

山折哲雄の新・四国遍路

山折哲雄の新・四国遍路

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: ペーパーバック
愛媛県 四国カルスト

日本人の土地所有欲

P32
(住人注;奈良・平安朝の律令体制の土地制度で)土地はいっさい「公」のものというのが建前で、この場合、公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、「公家(くげ)」という概念に即した公である。具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が「公田」に「公民」を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることのよって成立していた制度であった。
 この「公民」をきらった者が、逃散して浮浪人になり、関東などに流れて原野をひらき、農場主になった。
ただ律令体制ではそういう場合の土地所有の権利が不安定だったため、かれらは流人の頼朝を押し立て、京の「公家」に対抗し、ついに鎌倉幕府頼朝にひらかせることによって、自分たちの土地所有の権利を安定させた。
 私はそういう意味で、鎌倉幕府の成立というのは明治以前における最大の革命だった思うのだが、ただ、「公家」を潰さずにその権威や制度、あるいは官名といったものを政治的習俗として残したというところに、可笑し味がある。

P47
塵芥を非私有地に投げ散らかす光景はむしろいまの日本的風景の特徴というべきもので、亀田郷にかぎったことではない。例えば大阪府南河内郡というのは上田正昭教授のいう「河内王朝」の故地で、大和の飛鳥に匹敵するような丘陵と田園の美しい土地だった。ところがここ十数年来の土地ブームに翻弄され、農地が宅地や一般地に転用され、しかしいろんな事情で家も工場も建たぬ所がおおく、「何々々用地」という棒杭だけが立って空地になっている。そういう空地に塵芥が投棄されていて、亀田郷の鳥屋野潟どころでなく、この一億倍も荒涼としている。異常な国土といっていい。
 こういうすさまじさは、風景を公的なものとして見る伝統のなさとつながっている。さらには、稲作という、どういう狭い土地でも水と日光があれば生産化しうるという農業が伝統になってきたために土地所有欲が牧畜を基盤とする社会に比べて病的に強く、その私有感覚の苛烈さが、裏返って非私有地とみればそこへ何を投棄してもかまわないという気持になるらしい。
 まことに日本人の土地所有欲は苛烈である。かつての農民は、田のあぜが隣の田のぬしによって一ミリ削られているだけで、相手を殺しかねないほど昂奮したが、農村から出て都市化した地域に住んでも、この精神の濃厚な遺伝をもっている。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -
奈良 飛鳥大仏

如意輪寺 奈良県吉野郡吉野町吉野山

サイカ党

 戦国時代に、サイカ党という奇妙な武士集団があった。
 紀州雑賀(さいか)という。いまの和歌山市の南につながって、山地がいきなり海に没するミサキのあたりにむらがって住み、全員鉄砲に習熟していた。
~中略~
 日本の鉄砲の歴史は、たれでも知っているとおり、天文十二年(一五四三年)種子島に漂着したポルトガル船の船長が島の王様種子島時堯に一梃千両で二梃売りつけたところところからはじまる。
 それからわずか十二年後の天文二十四年の厳島合戦に、はやくもこの新兵器が戦場にあらわれ、六、七梃で敵をなやましたとある。
~中略~
 さて、話はもどって、サイカ党のことである。
 かれらは、もともと郷士団で、田畑のすくない土地だから、浦へ出て魚をとったり、山でイノシシを追ったりして、妻子をたべさせていた連中だった。
 この大田舎に早く鉄砲が伝わったのには、わけがある。種子島時堯の館でごろごろしていた旅の僧があり、鉄砲をみて、
「手前に一挺くだされませぬか」
 時堯はなにげなくあたえた。むしろ日本史を動かしたのは、長篠ノ戦いよりも、この瞬間だったかもしれない。
 僧は、紀州根来寺の男だった。根来の僧兵はこのために早くから火力装備をもったが、紀州雑賀は根来に近い。地理的に近いところから、雑賀衆が鉄砲に習熟することで、天下にさきがけた。土地では食えないのだ。
 自然、かれらは、技術傭兵になった。諸国に合戦があると、かれらは集団的に傭(やと)われて、大いに戦場で活躍した。きのうはA国にやとわれ、きょうはB国にやとわれるということもあったはずだ。
 いっさい仕官はせず、技術を売ってのみ生活していたという武士集団は、戦国社会では、鉄砲のサイカ党と忍術の伊賀者のほかにない。専属でなくフリーの戦闘タレントだったというわけである。
 戦国期を通じて、かれらはあくまでもフリーの職業精神に徹してきたのだが、最後になってそれが崩れた。ゼニカネでくずれたのではない。
 信仰でくずれたのだ。
 当時の新興宗教一向宗(真宗、いまの本願寺の宗旨)に集団入信してしまったのである。
 信長が摂津の石山本願寺を攻めたとき難攻不落だったのは、よくいわれるように城兵の信仰の固さだけではない。
 当時、最新鋭の火力装備をもつ織田軍でさえ、石山本願寺にこもるサイカ党の火力のまえには、手も足も出なかったのである。
(昭和36年11月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10

司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P69

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫


根来寺 和歌山

高野聖

P209
 高野聖は、数人が群れて回国(かいこく)する。「洛中洛外図」などを見ても、旅をする聖たちが、どこへ行くのか杖を持ち、背を曲げて歩き進んでいる。かれらは聖であるという証拠として亀が甲羅(こうら)を背負うようにかならず笈(おい)を負う。笈の中には経文や弘法大師の像などが入っていて、村々で逗留しては加持祈祷(かじきとう)したりして米銭を得る。
~中略~
 安土桃山時代から徳川初期まで在世したかとおもわれる氏名不詳の筆者が書いた「当代記」全十巻は当時の世相をうかがうのに便利な本だが、そこにも高野聖のことが出ている。以下、多少漢文まじりを訓(よ)みくだしにあらためて写すと、
 昔より 高野山聖 諸国へ下る時 我と宿取ることなし。
 路巷にて 宿かせ〱と呼ばはる。心ある人は上下によらず宿をかす。若し宿なければそのまま路頭に明かす。
 かれらは宿を借ろうと呼ばわるために、聖の異称として「夜道怪(やどうかい)」などという文字が当てられたのは、「高野聖にやど貸すな 娘とられて恥かくな」などということばが流布したことと無縁ではなかろうし、聖たちも悪い仲間の悪行をひっかぶって、まことに詮(せん)もないことであったにちがいない。
 高野聖は僧形(そうぎょう)をしている。しかし正規の僧ではない。

P213
 高野山を権威と信仰のよりどころにした聖が、高野聖である。かれらは時代の流行の念仏を護持するとともに、弘法大師の御利益(ごりやく)をもかついだ。
空海には、阿弥陀如来に頼みまいらせて南無阿弥陀仏をとなえるという思想はまったくない。高野聖が、勝手に念仏と空海をくっつけ、念仏の他力本願と空海の即身成仏という理論的には矛盾したものを堂々と信仰化してしまって、諸国を歩いたのである。
「病気なおしにはお大師さんの加持祈祷を。死者に対して阿弥陀如来の本願を慕う念仏を」というのが、室町期には夜道怪などとさげすまれるほどにしたたかだった高野聖の両刀使いであった。
 江戸末期まで、高野山にあっては、
 学侶方(がくりょがた)
 行人方(ぎょうにんがた)
 聖方
 という三つの機能があり、それぞれ仲が悪かった。学侶方は奈良・平安期の官僧およびその候補者といってよく、これに対し行人は叡山などの僧兵にあたるであろう。本来、高野山の雑役夫で便宜上僧形(そうぎょう)だった者が、しだいに一山(いっさん)で勢力を得、学侶と対抗するまでになった。かれら行人はおなじ私度僧ながら聖とは異なり、高野山に常住して旅には出ない。
 これに対し、高野聖は、回国が専門である。
 こういう自然に成立した制度は、空海自身、思いもよらぬことであった。かれが山を開き、平安中期ごろから栄えはじめるにつれて出来あがってきたもので、空海の末弟と信じている学侶だけで高野山が成立していたとすれば、高野山じたいもあるいは空海信仰も、空海以後に見られるような大きな発展はしなかったにちがいない。常時数千の行人が山を守り、常時万余の聖が諸国を歩き、いわば大師信仰を販売していたからこそその後の高野山がありえたといっていい。
 小説的な想像だが、高野聖が、奥州のはてまでゆき、村々に泊り、すすめられれば何十日も逗留して、加持祈祷、念仏、説法、諸国のはなしなどをする。
「この村の裏山にふしぎな泉がある。あお泉は霊泉であるゆえに大切にせねばならない」
 などと言い、その泉はお大師さんが奥州まで来られたとき(空海が奥州に行ったはずはないのだが)たまたま渇きをおぼえ、杖を地面に突き立てたところ、たちまち泉が湧いた、以後涸(か)れることがない、などという空海伝説を高野聖たちは創ってまわったにちがいない。中世以後、高野聖というものが存在しなければ、空海のあのむずかしい体系が、大師信仰という形になって民衆に根付くはずがなかったということが言えるのではないか。  

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
 

街道をゆく9

街道をゆく9

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版
高野山 奈良県

安曇

P22
「安曇(あど)」
 という呼称で、このあたりの湖岸は古代では呼ばれていたらしい。この野を、湖西第一の川が浸(ひた)して湖に流れこんでいるが、川の名は安曇(あど)川という。
 安曇は、ふつうアズミとよむ。古代の種族名であることはよく知られている。
かつて滋賀県の地図をみていてこの湖岸に「安曇」という集落の名を発見したとき、
(琵琶湖にもこの連中が住んでいたのか)
 と、ひとには嗤(わら)われるかもしれないが、心が躍るおもいをしたことがある。安曇人はつねに海岸にいたし、信州の安曇野を除いて内陸には縁がないものだと思っていた。

~中略~
 古代中国では
「倭(日本とおもっていい)には、奴(な)(那・娜)の国というのがある」
といわれているが、この奴の種族が、安曇であることはほぼまちがいあるまい。
かれらは太古、北九州にいた。
そのもっと古い根拠地については、
「筑前(福岡県)糟屋郡阿曇郷が、阿曇(安曇とおなじ)の故郷であろう」
と、本居宣長がその著「古事記伝」でのべたのが最初の指摘であろう。「古事記」にある安曇系(海人系)の神話をみてもごく普通になっとくできるところで、かれらが種族神としてまつっていた神が、宇佐、高良、磯賀(しか)という九州の大社に発展してゆくことは周知のとおりである。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく1

街道をゆく1

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

 ところで、海で漁をしてくらしている者の総称を、あま(漢字では海(あま)、海人、海部、海郎などと、気まぐれなほどいろんな文字をあてる)ともいうが、安曇(あずみ)(阿曇)ともいった。
諸国の浦々にすむすべての安曇たちの長官は、古代王朝の職掌名として、安曇連(あずみのむらじ)とか宿禰とかいった。
 「日本書紀」の「応神紀」のいうところでは、応神王朝はこの安曇の大首長を連(むらじ)の職につけて大阪湾沿岸の宮廷に常駐させ、そこからはるかに諸国の浦々にいる海部を統轄させていた。だとすれば手近の淡路の海人などはもっとも強い統制下におかれていたにちがいない。そのかわり王朝の旗本という栄光を感じていたかもしれず、げんに淡路の海人は古代天皇がひきいる海軍だったという証拠がいくつかある。おそらく日本最初の海軍だったであろう。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P123

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

下関市 室津下漁港

島国のくせに内陸国家

  私は古代の漁撈集団というのは、東アジアの沿岸に貼りつき、東北アジアの海を共通の宇(いえ)として暮らし、似たようなクリヌキの小舟と似たような漁法をもち、また以下のことは、やや空想の域を出ないが、神話や語彙(ごい)において共通点が多かったかと思える。
 日本での古代漁労集団は安曇(あづみ)族とよばれるものだが、この集団が、遼東半島から朝鮮半島の黄海沿岸に住んでいた同業の連中とまったく無縁だったとは考えられない。
 中国では、漁民は徹底して軽んじられてきた。中国体制を参考にした律令日本の立国もまた農をもって基本としたため漁労民は大いに軽んじられた。その意味では明治以前の日本は小さな島国のくせに内陸国家であったといってよく、このため外洋への航海と船舶は容易に発達しなかった。
 日本で外洋船が出現するのは、飛鳥・奈良朝の遣隋・唐使船の派遣からである。当時の日本人たちにとって船と言えば小さな漁舟(いさりぶね)のことで、外洋船など、どう建造してしいのかわからなかったにちがいない。
 妙なことに、朝鮮半島では比較的早くから外洋船が発達していた。
 たとえば北方の高句麗(北朝鮮と南満州の一部)などは、日本海を縦断できる外洋船を古くから持っていたということからみて、一種海洋国家の要素をもっていてのではないかと思える。このことはこの地に高句麗という民族国家ができる以前、漢の植民地で、楽浪郡などが置かれ、その文化や技術を高句麗が継承できたというせいではないかと思えるが、想像でしかない(ただしこんにちの朝鮮の歴史家のあいだでは漢の楽浪郡の影響を考えることは一般によろこばれないらしい。
しかし文化というものは他文化の影響で変化し発展するものであるということを考えると、農業と牧畜の国家だった高句麗が、外洋船の建造能力をもっていたという意外さは、他からの影響として考えるほうがよりきらびやかであるし、また常識的ではないかと思ったりする)。
 南朝鮮の黄海沿岸の上代国家であった百済(~六六〇)も、外洋船をもっていた。
 百済はどういうわけか、華北の北朝にはつよい関心を示さず、揚子江以南で興亡した六朝(りくちょう)(二二二~五八九)の遊び性のつよい貴族文化が好きで、わざわざ遠い揚子江河口まで船をやっては、朝貢(ちょうこう)貿易をつづけていたために、黄海から東シナ海を突ききってゆく外洋船が必要だったのである。こんにち百済船と六朝船とを技術的に比較する材料がないが、両地帯の大船建造法は似ていたのではないか。
 七世紀後半に百済が新羅のためにほろぼされ、その遺臣や遺民が大量に日本にきて、日本の上代文化に重大な影響をあたえた。
 日本の外洋船の建造技術にも、大きな影響をあたえた。竜骨などはむろんなく、船底も扁平で、構造的には箱をつくるように戸板のような平面をべたべたと張りつけただけのものであった。つよい横波などを連続的にうけるとばらばらになったりして、構造上、東アジア各地の大船のレベルからみると、もっとも脆弱(ぜいじゃく)だったのではないかと思える。
 同時代の新羅の外洋船のほうが、まだましだった。新羅はいわゆる三韓のうちではもっとも後進国だったが、百済をほろぼし、高句麗の故地をあわせ、唐の勢力を追っぱらって朝鮮半島における最初の統一国家をつくった。当然、高句麗の故地をあわせ吸収したに相違なく、遣唐使船時代の記録をみると、新羅船がいかにも堅牢で安全そうで、日本側からみればひどくうらやましいといった感じが匂ってくるようである。
~中略~
 遣唐使は寛平六(八九四)年に廃止されたが、以後、日本における外洋航海も途絶え、大船建造の技術も衰退した。
 平安末期、平清盛が航海貿易策をとりながらも、それを実施する大船についてはわざわざ宗から操船者付きで買い入れるざるをえなかった。いかに日本が海洋国家としての実がなかったかということになるであろう。
清盛が唐から船員付きで購入したのが「高倉院御幸記」にでてくる唐船である。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P181

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

関門橋

2026年6月1日月曜日

ラマ教

 この仏教は、たしかにインドで成立したものだが、仏教というよりも、いわゆる左道密教なのである。
左道というのは、邪道という意だが、インド仏教の衰亡期の寸前にあらわれた派で、人間の欲望を積極的に肯定し、性交を密教原理の具象的あらわれとし、かつ秘儀とするものであった。これがインドから北上して八世紀のチベット高原に入り、九世紀以後、定着した。
 モンゴルに入るのは、ずいぶん遅かった。十六世紀の明代だった。土着の宗教であるシャーマニズムを衰弱させる勢いでひろまったのは、清朝になってからである。
 ラマ教にあっては、生身(いきみ)の活仏を観音菩薩または阿弥陀如来であるとするのである。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P214

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版

 

九重連山 大分県

慈悲の念を送ろう

  自分の上方に慈悲の念を向け、自分の下方に慈悲の念を向け、
自分の横、前後左右に慈悲の念を向け、
わだかまりなく、分け隔てなく、
恨みなく、敵意なく、
優しい念を送るよう、
練習するように。
経集150

超訳 ブッダの言葉
小池 龍之介 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2011/2/20)
一六四  

 

超訳ブッダの言葉

超訳ブッダの言葉

  • 作者: 小池龍之介
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

人間というものは悪いことばかりを思いつくばかりでなく、よいことも思いつく。われわれのような下らぬ者でも、よいことを思いつくかもわからぬものである。
それは悲というところから働きでるのである。凡人はただ一時本能的に発作的にこの働きを出すが、至人はこの働きが、なんらの支障なしに、いつもすらすらと流れ出る。ここに宗教的訓練がある。  悲ということは他人を憐れむという本能的な事実から起こる。

禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)
P77

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫 H 101-2)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫 H 101-2)

  • 作者: 鈴木 大拙
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2008/12/25
  • メディア: 文庫

 

九重連山 大分県

仏像

さて、みなさん、喜びも楽しみも悲しみも怒りも、すべての感情や心身のバランスを完全にコントロールしきった顔って、どんな顔だと思いますか?想像できますか?それは仏像のお顔です。あの顔、あれは仏教の理想を端的に表現しています。
~中略~

 仏像は大別して四つくらいの機能を発揮していると思われます。
 ひとつは<①信仰の対象>です。そもそも仏像は、仏教の大衆化に沿って発達してきました。人々の宗教的熱情が投影されたものでもあるわけです。仏像と対面すると、スピリチュアルな関係性が共振現象を起こすこともあります。~略~
 ふたつ目として、<②修業の補助>という機能があります。仏教はイマジネーションの修業がすごく豊富です。中でも「観想」という「仏の姿」や「浄土のありさま」を観るトレーニングは重要です。その手助けとして仏像や荘厳(この場合は、仏像のまわりにあるさまざまな飾りつけ)を活用するのです。~略~
 さらに<③教えやメッセージの象徴化>という機能があります。仏像の姿勢、手の形、視線、持ち物、脇時から台座や光背に至るまで、さまざまな教えや意味を象徴的に表現しています。~略~
 そしてもうひとつクリエイター自身の<④霊性の発現>という意味があると思います。古来、自分自身の内面から溢れ出す宗教性を創作へと向ける人は数え切れません。
円空上人や木喰上人などによる造形は、まさに霊性の発露といった趣です。また仏師さんが「私が仏を彫るのではない。材料の中にもともとおられる仏様を出すのだ」などと言うのを聞くと、宗教と芸術は通底していることをあらためて確認することができます。

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P305

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

  • 作者: 釈 徹宗
  • 出版社/メーカー: バジリコ
  • 発売日: 2008/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 仏像はこうして、見る人間の状況、体調によっていくらでも伝えることを変える。それが私にとっての仏像の魅力のひとつだ。人間の似姿をとる仏像の中に、我々は自己を投影し、自己カウンセリングのように様々な発見をする。

見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)
P64

 

見仏記ガイドブック

見仏記ガイドブック

  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本
九重連山 大分県

見仏

P28
 本堂の奥がそのまま宝物館になっているというベストな構造の文殊院では、内陣の奥に大きな扉が見え、その向こうにあの夢にまで見た獅子乗りの文殊が出る。

P30
見ほれていると、みうらさんが言った。
「シーンとしているのが不思議なんだよ。すごく躍動感あるじゃん、この像全体に。
だからほんとは木魚とか鳴ってるときにこそ見るんだなってわかるんだよね。今はオフだよ」
「ああ、そうか。そうだよね。お経の中でこそ生きるのかもね」
 もし我々が美術的な視点でだけ仏像を見ているならば、木魚の中で復活する生命を想像することはない。また、逆に宗教的な視点だけで見るならばどんなときでも文殊は生きている。
ならば”木魚の音の中でこそ生きる”と感じる我々はどの視点から仏像を見ているのだろう。
 おそらく我々は美術と宗教のどちらにも身を置かず、ただ双方を限りなく尊敬し、称えているのだろう。
二つが接点を持ち得る地点を一瞬ごとにサーチしながら仏像を見、その生命の奇蹟的なよみがえりに感動する。

「獅子、もうすぐ飛び出るね。柵を越えるよ」 

見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)

見仏記ガイドブック

見仏記ガイドブック

  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2012/10/19
  • メディア: 単行本

 


(二二)このようであるから知るべきである。尊者は釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果(注;阿羅漢になるまでの修行の四階停。)を証して後に続く仏の出現を待っているのであって、どうして釈迦牟尼仏に会わなかったことがあろうか。
釈迦牟尼仏にただ会っただけでは見仏ではない、見仏とは、釈迦牟尼仏をまさしく釈迦牟尼仏として見るのである、釈迦牟尼仏の覚りと境地を等しくすることを「見仏」と云うのである。

現代文訳 正法眼蔵 3
道元 (著), 石井 恭二 (翻訳)
河出書房新社 (2004/9/4)
P319

現代文訳 正法眼蔵〈3〉 (河出文庫)

現代文訳 正法眼蔵〈3〉 (河出文庫)

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2015/01/09
  • メディア: Kindle版

 

九重連山 大分県