2025年12月27日土曜日

人間のすることだから

[7] 人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき(住人注;安元三年の大火災)京中の家をつくるとて、宝費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍(はべ)る。

方丈記 現代語訳付き
鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳)
角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)
P19

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/09/12
  • メディア: Kindle版

 感情と思考は拮抗する心理機能です。感情は基本的には快・不快にもとづく判断機能です。一方、思考は拮抗する心理機能です。
感情型の人と思考型の人の論争は、話し合いが決裂して結論が出ないことが多いのはこのためです。男女のもめごとや親子の言い争いに、この対立が多く見られます。
 例をあげましょう。以下は感情型の女性と思考型の男性の会話です。
~中略~
男性は論理的に説明しようとし、女性はそのことを感情的に受けつけていません。~中略~
一方、男性の方は、説明しようとすれば、どうしても論理的・思考的になっていまいます。論理的・思考的になると感情が無視されてしまい、論理でものごとを推し進めようとします。近代社会は感情よりも論理のほうを大切にしがちで、とくに社会生活では、論理的に指示されるといやでも従うことも多いでしょう。

プロカウンセラーの聞く技術
東山 紘久 (著)
創元社 (2000/09)
P170

プロカウンセラーの聞く技術

プロカウンセラーの聞く技術

  • 作者: 東山紘久
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2015/04/01
  • メディア: Kindle版

 父は人生を振り返って、一番大切な教えをこう考えているそうです。「自分に対しては真面目すぎず、他人に対しては厳しすぎないこと」。
自分や他人の間違いにもっと寛容で、失敗も学習プロセスの一環だと思えればよかった、と。いまの父ならわかるのです。過ちを犯しても、大地が揺らぐことなど滅多にないのだと。~中略~ 人生に起きることのほとんど、とくに失敗は、そのときの自分が思っているほど大したことではない―この点を何度も思い知ることになったと言います。

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
ティナ・シーリグ (著), Tina Seelig (原著), 高遠 裕子 (翻訳)
CCCメディアハウス (2010/3/10)
P212

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2010/03/10
  • メディア: ハードカバー

 昔の日本は功成り名を遂げた人物に「ダメなところ」があるのを受け入れる社会でした。
たとえば政治家や大物俳優が愛人を囲っているぐらいのことは、とくに問題視されなかったでしょう。
無頼派の芸能人やスポーツ選手が暴言を吐いてもバッシングされることはなく、むしろ世間は喜んで拍手喝采していたぐらいではないかと思います。
 しかし、今の社会は小さな欠点も見逃しません。たとえば大相撲の世界では、横綱の白鵬が審判の判定に対して「緊張感を持ってやってほしい」とクレームをつけたことで、「品格がない」などとバッシングされ、謝罪させられました。
~中略~
他の分野でも、その才能によって評価される立場の人物が人間的にもパーフェクトを求められる傾向はあるでしょう。浮気や暴言など、小さな不良行為が見咎(みとが)められて大騒動になることもしばしばです。「スキャンダル」のハードルは、昔よりもはるかに低くなった印象があります。
 そういうスキャンダルで大騒ぎしているメディアや受け手も、本音の部分では「そりゃあ、あれだけイケメンなら浮気ぐらいするよね」と思っているに違いありません。でも、そういう声は表には出てこない。これも日本が「建前社会」になっていることの表れのように思えてなりません。
 さらに問題なのは、行動に表れない心の中までパーフェクトを求める風潮が強まっていることです。
 人間は誰でも内心に邪悪さや欲望を抱えているので、誰かにイヤなことをされて頭に来れば、先ほどの話のように「あいつをブッ殺してやりた」とか「死ねばいいのに」などと思うこともあるでしょう。
それを本当に行動に移してはいけませんが、心の中で思うだけなら何の問題もありません。学校の教師が淫らなことをしたいという願望を持っていたとしても、実行しなければいい。
そういう「ダメなところ」も含めてその人の自己が成り立っているのですから、「そんなことを考えるだけでも許せない」と否定されてしまったのでは、心の安定は保てません。

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹 (著)
青春出版社 (2015/4/16)
P133

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者: 和田 秀樹
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書

P460
 まえの月の正月十二日、慶喜が京から逃げ帰って以来というもの、旗本屋敷では奉公人の整理をしはじめた。若党、中間(ちゅうげん)、その他雑役の下僕を解雇した。
いざいくさとなれば人手は何人あっても足りるということはなく、そういう奉公人も弾はこびや兵糧はこびに大いに役だつであろう。またそういう有事に役立たせるために人数を養い、それを養うために禄というものを世襲してきている。ところがいざ徳川家の危難というこのときになってかれらがどんどん人減らしをしてゆくというのはどういうことであろう。
 戦意がないからである。
(これが、江戸を滅亡させた)
 ともいえぬことはない。継之助は非戦論者であったが、かといって武士の腰がぬけてはならず、ぬけることについては憎悪以上のものを感じている。

P462
質屋どもは早晩江戸総攻撃がはじまって江戸が戦火に焼かれることを予想し、質草をとらないのだ、と継之助はいうのである。質草をとっても焼けてしまうだけであろう。それより金銀で持っていればまちがいないと思うのであろう。
~中略~
「そう。質屋といえども江戸っ子であるはずだが、その前に人間だ。女房も子もあるだろうし、とにかく生きて生活している。かれらが蔵止めをして金銀をひとに渡さないのは生きるがためだ。世の中はそういうことで動いていることを知らねばならない」

峠 (中巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (2003/10)

峠(中) (新潮文庫)

峠(中) (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/10/25
  • メディア: 文庫
北九州市門司区柄杓田

禅の世界

  ある日のこと釈迦牟尼仏が、聴衆が多数に集まっている中央の説法の座についた。
大衆は今日もありがたいお話が聞けるものと思い、緊張して釈尊の口許を見守っていた。釈尊は一言も発せず、会座の前に供えてあった一枝の花を取り、目の高さにもち上げて、二本の指でその花を何遍か拈った。
だれもそれが何の意味を示すか全然理解しなかったが、迦葉(かしょう)尊者はやがてにこっと微笑した。拈華微笑(ねんげみしょう)という。
その微笑を見た釈尊はすかさず、「今わたしが考えているこの法門を汝に付属する」といった時に、禅が釈尊から迦葉に伝わったものなのである。
これは文字通り以心伝心で、相互の心の触れ合いだけで重大な取り引きが行なわれ、言葉や文字などは一切使用しなかった。それで禅宗では、
 不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏
といい、経典とか解釈とかいうものを少しも重視せず、これらの文献は月を指す指のようなもので、最初に月ははどこにあり、どれが月であるか全く知らない時は、「あれが月だ」と指さす指が必要であるが、一度真如の月を知った以上、指は重要性がないのと同じように、究寛の目的である宇宙の真理を知るのには経文や仏画や仏像もそれほど重要性がないと説くのである。
それで「不立文字」という。釈尊の説法によらず別に心と心との触れ合いで重大な取引が完成したから「教外別伝」といい、直接に心と心の取り引きがあるから「直指人心」という。
そして宗教的最後の目的である「見性成仏」に達成するのが、禅の根本的な考え方であって、仏教の各派の行き方や考え方と全然異なるものをもっているのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P179

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

(住人注;百丈)禅師が八十歳のとき、体調を案じた弟子たちが作務を休んでくれるよう老師に提言したが聞き入れてもらえず、そのため弟子たちは老師の作務の道具を隠してしまったらしい。
すると老師、三日も坐したまま食事もとらない。それで弟子が理由を訊ねると、「一日作(いちじつな)さざれば一日食わず」と答えたという。
 この話を浅く読むと、「働かざる者、食うべからず」と似たように受けとられる危険がある。
しかしこの言葉は、あくまでも自律的なものであるからこそ意味がある。
どんな労働も三昧になれば快感を引き出す器であり、因果一如の行為であってみれば、他人にとやかく言われる筋合いのことではない。だから食べることを労働の報酬と見る見方もおかしい。

作務も食事も、禅では等しく「仏作仏行」なのであり、「コレが駄目ならアレもあかんやろ」というのが老師の真意なのである。
そんなふうに受けとっていただきたいのだが、まあしかし、拗(す)ねて見せたという印象は拭えない可愛いエピソードではある。


禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P155

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

  • 作者: 玄侑宗久
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/08/02
  • メディア: Kindle版

P36
中国に入った大乗仏教は、そこまでまた多数の意見がとり入れられ、まさに百花済済といいますか、それこそインド以上に花開き、爛熟します。
しかしそれは、いわば学問仏教であって、実際は、真実の釈迦の教えから遠いものとなっていったのです。
 それを見て、これでは仏教の本質に違(たが)うじゃないか。仏教の本質は禅定思想ではあるまいか。自分のことは自分で解決するほかはない。他から聞いて解決できるものではないのだ―ということを説いたのが、いわゆる達磨大師であります。
 達磨大師はインドから中国へ、南周りで来ておりますが、そのことと、禅定思想を中国へ持ち込んだということを合せて考えてみますと、どうも達磨大師は小乗仏教徒の中から出たのでは丹日と思われます。
われわれは、禅は大乗仏教である、と申しておりますが、達磨大師そのものは、私見では、いわゆる実践的な小乗仏教徒の一員として、中国へやってきたのではないかと思われるのです。
 達磨大師は嵩山(すうざん)の少林寺という寺へ行かれて、俗にいう面壁九年、いわゆる壁に向かって九年間ひたすら坐し、何事も語らず、ただ瞑想のみの生活をつづけられたといいます。
 たまたま、二祖慧可(えか)というかたがお弟子となって、はじめて中国人の手に達磨の意志が伝わった。それが、禅の中国における最初の種落としでありました。

P41
昭和二十二、三年ごろ、アメリカのある婦人が、大徳寺の境内の庵に住み込んで禅の研究をしておりました。彼女は禅について本を書いたほど、それは熱心な研究家でしたが、しかし彼女は、クリスマスカードこそちゃんと毎年送ってくれるけれども、お正月の慶びのことばだけは一度もよこしたことがない。
つまり、私が見るに、彼女は確かに禅の研究に没頭してはおりましたが、実際にはキリスト教から少しも離れてはいなかったのです。
 というよりも、離れることができなかったに違いない、と思うのです。私は、宗教というものは、それほどのものだと思っています。
 ですから、禅がたとえ欧米でもいろいろとり上げられましても、それがはたして宗教として定着するかどうかということになりますと、私は大きな疑問をいだかなかざるをえません。
しかし、私はそれで少しもかまわないと思う。キリスト教徒がここへ来て、座禅を組み、たとえ十字を切ったとしても、それはそれでよいと思います。

P45
 私もまた、若いときからそのように(住人注;百丈のように作務ということ、つまり働くということを大切に)暮らしてきましたから、いまでも草むしりなどの作務が大好きです。実際、働いているときほど、何もかも忘れて無念無想になれるときはない。
ある意味では、座禅をしているときよりも心はからっぽです。しかし無念無想だからといって、何もしていないのではない。せっせと草はむしりとっているのです。
けれども、オレはこれだけ草をむしったとか、これだけ庭をきれいにした、とかの観念は少しもない。 ただ生えてくる草を無心でむしりとっているだけです。十分にその仕事を果たしていながら、少しもそれに拘泥(こうでい)していない姿、これが禅の行動というものです。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

  • 作者: 立花 大亀
  • 出版社/メーカー: 里文出版
  • 発売日: 2011/03/15
  • メディア: 単行本
北九州市門司区

個人主義vs家族主義

P76
近年、クリスマスに主婦が出席するパーティやクリスマス会の種類も変化している。第一次調査(住人注;1999年12月~2000年1月)では、子供のお稽古の会や地域の子どもクラブなど「子供」中心の催しへの同伴出席が多かったのだが、第二次調査調査(住人注;2004年12月~2005年1月)では「私の昔の仲間と」「私の友人家族と」「私のお稽古の会で」など大人同士のパーティや、たとえ子供連れであってもお酒持参で主婦が楽しめる大人中心のクリスマス会への出席が増えているのだ。その数はこの五年間に二倍以上になっている。
 現代の主婦たちは、行事を「家族のため」にして上げる人や「家のため」に執り行う人ではない。「私がやりたい人」あるいは「私も楽しみたい人」である。そして、自分自身がそれを楽しめるかどうかをとても大切にするように変わってきている。このことは、いつの間にか家庭で行われる年中行事や、そのやり方にまで大きな影響を与えつつある。

P77
 家庭の年中行事の盛衰も、主婦の「私」が楽しめるかどうか、「私」がやりたいと思えるかどうかで大きく動くものとなり、親が作っていた正月の煮物など「御節」が衰退してゆく一方で、節分の「恵方巻き」が急激に拡まったりするようにもなってきている。

P83
 そして、昔から決まっていることをやり続ける旧世代について、それがまるで理解し難い行動でもあるかのように語る。

P86
 古くからの伝承ごとでさえ、自分のセンスや好み、気分などで自由に変えられて当然だと考え、あらかじめ「決まってること」には強い抵抗を感じてしまう、それは今時の若者だけの特徴ではなく、既に親となっている今の主婦たちの特徴でもある。

 

P176
自分が嫌の事は主婦自身なかなか家族に合せられないのも事実だ。家族のさまざまなバラバラ現象も、近年の子どもや若者世代から始まったことではない。
 このように家族が家族である前に、まず個人として優先されるのは当然と親も考えているから、いま「家族一緒」は個々の都合が何もなかったときにだけ成立する事となってきている。だから「家族一緒」を志向する気持ちはあっても、いつの間にか家族一人ひとりの都合の後回しにされて、実際には叶わなくなってきているのだろう。

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓
岩村 暢子 (著)
新潮社 (2007/10)

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓

  • 作者: 岩村 暢子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2021/12/22
  • メディア: 単行本

 

島根県 熊野大社

シシ

  峰続きの隙間もない林から、緩傾斜の一角をかこい取って畠を開こうとするには、長い石垣を築きめぐらして、山からきたり侵す者を防止せねばならぬ。
紀州の南熊野、または豊後の日向の境の村などで見たものと構造が同じで、国頭においてはこれをイヌガキと呼んでいる。
狗(いぬ)は内にあって守る者、猪垣を狗垣というはずがない。これはなお昔の語の名残であって、かつては野猪を単にイ(ヰ)といった時代に、イの垣とよんでいたのが、意味なしに伝わったものだろう。
 今日では野猪はヤマシシというのであるが、これによってシシガキという語を作るにはまだ故障があった。
何となればシシは沖縄では、宍すなわち食用の獣の肉の総称であって、今のわれわれのようにただ一種の山の獣だけを、意味していないからである。
 内地の方でも田舎に行ってみると、シシが宍人部(ししひとべ)などの宍と、もと一つの語であったことがすぐに分かる。
たとえば鹿をカノシシといい、羚羊(かもしか)をアオシシ、カモシシまたはクラシシなどと言い、九州の島などには、牛を田ジシと呼ぶところさえもある。
ただ宍を食う習慣がつとに衰えたために、何ゆえに肉をもって獣の名とするかを、久しく忘れていたというだけである。
沖縄の方では引き続いて宍を用いていた。ゆえに山のシシすなわち野猪に対して、牛を田のシシと言ったのが最も自然である。
鹿を産するは慶良間群島の、座間味の島だけになってしまったが、カノシシの代わりにこれをコ(カ)ウノシシと呼んでいる。鹿の宍に一種の臭気があるためか、そうでなければその鳴き声によってついた名であろう。
 豚は一般にワと呼んでいる。チェンバレン氏の語典には、ローマ字でWwaと書き、鳴き声からきた名であることは、誰もこれを疑うものがない。
先島の人たちはWwoと言っている。そうして見るとイノシシのイも、その理由は同じように簡単で、われわれも一度はそのウィーウィーの声に耳馴れるまで、親しく接していたことが知れるのである。それを忘れてしまって山に住むのをイノシシ、家に飼うのをイノコなどと、区分したのはおかしかった。
もっとも沖縄でも、区別のために一方をワ、また他の一方にいるのを、イといった時代があったかも知れぬ、前に申したイノガキのほかにも、婚礼の式の改まった料理に必ず出さねばならぬ野猪の吸い物を、イヌムルチなどと呼ぶ例が遺っている。

 正月の食べ物には、餅よりもさらに欠くべからざるは、すなわちこのワノシシである。
暮れにはたいてい家でワを屠って、われわれの彼岸の牡丹餅のように、やったり取ったりを盛んにする。これにも久しい由来のあったことと思うのは、豕(し)の記憶はもはや失った内地の国々の武家に、春の初めの野猪の料理を重んじたことである。
シナと交通していたからシナから来た風習だろうなどと、よい加減に珍しがっておいて今までは済んでいた。そうして古い日本は埋もれていったのである。
 北太平洋の島々には野猪はいたるところに住んでいた。島に猪がおりまた土人がおれば、必ずこれを捕えてきて家に飼うている。野猪が家猪になるのはそれほど手軽であった。
~中略~
 奄美大島にも山にはイノシシがおり、里にはワが孳殖(ししょく)している。少なくとも三百余年の分立前から、ワはすでに島人の生活に伴うていたのである。さらに今千年ほど以前にさかのぼれば、大和の京でもその通りであった。われわれはただ猪垣のこちらの側でむしろ不自然なる生活を忍びて、宍を食わずにいたのであった。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P69

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫
福岡県 英彦山

 

女たちの世界のエロ話

 女たちのこうした話は田植の時にとくに多い。田植歌の中にもセックスをうたったものがまた多かった。作物の生産と、人間の生殖を連想する風は昔からあった。
正月の初田植の行事に性的な仕草をともなうものがきわめて多いが、田植の時のエロはなしはそうした行事の残存ともみられるのである。
そして田植の時などに、その話の中心になるのは大てい元気のよい四十前後の女である。若い女たちにはいささかつよすぎるようだが話そのものは健康である。早乙女の中に若い娘のいるときは話が初夜の事になる場合が多い。
~いささかつよすぎるので、中略~
 私は毎年の田植をたのしみにしているのである。そこで話される話は去年の話のくりかえされる事もあるが、そうでない話の方が多い。
声をひそめてはなさねばならぬような事もあるが、隣合った二人でひそひそはなしていると「ひそひそ話は罪つくり」と誰かが言う。
エロ話も公然と話されるものでないとこうしたところで話されない。それだけに話そのものは健康である。そのなかには自分の体験もまじっている。
このような話は戦前も戦後もかわりなくはなされている。性の話が禁断であった時代にも農民のとくに女たちの世界ではこのような話もごく自然にはなされていた。それは田植ばかりでなく、その外の女たちだけの作業の間にもしきりなはなされる。近頃はミカンの選果場がそのよい話の場になっている。全く機智があふれており、それがまた仕事をはかどらせるようである。
 無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。
エロな話の上手な女の多くが愛夫家であるのがおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福であることを意味している。
したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
 女たちの話をきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。

忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P128

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/04/20
  • メディア: Kindle版

 

大分県 臼杵

山立て

 明石の高浜さんにきいたのとおなじ話を樫本さんにきいてみた。
 海へ出て、舟の位置をどういうふうに決めるかということである。
 位置を決めることを、
「山立て」
 という。動詞にすれば、山を立てる、である。
「陸(おか)の山や建物や樹木を見ましてな、三点をきめてそこから線をひいてその交点に舟を置きます。
三つの線の交点のことを、食いあい、と言います」

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P140

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

高松

虚栄心

虚栄心は、貧乏と同じく、乞食の如く求めてやまず、しかも厚かましさの点では、貧乏のはるか上を行く」

フランクリン (著), 松本 慎一 (翻訳), 西川 正身 (翻訳)
フランクリン自伝
岩波書店 (1957/1/7)
P332

フランクリン自伝 (岩波文庫)

フランクリン自伝 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
  • メディア: Kindle版

 

虚栄心―もっと軟らかくいえば、人から賞賛を浴びたいと思う気持ち―は、どの時代のどの人間も、必ず持っている気持ちではないだろうか。この気持ちが高じて、愚かな言動や犯罪的行為を犯してしまうこともある。
が、概して、人からほめられたいと思う気持ちは、向上につながるのではないか、と私は考えている。
~中略~

人から認められたい、ほめられたいという気持ちがなければ、私たちは何事も無関心になり、何をする気も起こらなくなる。
そして、実際に何もしなくなる。そうなれば、自分の持っている力を発揮することもない。そして、実力以下に見られることに甘んじるほかない。
ところが、虚栄心の強い人はちがう。実力以上に見られようと、精一杯努力する。

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章
フィリップ・チェスターフィールド (著), 竹内 均 (翻訳)
三笠書房 (2011/3/22)
P165

 

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2011/03/22
  • メディア: 文庫

 

 

 

オンライン上の女性は平均よりかなり軽い体重を申告し、男性のほうは平均より背が高く、収入が多いと主張していた。
つまり、男性も女性も相手が何を望んでいるか承知のうえで、自分のプロフィールを書くとき、ほんのちょっぴりごまかしていると考えられる。一七四センチで年収六万ドルの男性は、身長があと一センチ、年収があと三万ドル高いことにして、一七五センチ、年収九万ドルと書くのがふつうだ。
一方お相手候補の女性のほうは学生時代の体重を思い出し、五パーセント差し引くことにして、体重六〇キロと書く。

 しかし、あなたが一七四センチの男性で、よい関係を築くには誠実さが欠かせないとの信念から、正直に申告することに決めたとしたらどうだろう。
女性は身長一七四センチと書いてあるのを見て、ほんとうは一七三センチか一七二センチくらいだろうと予想するため、あなたには不利になる。
ごまかさないと決めたせいで、自分の市場価値を大きく下げてしまったことになる。
ではどうするか。ため息をついて、両手をポケットに入れ、誠実さが不利に働くこともあるとしみじみ思うしかない。

パートナー探しの重要性を考えると、だれもが少しだけごまかしているという悲しい事実に降参し、あなたも譲歩してほんのちょっぴり事実を誇張することになるのではないだろうか。

予想どおりに不合理[増補版]
ダン アリエリー (著), Dan Ariely (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
早川書房; 増補版版 (2010/10/22)
P337

 

 

予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版

予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 増補版

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2010/10/22
  • メディア: ペーパーバック

 

 

 つまらぬことに威張り、つまらぬことに奢る人を見るごとに、僕はその人の気の小さなことがいっそう見えるようで気の毒に感ずる。
人と交わるに、虚栄心と胆気とは反比例に増減する者である。
~中略~
真に武芸の奥義に達すれば、犯すべからず態度を備え、時至らぬか、または不必要の場合には、これを現わそうとせぬ。自ら重く構えておるから、猪勇を示さんとする場合にも、「こんなことには俺の力を出す価値がない」と自重がある。

修養
新渡戸 稲造 (著)
たちばな出版 (2002/07)
P251

修養 (タチバナ教養文庫 23)

修養 (タチバナ教養文庫 23)

  • 作者: 新渡戸 稲造
  • 出版社/メーカー: TTJ・たちばな出版
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 新書
北九州市 小文字山

2025年12月26日金曜日

敗北力

 敗北力(住人注;「もうろく貼」)とは、どういう条件を満たすときに自分が敗北するかの認識と、その敗北をどのように受けとめるかの気構えから成る。

江戸時代の終り近く、日本人の多くは敗北力をもっていた。
長英戦争に敗北して煙の残る中、伊藤博文は町中を歩いて西洋料理の材料を集め、上陸してきたイギリスの使節をもてなす用意を自ら監督して成し遂げた。こんなことができる人を最初の総理大臣にするのだから、当時の日本人は欧米諸国を越える目利きだった。
 やがて使節となってイギリスの軍艦に講和交渉におもむく上使は高杉晋作である。

~中略~
 敗北力の裏打ちのある勝ち戦を進めることができたのが、児玉源太郎大山巌の率いる日本の軍隊だった。しかし、この敗北力は大正・昭和に受けつがれることがなかった。

 今回の原子炉事故に対して、日本人はどれほどの敗北力をもって対することができるか。
これは、日本文明の蹉跌だけでなく、世界文明の蹉跌につながるという想像力を、日本の知識人は持つことができるか。原子炉をつくりはじめた初期のころ、武谷三男が、こんなに狭い、地震の多い国に、いくつも原子炉をつくてどうなるのか、と言ったことを思い出す。この人は、もういない。

敗北力
  鶴見俊輔 (哲学者)

世界 2011年 05月号

岩波書店; 月刊版 (2011/4/8)
P45

世界 2011年 05月号 [雑誌]

世界 2011年 05月号 [雑誌]

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/04/08
  • メディア: 雑誌

 

東大寺 奈良県

傾聴

 P98
相手が困っている時に有効なのは「傾聴」です。

傾聴とは、「相手に関心を持ち、相手を理解したいと願って、耳を傾けて相手の言葉を聴くこと」です。

P104
 傾聴の基本は「相手を理解したい」という思いです。なぜ相手を理解したいのか?
それは相手を理解できれば受容し共感できるかもしれないからです。そして理解され、受容・共感された話し手は聴き手を信頼し、安心して心の内を話すことができるのです。

P143
 話し手の言葉に耳を傾けて傾聴し、話し手を理解した時、聴き手は話し手を受容し共感できるでしょう。
 すると、聴き手に受容され共感された話し手は批判、非難、アドバイスなしに話を聴いてもらえるという安心感と、話を聴いてくれる相手への信頼感をもとに話を続けることができます。
 そしていつしか自分でも気付かなかった心の奥底、潜在意識の中に隠された気持ちに気付き(洞察)、癒しと解放が起こります。これが傾聴の効果です。

 

P181
「傾聴してもらうとマインドフルになれる」
「傾聴する側がアドバイスや批判をしたくなっているという自分の心の動きに気付く=マインドフルに心の声を聴く」
「傾聴することが傾聴する側(カウンセラーなど)のマインドフルネスもまた強化する」

マインドフルネス 「人間関係」の教科書 苦手な人がいなくなる新しい方法
藤井 英雄 (著)
Clover出版 (2017/5/25)

マインドフルネス 「人間関係」の教科書――苦手な人がいなくなる新しい方法 (スピリチュアルの教科書シリーズ)

マインドフルネス 「人間関係」の教科書――苦手な人がいなくなる新しい方法 (スピリチュアルの教科書シリーズ)

  • 作者: 藤井英雄
  • 出版社/メーカー: clover出版
  • 発売日: 2020/07/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

患者さんとの信頼関係を作るにはどうすればよいかということは、出会いの段階から留意しなければならないことです。
 それには、まずゆっくり耳を傾けることです。訴える内容に批判的にならず、患者さんの不安や恐怖、怯えを受け止め、そのような状態にあることのつらさに対し理解を示すこと(共感)が必要です。
今までは、「なぜそんな現実離れしたことを言っているのか」と取り合ってもらえなかったことについて、否定するでもなく肯定するでもなく、じっくりと耳を傾け、受け入れることです。

精神科医はどのように話を聴くのか
藤本 修 (著)
平凡社 (2010/12/11)
P116

精神科医はどのように話を聴くのか

精神科医はどのように話を聴くのか

  • 作者: 藤本 修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2010/12/11
  • メディア: 単行本
島根県 美保関

病理学

P020
 病理学、というのは、英語でいうとpathology、ドイツ語でいうとPathologieです。
いずれも、ギリシャ語で「苦難」を意味するpathosと、学問を意味するlogosをあわせた言葉が語源です。直訳すると「苦難学」ですね。実際には、苦難すべてではなくて、病とか病気をあつかうのですから、「病学」とか「病気学」というところでしょうか。
 病学や病気学にくらべて「理」(ことわり=道理とか筋道)という漢字をはさみこんだ「病理学」という言葉は、とても奥行きのある重厚なイメージでなかなかいい感じです。
なんでも、大阪大学医学部の源流となる適塾を開いた緒方洪庵が「アルゲマイネ・パトロギー」を翻訳して「病理学通論」としたのが始めとか。むべなるかな、ですね。
~中略~
これは病の理(ことわり)、言い換えると、病気はどうしてできてくるのかについての学問、ということになります。

P022
 近代的な意味での病理学は、19世紀に活躍したプロイセンの医師ルドルフ・ウイルヒョウにはじまります。紀元前5世紀、古代ギリシャに生きたヒポクラテスの時代に、病気は「体液の異常」によって生じるという考えがありました。完全に間違った説だったのですが、二千年近くものあいだ信じられ、それに基いた瀉血(血液を抜き取る治療法)などがおこなわれてきたのです。
 第2章で詳しく書きますが、ほとんどの患者さんは瀉血で病状が悪化したといいます。体が弱っているのに血を抜かれるのですから、考えてみればあとありまえです。ずいぶんと長い間、とてもおそろしいことがおこなわれ続けていたのです。
しかし、17世紀にオランダの商人であったレーウェンフックによって顕微鏡が発明され、細胞というものが存在することが発見され、次第に風向きがかわっていきます。 19世紀の半ばになって、ようやく、偉大な病理学者ルドルフ・ウイルヒョウが、「Omnis cellula e cellula すべての細胞は細胞から」という言葉をあまねく広め、病気は細胞の異常によりひきおこされる、という「細胞病理学」の概念を確立させたのです。

P037
 ごくおおざっぱにいうと、病気になるということは細胞が痛むということです。細胞レベルにはじまり、組織や臓器になんらかの形態的な異常が認められる病気は「器質的疾患」とよばれています。
もちろん中には、精神疾患のように、現時点では細胞レベルの異常が正確には確定されておらず、「機能的疾患」とよばれる病気もあります。あおれらの病気であっても、異常の原因は細胞にあると考えるのが妥当です。ウイルヒョウが「細胞病理学」と宣言したように、ほとんどの病気は細胞の異常によるものなのです。

P027
 病理学は、大きく、病理学総論と病理学各論、にわけることができます。病理学各論は、心臓の病気とか、腎臓の病気、血液の病気、のように、それぞれの臓器における病気についての学問です。それに対して、病理学総論というのは、いくつもの臓器において共通する病気のできかた、についての学問です。
 英語では、病気の成り立ち=病因は、etiologyとpathogenesisの二つにわけられています。
「etio」というのは、もともとギリシャ語で原因のことですから、病因の原点ともいうべきものをさします。それに対して、genesisという言葉は、聖書では「創世記」ですが、生物学では「発生」を指します。なので、pathogenesisは何らかの原因があって、それによって病気ができてくる過程、を意味します。日本語では、すこし不便なのですが、この両方をひっくるめて「病因」といいます。

こわいもの知らずの病理学講義
仲野徹 (著)
晶文社 (2017/9/19)

こわいもの知らずの病理学講義

こわいもの知らずの病理学講義

  • 作者: 仲野徹
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2017/09/19
  • メディア: 単行本

島根県 美保関