2026年3月25日水曜日

遊牧民族

 遊牧民族が国家をつくった場合、そのまま収奪国家になるということは、さきにのべた。
遊牧民は本質的に武人であり掠奪者であり、遊牧以外の生産をいやしんだ。
とくに地をはいまわって耕す農民や、細工台にかがみこんでいる彫金工や、また原始的な森林の人―狩猟採集生活者―をばかにしきっているところに、かれらの遊牧者の誇り高さがあった。
卑屈な顔つきの遊牧者というものはありえないといっていいほどかれらは誇り高く昂然(こうぜん)としているものであったが、一面、農民のように大地に固執しないために、その帝国はいったん結束と武力をうしなうと、脆(もろ)かった。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P51

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版
エル・パティオ牧場 阿蘇

飢餓感を埋めようとする病状

P156
 近頃、こんな人がいるね。ボクも見かけたけど、喫茶店で向い合って、お互いに携帯を持って、話をすると周りにうるさいからだろうかな、ときどき顔を見ながらメールで会話しているの。情報はだんだん情緒的な要素を排除して、言葉が伝える意味だけをやり取りするようになっていく。
 そうすると、生体は五万年前と大して変わらん心身を持って生きているわけで、そんなに進化してませんから、かならず飢餓感が生じてくる。言葉の表面上の意味から取り残された部分が、飢餓感を抱く。そしてその飢餓感を埋めようとする症状が今、精神科に非常に増えています。
 多くの嗜癖がそうで、食べ吐き、それからリストカット、そういう言葉にならない生体の欲求、飢餓感を埋めようとする病状は今後どんどん出てきますよ。
さっき鹿児島からのバスの中でニュースを見ていたら、公安二課の捜査官の人が八〇〇円の品物を万引きして逮捕されていました。八〇〇円の物なんか盗まんでもいいでしょう。だけどネットで物を買うのに比べたら、パッと盗る万引きには狩猟の楽しみがあります。釣り堀と、海で魚を釣るのとの差です。
~中略~
 コンピュータを使って、電子カルテでやるような医療がなされますと、きっと皆さんの中で欲求不満が起きるだろうと思うんだな。医療を志したときの、ある心意気があるでしょ。機械の世界じゃなくて、人間と接する世界に向かう初志のニーズが必ず飢餓を起こします。
 もちろん治療に来ている患者さんのなかにも自動販売機で薬を買うようなつもりで来ている部分もあるけれど、そうではなくて、困ったことを誰かに聞いてもらったり、あるいは優しくしてもらったりしたいニーズがある。その二つともが欲求不満になります。

P108
 みなさんのなかのほとんどの人が、精神療法やカウンセリングとか、受けに行ってないんだよね。そういうところに行った経験のない人は、じゃあ精神的にきわめて安定した状態で、安らかで生き生きとした充実した日々を送っているかと言うと、そんなことは全然ない。みんな若いうちは悩みがあったり、それで飯が食えなかったり、イライラしてやけ酒を飲んだり、何やかんや逸脱行為をしたりしているはずだ。
 そしてそれは複雑系の揺らぎの一環なの。
 だけど、「ミラーマン」とか言われているらしいけど、駅の階段なんかで手鏡を出して、女性のスカートの中を覗いて捕まる人がいますね。その人にとってはすごくいい治療法だろうけれど、法に引っかかることだから捕まってしまう。「もう何度もやっている」って報道されたりしてるでしょ。あれは止められないと思うんだ。どんな気がするのか、ボクはしたことがないから分からんけど、そういう気持ちが、きっとその人にとっては、心の中の何か虚しいとか、生きている意味がないとかいうようなことを癒しているんだろうと思います。
 だから法に引っかかって、逮捕されて気の毒なことだけれども、しかしおそらく法で許可されていれば、治療効果がないかもしれないのね。

神田橋條治 医学部講義
神田橋 條治 (著), 黒木 俊秀 (編集), かしま えりこ (編集)
創元社; 初版 (2013/9/3)
神田橋條治 医学部講義

神田橋條治 医学部講義

  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2013/09/03
  • メディア: 単行本
長野県 安楽寺

生殖と性

何度もいうようだが日本人は牧畜経験がないから、生殖と利殖とは結びつかない。
だが、牧畜民にとっては、生殖のみが利殖といえる。
家畜に子を生ますことは立派な製造業であり、また唯一の製造業であり、生活の手段であり、ビジネスである。奴隷は前述のようにヒト家畜であるから、女奴隷をもっとも効率的に妊娠させつづけることは最大の利殖であり、生まれた子供は(象徴的な意味でなく具体的な意味で)財産である。
この点、日本人と非常に違う。
~中略~

性と生殖は、牧畜民にとって、農夫が畑をたがやす(この耕すは多くの農耕牧畜民では性行為と同じ言葉が使われる)のと同じく日常のことであり、少しも神秘性はないし、あってはならないのである。
~中略~
 しかし日本人はそうでなかった。
性行為と利殖を関連づけうる日本人はいまい。日本人にとっては、実に神話時代から、性はあくまでも情緒の対象である。
~中略~
さらに日本人は性を、「源氏物語」の昔に、神秘的で幽玄なものにしてしまった。

日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P181

日本人とユダヤ人 (角川文庫 白 207-1)

日本人とユダヤ人 (角川文庫 白 207-1)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫

 たとえば、沖縄では万葉の歌垣(うたがき)(かがい)が昭和のはじめごろまで一般に残っていた。歌垣の場合、男女があつまりたがいに歌をうたいあって遊ぶもので、実質は求婚の場になる。
 沖縄でのそれは、言葉としてよく知られているように、モーアソビ(モーアシビーともいう)である。野遊びと書く。野は沖縄では変化してモーという。「沖縄文化史辞典」(真栄田義見・三隅治雄・源武雄編)の「モー遊び」の項をひくと、
「・・・・・月夜の晩など、若い男女が、部落のはずれの適当な芝生の広場を遊び場として落ちあい、夜ふけまで遊びふけった。・・・・・モーアシビーは沖縄の婚姻風習を考える場合には重要な意味をもっている。・・・・・」
 とある。もっともこの古代からの風習は、明治の力みかえった学校教育が普及するにつれ、悪風とされて、いまはすたれてしまっている(月夜で野遊びをして結婚の相手をきめるという風習は沖縄だけでなく鹿児島県の坊津(ぼうのつ)にもあって、昭和のはじめまで求婚形式としてつづいていたということを、ごく最近、坊津できいた)。

街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)
P56

街道をゆく6

街道をゆく6

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

愛媛県 今治市

蒲生

P262
  この百済亡国のあと、おそらく万をもって数える人たちが日本に移ってきたであろう。
私的にきた者は北九州や山陰あたりに住んだかもしれないが、鬼室集斯のような王族の場合は一族郎党をひきいて朝廷を通してやってきたにちがいない。
「天智紀」の四(六六五)年の項に、
「百済ノ百姓男女四百余人ヲ以テ、近江国の神前(かむさき)(崎)郡(こほり)ニ居ク」
 とある。もっともこれは鬼室集斯が直接ひきいてきたグル―プではない。この翌年、右のグループとはべつに、百済人二千人が東国に土地をもらって入植している。鬼室集斯については、
「天智紀」の八年の項に、
「男女七百余人ヲ以テ、近江国ノ蒲生郡に遷シ居ク」
 と出ているのである。さきに、百済男女四百余人が入植した神崎郡と、このとし、七百余人が入植した蒲生郡とは隣接地で、いわば一つ地帯の山野である。
「蒲生」
 という近江の地名は、はるかに降って戦国期に蒲生氏郷(うじさと)を代表的な存在とする蒲生氏の根拠地であったことで知られているが、古代ではこの近江国蒲生郡・神埼郡のあたりは「蒲生野」といわれる原野であった。
 蒲生の地名は近江だけでなく、鳥取県、大分県など各地にある。鹿児島の蒲生は、カモと発音する。
全国に無数にあるカモ(鴨・加茂)とおなじ意味をあらわす異字で、要するに蒲生とは古代出雲系の民族だったと思われる鴨族の居住地のことだったにちがいない。 

P264

 要するに鬼室集斯ら百済の亡命者がこの蒲生郡一帯に住んだときにはすでにこのあたりには出雲系の鴨族がいて古神道を奉じ、弥生式農業を営んでいたにちがいないが、「日本書紀」の記述のにおいから察しても広漠たる原野というに幾(ちか)く、人煙もまれであったようにおもわれる。 


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく2

街道をゆく2

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

滋賀県 金剛輪寺

熊襲

P126
 北九州では筑後川と遠賀川がある。この二つの河流のほとりで古代文化をきずきあげた。
 南九州では、この球磨川である。かつて筑紫といわれた北九州での二つの川は流れはゆるやかである。流域の大半は平野で、ひろびやかな農耕圏をつくり、早くから大規模の古代勢力をつくり、有史以前は独立していたかのようだが、中央政権ができるとあまり軋轢もなくそれに参加した。
 が、渓谷を縫う球磨川流域の様相はちがっている。
 その流れで農耕文化をきずいたひとびとは、クマといわれた。クマとは山襞(やまひだ)の古語である。
球磨川の流れを眼下に見おろしつつ、山襞に家と田を作り、山襞ごとに部族を成立させ、その部族がいくつかあつまって部族国家をなした。球磨川の山襞山襞でつくられた部族国家の数は多く、「日本書紀」の表現では、
八十梟帥(やそたける)
 といわれた。八十もあった。むろん八十というのは単に多いという形容だろう。「熊襲八十梟帥」という。クマソは「古事記」では熊曾という字をあてている。
「日本書紀」ではクマ国とソ国を分けていて、熊はむろん、地域が山襞(くま)ばかりの球磨川流域のことであり、ソ(襲(そ)もしくは囎唹(そお))は大隅(鹿児島県)の隼人のことらしく、このあたりまでは異説はなさそうである。
畿内にできた中央政権は北九州の部族国家を参加させたが、南九州の球磨川の山襞山襞で八十(やそ)の山襞国家をつくって暮らしている熊襲を従わせることは容易でなかった。
~中略~
 上代の天皇が政権らしいものが畿内という農耕人口の多い地帯に発生し、人口を背景にしてその政権が強大になったからといって、球磨川の山襞に住む人間たちがその傘下に入らねばならぬという論理はなく、すくなくとも熊襲たちはその画一化の論理が呑みこめなかったのである。
中央からわが方に従えといってきても、従う気にならなかったのであろう。
 熊襲といえば、その漢字からみて体毛の剛(こわ)そうな未開野蛮な連中といった感じがするのは熊襲にとって迷惑なはなしで、畿内や北九州にくらべ、この球磨川流域がはたして後進地帯であったかとうかは疑問である。

P128
 球磨びとの性根は、その後の肥後人の気質につながってゆく。
球磨の山襞で鍬をふるっていれば、天は紺の千代紙のように小さい。小さな段々畠に両脚をつけて小さな天を頂いていればめしが食えるのである。
襞々いるどの球磨びともそうで、その球磨たちを人間社会として相関させてつないでいるのは一筋の球磨川だけなのである。

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか (朝日文庫)

街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫


阿蘇

文を以て友を会し、友を以て仁を輔く

二四 曽子曰わく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔( たす )く。


~中略~


曽先生がいわれた。
「 君子は学問によって友だちを集め、友だちの交わりによって仁徳の完成を助けとする 」
顔淵篇


                  論語

           孔子 ( 著 ), 貝塚 茂樹

                       中央公論新社 (1973/07)

                       P349

論語 (中公文庫 D 3)

論語 (中公文庫 D 3)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1973/07/10
  • メディア: 文庫

 維新後、堺県が置かれ、明治三年、薩摩人の税所篤(さいしょあつし)(一八二七~一九一〇)が知事(明治四年以後は県令)になって十一年間在任した。在所は同藩出身の西郷隆盛、大久保利通とは青年のころからのまじわりで、同士として文字どおり断金の仲だったから、中央政府への顔もきき、県政の業績が多く、明治初年の地方官としては長州出身の京都府知事槇村正直とともに出色の人物であった。
 この税所が明治初年、堺県の失業士族の救済になやみ、ついに高師ノ浜一帯の松を伐って(薪にしかならなかったろうが)それをもって費用にあてた。
 ときに征韓論さわぎのさなかで、太政官の事実上の主宰者である大久保利通が、東京の過熱した政情からのがれ、保養と称して上方(かみがた)を遊覧し、堺にきて税所に会い、その案内で高師ノ浜に立った。
このとき磯の松の惨状を見、内心、慄然としたが、江戸的教養というのは親友の仲でも声を荒らげてどなるということはなく、諷(ふう)して相手にわからせるのが、いわば作法であった。
大久保は歌を作り、属官に気づかれぬように、そっと税所に見せた。
 音にきく高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり  世のあだ波とは、維新直後のあらあらしい旧態否定の諸現象をさすのであろう。この当時、大久保は無学といわれたが、この和歌は古歌をよくふまえて当意即妙の機智を感じさせる。
 税所はとっさに大久保の諷するところがわかり、とりあえず歌で返事をした。
~中略~
 自分の失敗を正直にのべたあと、大久保の政治感覚のやさしさをたたえている。

 

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P142

街道をゆく14

街道をゆく14

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/10/07
  • メディア: Kindle版

霧島神宮 鹿児島県

種子島

P227
 歴史的に見て種子島はその独立時代(島津家との主従関係がなかった時代)、薩摩の内陸部から文化を吸収するよりも、じかに潮流に乗って上方へゆき、直接都の文化を吸収していたのではないかという想像が、いくつかの材料で可能なのである。
むしろ薩摩の内陸部より中央文化を受けた濃度が強かったのではないかとさえ思えるふしがあり、すくなくとも室町期あたりの種子島人にとっては薩摩の内陸部などは田舎くさく感じたというような優越感があったのではないかとさえ思える。

P229
 このことは、天文年間の鉄砲伝来においても、想像しうる何事かがある。鉄砲を持ったポルトガル人がこの島に漂着したということは風浪がなした偶然で、漂着点が九州のどの海浜であってもいいのである。
 当時、島主はよく知られているように、種子島時堯(ときたか)であった。その背景に、紀州の根来寺の一員津田監物(けんもつ)(あるいは監物丞。名は算長)が長滞留していたということが、重要といっていい。
津田家はいまでも紀州粉河の奥のほうに残っているが、紀ノ川筋の大土豪で、根来寺(高野山から別派をたてて新義真言宗の本山になった寺)の僧兵の大将あるいは一山の政治経済に切り盛り役のようなことをしていた。
根来寺というのは戦国乱世のころには七十万石ほどの経済力をもっていたともいわれるから、津田監物の地位は大きかったであろう。
 そういう紀州きっての実力者が、上方からみれば夢のように遠いこの島の島主屋敷に長逗留していたということが、この島の位置を想像するのに手がかりになるといっていい。
根来寺が海外貿易をやっていたことは、たしかである。津田監物は貿易の主管者だったように思える。
当時独立国だった種子島もまた琉球経由であれ、直接であれ、対明貿易をやっていたことはたしかで、となると紀州根来寺種子島は貿易を通じて一体のような姿だったにちがいない。
~中略~
この津田監物が、種子島時堯からポルトガル製鉄砲の一挺もらったことが鉄砲の伝播になり、戦国の様相を、割拠から統一へむかわせる力をつくるにいたる。

P228
 鹿児島県の内陸部では、食物が美味であるということと砂糖の甘味とが、味覚表現として区別されておらずに、単に、
「ウマイ」

 という。むろんアマイという言葉はあるが、それは汁の薄味を表現する場合につかう。物の味の区別の表現が的確で細分化されているほど、その地方は文化的であるという結論引き出せないが、しかし単純なほうが高度な文化であるということはできない。 

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

開聞岳 鹿児島県

郷という行政単位は、こんにちのものではない。大化の改新によって国の下は郡、郡の下は郷というふうに制定され、郷をもって行政の最末端組織とされた。
天平のころ、たとえば大和の高松塚のあるあたりは「飛鳥の檜前(ひのくま)(隈)郷(ごう)」といったふうによばれていたから、十分に定着したのであろう。
 要するに行政単位としての「郷」は律令時代の遺物で、平安末期、武士という地主階級があらわれると行政的には有名無実になってゆき、封建的な土地制度がしだいに精密になって一つの完成期に達した「太閤検地」のとき、まったく実体をうしなった。
 が、われわれはふつう、田園の古い共同体を歴史的気分を強くこめてよぶとき、とくに大和の場合など、わざわざ檜前郷、十津川郷、忍海(おしうみ)郷などとよぶ。薩摩などでは藩政期でも、出水(いずみ)郷、加治木郷などとよんで、郷を生きたことばとして使っていた。しかし、
「郷」
というのは、この世には存在しない行政単位のである。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P27

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

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岐阜県 白川郷

薩摩藩島津家

  薩摩藩島津家というのは徳川家よりもはるかに古い大名で、鎌倉以来の名家である。
さらには閉鎖的な国風をもち、江戸体制のなかにあっても奇蹟的に鎌倉風の武士気質を温存していた。そういう精神体質という点では同時代人でさえ異国を感ずるほどに保守的であった。
たとえば日本人の美質をあげるとすればことごとく薩摩気質に帰納されてしまうほどに原日本人的な特徴をもっているが、それだけに思想で動くことはあまりなく、集団としては国ぶりで動いてしまう。

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P492 

 

花神(下) (新潮文庫)

花神(下) (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1976/09/01
  • メディア: 文庫
霧島神宮 鹿児島県;

薩摩藩

P130
薩摩には敵に対する優しさの話が多い。たとえば豊臣秀吉の朝鮮の役のときもっとも武勇のたけだけしかったのは薩摩の島津氏であるといわれ、このため明軍のあいだでもとくに薩摩兵のことを石曼子(シーマンズ)といっておそれた。
その島津氏が、帰国後、高野山に敵味方の戦死者の供養塔をたてているのである。
敵味方共にその無名戦士を平等に供養したという例は当時日本にはなく、その後もない。同時代の世界にもないことで、むしろ異様なことに類する。~中略~
クマソタケルを優しくていい男だといったふうな薩摩独特の美意識は、文献や実例としては中世末期から近代初期まで濃厚につづくのだが、ひょっとすると、上代の倭国における南方独立圏がつくりあげた独特のきぶんであったのかもしれない。

P150
 肥後はつねに官であった。中央政権はつねに肥後まできた。が、この久七峠をさかいにして薩摩国は大げさにいえば島津氏七百年の独立国であり、とくに島津氏の勢威が確立確立した戦国以降、明治十年の西南戦争の終了まではこの国境は中央政権に対してさえ閉ざされていたといっていい。

P183
薩摩藩では富農が存在せず、それを成立させもしなかったというのは士族崩壊後の鹿児島県を知る上で重大なかぎであるかもしれない。
他の国々では農村の余剰資本が商業にまわって富商を成立させるのだが、薩摩藩ではそれも存在しなかった。 富農、富商という、伝統を溜めこんで洗練し、それを次代にうけわたしたり地域に拡散させたりする機能が存在しなかったというのは、要するに薩摩藩というものが、明治で藩がくつがえったと同時にすべてをうしなったということになるのである。

P190
薩摩人のおもしろさは、自分のおよそ普遍性をもたない特殊な方言を、それが鄙語(ひご)で卑しむべきだという劣等感を在来もっていなかったのである。
この点、東北人に共通する方言の上での劣等感にくらべてひどくちがっている。
 その理由は南方の風土性ということによるかもしれない。あるいは薩摩が維新でもって天下をとったからということもあるだろうが、本来、薩摩人が薩摩が実際的には地図の上で最南端に所在しているくせにその政治意識では僻地意識を奇妙なほどにもっていなかったことにもよる。
 その理由を根源的にいえば日本の水稲文化が、九州から発してしだいに東へ東へとすすんだという事実が、まず考えられる。 「古事記」「日本書紀」ではこれを事実として語らず、神話として語った。
天孫降臨や神武東征神話は神話の形式をとっているがためにかえってつよい心情を培い、南九州こそ日本国発祥の地であると言う自信をつよめた。
~中略~
 本居宣長も「古事記伝」で、
「隼人というのは、絶(すぐ)れて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きがゆえにこの名がある」
としている。たしかに隼人というのは古代から戦場では勇猛であった。
「古事記」「日本書紀」の隼人関係の記述には多少の分裂がある。その祖を天孫族としている一方、どうも異民族もしくは南方的異族を持った連中だというふうな印象で書かれている記述が多い。
吉田貞吉氏は異族説をとっておられる。「日本記」の一書を引き、
犢鼻を着け、赭(そほにを以て掌に塗り、面に塗り」
というのは当時の一般的風俗から見ればあきらかに異俗であるとされる。隼人は独特の踏舞もする。
かれらは海で溺れかける所作をし、それを舞にした。これが整理され、「隼人舞」として上代の宮廷舞踊のひとつになった。
西村真次氏は台湾の高砂族と同系と見、水野祐氏は「日本民俗文化史」のなかで所説を紹介しつつ、
「南九州に漂着し、そこに定住して、漁業を生業としていたインドネシア人が隼人であると私は考えたい」
と、妥当な結論を出しておられる。喜田貞吉氏は。「隼人は風俗だけでなく言語もちがっていたようである」として、「肥前国風土記」の記述を引いている。
 そのように異風の隼人が、みずから僻地住人として卑下しなかったのは、上代から、ときに中央に対して大反乱をおこしたりはしても、常態としては中央の宮門の護衛者として不可欠の存在だったということが大きいであろう。

 そのことは、奈良朝のころから官制化されていた。天皇の即位のときにはかならず大隅と薩摩から隼人をよび、宮門に堵列(とれつ)させて護衛に任じさせる。その隼人の管理者は隼人司とよばれた。 

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

街道をゆく〈3〉陸奥のみちほか (1978年)

街道をゆく〈3〉陸奥のみちほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
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開聞岳