2026年3月25日水曜日

薩摩藩島津家

  薩摩藩島津家というのは徳川家よりもはるかに古い大名で、鎌倉以来の名家である。
さらには閉鎖的な国風をもち、江戸体制のなかにあっても奇蹟的に鎌倉風の武士気質を温存していた。そういう精神体質という点では同時代人でさえ異国を感ずるほどに保守的であった。
たとえば日本人の美質をあげるとすればことごとく薩摩気質に帰納されてしまうほどに原日本人的な特徴をもっているが、それだけに思想で動くことはあまりなく、集団としては国ぶりで動いてしまう。

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P492 

 

花神(下) (新潮文庫)

花神(下) (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1976/09/01
  • メディア: 文庫
霧島神宮 鹿児島県;

薩摩藩

P130
薩摩には敵に対する優しさの話が多い。たとえば豊臣秀吉の朝鮮の役のときもっとも武勇のたけだけしかったのは薩摩の島津氏であるといわれ、このため明軍のあいだでもとくに薩摩兵のことを石曼子(シーマンズ)といっておそれた。
その島津氏が、帰国後、高野山に敵味方の戦死者の供養塔をたてているのである。
敵味方共にその無名戦士を平等に供養したという例は当時日本にはなく、その後もない。同時代の世界にもないことで、むしろ異様なことに類する。~中略~
クマソタケルを優しくていい男だといったふうな薩摩独特の美意識は、文献や実例としては中世末期から近代初期まで濃厚につづくのだが、ひょっとすると、上代の倭国における南方独立圏がつくりあげた独特のきぶんであったのかもしれない。

P150
 肥後はつねに官であった。中央政権はつねに肥後まできた。が、この久七峠をさかいにして薩摩国は大げさにいえば島津氏七百年の独立国であり、とくに島津氏の勢威が確立確立した戦国以降、明治十年の西南戦争の終了まではこの国境は中央政権に対してさえ閉ざされていたといっていい。

P183
薩摩藩では富農が存在せず、それを成立させもしなかったというのは士族崩壊後の鹿児島県を知る上で重大なかぎであるかもしれない。
他の国々では農村の余剰資本が商業にまわって富商を成立させるのだが、薩摩藩ではそれも存在しなかった。 富農、富商という、伝統を溜めこんで洗練し、それを次代にうけわたしたり地域に拡散させたりする機能が存在しなかったというのは、要するに薩摩藩というものが、明治で藩がくつがえったと同時にすべてをうしなったということになるのである。

P190
薩摩人のおもしろさは、自分のおよそ普遍性をもたない特殊な方言を、それが鄙語(ひご)で卑しむべきだという劣等感を在来もっていなかったのである。
この点、東北人に共通する方言の上での劣等感にくらべてひどくちがっている。
 その理由は南方の風土性ということによるかもしれない。あるいは薩摩が維新でもって天下をとったからということもあるだろうが、本来、薩摩人が薩摩が実際的には地図の上で最南端に所在しているくせにその政治意識では僻地意識を奇妙なほどにもっていなかったことにもよる。
 その理由を根源的にいえば日本の水稲文化が、九州から発してしだいに東へ東へとすすんだという事実が、まず考えられる。 「古事記」「日本書紀」ではこれを事実として語らず、神話として語った。
天孫降臨や神武東征神話は神話の形式をとっているがためにかえってつよい心情を培い、南九州こそ日本国発祥の地であると言う自信をつよめた。
~中略~
 本居宣長も「古事記伝」で、
「隼人というのは、絶(すぐ)れて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きがゆえにこの名がある」
としている。たしかに隼人というのは古代から戦場では勇猛であった。
「古事記」「日本書紀」の隼人関係の記述には多少の分裂がある。その祖を天孫族としている一方、どうも異民族もしくは南方的異族を持った連中だというふうな印象で書かれている記述が多い。
吉田貞吉氏は異族説をとっておられる。「日本記」の一書を引き、
犢鼻を着け、赭(そほにを以て掌に塗り、面に塗り」
というのは当時の一般的風俗から見ればあきらかに異俗であるとされる。隼人は独特の踏舞もする。
かれらは海で溺れかける所作をし、それを舞にした。これが整理され、「隼人舞」として上代の宮廷舞踊のひとつになった。
西村真次氏は台湾の高砂族と同系と見、水野祐氏は「日本民俗文化史」のなかで所説を紹介しつつ、
「南九州に漂着し、そこに定住して、漁業を生業としていたインドネシア人が隼人であると私は考えたい」
と、妥当な結論を出しておられる。喜田貞吉氏は。「隼人は風俗だけでなく言語もちがっていたようである」として、「肥前国風土記」の記述を引いている。
 そのように異風の隼人が、みずから僻地住人として卑下しなかったのは、上代から、ときに中央に対して大反乱をおこしたりはしても、常態としては中央の宮門の護衛者として不可欠の存在だったということが大きいであろう。

 そのことは、奈良朝のころから官制化されていた。天皇の即位のときにはかならず大隅と薩摩から隼人をよび、宮門に堵列(とれつ)させて護衛に任じさせる。その隼人の管理者は隼人司とよばれた。 

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

街道をゆく〈3〉陸奥のみちほか (1978年)

街道をゆく〈3〉陸奥のみちほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

 

開聞岳

十津川

P39
 十津川という地名の意味はおそらく、
「遠(とほ)つ川」
 であろう。十尾津川などとも書かれた。地名から意味を詮索するのはおよそむだなことだが、ともかくも大和盆地という「国中(くになか)」からみてはるか雲煙のかなたということでそうよばれた、というふうにこの地名の語感を感じておきたい。

P10
 十津川郷とは、いまの奈良県吉野郡の奥にひろがっている広大な山岳地帯で、十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野にむかって流れ、平坦地はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずないといっていい。
~中略~ 「村」としての面積でも日本一だが、人口密度においても一キロ平方あたり十数人で、古来、その過疎ぶりまでが日本一だとして村人たちは自慢する。
~中略~
過疎を淋しがらず、むしろひらき直って自慢するところが十津川人のおもしろさの一つであるかと私は思ったりする。
 幕末、京都にあって反幕勢力をなしていたのはある時期まで長州藩士と九州諸藩や土佐の脱藩浪士たちであり、文久三年(一八六三)、長州の没落後は薩摩藩が主力をなしたが、その間、これらに伍して、「十津川郷士」という集団が、小勢力ながらも存在しつづけた。
市中に藩邸じみた屋敷をもち、どうせ借家であったろうが十津川屋敷などと称されて、十津川から出てきた連中が合宿し、御所の門の衛士(えじ)をつとめていた。むろん全員が苗字を名乗り、帯刀し、士装していた。なんとも妙な一体で、十津川村民というのは、本来、百姓身分なのである。
 大和十津川御赦免所(ごしゃめんどころ)
  年貢要らずの作り取り
 という俚謡(りよう)が、江戸期からある。
 御赦免というのは年貢をおさめなくていいという意味である。十津川郷民の気質のあかるさはこれさえ特権であるかのように俚謡や文書などで自慢しているが、要するに米が穫れないために幕府がやむなく免祖地にしていたわけで、「年貢要らずの作り取り」などと誇っても、作り取りして自分のものにできるような水田も無いにひとしく、本来、山仕事で暮らしている山民なのである。
~中略~
 十津川の免祖地である歴史はふるい。
  土地の伝説では、天武天皇(?~六八六)が大海人皇子(おおあまのおうじ)とよばれたころ、天智天皇系の近江朝と皇位継承をめぐって対立し、吉野に隠棲した。のち吉野方の兵などを動かしてついに近江朝をたおす(壬申ノ乱・六七二年)のだが、このとき十津川の兵も天武方に味方し、その功で免租されたという。
この伝説の真偽はともかく、免租せざるをえない土地だったにちがいない。
 免租どころか、上代から戦国期まで、交通の隔絶した大山塊であるために、中央権力の及ばない一種の政治的空白であることはたしかだった。

P14
 十津川兵の弓の精兵(せいびょう)ぶりを表現するのに、普通で射て(さし矢)三町、ひきしぼって屋じりを天に向け、遠くへ射放って(遠矢)八町という能力で、弓矢だけが飛び道具の時代としてはよほどたのもしい戦力だった。おそらく十津川の山々や谷々で狩りをするのが仕事であったために、こういう能力も育ったのにちがいない。
十津川における山民の仕事は、明治期までは、なかば狩猟であった。
 十津川の兵は、南北朝ノ乱にも、竹原八郎という者を首領として南朝方に加担するが、はるかにくだって、大阪冬ノ陣にも出てくる。十津川兵は、保元ノ乱でも南北朝ノ乱でも、悲劇的な敗北をとげる側に味方するが、このときはどういうなりゆきか、家康方についた。

P59
「十津川郷士」
 などと、ほとんど慣用化されたことばとして唱えられるが、江戸期の十津川郷のひちびとは、徳川の法制上あくまでも百姓身分で、郷士などではない。しかし農民であるかといえば、疑問がのこる。
 農民について徳川の法制上の定義をことさらいえば耕作をしてその穫れ高から租税をとられる者をいうが、十津川郷の場合、租税としてとられるほどの米が穫れないということが最大の理由として免租地になっている。人口9千余という大きな規模の単位で、その単位ぐるみ免租地というのが、徳川時代に他にあったかどうか。

 

P109
 上代以来、この一郷がうるおったのは、昭和三十年代にほぼ完成した林道と縦貫道路が、木材の高値という状況に対してたまたまプラスに作動したほんの一時期だけだったということになる。
この道路はたしかに十津川郷民の念願どおり下界の経済とを結んだが、気がついたときには日本の下界どころか、国際経済の渦の中に村ぐるみ吸い込まれてしまっていたわけで、このことについては、かつて壬申ノ乱や保元ノ乱、あるいは幕末といった歴史の節目ごとに兵を繰り出して行った村史から何の教訓もひきだせないところに凄味がある。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)


街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/10/07
  • メディア: 文庫

 

高田屋嘉兵衛

P148
「若衆文化」の根を探る旅は続く。私たちは新神戸駅で待ち合わせ、神戸淡路鳴門自動車道で明石海峡を渡り、真夏の淡路島に江戸時代の豪商、高田屋嘉兵衛の故郷を訪ねることにした。目指すは兵庫県洲本市五色町都志だ。
都志は淡路島のほぼ真ん中にあたる東海岸の港町で沖に小豆島の島影がうっすらと浮かぶ。

P151
嘉兵衛は十三歳から二十二歳まで「都志浦新在村」の親戚、和田屋喜十郎のもとに通い、働いた。本村と新在村は都志川で隔てられている。橋を渡って新在家に入ると若衆から猛烈ないじめにあう嘉兵衛。司馬氏は「菜の花の沖」の中でこの橋を渡る嘉兵衛の姿に、当時の青年が身を置いた「若衆」の実像をあぶりだしている。

P153
 北海道函館市の北方歴史資料館が発行した冊子「高田屋嘉兵衛伝」によると、文化九(一八一二)年八月、国後沖でロシア軍艦、ディアナ号に囚われた嘉兵衛は、連行されるに際し、嘉蔵ら弟にこんな手紙を書いているとあった。
「異国へ行って良い通訳に出会い、いろいろ交渉したならば北海の険悪な空気も止み、穏やかになるかもしれない。このままでは日本国のためにも良くないのだから、自分は囚われの身となって交渉にあたるのであり、命を惜しいとは思わない。どのような目にあっても捨て身で向かえば大丈夫と思う。幸い、お上(幕府)の立場もよくわきまえているつもりなので、交渉上不都合はないと思う。日本の立場が悪くなるようなことは決してしてない」
 同冊子によると嘉兵衛はディアナ号に乗り移る時、書類をすべて海中に投じたが、自給自足のため食料や調理道具、日常品のほか、浄瑠璃本と三味線を持ち込んでいたという。~中略~
 外交経験のない日本をたった一人で背負い、ロシアときわどい交渉を切り抜けた嘉兵衛の才覚は、どこで育まれたのだろう。抑留されたカムチャッカでも地元住民からの尊敬され、人気者でもあったようだ。
その要因の一つとして高田屋顕彰館・歴史文化資料館の斎藤智之学芸員は「青年時代、昼間は新在家で仕事をしながら夜は実家のある本村の若衆組に所属したことで、二つの世界を行き来したことになるのでは」と指摘する。

島を抜け出した後は、船乗り、廻船問屋として海と陸に暮らし、いくつもの港を渡り歩いた。つまり、物心つく頃から複数の立ち位置持ったことで、頑として譲らない一点と、柔軟に対応する幅を心得ていた―ということなのだ。 


山折哲雄の新・四国遍路
山折 哲雄 (著),黒田 仁朗(同行人) (その他)
PHP研究所 (2014/7/16)

66番雲辺寺 香川県

2026年3月24日火曜日

補陀落渡海


日本宗教史の謎とされる補陀落渡海について知ったのは益田勝実「フダラク渡りの人々」によってである(益田勝実「フダラク渡りの人々」「火山列島の思想」筑摩書房、一九六八年)。
補陀落とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方のかなたにある観音菩薩の浄土を指しているのだが、その場所については諸説あって定かではない。いずれにせよ、僧侶らを生きたまま船内に閉じ込めて外から釘で打ちつけ、わずかな食料とともに観音の浄土へと旅立たせる風習があると知って、恐怖と好奇心のまじったなんとも奇妙な気持ちにさせられたものだった。
~中略~
 補陀落渡海は、熊野の那智勝浦でのみ行われたのではなく、高知の室戸岬や足摺岬、九州の有明海などでも行われていたことが知られているが、なかでも熊野の海岸は最大の拠点であった。
一一〇九年(天仁二年)熊野を訪れた藤原宗忠は、那智の海岸が「補陀落浜」と呼ばれていたことを「中右記」に書いているし、園城寺(おんじょうじ)の相で熊野三山検校であった覚宗は、堀河天皇の頃に那智の一僧が小舟に千手観音をつくりたてて補陀落渡海を行ったのを己の目で見たと「台記(たいき)」に記されている。
また、「平家物語」の平維盛(これもり)の入水往生も那智の補陀落信仰を抜きにしては考えられないだろう(根井浄「補陀落渡海」「熊野―異界への旅」(「別冊太陽」)、平凡社、二〇〇二年、八六頁))。
 もちろん進んで人びとのために船に乗り込んだ僧もいたであろうが、そうではなく仕方なしに乗り込まされた僧もいたにちがいない。
十六世紀末のこと、金光坊は釘づけされた扉を必死で壊して脱出するのに成功したが、翌日には発見されて、再び僧たちの手で死出の旅へと送りだされる。井上靖「補陀落渡海記」のストーリーである。
この元史料は「熊野巡覧記」で、そこにはただ、「この僧はなはだ死をいとい命を惜しんだのだが、役人は問答無用で彼を再び海へと追い落としたのであった」と書かれている。
「熊野年代記」(古写)によると、補陀落山寺で補陀落渡海を行った住持は、八六八年(貞観十年)から二十人が記録されているとのことだ(根井浄「補陀落渡海」「熊野―異界への旅」(「別冊太陽」)、平凡社、二〇〇二年、八六頁))が、その他の寺を含めるとかなりの数にのぼったにちがいない。
~中略~
 補陀落渡海は海のかなたに観音浄土をイメージしてはじめて成立したわけだが、これも熊野がつねに海とのつながりのなかで存在しているということを明らかにしているのではないか。この補陀落渡海も古くからの「常世」信仰の一つのヴァリエーションだったにちがいない。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P118

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 

補陀落山寺 和歌山県

愛媛県松野町

P176
 戦国期に土佐兵がしばしばこのあたりを侵略した。  伊予の東南端で、土佐との国境いの町ともいうべき松丸あたりでは、いまでも古い人のあいだで、土佐人のことを、
「土佐のヤゴンス」
 といったりすることがあるらしい。
 ヤゴンスというのは山家(やまが)衆のなまったものかどうかはわからないが、語感からいえば「物知ラズ」「田舎者」という感じである。
用例をあつめてみると、ときにヤバンジンめ、といった感情もこもるらしい。愛情や滑稽感をこめることもある。
土佐人は酒量をほこる。伊予人との会合で、
「酒は何貫のみますか」
 などときく。酒で伊予人を圧倒してやろうというのだが、伊予人のほうは肚のなかで(ヤゴンスめ)とつびやく。
 憎悪のほうは戦国期にさかのぼるであろう。戦国期に、侵略してくるのはかならず農業生産のひくい土佐のほうからで、生産力の高い伊予側から押し出すということは、まずなかった。

P180
 戦国期には一条氏のあとの長曾我部氏によって伊予は土佐兵のわらじの下に蹂躙(じゅうりん)されるのだが、平和な江戸期に入ると、藩境い付近ではこの事情が逆になった。伊予は商品経済の先進性を示し、この小さな旧宇和島藩領松丸村が、他藩ながら、広大な西土佐(幡多郡)を市場にしてしまうのである。
その傾向は、中央の大企業が伊予も土佐もなしに大網にかけるようにして併呑してしまうまで、ごく最近までつづいた。

P181
松野という集落が、伊予という先進的な商品経済を背景にして藩境いでの最前線になり、「後進地帯」である西土佐を自在に市場化していたにちがいない。
 一方、土佐では、伊予者は肚が黒いというイメージが、老若男女となく固定化してしまっている。
「伊予衆と争(いさか)えば、なんじゃかんじゃと言うて結局負けてしまう」
 と、いう話も高知あたりではよくきく。

P191
この県境いの上で、藤原さんと矢野さんに別れた。松野町の習慣では、南へ去る知人を県境いまで送るという。私どものその習慣どおりに送られた。
 まるい顔の藤原さんは、右手をすこしあげて、
「お道を。―」
 と、呪文のようにつぶやいた。お道を、とは南伊予のことばで、一路平安を祈る、という意味である。この優しい習慣は、江戸期からこの街道筋で伝えてきているらしい。
~中略~
 県境をすぎると、いうまでもなく、土佐(高知県)である。道幅は林道ほどしかない。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1985/05/01
  • メディア: 文庫
42番佛木寺 愛媛県

檮原(ゆすはら)

P9
 土佐に檮原(ゆすはら)という山間のむらがある。
 幕末の志士で那須信吾(天誅組の乱で討死)や那須俊平(蛤御門ノ変で討死)などという郷士がこの檮原から出た。
「檮原のひとはえらい」
 と、高知市内のひとはよく言う。土佐のチベットといわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地に住みつき、代々石を割って土をつくり、わずかな山田を建造物のように造営し、水はときに渓流から汲み上げて注ぎ、平安末期にこの村ができて以来、それほどまでして生きねばならないかと思えるほどの労働を重ねて、昭和三十年ぜんごまでいたっている。あるいはこんにちなお、そうかもしれない。
「檮原の千枚田(せんまいだ)」
といわれる。
~中略~
 土佐の檮原は、高知県の西北角の愛媛県境にちかい山中にある。山口県の秋吉(あきよし)台に似たカルスト地形の土地で、溶食された石灰岩が無数に土中にかくれていたり露出していたりして、ここを拓くというのは、まず石を抱きあげてとりのぞくということからはじめねばならなかった。
 律令体制というのは、都の貴族や寺院のためにのみあったといっていい。全国の農民は「公民」のという名のもとに公田に縛りつけられ、点蝕や移住、まして逃散(ちょうさん)の自由はなく、働く器械のようにあつかわれ、収穫の多くを都へ送らせられた。律令制は広義の奴隷制だったといえるであろう。
 ひとびとは租税を納められなくなって逃散した。かれらの多くは中央集権の拘束力のややゆっるい関東や奥州に流れたりしたが、中央集権の目のとどきにくいところといえば、かならずしも関東や奥州だけではない。
大山塊のなかの秘境のような所も、逃亡先としてわるくはなかった。この土佐檮原も律令の逃亡者が吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であるという解釈を「檮原町史」はとっている。 卓見といっていい。

P13
 大陸と違い、小さな島国では、小さな収穫を得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって耕地を造らざるを得ず、檮原のような営みは古来日本の各地でつづけられてきたし、このことは日本人の性格を形成する要素の一つになっているような気がする。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

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坂本龍馬

坂本龍馬は維新史の奇蹟、といわれる。
 たしかに、そうであったろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもは、その時代的制約によって、いくらかの類型にわけることができる。型やぶりといわれた長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
龍馬だけが、型破りである。
(昭和38年7月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P338

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

高知市 桂浜

真木和泉

真木和泉(真木和泉守、名は保臣(やすおみ)。明治維新の先駆者。久留米水天宮の祠官 一八一三~一八六四)の「何傷録(かしょうろく)」の中にも、
「胸襟を綽々と(しゃくしゃく)と余裕のある様にしてこそ大義に当たりて忠孝の道もゆるりとなし得べけれ」
 さすが真木和泉、あのきかぬ気の清川八郎(庄内藩郷士出身、幕末尊攘夷派の志士。一八三〇~一八六三)が”鎮西第一の風格”と言った真木和泉、まことにそうなければならない。いかにも、せっかく大義に当たって忠孝の道もヒステリックではとてもいけない。

真木和泉は、また言っている。
「世の末の習にて兎角胸襟狭隘、懐抱忌刻にして、萬事に疑猜おほく、よく氣のきゝをる様なれども、せはせは敷(しく)して人も嫌ひ、吾身もとかう氣遣ひおほく、苦心することあり。 とても世にあらん限り首尾きづかひのみせんも無益のことなり。
丈夫たらんものは、世俗に所謂(いわゆる)大竹を打割りたらん様に磊塊洒落 とあれば、出でて人に交り、入りて家人に接するに、おのずから彼よりも吾に化して、忌刻なるものさらさらとなるものなり。 生涯にていかばかりの得なるべき。これ長寿を祈る一助にもなりぬべし」

安岡正篤
   運命を開く―人間学講話
  プレジデント社 (1986/11)
   P114

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1986/12/02
  • メディア: 単行本

 

久留米市 水天宮

学問

  学問は「思う」の一字につきており、人心の知覚(思う)は無限の広さをもっており、この知覚を押しひろげれば全世界のことがすべて心に入ってくる。思うてその筋を会得すれば世界中の理は、みな自分のものとなるのである。
日本の名著三〇の「沼山対話」より改変 

横井小楠―維新の青写真を描いた男
徳永 洋 (著)
新潮社 (2005/01)
P134

横井小楠―維新の青写真を描いた男―(新潮新書)

横井小楠―維新の青写真を描いた男―(新潮新書)

  • 作者: 徳永 洋
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: Kindle版

 

日本で初めて解剖をしてみたのは、山脇東洋という漢方医でした。一七五四年(宝暦4年)、場所は京都の壬生で、解剖されたのは屈嘉という名前の死刑囚でした。
~中略~
一歳年下にフランクリン、二歳下にリンネがいる、そういう時代の人です。

 山脇東洋は漢方医でしたが、漢方の中でも古方と呼ばれる流派でした。古方は、自分の観察や経験を重んじる流派だったそうですが、東洋が影響を受けた徂徠がはじめた学問が、古文辞学という「温故知新」の学問だったことと思い合わせてみると、時代の常識を超えるコツは「昔に遡る」ことだというのがわかります。

 何故学問が始まるかといったら、それは興味から始まる。つまり面白いと思うところから始まるのだ、というのが私の考えです。
始まりのところには、必ず生き生きとした興味本位があったはずなんですね。
~中略~
 面白がるためには、興味を持つためには、知らないといけない。ナゾの解ける快感ていうのはナゾの解けない悩みのあとじゃなきゃやってこないんです。
(住人注;南 伸坊)

解剖学個人授業
養老 孟司 (著), 南 伸坊 (著)
新潮社 (1998/04)
P44

 

解剖学個人授業

解剖学個人授業

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1998/04/01
  • メディア: 単行本

 

 

学問の道は誠意のみ。
(「師門問辨録」)

山田方谷のことば―素読用
山田方谷に学ぶ会 (編集)
登龍館 (2007/07)
P13

 

山田方谷のことば (サムライスピリット 3)

山田方谷のことば (サムライスピリット 3)

  • 出版社/メーカー: 登龍館
  • 発売日: 2007/07/09
  • メディア: 単行本

 

 

学問をするのに、簡単な道などはない。だから、ただ学問の厳しい山を登る苦労をいとわないものだけが、輝かしい絶頂を極める希望をもつのだ。

超訳『資本論』
的場 昭弘 (著)
祥伝社 (2008/4/23)
P46

超訳「資本論」 (祥伝社新書)

超訳「資本論」 (祥伝社新書)

  • 作者: 的場昭弘
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2014/01/17
  • メディア: Kindle版

【横井小楠】(一八〇九~一八六九)―学問―

 学問を致すに、知ると合点との異なる処、ござ候

 横井小楠は幕末維新期の熊本藩士、坂本龍馬は偉く見えるが、その思想はこの横井小楠と勝海舟の受け売り。当時、横井ほどの見識人はいなかった。
幕府の臣であった勝海舟は〈おれは、今までに添窩で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ〉といい<横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまで>
幕府は滅亡と見ていたが、果たしてその通りになった(「氷川清話」)。

日本人の叡智
磯田 道史 (著)
新潮社 (2011/04)
P92

 

日本人の叡智 (新潮新書 414)

日本人の叡智 (新潮新書 414)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/04/16
  • メディア: 新書
熊本県 阿蘇大橋