2026年5月23日土曜日

悲しみやつらさは細胞の化学反応である

よく考えてみれば、神経細胞という細胞が脳に存在するからこそ、今こうやって私の「悲しみ」や「つらさ」がつくられるわけです。そう思い至ると、急に気が楽になります。
「あ、そうか、この悲しみは、悲しみという実態があるわけではなくて、単に神経細胞による化学反応に過ぎないんだ。   

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?
池谷 裕二 (著)
祥伝社 (2006/09)
P72  

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

  • 作者: 裕二, 池谷
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/05/28
  • メディア: 文庫

 

〇三二
 たとえ褒められても、脳内で生まれる「アー、キモチイイ」という快感反応に溺れることなく快感の中毒にならないでいるならば、評価されたからといって、偉そうに振る舞うことはない。
 快感の刺激を追い求めないとき、君の態度はやわらかく、その場その場に応じて柔軟に言葉を返すことができるだろう。
 このように心が深く落ち着いているなら、特定の宗教や人を信仰する必要もなく、いまさら「心を落ち着けなくては」とがんばる必要もない。
経集853

〇六二
前略~
欲望の実現によって得られる脳内の快感反応は ほんの一瞬のものにすぎず、 その後は禁断症状のように空しさや不安がやってくる。
「欲望とは、苦なり」と体感したならば、 最高の楽しさを「欲しい欲しい」と求める心が静まる。
~後略
法句経186,187

一四八
 ありとあらゆる苦しみは、何かに依存することを縁(きっかけ)にして生じる。
 たとえば「好きな人に優しくしてもらうことの気持ちよさ」への依存症になると、少しでも優しくないと感じるたびに苦しみが生じ、相手との関係が険悪になる。
~中略~
 依存症になる対象をつくる愚か者は取っかえひっかえ別のものに依存しては脳内麻薬を分泌し、自分から苦しみに近づいてゆく。
 苦しみが生まれる元凶を見破ったなら、もはや依存症にかからぬよう、脳内麻薬が抜けていくのをじっと待つように。
経集728

超訳 ブッダの言葉
小池 龍之介 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2011/2/20)
  

超訳ブッダの言葉

超訳ブッダの言葉

  • 作者: 小池龍之介
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

 

英彦山 福岡県

他力の仏教

 浄土仏教は別名「他力の仏教」と言うことができます。中国仏教では、禅仏教と浄土仏教は一対で語られることが多いのですが、(禅浄双修と言います)、日本仏教ではそれぞれが独立する方向へと進みました。これは鎌倉仏教の特徴でもあった、シンプル・ピュア・イージーという方向性、つまりただひとつを選び取り残りは捨てる、という傾向が反映された結果でしょう。「他力」とは、仏願(主として阿弥陀仏の願い)の力を指します。
~中略~
 さて、「他力」は私たちの在りようを方向転換させる力と考えることができます。自分の力で生きている、という枠組みが「大きな願いの中で生かされている」という逆方向へと転換する、それが他力です。
~中略~
 「南無阿弥陀仏」の「南無」はサンスクリット語のナマスやパーリ語のナムを音写したものです。帰命や帰依と意訳されることもあります。「おまかせします」と訳すのがいいと思います。「阿弥陀仏」は、前述のように、限りない光と生命のブッダという意味です。口に「ナムアミダブツ」と称えることは、「限りない光と生命の仏様におまかせします」という生きる姿勢を表明しているということです。定型の信仰告白ですね。これは向こう側から開くという宗教の受動性に基いている仏教なのです。

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P216

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

  • 作者: 釈 徹宗
  • 出版社/メーカー: バジリコ
  • 発売日: 2008/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

島根県 荒神谷遺跡

帰るところがある

 今は、死んだら浄土に生まれることができるような生き方をしようと考えています。それに「死んだらそれでおしまい」と考えて生きている人と、「死んだら浄土に帰っていく」と考えて生きている人とでは、だいぶ行き方が違ってくるんじゃないでしょうか。
 そうなんです、「浄土」とは帰るところ、難です。「西の方向」とは、帰るとこの象徴表現です。
 山折哲雄氏によれば「日本人の宗教性を最もよく表しているのは、「夕焼け小焼け」の歌」だそうです。(山折氏は、韓国の宗教学者に教えてもらったそうですが)。
 夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る
 お手々つないでみな帰ろ カラスと一緒に帰りましょ
 ここで語られる、「夕焼け」「お寺の鐘」「お手々つないで」といった記号は、「共生感覚」「自然観」「生命観」「無常観」「深みのある悲哀観」など、日本の宗教的情緒を見事に象徴している、というわけです。

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P219

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

  • 作者: 釈 徹宗
  • 出版社/メーカー: バジリコ
  • 発売日: 2008/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

島根県 荒神谷遺跡

キリスト教とルネサンス

橋爪 キリスト教のふしぎは、音楽、美術などの芸術に深い影響を与えていることです。
文学にも影響は及んでいるが、芸術ほど直接的ではない。
 まず、音楽。音楽はキリスト教の場合、禁止されなかった。
 イスラムには宗教音楽がありません。禁止なのです。ですから、アザーン(礼拝の呼びかけ)もクルアーンの朗唱も、私たちが聴くと音楽みたいでも、絶対に音楽ではないとされている。音楽があるとすれば、世俗音楽なので、宗教は音楽に影響を与えない。
 ところが、キリスト教はそこがあいまいだった。教会で、音楽を歌ってもいいし、歌わなくてもいい。教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それで、グレゴリオ聖歌とかができたんですけれど、これは実は、「ユダヤ教の旧約聖書の朗唱の節回しを真似したものなんです。~中略~
 絵画について言うと、偶像崇拝がを禁止しているキリスト教に宗教画があるのはおかしいことなのです。「でも、キリスト教徒はあまり聖書を読まなかったし、そもそも字が読めなかったりしたので、絵で見せるしかなかった。そこで、イコンとか聖人の像とかイエス・キリストの像とかがどっさりつくられた。
ルネサンスになると、豊富な資金を背景にカトリック教会がつぎつぎ注文を出したので、ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロと、宗教美術の黄金時代を迎えます。

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P320

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

 

大乗仏教運動

 大乗仏教運動は、このようないわば社会的活動をあまりしなくなった、形骸化した伝統仏教に対する批判から興ったと思われます。
山奥に 引きこもるのは仏教徒の仕事ではない。苦しむ人間を救うことこそ仏教徒の任務だ、ということですね。
そしてこの苦しんでいる人間を救おう とする人間を菩薩と言います。
大乗仏教は、如来になることがむずかしいなら菩薩になれ、と言います。山奥に引っ込んで、ひとり悟りを開 こうとする仏教徒を攻撃して、民衆のなかに入って民衆の苦を救えと言います。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)
P197

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫 う 10-5)

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫 う 10-5)

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/11/06
  • メディア: 文庫

 

 P69
日常生活から逃れて静かな場所で座禅をするというのは、日常生活と座禅を相対立するものと考え、日常生活を不浄、座禅の境地を浄らかとする考えにもとづいている、と維摩は言うのです。
大乗仏教の立場からすれば、日常的な世俗と座禅は別のものではなく、日常生活の中にあってこそ座禅が本当の意味をもつことになるのです。
高い宗教的な境地と日々の暮らしとが一体となることこそ大乗仏教の理想といってよいでしょう。

P225
すでに見てきたように、大乗仏教は、この現実世界のほかのどこかに寂滅の境地があるという見解をとらず、この雑多な現実の中に自由の境地を求めようとしました。維摩こそ、そのような大乗仏教の考え方の代表者です。

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典
菅沼 晃 (著)
日本放送出版協会 (1999/06)
  

維摩経をよむ (NHKライブラリー 102)

維摩経をよむ (NHKライブラリー 102)

  • 作者: 菅沼 晃
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 1999/06/01
  • メディア: 単行本

 

奈良県 橘寺

油注がれた者

古代イスラエルは、士師の時代のあと、王制に移り変わっていきます。初代の王はサウル、二代目はダビデ、三代目の王はソロモンです。しかし何とかまとめきれたのはこの三代のみで、その後、王国はもろくも分裂してしまいます。

~中略~
初代の王サウルは、サムエルという人物に見いだされて王となりました。サムエルは、モーセやヨシュアと同じように神に呼び出され、その意志を伝える役目を負わされた人でした。のちの時代、こういう人は預言者と呼ばれるようになります。

~中略~
聖書はひとつの立場から一度にかかれたものではなく、別々に書かれた古代イスラエルの宗教文書を、あとから編集してまとめたものです。ですから多くの考えが含まれていて、その間には矛盾もあります。
 さて、イスラエルの一部族の有力者の息子であったサウルは、あるとき父親のロバが逃げたのを探しにきて、サムエルと出会います。

~中略~
サウルのことを事前に神から聞かされていたサムエルは、彼を認めて、その頭に油を注ぎます。これは、神に選ばれた特別なものであることを示す儀式でした。
のちに救い主が待望されるようになると、これもまた「油注がれた者」と呼ばれるようになります。(この言葉が「メシア」で、これをヘブライ語からギリシャ語に訳したうえで日本語にしたのが「キリスト」です。)
 かくしてサウルは民の特別な指導者となりました。

~中略~
こうしてイスラエルは、対等な人間同士の国から王を戴く国へと、確実に変質していくことになります。

大城 信哉 (著)
あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本
永岡書店 (2010/4/10)
P120 旧約聖書

あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本 (ナガオカ文庫)

あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本 (ナガオカ文庫)

  • 作者: 大城 信哉
  • 出版社/メーカー: 永岡書店
  • 発売日: 2010/04/10
  • メディア: 文庫

 

聖書の読み方

  聖書という本を取り上げて、だいたいこういうことが書いてある、という程度のことはいえるとしても、聖書の主張はこうだということはとても難しく、あるいはほとんど不可能なことのように思えます。
 まず、聖書は時代も文化もまったく違うところで書かれたものだからです。人はよく聖書に人生訓を見ようとしますが、もともと現代人に向けて書かれたのでも、日常生活の知恵を主題にまとめられたものでもありません。しかも聖書は多くの人々の書いたものをあとから集めて編集したものなので、そもそもそこにひとつのまとまった主張があるかどうかすらわかりません。

 しかし、一方で、聖書は有名な古典でもありますから、こんなふうに解釈されてきた、という歴史があります。その解釈は、ひょっとすると聖書に対する誤解なのかもしれませんが、そのような伝統があるのもたしかです。
聖書といって私たちがふつう思い浮かべるのは、たいてい場合、実はこの伝統のことです。しかし、それは、聖書そのものを丁寧に読むこととと必ずしも一致しません。

大城 信哉 (著)
あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本
永岡書店 (2010/4/10)
P253

あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本 (ナガオカ文庫)

あらすじと解説で『聖書』が一気にわかる本 (ナガオカ文庫)

  • 作者: 大城 信哉
  • 出版社/メーカー: 永岡書店
  • 発売日: 2010/04/10
  • メディア: 文庫

 

 キリスト教は確かに聖書に依拠している、だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。
いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教が消えても聖書は残る。
この関係はあくまでも明確にしておかなければならない。

日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P174

 

日本人とユダヤ人 (角川文庫 白 207-1)

日本人とユダヤ人 (角川文庫 白 207-1)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫

 

 

橋爪 前略~
 なぜ福音書がいくつもあるのかというと、福音書は、預言書(預言者の預言を記録した書物)ではないからです。預言書(たとえば、「イザヤ書」)は、預言者本人が書いた(ということになっている)ので、二冊あったりしない。預言者ひとりに、一冊ずつです。これに対して、イエスは、自分で書物を書かなかった。
最後は十字架で死んでしまうという話ですから、本人はそれを記録するわけにはいかない。別人がそれを記録し、証言するというかたちにならざるをえない。
 このように福音書は、イエス・キリストについて証言する書物なのです。
~中略~
 もう少し補足すると、キリスト教は、福音書によって成立したのじゃないんです。福音書は、キリスト教が成立したあと、聖書に選ばれた。
では、いつキリスト教が成立したかというと、それは、パウロの書簡によってである。パウロが書簡を書いたのは、福音書の成立時期よりも古いんです。福音書を見ないで、パウロは書簡を書いている。
そのときもう、イエスはキリストであり神の子だと確信していあた。パウロが、イエスの十字架の受難を意味づける教理を考えたので、ユダや教の枠におさまらない、キリスト教という宗教が成立した。それが、福音書の編纂をうながしたという順番なのです。
~後略
大澤 なるほどね。新約聖書というと福音書のイメージが強いかもしれませんが、言うまでもなく新約聖書の重大な部分はパウロの書簡です。~略

ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
講談社 (2011/5/18)
P139P

 
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版

 

 

 

P119
私の確信するところによれば、聖書をよく理解すればするほど、即ち、われわれが一般的に解釈し、特にわれわれ自身にあてはめて考える一つ一つのことばが、ある事情、時、場所の関係に従って、独自の特殊な直接個人的な関連をもっていたことを悟り、味わえば味わうほど、聖書はますます美しくなる
(「格言と反省」から)

 

P120
それゆえ、聖書は永遠に感化を与える書物である。なぜなら世界のある限り、「私は聖書を全体としても個々についても理解している」と言うような人は現れないであろうから。われわれはむしろ「これは全体として尊ぶべく。個々については応用し得る」と、謙遜して言うであろう。
(「格言と反省」から)

ゲーテ格言集
ゲーテ (著), 高橋 健二 (翻訳)
新潮社; 改版 (1952/6/27)



ゲーテ格言集 (新潮文庫)

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/12/05
  • メディア: 文庫

親鸞

五木 前略~ 親鸞がやったことというのを、日本の長い仏教の歴史、あるいは思想史の流れの中で見ると、やっぱり個人というものを信仰と結びつけた点にあると思うんです。彼が個人の信仰を確立したわけです。
 阿弥陀如来信仰には、「われ一人のため」という発想があるでしょう。親鸞は近代に至る前に個人の自我というものを確立したのです。
それまでの宗教というのは、すなわち国家の宗教であり、民衆の信仰であり、村人、職人グループの信心だった。五穀豊穣や鎮護国家といった社会的要請のために使われ、僧侶たちは朝廷から官位をもらって任命されていた国家公務員です。
 そういう大きな世界にある宗教勢力というものから離れて、庶民大衆というもののために仏教を模索したのが法然で、親鸞がやったことは、さらに庶民大衆の中の一人ひとり、個々の個人の、個の自覚を切り開いたということだと思います。

親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P108

親鸞と道元 (祥伝社新書)

親鸞と道元 (祥伝社新書)

  • 作者: 五木寛之 立松和平
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: 新書

 

滋賀県 比叡山

2026年5月22日金曜日

我見を離るべし

P88
 学人の第一の用心は先ず我見を離るべし。
我見を離るゝと云ふは、此の身を執すべからず。説ひ古人の語話を究め常座鉄石の如くなりとも、この身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道を得べからず。

P113
学道は須く吾我を離るべし。
設ひ千経万論を学し得たりとも、我執を離れずんば終に魔坑に落べし。

懐奘 (編集), 和辻 哲郎
正法眼蔵随聞記
岩波書店; 改版版 (1982/01)

正法眼蔵随聞記 (ちくま文庫 ミ 1-1)

正法眼蔵随聞記 (ちくま文庫 ミ 1-1)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1992/10/01
  • メディア: 文庫



私が結核で死にそうになったとき、知らないで無我になったら神の世界が目の前に出てきてしまったんですね。そうすると、ただただ感動ですね。

どうしたら見られるかといったら、我をなくすこと以外に神を見る方法というのはない。理屈では見られない。それが神道でいう祓いですね。
罪・穢というのはすべて我ですから、我を祓いなさい。なくしなさい。そういしたら神さまがみられますよと言っているんですが、人間というのはなかなか我をなくすことができない。

葉室 頼昭 (著)
神道 見えないものの力
春秋社 (1999/11)
P215

神道 見えないものの力 〈新装版〉 ( )

神道 見えないものの力 〈新装版〉 ( )

  • 作者: 葉室 頼昭
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2013/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


P332
まずは<私>の視点や認識を疑う、<私>の判断や思考を疑う、そのことによって逆に<私>がありありと浮かび上がってくる、そんなプロセスから始めましょう。
 (求める)心さえあれば、眼の見えるところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えである。
 (「華厳経」)

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

  • 作者: 釈 徹宗
  • 出版社/メーカー: バジリコ
  • 発売日: 2008/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


七九八 ひとが何か或るものに依拠して「その他の者はつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人びと>は語る。
それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

ブッダのことば―スッタニパータ
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1958/01)
P179

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

  • 作者: 中村 元
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/01/26
  • メディア: Kindle版



P50  人が悩んでしまう理由の一つは、「判断しすぎる心」にあります。
「判断」とは、この仕事に意味があるとかないとか、人生は生きている値打ちがあるとかないとか、彼と自分を比較すれば、どちらが優れている、劣っているといった「決めつけ」「思いこみ」のことです。
「どうせ自分なんて」という自虐も判断。「失敗した」「最悪」「ついてない」という失望や落胆も判断。「うまくいかないのでは?」という不安や尻込みも、「あの人はキライ、苦手」といった人物評も、判断です。
 こうした判断は、不満、憂鬱、心配事など、たくさんの悩みを作り出します。~中略~
「判断」が、人の心をいかに縛りつけているか、今一度振り返ってみましょう。
 たとえばこんな人がいます。占い好きで、運勢がいい、・悪いといつも判断している。噂話に花を咲かせて、「あの人はこんな人物らしい」と詮索している。人と別れた後は、彼はいい人・悪い人、好きだ・嫌いだと評価している。
「自分は絶対に正しい」と思い込んでいる人もいます。人の意見を聞かずに、自己主張ばかりするほと。それどころか、人に意見されると逆上する人。~中略~
「判断」は、自分の性格にも影響します。「こうでなければ」という思い込みは、「潔癖さ」や「完璧主義」「頑張りすぎてしまう」性格を作り出します。「自分はダメな人間だ」という自己否定のレッテルにもなります。
「どうせ失敗するに決っている」「わたしにはそれだけの能力がない」と、ひとりで「結論を出してしまっている」こともあります。これらは全部「判断」です。
~中略~
 目覚めた者は、人間が語る見解、意見、知識や決まりごとに囚(とら)われない。
 彼は、善し悪しを判断しない、判断によって心を汚さない。心を汚す原因も作らない。
 ブッダは、正しい道(方法)のみを説く。かくして「わたしが」という自意識から自由でいる。
                   ―スッタニパータ <心の清浄について>の節

P68
「今日はついていない」「失敗したかも」「あの人は苦手、嫌い」「自分はダメな人間」といった思いがよぎった時は、「あ、判断した」と気づいてください。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)

 

P82
 一度、自我というものを徹底的に殺し尽くすことです。
禅的に申せば、一度死にきれということです。つまり、いまのお前を支配しているのは全部自我じゃないか。だから、まずその自我を殺し尽くせ、と言うのです。
 じゃあ、どうすれば自我は殺せるのか。禅宗では、そのために、座禅というようなものを行ないます。いわゆる無念無想の境地です。

P96
 なぜ、禅では、これほどまでに修行を厳しくするのか。それには一つの目的があるのです。つまり、禅においては、自由とか平等とか、そういういっさいの人間的なものは末梢的なものと見ます。
そして修行の目的は、あくまでも「自我」というものを殺し尽くすことにあるとする。すなわち、、自我を殺すためには、そういう不自由とか不平等とかいうことをいっさい黙殺しなければならない。自我とは、じぶんのしたいことをしたい、あるいは自分を主張したいということですから、そんなものはこんりんざい認めない。求めるものはただ一つ、つまり自己とは何か、ということです。~中略~
 自己を確立するためには、まず自我を殺さねばなりません。そうしてこそはじめて、自由ということが言いうるのです。

P104
 この、「おれが」「わたくしが」という自我を捨て去るには、それではどうすればよいか。
そこに仏教の本領があります。  仏教では、そのために、いったい自我とは何か、ということをとことん求めていくのです。またそのための懇切なる解説書が数限りなくあります。
何千巻とある仏教経典は、すべてこの自我とは何か、人間とは何か、ということの解脱であると見てよろしい。それを読んでいくうちに、なるほど人間とはそういうものか、ということがわかるようになっている。これは、一つの哲学的な方法であります。
 しかしながら、仏教にはもう一つ方法がある、たとえば、比叡山の修業には「籠山(ろうざん)の比丘」と「回峰の行者」という二つの修業方法があります。
籠山の比丘とは、比丘、すなわち坊さんが、約一二年の間、山に立てこもって勉学にいそしむことをいうのですが、これなどはいま申しました哲学的方法です。
 ところが、人間には二とおりあって、非常に知恵に走る人と、あまり知恵は回らないが体は頑健であるという人と、だいたい二種類のタイプに分かれる。
前者は「籠山の比丘」となってその知恵をひたすら磨く。
しかし、後者は「回峰の行者」、すなわち峰を歩き回る行者となって、一日に十六里以上も山を歩きつづける生活を送るのです。それはもうくたくたの、すべてを忘れ果ててしまうほどの過酷の生活であります。ただやらなければならないからやる、それだけの生活です。 そうした修業を、およそ千日もつづけていますと、最後にはもうわれも彼もなくなっている。自我などというものはどこかに吹き飛んでいます。それは、行より入るところの無我の境地であります。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

  • 作者: 立花 大亀
  • 出版社/メーカー: 里文出版
  • 発売日: 2011/03/15
  • メディア: 単行本

 

福井県 永平寺

諍論(じやうろん)するな

君子の力牛にも勝れりといへども牛と諍そはず。
我法を知れり、彼に勝れたりと思ふとも、論じて人を掠(かす)め難ずべからず。
若し真実の学道の人ありて法を問はば、法を惜しむべからず。為に開示すべし。
然あれども猶それも三度問はれて一度答ふべし。多言閑語することなかれ。

懐奘 (編集), 和辻 哲郎
正法眼蔵随聞記
岩波書店; 改版版 (1982/01)
P112

正法眼蔵随聞記 (ちくま文庫 ミ 1-1)

正法眼蔵随聞記 (ちくま文庫 ミ 1-1)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1992/10/01
  • メディア: 文庫

学識の豊かな人は、知識に自信があるあまり、人の意見に耳を貸さないことが多い。そして一方的に判断を推しつけたり、勝手に決めつけたりする。
 そんなことをすれば、どういうことになるだろう。そう、抑えつけられた人たちは、侮辱された、傷つけられたと感じ、おとなしく従ってはいない。憤り、反抗するだろう。

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章
フィリップ・チェスターフィールド (著), 竹内 均 (翻訳)
三笠書房 (2011/3/22)
P121

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2011/03/22
  • メディア: 文庫


[第七十九段] 何事も、深く立ち入らぬ様子をしているのがよい。人柄のよい者は、知っていることだからといって、そんなに自慢顔にしゃべったりはしないものだ。
~中略~
自分が精通している道には、必ず口が重く、相手が問わぬ限りは、しゃべらないのが、よいのである。 

徒然草―現代語訳
吉田 兼好 (著), 川瀬 一馬
講談社 (1971/12)
P227

徒然草 (講談社文庫)

徒然草 (講談社文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: Kindle版

  自分の考えにしがみついている人が、「俺様の考えだけが真理であり、貴様はまちがっている」と論争をしかけてくるなら、
「なるほど、そういう考え方もあるのですねえ。あなたがそう考えたくなる気持ちはわかるような気がします」
と言ってヒョイッとかわしてやるとよい。
~後略
経集832

超訳 ブッダの言葉
小池 龍之介 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2011/2/20)
〇四八  

超訳ブッダの言葉

超訳ブッダの言葉

  • 作者: 小池龍之介
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

八二四 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。
「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
八二五 かれらは議論を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交す。―みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。
八二六 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
八二七 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって非泣する。
八二八 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
八二九 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。
八三〇 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。
~中略~
八三二 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、―「論争が起こっても、汝と対論する者はここにいない」と。

ブッダのことば―スッタニパータ
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1958/01)
P183

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)

  • 作者: 中村 元
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/01/26
  • メディア: Kindle版

仏の教えは前に触れたように、大きな声をあげて「論争」することを好まない。やはり、弘法大師も静かに沈黙することをすすめるのだ。意見の違う人に対して、言葉を尽くして説明することは、僕自身これから何度もあるだろうけれど、同時に、釈尊や空海が「黙」というものに込めた真意に、思いを巡らすものでありたい。
「方円の人法は黙するに如かず」
【現代語訳 四角になったり円くなったりする人間のあり方に対しては黙している方がよい】
(弘法大師 空海 遍照発揮性霊集」巻第一)

ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P235

ボクは坊さん。

ボクは坊さん。

  • 作者: 白川密成
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2010/01/28
  • メディア: 単行本

 相手が過剰にしゃべっているときには、私は逆に沈黙を武器として使います。相手が得意げに話し続けているときや、相手の言っていることが要領を得ないとき、私はとにかく黙って聞くようにしています。
饒舌な人間はこちらが黙っていると、何時間でも話し続けるものです。聞いているこちらとしては、「相手に口をはさませずに一人で二時間、三時間しゃべるアホがどこにおんねん」という心境ですが(口が悪くてごめんなさい)、まずは何も言わずに聞きます。
 なぜか、こういう相手は調子に乗りすぎないよう、ボディーブローを打ち込んでおく必要があるからです。
ずっと黙って聞き続け、最後に相手が「すごいだろ、これでわかったか?」と得意げに言ってきたときに、「いや、全然わかりませんでした」と真顔で切り返すのです。
 実際、これはかなり堪(こた)えます。

交渉プロフェッショナル
島田 久仁彦 (著)
NHK出版 (2013/10/8)
P43

交渉プロフェッショナル 国際調停の修羅場から (NHK出版新書)

交渉プロフェッショナル 国際調停の修羅場から (NHK出版新書)

  • 作者: 島田久仁彦
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2013/10/11
  • メディア: Kindle版

人が君の議論を認めない場合も、忍耐を失うな。(コーランから)
(「格言と反省」から)

ゲーテ格言集
ゲーテ (著), 高橋 健二 (翻訳)
新潮社; 改版 (1952/6/27)
P92

ゲーテ格言集(新潮文庫)

ゲーテ格言集(新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/04/22
  • メディア: Kindle版


 いくら見事に論破しても、こういうアホたちが自分の考えを変えるとは思いにくい。美しく論破されたら、あなたに対する恨みが増すだけだろう。次は姑息な手段を使ってでもリベンジしてくるかもしれない。
その前に、誰からん見てもいくら見事に論破したと思われても、アホは論破されたと思っていない可能性が高い。言いがかりをつけられたとか、屁理屈で言いくるめられたと思って、被害者意識を持ちながらあなたを憎むことだろう。
 おせっかいの傾向のある人は、たいていはお人よしで純粋な人が多い、ある意味、自信家であり、自分は問題を解決できると思っているから、いろいろとおせっかいという形で介入してくるわけだ。

頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現する方法
田村耕太郎 (著)
朝日新聞出版 (2014/7/8)
P27

頭に来てもアホとは戦うな!

頭に来てもアホとは戦うな!

  • 作者: 田村耕太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/09/25
  • メディア: Kindle版

福井県 永平寺