2026年6月25日木曜日

確実に安らげる時間と場所を作れ

「成功するかわからない」という不安な時期には、日々の生活の一部を「そのときだけは確実に安らげる時間」にしておくといい。
私たちの場合、それはランチだった。私たちはいつも同じ場所でランチをとり、いつも同じメニューを注文し、いつも同じように過ごした。私たちにとって、そこは回転する宇宙の中で唯一静止している場所であり、一日に秩序をもたらしてくれる 場所だった。

魂を売らずに成功する-伝説のビジネス誌編集長が選んだ 飛躍のルール52
アラン・M・ウェバー (著), 市川裕康 (翻訳)
英治出版 (2010/2/25)
P190
魂を売らずに成功する-伝説のビジネス誌編集長が選んだ 飛躍のルール52

魂を売らずに成功する-伝説のビジネス誌編集長が選んだ 飛躍のルール52

  • 出版社/メーカー: 英治出版
  • 発売日: 2010/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

仕事から離れて、リラックスする時間を取ることは良いことだ。
というのは、ふたたび仕事に戻ってきたときに、よりよい判断ができるからだ。
[レオナルド・ダ・ヴィンチ]

怠け者は休息を楽しむ術を知らない。
[ジョン・ルボック]イギリスの銀行家・科学者 |1834‐1913

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 水野敬也 (著), 長沼直樹 (著)
文響社 (2012/12/11)
03

人生はワンチャンス!- 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 人生は~シリーズ

人生はワンチャンス!- 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 人生は~シリーズ

  • 出版社/メーカー: ミズノオフィス
  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: Kindle版


 近年、ドイツで発表された論文の中で、店員や客室乗務員など生活のために笑顔をつくらなければならない職業の人は、うつ症状やストレスに悩まされたり、心循環器系の障害や高血圧などの症状を起こしたりしやすいことが報告されています。~中略~
 このようなストレスに対処するには、心理学者のブライアン・リトルがいう「本来の自分にもどる時間」をもつことです。「本来の自分にもどる時間」」とは、信頼する友人に気持ちを語ったり、心に浮かぶあらゆることを日記に書きつけたり、ただ単に自分の部屋でひとりで過ごしたりする時間のことです。

ハーバードの人生を変える授業
タル・ベン・シャハー(著), 成瀬 まゆみ (翻訳)
大和書房 (2015/1/10)
P141

ハーバードの人生を変える授業

ハーバードの人生を変える授業

  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2014/03/07
  • メディア: Kindle版
島根県 出雲大社

笑顔は万国共通

P168
  ちなみに、(住人注;イヌが)シッポを振るのは喜んでいるのではなくて、ある種の緊張状態で生じる反射的な行動です。人でいうところの「貧乏ゆすり」などと似ていて、無意識でオートマティックな」動作です。
~中略~
笑いは、言語があるからこそ生まれたと考える人もいます。でも、言語がなくても笑いが人間に備わっているのは、赤ちゃんが笑顔を作ることができることを見ればわかります。ただ、あの笑いが面白くて笑っているのではないことは、ほぼ確実です。
あの笑顔は、<シグナル>として存在しているのだと思います。

P169
 このように私は、笑顔の最初の原型は、相手に、「自分は今申し分ない状態にあります」ということを伝えるためにできたのではないか、と思い至るようになって、普段から他人の笑顔をしばらく観察してみました。
~中略~
 笑顔は万国共通です。アメリカ人の笑顔も、日本人の笑顔も似ています。古代壁画を見ても、笑顔の形は今と同じです。
つまり、顔の表情は地域や時代を超えて一致しています。

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?
池谷 裕二 (著)
祥伝社 (2006/09)  

 

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

  • 作者: 裕二, 池谷
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/05/28
  • メディア: 文庫

「でも私たちイタリア人は皆ニコニコして、すばらしかった、面白かった、と日本の人たちに言うわ。それは礼儀であり、半分お世辞よね。だって笑顔はタダだから。そういうこと、日本でもあるでしょう?でもあの日本の人たち、わかっていなみたいね」
~中略~
そうだ、日本では私たちもお世辞を言うではないか。日本人同士なら「あ、この人、お世辞を言っている」と子供でも分かるはずなのに、なぜかヨーロッパの人々が言うことは言葉通り通りに受けとってしまうようだ。自分の国では、お世辞と本音を見抜くことができる日本人が、なぜ外国人、特に欧米人の言葉は額面以上に受けとめてしまうのか。
 その原因は、こちらの人々の笑顔かもしれない。見知らぬ人にとびきり笑顔で接するのは、あまり日本ではないことだから。
 ヨーロッパの人々は知らない人同士でも顔が会うとニコッと笑う。なんのためかといえば「私は、あなたを警戒してませんよ」という合図。ただそれだけなのだ。しっかり覚えておいてください。マリアが言うように「笑顔はタダ」なのです。
 最近あまり聞かれなくなったが、「ジャパニーズ・スマイル」という言葉がある。日本人があいまいに笑うことが指すが、ヨーロッパの人々の笑いには意味があることを忘れてはいけない。
 ヨーロッパのひとの笑顔に過大評価は禁物です。

一度も植民地になったことがない日本
デュラン れい子 (著)
講談社 (2007/7/20)
P200

一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書)

一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書)

  • 作者: デュラン れい子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/07/20
  • メディア: 新書

P41
 人がなにを感じ、なにを考えているかは、そのしぐさや表情からだいたい読み取れる。悲しいときはなく。うれしいときは微笑む。賛成のときはうなずく。それは不思議なことではない。
だが、”固有反射心理学”と呼ばれる研究分野では、同じことが逆方向にも働くと考えられている。人にある行動をとらせると、ある種の感情や考えが呼び起こされるというのだ。
~中略~
 まったく同じことが、幸福感にも言える。人はうれしいと微笑むが、微笑むことでうれしくもなる。そして自分の笑顔を意識しなくても、この効果は働くようだ。

P43
 あなたの日常にすぐにでも取り込めるしあわせは、沢山ある。なかでもだいじなのが、”笑う”こと。ただし、感情のこもらない一瞬で消える笑いではない。笑顔を十五秒から三十秒続ける。ほんものの笑顔を引き出すような場面―友だちからおかしなジョークを聞いたとか、来るはずだった姑が結局こなくなったとか―を思い描きながら、できるだけ楽しい表情を浮かべる。そして、くり返し笑顔を浮かべるための合図を考える。時計やパソコン、携帯電話などに笑う時間をセットしたり、あるいはもっと大まかに、電話が鳴ったらにっこりするというふうに決めておくのだ。

P44
 ビーレフェルト大学のペーター・ボルクナウ教授の研究によると、しあわせな人は、ふしあわせな人と行動の仕方がちがう。この結果を応用して、しあわせそうにふるまうと、幸福感を高めることができる。つぎのことをお勧めしたい。
歩くときは肩の力を抜き、いつもより腕を大きく振り、足どりを軽くする。~後略

その科学が成功を決める
リチャード ワイズマン (著), Richard Wiseman (原著), 木村 博江 (翻訳)
文藝春秋 (2012/9/4)

その科学が成功を決める (文春文庫 S 10-1)

その科学が成功を決める (文春文庫 S 10-1)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2012/09/04
  • メディア: 文庫

P63
認知能力の低下した人でもそうでない人でも、外国人であっても、その相手と視線があった瞬間ニコッと笑顔を作ってあげると、ほとんどの場合に笑顔が返ってきます。
今までの経験では、文化的差の認められない普遍的な「反射」です。この反射が重要なのは、ウィリアム・ジェームスが指摘しているように、表情筋の運動、たとえば笑顔をつくることによって「たのしい」「うれしい」などの情動が誘起される事実があるからです。

P65
 ひとつ警告しておきます。この貴重な「情動誘起」の試みは認知能力の低下した高齢者に対しては、まず一〇〇パーセント適用できます。いくつかの途上国でも子どもたちの輝くような笑顔に感激させられました。アメリカでも、老若男女を問わず非常に高率で有効でした。
しかし、認知能力は落ちていないとうぬぼれているらしい若い日本人女性には、時として禁忌であるのは残念です。孤立した不安な魂は、見知らぬ人からの刺激を反射的に「ハラスメント」と即断する傾向があるからです。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

足立山 北九州市

過去にしばられる必要はない

P140
  アドラーはトラウマは必ずしもトラウマである必要はない、と考えています(「人生の意味の心理学」一五頁)。
アドラーはいかなる経験もそれ自身では成功の、あるいは失敗の原因ではなく経験からショックを受けることもない、私たちは経験によって決定されるのではなく経験に与えた意味によって自分を決めるのである、といっています。
 ですからある経験をトラウマであると見なせばその経験がトラウマになるというにすぎないのです。
ある経験によって人が必ず同じ影響を受けるのであれば、それ以外のあり方をとりえないのであれば、今とは違うあり方へと導くことである教育、育児、治療はそもそも不可能であるといわざるを得ません。

P141
原因論に立たないアドラー心理学の立場では、何かの出来事があって、それを体験するということが原因となって人が問題を起こすとは考えません。むしろそれまで隠されていたライフスタイルが、何らかの体験、たとえば、学校に入ることによって明らかになるというふうに考えるのです。
 また、思春期について、思春期が子どもを変えるのではなく、思春期は過去に形成された性格を明らかにする「新しい状況」である、とアドラーはいっています(「子どもの教育」一八六頁)。
 同じ環境に育ったからといって、二人の子どもが同じになることはありません。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
岸見 一郎 (著)
KKベストセラーズ (1999/09) 

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

  • 作者: 岸見 一郎
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 1999/09/15
  • メディア: 新書

 過去の不愉快なことを思い出している時は、あなたの心が過去にとらわれている時。
当然、「今」という大切な一瞬に生きることができません。貴重な時間を過去に乗っ取られているのと同じです。
 過去のことは過去のこと。さっさと手放してしまいましょう。
 幕末・明治期に活躍した原坦山(はらたんざん)という禅僧が、こんな逸話を残しています。
 連れの禅僧と二人で修業の旅をしていた坦山が、ある川の前に来た時のこと。その川には橋がなく、若い女性が渡るに渡れず立ち往生していました。坦山は、「私が渡してあげよう」と、何のためらいもなく女性を抱き上げ向こうの岸までわたりました。そして、礼を言う女性と別れて、何事もなかったかのように再び歩き始めました。
 しばらくすると、連れの僧が坦山に向かって突然怒り始めました。
 「修業の身でありながら、女を抱き抱えるなどけしからん」
 すると、坦山は驚いて「お前は、まだ女を抱いていたのか、私は川を渡った時に降ろしてきたのに」と大笑いしたそうです。
 このようにさらりと過去を手放せば、楽に生きられそうですね。

怒らない 禅の作法
枡野 俊明 (著)
河出書房新社 (2016/4/6)
P174

怒らない 禅の作法 (河出文庫 ま 14-2)

怒らない 禅の作法 (河出文庫 ま 14-2)

  • 作者: 枡野 俊明
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/04/06
  • メディア: 文庫

 あの人は、わたしを罵った、わたしを否定した、わたしに勝利した、わたしは奪われた、と思いつづける人は、(記憶に反応して怒りつづけているのだから)怨みが止むことはない。
                                 ―ダンマパダ〈ひと組の詩〉の章

P114
 もしイヤな記憶がよみがえったら、その記憶への「自分の反応」を見てください。
相手と別れてもなお腹が立って止まらないときは、「これはただの記憶」「反応している自分がいる(相手は関係ない)」と冷静に理解して、感情を静めるよう心がけましょう。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P113

 石井(住人注;石井毅)氏の報告した「仮想現実症候群」でも、阿保(住人注;阿保順子)氏が観察した「痴呆老人の創造する世界」でも、そこに住む人々は、過去の経験に基づいた世界を生きていました。なぜ未来でなく、現在でもなく、過去の世界であるかという疑問が生ずるかもしれません。
それには、スティーブン・コスリンが「脳は過去の記憶に基づいて現実を構成している」という、逃れるすべのない過去の呪縛が用意されています。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P143

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

渇愛

P26
人間が抱える不満や物足りなさの「理由」について、ブッダはこう語っています。
 苦しみが何ゆえに起こるのかを、理解するがよい。
 苦しみをもたらしているものは、快(喜び)を求めてやまない”求める心”なのだ。
                          ―初転法輪経 サンユッタ・ニカーヤ ブッダが発見した”求める心”tanhâ(タンハー)とは、いわば「反応しつづける心のエネルギー」のこと。人の心の底に、生きている間ずっと流れている意識のことです。
”求める心”は、発生後”七つの欲求”に枝分かれします。現代心理学の知識を借りると、7つの欲求とは、①生存欲(生きたい)、②睡眠欲(眠りたい)、③食欲(食べたい)、④性欲(交わりたい)、⑤怠惰欲(ラクをしたい)、⑥歓楽欲(音やビジュアルなど感覚の快楽を味わいたい)、そして、⑦承認欲(認められたい)です。

P27
”求める心”のことを、仏教の世界では「渇愛」と表現してきました。
「求めつづけて、いつまでも渇いている、満たされない心」のことです。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P26

オトウサン、オカアサン

 余談ながら、オトウサン、オカアサンということばはこの(住人注;明治7年の小学校の)教科書、教材のなかにまだ出ていない。単に、
「親」
 として出てくる。オヤという日本語はむろん古い。
 さらにはチチ・ハハという日本語も古い。しかし父母に対する呼びかけの言葉は江戸期以前もその後も階層や地方によってまちまちであった。
 母親のことを河内の下層農民はオカンとよび、江戸の市井の人はオッカサンなどという。旗本の家庭ではチチウエ、ハハウエであり、同じ階層でも幼児はトトサマ、カカサマとよんでいたらしい。公家貴族ではオモウサマ、オタタサマであり、鳥取藩の士族家庭では母親のことをオターサンとよんでいた。
また近畿の真宗僧侶の寺族(じぞく)では、京の公家言葉をまねてオモウサン、オタタサンで、私も昭和二十年代、伊勢でげんに耳にした。真宗の寺の六、七歳の男の児がむずがって母親に、
「オタタッ」
 などと言っていた。
 明治の新政府は文明開化的な全国統一の必要からこのよび方の統一を考え、オトウサン、オカアサンという言葉を創り出したわけで、この言葉は江戸期にはどの階層、地方にもなかった。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P81

街道をゆく14

街道をゆく14

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/10/07
  • メディア: Kindle版

ジンギス・カン

 星に感じて妊娠するという伝説がある。それも、ジンギス・カンの家系伝説になる。
その感じは、包のなかに臥ていて天窓を見つめていると、わかるような気がする。似たような環境の中で成立したイエスの母マリアの神聖受胎の話も、その環境のなかにいるひとびとにとっては、あるいは、そうかもしれないという、感覚としての身の覚えのようなものが共通にあったのであろう。 
 日本の神話の場合も、その自然環境の上に成立している。日本では、娘が厠(かわや)へ行ったとき、丹塗(にぬり)の矢が陰(ほこ)を突いて神聖者が受胎させられた、というのがある。
日本のように山河の形象が複雑な自然環境の中にいると、せっかく神聖受胎という主題をとらえていても象徴性がすっきりゆかず、つまり丹塗の矢とか陰とかいう具象的なもののカケラを援用しなければ受胎のイメージが結像しないのかもしれない。
 そこへゆくと、聖マリアの環境にあっても、このモンゴル高原においても、星空と大地という2元がくっきりしていて、想像力の象徴化がごく簡単にゆくようである。
 マリアは、そのようにして受胎した。というよりも、マリアの受胎復活を、ひとびとは熱狂的にみとめた。
 ジンギス・カンの家系伝説における神聖受胎も草原のひとびとの感受性によって認められていたからこそ、語り継がれていたといえる。
 ジンギス・カンの遠祖にドンチャルという者がいた。妻のアラン・ゴウは、この夫とのあいだに二児をもうけたが、やがて夫に先立たれた。あるとき上の二人の子が、下の三人の弟に対し、
―お前たちは亡父(ちち)の子ではない。
 と、いった。母親のアラン・ゴウはべつに狼狽もせず、五人の少年をあつめ、真実を明かす、と言い、亡父の死後、毎夜、包の天窓から光の精が入ってきて、自分の腹部にふれた、やがて受胎し、つぎつぎに子がうまれた、つまりあとの三人の子は神の子である、といった。
 それだけでなく、彼女は上の子に矢を一本ずつ渡して折らせた。簡単に折れた。つぎに五本の矢の束をわたし、この束を折ってみよと命じた。むろん折れなかった。
兄弟は一人ずつなら弱い、五人で力をあわせればこのように強い、と彼女は諭すのだが、この矢の教えというのは、感想アジアの遊牧民族の社会ではありふれた説話だったらしい。おなじ話が、ジンギス・カンの少年時代にもある。その異母兄と魚のことで争ったとき、母親のウルゲンが、この話を引いて諭す。日本の戦国時代の武将である毛利元就にもこの話がある。


街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P214

街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

街道をゆく 5 モンゴル紀行 (朝日文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/09/05
  • メディア: 文庫

 

九重連山 大分県

鎌倉期の女性の理想像

 江の島の弁天様と、鎌倉鶴ヶ丘の弁天様は裸なのである。
裸の仏は珍しい。ギリシャの彫刻はすべて裸体であるが、日本の仏様は衣服をまとっていられるのである。
しかし、ここではほとけは真裸、しかも裸の美女なのである。この裸の美女のほとけを作り出した意図は何であったか。江の島の弁天は源頼朝の命によって、文覚によって灌頂されたほとけ様だという。
源頼朝と文覚、それは、新しい武士の時代を作った英雄と怪僧である。そこに一つの新しい時代精神が現われているにちがいない。
江の島弁天様の見事な肉身はどうであろう。それはまがいもなく現実の女身の再現である。美のリアリズムとでもいうのか、利口そうな眼、ひきしまった口もと
、端麗なお顔、真っ白い肉づき豊かな体、この美人はもはや平安朝のなよなよとした美女ではない。それは何より、多産で健康で、官能的どのような荒武者すら満足させる肉身と、同時に、すべての家政を自らテキパキととりはからってゆく知性をもっている女性なのである。恐らくここに、鎌倉期の女性の理想像があったに違いない。
 鎌倉期の仏像はふつう運慶、快慶のリアリズ芸術によって代表されるが、運慶や快慶で知られる仏像には、力にみちた仏像が多い。このような男性リアリズムの精神の背後にあった理想的女性像は何であったか。私は突如として鎌倉に出現したこの裸形の弁天こそ、このような鎌倉武士のもった女性的理想像ではなかったかと思うのである。
鎌倉武士を支配した宗教は禅宗だといわれるが、学のなかった鎌倉武士が、難解な禅の教えをどれだけ理解したかは疑問のように思われる。
力にみちた武人と、豊かな肉付きをもった女性に対する信仰が彼らの信仰であり、禅は教養的看板にすぎなかったと見るのが、もっともありうることのように思われる。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P135

続 仏像―心とかたち (NHKブックス 30)

続 仏像―心とかたち (NHKブックス 30)

  • 作者: 望月 信成
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2022/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

奈良県 天河大弁財天社

2026年6月24日水曜日

見れども見えず、ヒトは見たいものを見る

P83
 彼(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)は、この表題の現象を「探索像が知覚像を消してしまう」と表現しています。
ひらたく言えば、見ているものの代わりに、見たいと思っているものを見ているということ。
彼には、その個人的経験例がありました。
彼は友人の家にしばらく滞在していました。毎昼食時、陶器の水差しがテーブルの上に置かれていたが、ある日召使いが誤って割ってしまい、ガラスの水差しが代わりに置かれた。
彼は水差しを探したが、ガラスの水差しは目に入らない。友人に水はいつもの場所に置いてあると言われて、突然ガラスの水差しが目に入ったのです。
 これは俗に「見れども見えず」という現象ですが、何かものを見て、それと認知するためには、見る側の「意図するイメージ」と「見られるものの形」が一致したときに初めて可能であることを示唆しています。 意図するイメージとは、哲学者ブレンターノが言い出した「志向性」(intentionnality)と同義でしょう。

P96
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。 だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」
 これは阿保(住人注;阿保順子)氏の「痴呆老人が創る世界」についての解説ではありません。ハーバード大学の神経生理・心理学教授のスティーブン・コスリンが、ふつうの人間の認知メカニズムについて最近述べたものです。
「知覚が期待によって左右されるという認識は、認知研究の基本である」
 これもユクスキュル(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)の発言ではありません。やはりオレゴン大学の神経学者マイケル・ポスナーのコメントです(註⑥)。
これらの言説は、両方ともアーラヤ識とマナ識の働きを思い出させます。
外界を認識するときは、今まで種子として薫習されてきた記憶と、それにも増して自身の抱く種々の煩悩に影響されざるを得ません。しかも、煩悩が働いているという心理的事実に、まったく気づかないという無明があります。
最前線の神経心理学が、古代に洞察された認識論の正当性を追認しているようにも見えます。
「ヒトは見たいものを見る」という現象は、神経生理学者と同時に、哲学者の一部もとり上げています。
たとえば、オートポイエーシス・システムについての議論がそうで、その構造と機能の論理は、神経システムをモデルにして組み立てられます。
~中略~
いとしい、恋しいと思う人の顔はいつでも見ていたいものです。今目の前に肉親や恋人がいなくとも、眼を閉じてただちに顔を思い浮かべることができます。わたしの意識を現している心的システムは外的刺激に対応して作動しているのではなく、みずからの産出的作動を反復しているのです。
 入力がなくとも作動が継続するということは、外部刺激に依らず、純然たる内的意向によってよって生じた感覚(幻覚)と区別がつかないことになります。
あるものを強く見たいと念ずれば、実際にそのものを見ることは可能である、とするならば以下の幻覚(幻視)の例も理解できるでしょう。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

上高地 長野県

「痴呆老人」は何を見ているか

P128
 終末期の痴呆老人をケアしていると、しばしば看取られている人が「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」世界にいる、という印象を受けます。終末への道行きを歩む人の「私」は、現実世界に住む人たちとは確かに違っています。
 わたしたちが理解する「私」とは、名前、年齢、家族、職業などいわば属性や社会的関係、さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」です。それらをつなげているのは、いうまでもなく記憶です。
しかし、それらのつながりによって結ばれた「私」は、この世とあの世が入りまじった幽明界では、解けほどけていくような印象を与えます。
 京大大学院で臨床心理学を専攻していた久保田美法氏は、老人病棟や老人ホームでの観察から次のように述べています(註⑧)。

   自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れていかれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。
   それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、「他ならぬ私」の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりのあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。
   それは文字通り、ゆっくりと「土に還っていく」自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか。

 以上の過程において、「私」は、しばしばこの世の人とあの世の人との間を行ったり来たりして、双方につながりを持っているように見えます。
 初めてそのような現象を観察したとき、わたしは、ちょっとショックを受けました。
八十代のその女性は、往診のわたしをいつも笑顔で迎えてくれました。娘さんが「この頃、母は祖母やもう亡くなった人たちと話しているんです」と言うので、「ご両親と会われるそうですね」とたずねました。すると彼女はわたしの左肩の後ろを指差し、「ええ、そこに来ています」とにっこりしました。
現時点で現世の筆者と会話する彼女の心的状態を正常と規定するならば、あの世の人と話す彼女は幻覚、幻視の状態であるということになります。しかし、その時の彼女は幽明の境がなくなったように、自在にこの世の人とあの世の人との間を往来する様子が印象的でした。  

P83
 彼(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)は、この表題の現象を「探索像が知覚像を消してしまう」と表現しています。
ひらたく言えば、見ているものの代わりに、見たいと思っているものを見ているということ。
彼には、その個人的経験例がありました。
彼は友人の家にしばらく滞在していました。毎昼食時、陶器の水差しがテーブルの上に置かれていたが、ある日召使いが誤って割ってしまい、ガラスの水差しが代わりに置かれた。
彼は水差しを探したが、ガラスの水差しは目に入らない。友人に水はいつもの場所に置いてあると言われて、突然ガラスの水差しが目に入ったのです。
 これは俗に「見れども見えず」という現象ですが、何かものを見て、それと認知するためには、見る側の「意図するイメージ」と「見られるものの形」が一致したときに初めて可能であることを示唆しています。 意図するイメージとは、哲学者ブレンターノが言い出した「志向性」(intentionnality)と同義でしょう。

P96
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。 だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」
 これは阿保(住人注;阿保順子)氏の「痴呆老人が創る世界」についての解説ではありません。ハーバード大学の神経生理・心理学教授のスティーブン・コスリンが、ふつうの人間の認知メカニズムについて最近述べたものです。
「知覚が期待によって左右されるという認識は、認知研究の基本である」
 これもユクスキュル(住人注:生態学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル)の発言ではありません。やはりオレゴン大学の神経学者マイケル・ポスナーのコメントです(註⑥)。
これらの言説は、両方ともアーラヤ識とマナ識の働きを思い出させます。
外界を認識するときは、今まで種子として薫習されてきた記憶と、それにも増して自身の抱く種々の煩悩に影響されざるを得ません。しかも、煩悩が働いているという心理的事実に、まったく気づかないという無明があります。
最前線の神経心理学が、古代に洞察された認識論の正当性を追認しているようにも見えます。
「ヒトは見たいものを見る」という現象は、神経生理学者と同時に、哲学者の一部もとり上げています。
たとえば、オートポイエーシス・システムについての議論がそうで、その構造と機能の論理は、神経システムをモデルにして組み立てられます。
~中略~
いとしい、恋しいと思う人の顔はいつでも見ていたいものです。今目の前に肉親や恋人がいなくとも、眼を閉じてただちに顔を思い浮かべることができます。わたしの意識を現している心的システムは外的刺激に対応して作動しているのではなく、みずからの産出的作動を反復しているのです。
 入力がなくとも作動が継続するということは、外部刺激に依らず、純然たる内的意向によってよって生じた感覚(幻覚)と区別がつかないことになります。
あるものを強く見たいと念ずれば、実際にそのものを見ることは可能である、とするならば以下の幻覚(幻視)の例も理解できるでしょう。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01/15
  • メディア: 新書

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)/p>

新穂高ロープウェイ 長野県

メタ認知

 人は物に心を奪われると、我を忘れてしまう。ここで「忘れる」主体は「自分」だが、「自分」には「見る自分」と「見られる自分」がある。
「見る自分」を「(主体的)自我」、「見られる自分」を「(客観的)自己」という。ふだんは自我が自己を見ており、その行動をモニターしている。
これを「メタ認知」という。
そして、自我は自己の行動をコントロールしてもいるのだが、欲望などの動機づけが強すぎると、「見る自分」のはたらきが欠落し、無我夢中の状態に陥ってしまう。

老荘思想の心理学
叢 小榕 (著)
新潮社 (2013/02)
P116

老荘思想の心理学 (新潮新書 509)

老荘思想の心理学 (新潮新書 509)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/02/01
  • メディア: 単行本

 私たちは、無意識でさまざまなフィルターを通して、出来事を体験しています。
こうした無意識的なフィルターのことを「メタプログラム」といいます。
~中略~
 人とコミュニケーションをする際には、相手のメタプログラムに合せることで、効果的に働きかけることができます。

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書
前田 忠志 (著)
実務教育出版 (2012/3/23)
P125

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

  • 作者: 前田 忠志
  • 出版社/メーカー: 実務教育出版
  • 発売日: 2012/03/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

宮崎県日南市 南郷