2026年3月24日火曜日

補陀落渡海


日本宗教史の謎とされる補陀落渡海について知ったのは益田勝実「フダラク渡りの人々」によってである(益田勝実「フダラク渡りの人々」「火山列島の思想」筑摩書房、一九六八年)。
補陀落とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方のかなたにある観音菩薩の浄土を指しているのだが、その場所については諸説あって定かではない。いずれにせよ、僧侶らを生きたまま船内に閉じ込めて外から釘で打ちつけ、わずかな食料とともに観音の浄土へと旅立たせる風習があると知って、恐怖と好奇心のまじったなんとも奇妙な気持ちにさせられたものだった。
~中略~
 補陀落渡海は、熊野の那智勝浦でのみ行われたのではなく、高知の室戸岬や足摺岬、九州の有明海などでも行われていたことが知られているが、なかでも熊野の海岸は最大の拠点であった。
一一〇九年(天仁二年)熊野を訪れた藤原宗忠は、那智の海岸が「補陀落浜」と呼ばれていたことを「中右記」に書いているし、園城寺(おんじょうじ)の相で熊野三山検校であった覚宗は、堀河天皇の頃に那智の一僧が小舟に千手観音をつくりたてて補陀落渡海を行ったのを己の目で見たと「台記(たいき)」に記されている。
また、「平家物語」の平維盛(これもり)の入水往生も那智の補陀落信仰を抜きにしては考えられないだろう(根井浄「補陀落渡海」「熊野―異界への旅」(「別冊太陽」)、平凡社、二〇〇二年、八六頁))。
 もちろん進んで人びとのために船に乗り込んだ僧もいたであろうが、そうではなく仕方なしに乗り込まされた僧もいたにちがいない。
十六世紀末のこと、金光坊は釘づけされた扉を必死で壊して脱出するのに成功したが、翌日には発見されて、再び僧たちの手で死出の旅へと送りだされる。井上靖「補陀落渡海記」のストーリーである。
この元史料は「熊野巡覧記」で、そこにはただ、「この僧はなはだ死をいとい命を惜しんだのだが、役人は問答無用で彼を再び海へと追い落としたのであった」と書かれている。
「熊野年代記」(古写)によると、補陀落山寺で補陀落渡海を行った住持は、八六八年(貞観十年)から二十人が記録されているとのことだ(根井浄「補陀落渡海」「熊野―異界への旅」(「別冊太陽」)、平凡社、二〇〇二年、八六頁))が、その他の寺を含めるとかなりの数にのぼったにちがいない。
~中略~
 補陀落渡海は海のかなたに観音浄土をイメージしてはじめて成立したわけだが、これも熊野がつねに海とのつながりのなかで存在しているということを明らかにしているのではないか。この補陀落渡海も古くからの「常世」信仰の一つのヴァリエーションだったにちがいない。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P118

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 

補陀落山寺 和歌山県

愛媛県松野町

P176
 戦国期に土佐兵がしばしばこのあたりを侵略した。  伊予の東南端で、土佐との国境いの町ともいうべき松丸あたりでは、いまでも古い人のあいだで、土佐人のことを、
「土佐のヤゴンス」
 といったりすることがあるらしい。
 ヤゴンスというのは山家(やまが)衆のなまったものかどうかはわからないが、語感からいえば「物知ラズ」「田舎者」という感じである。
用例をあつめてみると、ときにヤバンジンめ、といった感情もこもるらしい。愛情や滑稽感をこめることもある。
土佐人は酒量をほこる。伊予人との会合で、
「酒は何貫のみますか」
 などときく。酒で伊予人を圧倒してやろうというのだが、伊予人のほうは肚のなかで(ヤゴンスめ)とつびやく。
 憎悪のほうは戦国期にさかのぼるであろう。戦国期に、侵略してくるのはかならず農業生産のひくい土佐のほうからで、生産力の高い伊予側から押し出すということは、まずなかった。

P180
 戦国期には一条氏のあとの長曾我部氏によって伊予は土佐兵のわらじの下に蹂躙(じゅうりん)されるのだが、平和な江戸期に入ると、藩境い付近ではこの事情が逆になった。伊予は商品経済の先進性を示し、この小さな旧宇和島藩領松丸村が、他藩ながら、広大な西土佐(幡多郡)を市場にしてしまうのである。
その傾向は、中央の大企業が伊予も土佐もなしに大網にかけるようにして併呑してしまうまで、ごく最近までつづいた。

P181
松野という集落が、伊予という先進的な商品経済を背景にして藩境いでの最前線になり、「後進地帯」である西土佐を自在に市場化していたにちがいない。
 一方、土佐では、伊予者は肚が黒いというイメージが、老若男女となく固定化してしまっている。
「伊予衆と争(いさか)えば、なんじゃかんじゃと言うて結局負けてしまう」
 と、いう話も高知あたりではよくきく。

P191
この県境いの上で、藤原さんと矢野さんに別れた。松野町の習慣では、南へ去る知人を県境いまで送るという。私どものその習慣どおりに送られた。
 まるい顔の藤原さんは、右手をすこしあげて、
「お道を。―」
 と、呪文のようにつぶやいた。お道を、とは南伊予のことばで、一路平安を祈る、という意味である。この優しい習慣は、江戸期からこの街道筋で伝えてきているらしい。
~中略~
 県境をすぎると、いうまでもなく、土佐(高知県)である。道幅は林道ほどしかない。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1985/05/01
  • メディア: 文庫
42番佛木寺 愛媛県

檮原(ゆすはら)

P9
 土佐に檮原(ゆすはら)という山間のむらがある。
 幕末の志士で那須信吾(天誅組の乱で討死)や那須俊平(蛤御門ノ変で討死)などという郷士がこの檮原から出た。
「檮原のひとはえらい」
 と、高知市内のひとはよく言う。土佐のチベットといわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地に住みつき、代々石を割って土をつくり、わずかな山田を建造物のように造営し、水はときに渓流から汲み上げて注ぎ、平安末期にこの村ができて以来、それほどまでして生きねばならないかと思えるほどの労働を重ねて、昭和三十年ぜんごまでいたっている。あるいはこんにちなお、そうかもしれない。
「檮原の千枚田(せんまいだ)」
といわれる。
~中略~
 土佐の檮原は、高知県の西北角の愛媛県境にちかい山中にある。山口県の秋吉(あきよし)台に似たカルスト地形の土地で、溶食された石灰岩が無数に土中にかくれていたり露出していたりして、ここを拓くというのは、まず石を抱きあげてとりのぞくということからはじめねばならなかった。
 律令体制というのは、都の貴族や寺院のためにのみあったといっていい。全国の農民は「公民」のという名のもとに公田に縛りつけられ、点蝕や移住、まして逃散(ちょうさん)の自由はなく、働く器械のようにあつかわれ、収穫の多くを都へ送らせられた。律令制は広義の奴隷制だったといえるであろう。
 ひとびとは租税を納められなくなって逃散した。かれらの多くは中央集権の拘束力のややゆっるい関東や奥州に流れたりしたが、中央集権の目のとどきにくいところといえば、かならずしも関東や奥州だけではない。
大山塊のなかの秘境のような所も、逃亡先としてわるくはなかった。この土佐檮原も律令の逃亡者が吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であるという解釈を「檮原町史」はとっている。 卓見といっていい。

P13
 大陸と違い、小さな島国では、小さな収穫を得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって耕地を造らざるを得ず、檮原のような営みは古来日本の各地でつづけられてきたし、このことは日本人の性格を形成する要素の一つになっているような気がする。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -


 

坂本龍馬

坂本龍馬は維新史の奇蹟、といわれる。
 たしかに、そうであったろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもは、その時代的制約によって、いくらかの類型にわけることができる。型やぶりといわれた長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
龍馬だけが、型破りである。
(昭和38年7月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P338

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

高知市 桂浜

真木和泉

真木和泉(真木和泉守、名は保臣(やすおみ)。明治維新の先駆者。久留米水天宮の祠官 一八一三~一八六四)の「何傷録(かしょうろく)」の中にも、
「胸襟を綽々と(しゃくしゃく)と余裕のある様にしてこそ大義に当たりて忠孝の道もゆるりとなし得べけれ」
 さすが真木和泉、あのきかぬ気の清川八郎(庄内藩郷士出身、幕末尊攘夷派の志士。一八三〇~一八六三)が”鎮西第一の風格”と言った真木和泉、まことにそうなければならない。いかにも、せっかく大義に当たって忠孝の道もヒステリックではとてもいけない。

真木和泉は、また言っている。
「世の末の習にて兎角胸襟狭隘、懐抱忌刻にして、萬事に疑猜おほく、よく氣のきゝをる様なれども、せはせは敷(しく)して人も嫌ひ、吾身もとかう氣遣ひおほく、苦心することあり。 とても世にあらん限り首尾きづかひのみせんも無益のことなり。
丈夫たらんものは、世俗に所謂(いわゆる)大竹を打割りたらん様に磊塊洒落 とあれば、出でて人に交り、入りて家人に接するに、おのずから彼よりも吾に化して、忌刻なるものさらさらとなるものなり。 生涯にていかばかりの得なるべき。これ長寿を祈る一助にもなりぬべし」

安岡正篤
   運命を開く―人間学講話
  プレジデント社 (1986/11)
   P114

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1986/12/02
  • メディア: 単行本

 

久留米市 水天宮

学問

  学問は「思う」の一字につきており、人心の知覚(思う)は無限の広さをもっており、この知覚を押しひろげれば全世界のことがすべて心に入ってくる。思うてその筋を会得すれば世界中の理は、みな自分のものとなるのである。
日本の名著三〇の「沼山対話」より改変 

横井小楠―維新の青写真を描いた男
徳永 洋 (著)
新潮社 (2005/01)
P134

横井小楠―維新の青写真を描いた男―(新潮新書)

横井小楠―維新の青写真を描いた男―(新潮新書)

  • 作者: 徳永 洋
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: Kindle版

 

日本で初めて解剖をしてみたのは、山脇東洋という漢方医でした。一七五四年(宝暦4年)、場所は京都の壬生で、解剖されたのは屈嘉という名前の死刑囚でした。
~中略~
一歳年下にフランクリン、二歳下にリンネがいる、そういう時代の人です。

 山脇東洋は漢方医でしたが、漢方の中でも古方と呼ばれる流派でした。古方は、自分の観察や経験を重んじる流派だったそうですが、東洋が影響を受けた徂徠がはじめた学問が、古文辞学という「温故知新」の学問だったことと思い合わせてみると、時代の常識を超えるコツは「昔に遡る」ことだというのがわかります。

 何故学問が始まるかといったら、それは興味から始まる。つまり面白いと思うところから始まるのだ、というのが私の考えです。
始まりのところには、必ず生き生きとした興味本位があったはずなんですね。
~中略~
 面白がるためには、興味を持つためには、知らないといけない。ナゾの解ける快感ていうのはナゾの解けない悩みのあとじゃなきゃやってこないんです。
(住人注;南 伸坊)

解剖学個人授業
養老 孟司 (著), 南 伸坊 (著)
新潮社 (1998/04)
P44

 

解剖学個人授業

解剖学個人授業

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1998/04/01
  • メディア: 単行本

 

 

学問の道は誠意のみ。
(「師門問辨録」)

山田方谷のことば―素読用
山田方谷に学ぶ会 (編集)
登龍館 (2007/07)
P13

 

山田方谷のことば (サムライスピリット 3)

山田方谷のことば (サムライスピリット 3)

  • 出版社/メーカー: 登龍館
  • 発売日: 2007/07/09
  • メディア: 単行本

 

 

学問をするのに、簡単な道などはない。だから、ただ学問の厳しい山を登る苦労をいとわないものだけが、輝かしい絶頂を極める希望をもつのだ。

超訳『資本論』
的場 昭弘 (著)
祥伝社 (2008/4/23)
P46

超訳「資本論」 (祥伝社新書)

超訳「資本論」 (祥伝社新書)

  • 作者: 的場昭弘
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2014/01/17
  • メディア: Kindle版

【横井小楠】(一八〇九~一八六九)―学問―

 学問を致すに、知ると合点との異なる処、ござ候

 横井小楠は幕末維新期の熊本藩士、坂本龍馬は偉く見えるが、その思想はこの横井小楠と勝海舟の受け売り。当時、横井ほどの見識人はいなかった。
幕府の臣であった勝海舟は〈おれは、今までに添窩で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ〉といい<横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまで>
幕府は滅亡と見ていたが、果たしてその通りになった(「氷川清話」)。

日本人の叡智
磯田 道史 (著)
新潮社 (2011/04)
P92

 

日本人の叡智 (新潮新書 414)

日本人の叡智 (新潮新書 414)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/04/16
  • メディア: 新書
熊本県 阿蘇大橋

肥後モッコス

「肥後モッコス」 と、よくいわれる。一徹、頑固というのが直訳だが、ニュアンスがややちがうようでもある。
たとえば江戸っ子の一徹というのはなんだか空っつねで、経済力の裏付けがなさそうだが、肥後人のモッコスには、中世の肥後の地侍たちが中央の掣肘(せいちゅう)をうけたがらない気分が濃厚であったように、自前の美田をかかえこんで誰に頭をさげる必要もないという自信が裏付けになっているようにおもわれる。
美田が江戸期以後は教養になった。自説をあくまでも曲げないというのが細川侍・肥後武士の一徹さで、明治初年の神風連の乱から自由民権運動の最盛期にかけての一時期に、 「肥後はなにぶん一人一党だから」
 などといわれたりした。モッコスは要するに空っつねでなく、蜂ノ巣の城主のように田畑山林があるか、それとも明治期に大量に輩出したジャーナリストたちのように教養があるか、いずれにしてもそういう肉の厚さが重要な組織要素になっているらしい。
一徹型で有名な土佐のイゴッソウともニュアンスがちがうのである。

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P102

街道をゆく〈3〉陸奥のみちほか (1978年)

街道をゆく〈3〉陸奥のみちほか (1978年)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2020/04/16
  • メディア: -


戦前、熊本の第六師団は日本一の最強部隊であった。その勇名は国際的にまで知られていた。
 余談だが、肥後人の奇妙な例の一つをあげると、明治九年の廃刀令に反対してたちあがったこの土地の仁風連ノ乱がある。
くわしくのべるとさらにおもしろいのだが、とにかくこのおそるべき保守主義の士族たち百数十人は、かれらのもっとも軽べつする百姓兵のあつまりである熊本鎮台をおそい、その洋式兵器のまえにあえなく潰走した。戦死二十八人。それはいい。
類がないのは、敗走した百余人のほとんどが、逃亡せずに自殺していることである。肥後人には、おそるべき剽悍敢死の血がながれているのであろう。
~後略
(昭和37年6月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P173

 

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫


通潤橋 熊本県

熊本城

 徳川幕府の仮想敵は、家康の時代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。
 幕府は島津氏を封じこめるために、九州に石高の大きな大大名をいくつも置いた。熊本の細川氏、佐賀の鍋島氏、福岡の黒田氏、久留米の有馬氏などがそうで、とくに島津氏が兵を繰りだす要路にあたる熊本城について、細川氏に命じ、つねにその堅牢さを保たしめた。
~中略~
豊臣期に加藤清正が設計築造した熊本城は大きな防御力をもつ城だったが、清正もこれだけの城をつくったのは島津抑えのためであった。

P79
 熊本城を築いた加藤清正は石積みの名人といわれたが、かれが築いた石垣はくずれない。それにはいろいろ秘法があるらしいが、もっともかんじんなことは、地下水が抜けてゆく道を作っておいてやることだったらしい。

 

P81
 加藤清正というのは、古今第一級の石垣の設計者だったように思える。かれの熊本城の場合は、こんにち補修のために築きなおしたあたらしい石垣のほうは鉄パイプを通したりして排水にずいぶん苦心しているが、古くからの石垣は、どういう仕掛けがひそめられているのか、そういうぶざまなことをせずともなお堅牢なのである。
 江戸城が拡張されたときはいわゆる天下普請だったから、その石垣を築くについては諸大名が分担した。諸大名はそれぞれの境界を幔幕(まんまく)で仕切りし、自分の工事現場を他家に見られることをきらったというから、石積みというのはそれぞれ秘密だったのだろうか。
 ところで、技術のへたな大名がいた。その現場は、普請の最中に大雨がふると、もう崩れるのである。その大名がたまりかねて清正のもとへゆき、やりかたを見せてほしいとたのんだ。
 清正は心やすく見せてやった。「明良洪範」だったかに出ていたと思うが、清正の工事には格別の秘法というものはなかったらしい。ただ基礎工事が比類なくしっかりしていて、見学させてもらった大名は、これならば崩れぬはずだと拍子抜けする思いだったという。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P72

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

正直に行動し、他人を信頼すること

武士道に代表される統治の倫理とは、結局のところ、社会体制を維持するために権力者が守るべき道徳律に他なりません。
人々から権力者として畏敬・尊重されるためには、利益に惑わされず、公平無私の心を貫き、秩序や伝統を尊重する精神が必要とされます。そこで生まれてきたのが統治の倫理であり、武士道であるというわけです。
 これに対して市場の倫理とは、権力に頼ることなく、お互いに繁栄していくためにはどう行動していくのがいいのかと考えたときに生まれたモラルの体系であると言えるでしょう。共存共栄のためには、おたがいに嘘をつかず、信頼しあい、利益を分かち合う姿勢こそが必要であると説くのが商人道であり、市場の倫理であると言えます。
~中略~
 大事なのは、正直者であることが損にならない社会制度を作っていくことであって、そうした社会制度をきちんと整備することができれば、あとは「正直に行動し、他人を信頼することが結局は自分のためになるのだよ」という世の中の現実を教えさえすれば、商人道は自ずから普及していくのではないでしょうか。

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点
山岸 俊男 (著)
集英社インターナショナル (2008/2/26)
P256

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)

  • 作者: 山岸俊男
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/05/31
  • メディア: Kindle版

【橘曙覧】(一八一二~一八六八)―正直―

 うそいふな。ものほしがるな。からだだわるな。

~中略~
 冒頭は彼が子に与えた遺言。「だわるな」は福井の方言で「だらけるな」という意味である。彼は豪商の生まれだが弟に譲り、あばら屋に棲み、極貧のうちに暮らした。殿様の松平春嶽が招いても仕えなかった。とうとう殿様自らあばら家を訪れたがその暮らしぶりをみて驚愕した。~中略~
 彼は自分に正直に暮らした。「ものほしがるな」といったが、物をもらうと正直に喜んだ。うそをつかぬのは人のためでなく自分のため。
素直に生きれば心安らかになれる。物に乏しい時、願いがかなわぬ時、ふと与えられると、うれしい。彼はそのささやかな幸福感を味わうことにつとめた。こうも詠んでいる。 <たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時>

日本人の叡智
磯田 道史 (著)
新潮社 (2011/04)
P90

日本人の叡智 (新潮新書 414)

日本人の叡智 (新潮新書 414)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/04/16
  • メディア: 新書

 また、江戸時代人の徳目では「正直」「正路(せいろ)」といったものが重視されます。日本の昔話がほとんど正直であることを徳目として掲げているように、正直ということは、特に庶民道徳において最も重視されました。これは江戸時代に限ったことではなく、千年単位の長期にわたって、日本人の重要な徳目とされてきたようです。

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)
P122

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 新書

福井県 神宮寺

前田利家

戦国末期、北陸路が織田勢力のものになったとき、信長は柴田勝家を北ノ庄城(福井市)に置き、北陸道の触頭(ふれがしら)とした。
 いまの武生の武生市役所のあたりにあったらしい府中の城主には前田利家が命ぜられた。命令系統としては柴田勝家の指図をうけることになる。
 柴田勝家が賤ヶ岳で秀吉と決戦したとき、利家は系列上やむなく勝家に属して出陣したが、古くからの友人である秀吉と戦う気がせず、決戦に参加せずに府中にひきあげたということになっている。
 前田利家というひとはよほど人柄のいい人物だったらしく、そういう行動をとっていながら勝家に恨まれなかった。
勝家が賤ヶ岳で敗北して北ノ庄へ退却すべく北行する途中、この府中城に立ち寄って、湯漬けを乞ういているのである。
利家はそれをこの敗将のためにふるまった。敗将はさらに塩引の鮭を所望した。
利家はそれをふるまい、二人はよほど長時間昔ばなしをした。勝家が去ったあと、ほどなく追跡中の秀吉がこの府中城に立ち寄って、やはり湯漬を利家に所望している。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P256

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

 

P83
加賀人が誇りにしているように、利家の樹(た)てたこの家は百万石という巨大な領国を有する日本最大の大名家である。
この家について語るには、まず藩祖の利家のことを記さねばならない。~中略~ 金沢では、いまなお、ちまたの浪人生すら、前田利家を呼び捨てにはしないのである。
 とはいえ、前田利家の人生は、呼び捨てにされるところから始まっている。呼び捨てにしたのは、織田信長。こともあろうに、信長は利家のことを、
「お犬」
 もしくは単に「犬」とよんだ。さすがに傍輩たちは「お犬」と「お」をつけてよんでくれたが、信長自身は、ひどいときは「犬め!」といって、利家を怒鳴りつけおよそ人間扱いしなかった。記録には「其頃(そのころ)、利家をお犬と申し候」(「利家夜話」)とある。
 ただ、利家のもしろさは、信長に踏まれても蹴られても、この暴君の天才性に心酔しきっており、けっして離れようとしなかったことである。
~中略~
 利家は「犬」と呼び捨てられたが、実の名は又左衛門といった。若いころの利家は、たいそう喧嘩好きでもあったし、恵まれた体軀を生かして、戦場という戦場で、あばれまわった。
―又左衛門槍
 という言葉がある。利家の持ち槍は、たいそう興のいった拵えで、遠くからでも目立った。
~中略~
合戦のたびに、利家は首を獲った。獲ると、例の又左衛門槍の先にその首をくくりつけて、得意そうにもどってきた、まさに、猟犬のようであり、事実このころの利家は、信長の走狗(そうく)といってよかった。
 このような利家であったが、生まれつきの、ある種の、
―徳性
 を備えていたのだろう。暴れ者のわりに、義にあつく、友には好かれた。
~中略~
秀吉が死ぬと、自然に、実力者あらそいは、
「加賀の大納言か、徳川の内府か」
という話になった。加賀の大納言というのは、もちろん利家のことである。
 戦国の狂瀾さめやらぬこの時代、人々は政治的に驚くほど単純であった。すなわち、強い者はえらい。強い者につく。人びとの行動はこれにつきた。
秀吉という大黒柱をうしなった豊臣家の侍たちは、城中で顔をあわせると、きまって、利家が強いか家康が強いか、二人を天秤にかけるような噂ばなしをはじめたが、そのとき、こんなことが言われた。
「加賀の大納言は体がよい」
というのである。官位も国数も、家康の方が上である。しかし、豊臣の家中では、利家に軍配をあげる者が多かった。

P114
 前田家には、信長ゆずりの華美な家風がある。信長の家中は武具が派手で、赤や金色の刀や槍で衆目を驚かした。前田家中は信長軍団の「破片(かけら)」といってよい。信長の残した軍団がそのまま北国の地に根付いたもので、思想も、美意識も、信長の好みを受け継ぎ、金箔の文化もその一つであった。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

  • 作者: 道史, 磯田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/09/30
  • メディア: 文庫

福井県 若狭姫神社