2026年2月7日土曜日

博多に仙厓あり

 越後に良寛あれば、博多に仙厓ありで、正直に自分自身を曝した達人の生き方は、われらケチくさい人生を送っているものには、まことに羨望に耐えない。とくに聖福寺の禅僧仙厓義梵の天衣無縫ぶりは、知れば知るほど楽しくなる。

 たとえば、達磨の画を描いてそこに「九年面壁いやな事」と賛を入れ、人のびっくりするのに平気の平左。
あるとき、新築の家へ呼ばれ一筆を乞われた仙厓は「ぐるりっと家をとりまく貧乏神」と書いた。縁起でもないと青ざめる主人や客。仙厓はニコニコしながら、「七福神は外へ出られず」。
こんな風にガッチリ固まった封建の世の形式主義と対決し、常に洒脱な人間の妙味を撒き散らして生き抜いた。

 天保八年(一八三七)十月七日、享年八十八で入寂するとき、枕辺の弟子たちに言った最後の言葉が、この和尚さんらしくていい。
 「死にとうない」
 この達人禅師にしてこの言葉、聞き違えであろうと弟子が口元に耳を寄せると、仙厓はニコリとして、「ほんまに、ほんまに」と付け加えた。
最後まで性根を剥き出しにして生きたといえる。羨ましい。

この国のことば
半藤 一利 (著)
平凡社 (2002/04)
P196

この国のことば

この国のことば

  • 作者: 半藤 一利
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2002/04/01
  • メディア: 単行本

 

福岡市 天神

戦国時代の僧の役割

 P13
「心頭滅却すれば火もまた涼し」というように、禅は気合いの仏法である。 (住人注;戦国大名は)子ども時代に禅寺で修行し、気持ちを高める漢詩や漢文を学ぶことは、戦でもっとも重要な決断力を養うのに大いに役立ったのである。  それに領内の治世や外交にも、禅僧をはじめとする僧の力が必要だった。 僧は文書の作成に長けていただけでなく、その師弟関係を軸とする人脈は大名の領国を越えて広がっていた。そのため、さまざまな交渉を僧が引き受けた。  豊臣秀吉の毛利攻めのときも、毛利方の交渉役は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という臨済僧で、のちに秀吉によって僧のまま大名に取り立てられた。  そのほか、徳川家康が幕府を開いたときも、臨済僧の金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天台僧の天海(てんかい)の二人が黒衣(こくえ)の宰相、すなわち僧服を着た政治顧問として幕府の体制をつくりあげたのだった。 ~中略~

  政教分離の現在では考えられないことだが、自身の精神を安定させるためにも、領国を治めるためにも、大名にとって僧はきわめて重要なポジションを占めていたのだった。
~中略~
 こうした寺社の保護は、各地の戦国大名にとって重要なことだった。
前述したように、僧は政治顧問や子弟の教育などの役割を担っていたほか、土地の神仏を保護することは、領民の心をまとめるうえで非常に重要だったからだ。
大角 修

仏像探訪 (エイムック 2124)

エイ出版社 (2011/2/17)

仏像探訪 (エイムック 2124)

仏像探訪 (エイムック 2124)

  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 2011/02/17
  • メディア: 大型本

 

京都府 南禅寺

寺田虎彦

  寺田(住人注;寺田虎彦)が、ここまで防災に熱心であったのは、彼が、津波常襲地である高知の出身であったことと無関係ではない。
なかでも「種崎」という高知市街に近い海岸の地が、彼の思想形成に大きくかかわっているように思われる。
 種崎は、坂本龍馬像のある観光地・桂浜から幅約三〇〇メートルの蒲戸湾口をはさんで向かい側にある風光明媚な砂浜である。
寺田は中学時代の一八九二(明治二五)年頃から、種崎へ海水浴に出かけた。~中略~
 種崎は、寺田の原風景となっており、「海水震動」や「海鳴り」など、海の自然現象に関する科学的研究を行なう素地を作っている。
 実は、この種崎こそが、高知市近郊でも、津波による最も悲惨な人的被害が見られた地であった。多感な寺田が、この地に長く滞在して、それを意識しなかったはずはなく、種崎が寺田の防災思想の母なる地となった、と、私はみている。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P58

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書


高知市 寺田虎彦邸

おひがん

 ひがんばな―。ひがんだんご―。暑さ寒さも彼岸まで―。
 彼岸会は「おひがん」とか「おひがんさん」などと呼ばれて、昔から日本人の人たちにしたしまれてきた行事である。
 この日、ある人は先祖のお墓まいりをし、ある人は西へ沈むまっかな太陽を送り、ある人はきょう一日働くことのできた喜びと自然の大きなめぐみに感謝する。

 一年のうち、昼と夜の長さが等しくなる日が、3月と9月とにある。3月のその日を春分の日。9月のそれを秋分の日という。この日を中心に一週間のあいだ日本の寺々では、彼岸会という法要がつとめられる。これが「おひがん」である。

 彼岸とは、仏様のおられる清らかな世界のことである。一年じゅうでもっとも良い季節のこの時に、そして、太陽がま東からのぼりま西へ沈んでいくこの時に、かなたの岸におられる仏さまを思いながら、この世(此岸)に住んでいるわたしたちの迷いの多い現実を反省し、仏さまのお徳をたたえる日。それが彼岸会である。
おしゃかさまは、この彼岸・仏さまの世界に到達するために、六つの道・六波羅蜜の教えを説いておられる。~後略

みち (仏教の学習)
浄土真宗本願寺派教学振興委員会 (著), 浄土真宗本願寺派学校連合会 (著)
本願寺出版社 (1973/03)
P26

 

京都府 大原

在家沙弥

 武田信玄の「信玄」を「しんげん」と音読みするのは、戒を受けて出家した人の名、つまり戒名だからだ。 上杉謙信の「謙信」も戒名である。
 これは在家沙弥(ざいけしゃみ)といわれるもので、出家したからと言って生活はそのままなのだが、僧になった形をとった。
古くは奈良時代の聖武天皇(戒名は勝満)、平安時代の藤原道長(行覚)、平清盛(浄海)なども在家沙弥だった。
~中略~
 大名の菩提寺などに残された過去帳を見ると、その家臣にいたるまで、「逆修」と記された戒名がよく見られる。
逆修とは、生前に自分の供養をしておくことで、そのときに戒名を受けたのだ。
大角 修

仏像探訪 (エイムック 2124)
エイ出版社 (2011/2/17)
P13

仏像探訪 (エイムック 2124)

仏像探訪 (エイムック 2124)

  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 2011/02/17
  • メディア: 大型本

 

兵庫県 一乗寺

税金がなかった時代

  海音寺 前略~ 江戸とか大坂とか京都とか長崎は大体天領ですね。こういう大都会の住民の生活は極楽ですよ。
 世界中で各歴史を通じて、あんな結構な市民生活はなかったと思うんです。ほとんど全部の市民が租税が一文もないんですから。

新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P33  

新装版 日本歴史を点検する (講談社文庫)

新装版 日本歴史を点検する (講談社文庫)

  • 作者: 海音寺 潮五郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/12/14
  • メディア: 文庫


京都市

天領

P32
  司馬 前略~
これは徳川時代、幕府はむろん百姓の教育などに関心はない、さらに(住人注;江戸だけでなく、幕府の直轄領である天領という土地)藩領でないために武士階級という読書階級がそばにいない、自然学問を尊ぶ風がない、といったわけで、教養という土壌では荒れ地のまま明治維新を迎えた。
そういう土地からは、明治以後、長い間人材が出ませんでしたね。
 それで明治以後の人材というものは、少なくとも終戦までは大藩の出身者が多うございましたね。
それは教養というものは、何百年も耕して耕して来たことでできるらしいですね。

P33
   海音寺 前略~ 江戸とか大坂とか京都とか長崎は大体天領ですね。こういう大都会の住民の生活は極楽ですよ。
 世界中で各歴史を通じて、あんな結構な市民生活はなかったと思うんです。ほとんど全部の市民が租税が一文もないんですから。

新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)

新装版 日本歴史を点検する (講談社文庫 し 1-53)

新装版 日本歴史を点検する (講談社文庫 し 1-53)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/12/14
  • メディア: 文庫

 

P158
 日本の農村を考える場合、その土地が、江戸期において天領(幕府領)であったか、それとも大名領であったか、を考えておくことが重要であるように思える。
 強いて均(なら)していえば、天領はもともと豊かな土地が選ばれていたが、その上、租税も安く、農家はそのために年々生産に余剰を得て、その余剰分が商品経済に関係して行ったりして、百姓屋敷なども立派な場合が多い。
 たとえば、奈良県の大部分が天領であったことを思うと、大和平野に点在する村落の相(そう)の良さや、白壁屋敷の多いことなども、その要素を外しては考えにくい。
 江戸幕府は、これも概してのことだが、天領の行政は諸藩に対する模範であろうとする意識がつよく、そこへ赴任させる郡代や代官なども、いわゆる旗本八万騎のなかからよく人を選び、極端な性格の持ち主などは避け、温和で教養のある人物をさしむけていたように思える。
明治後の講談やテレビなどで善玉にやっつけられる悪代官が登場するが、この悪代官は大名領のそれか、旗本領のそれの場合が多く、天領の代官というのは、どうも人柄の質が違っている場合が多かったように思えるのである。
 天領の租税というのは、四公六民という江戸初期の原則が、ほぼつらぬかれていたようであった。  大名・旗本領の場合は、江戸期がくだるにつれて家政が窮迫し、そのぶんだけ苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)がはげしくなり、幕末ごろでは紀州藩などは六公四民もしくはもっとひどくなるという惨状を呈した。
紀州の場合、大和の天領と隣接している。天領である隣村の豊かさを見て、紀州領であることの不運をなげく状況も当然あったわけで、紀州人はいまでも紀州徳川家を懐かしむところが薄い。阿波も、租税がひどかった。このため、徳島県人は蜂須賀家を懐かしむなどという感情は、どうやら伝承としてもっていないようである。
 天領であった倉敷(岡山県)の場合など、
「天領根性」
 という言葉がいまでも残っているくらいで、隣接する備前岡山藩(池田家)領の領民の貧しさを嗤(わら)い、倉敷の豊かさを誇るところがあった。倉敷がもし天領でなかったならば、あれほど立派な民家群がこんにちのわれわれに残されるということはなかったであろう。

P161
道をゆきながら、数年前、京都で何人かの知人と過食したことがあったのを思い出した。
そのとき、たまたま天領のことが話題になった。
天領のよさについては、以上のようなことが言えるのだが、「あまり形而上的なものへの関心は発達しなかった」というようなことを、例外に触れることなしに言ってしまった。
 藩領にも、多少のよさがある。藩領の藩都は、武士という読書階級がざっと言って庶民と同数居住しているために、自然、庶民が影響をうけ、物品の大小や金額の高いやすいというような形而下的思考以外に、物事を抽象化して考えるという思考法があることを知った。さらには世の中は金銭だけが価値ではないということを知ったのも、江戸期という教養時代を経たおかげだが、その教養時代は、藩領において寄り濃厚であった。
 天領というのは、場合によっては生涯、武士の姿を見ずにすごせるのである。たとえば奈良県の場合、大和盆地の大部分と吉野山林地帯が天領だったが、これを治めていたのは、大和五条の代官所にいる十数人の侍装束の連中だった。また広大な河内国の田園地帯も、大阪城そばの代官所のわずかな人数の役人がおさめていたわけで、そういう意味からいえば、天領の百姓というのは、封建時代の封建美(行動の美といったようなもの) を薄くしかうけていなかったともいえる。東京都の三多摩地方もそうであり、山梨県の甲府盆地もそうである。
 その席上、私の念頭には、河内の風土のことがあり、倉敷や日田のような例外についての配慮が欠けていた。天罰はてきめんであった。私の筋むかいにいる大柄の、顔色が磨きあげたように色つやのいい紳士が、
「そういうことはありません」
と、いっさいの私の考えを否定してしまったのである。
~中略~
私は倉敷や日田はむしろ天領であるがゆえにその富を使い、緻密な教養と文化の伝統を築きあげたところだ、と言いなおしても、一度曲がってしまったかれは、怒りをこらえたその奇妙な笑顔を他の表情に変えようとせず、返答さえしないのである。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 むかし、この前神川の近くに倉敷代官所があった。この付近から四国の讃岐にかけて天領(幕府領)を支配していた代官の所在地で、大名領式でいえば倉敷は二十万石以上の城下町に相当するのではないか。
 将軍家の領地の各地から米が陸路や水路で運ばれてきて、それらをおさめるためにおびただしい数の蔵が建った。
 自然、富裕な町人も集まる。それらは在郷では地主をかね、多数の小作人をい率い、その形のままで終戦までつづいた。
(わしらは天領の町じゃけんな)
 という一格高い意識が、いまだに倉敷人のなかにある。とくに、おなじ県下の備前岡山の町と対比するばあいに濃厚に出る。
岡山の殿様は備前三十万石の池田家で、日本有数の大大名だが、しかし倉敷人はおどろかず、将軍家直隷ということでけじめをつけるのである。
 倉敷人の性格は何か、とこの土地できくと、三人に一人は、
「天領根性」
 と、誇らかに答えてくれる。天領はすでに百年前にほろびたが、しかし、街の誇りは失せていない。~中略~
 それほど、自負心のつよい町である。
 (昭和39年10月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P476

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

紀三井寺 和歌山県

 

茶室


 茶室(数寄屋)は単なる小屋で、それ以上のものを望むものではない。いわゆる藁家(わらや)にすぎない。
数寄屋という漢字のもとの意味は、「好き(ファンシー)〔趣味〕の家」である。のちになって、さまざまの茶の宗匠が茶室にたいする自分の考えに応じたさまざまの漢字を充てたので、数寄屋という用語は「空家(ヴェイカンシー」または「数寄屋(アンシンメトリカル)」を意味することもある。
詩的衝動を宿すためのはかない建物であるが故に「好き屋」である。当座の審美的必要を満たすために置く物以外は、いっさい置き物がないから「空家」である。
ひたすら不完全を崇拝し、故意に何かを未完のままにしておいて、想像力のはたらきにゆだねて完全なものにしようとするが故に「数寄屋」である。
~中略~
茶室は見かけは印象的ではない。それは一等小さい日本家屋よりも小さく、その建築に使われた材料は気品のある貧しさを暗示する意図がこめられている。
しかも、すべてこのことは深い芸術的先慮から出たものであり、その細部の仕上げに払われた配慮は、どんな立派な宮殿寺院建造に払われた配慮よりも周到であることを忘れてはならない。よい茶室は普通の邸宅よりも費用がかかっている。

茶の本
岡倉 天心 (著),桶谷 秀昭 (翻訳)
講談社 (1994/8/10)
P50

英文収録 茶の本: 英文収録 (講談社学術文庫 1138)

英文収録 茶の本: 英文収録 (講談社学術文庫 1138)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1994/08/10
  • メディア: 文庫

 

京都府 銀閣寺

玉置山

 玉置山というのは明治後は神仏分離で玉置神社などと、いわば明治風の国家神道の名称でよばれるようになったが、それ以前は神域を社僧が護持じ、社名も神仏混淆ふうに玉置(たまき)三所権現(さんしょごんげん)とよばれ、江戸期には七坊十五ヵ寺という多くの建物があった。山僧も数百人もいたというが、いまは宮司ひとりに数人の補助者が山を守っているにすぎない。
 この山の歴史は、むしろ平安期から鎌倉にかけて栄えた。京都の貴族まで巻きこんだ熊野詣での流行が、熊野とは川で結ばれている十津川にまでおよび、玉置山が熊野信仰の圏内に組み入れられた。
熊野の奥の院だと称せられたが、このあたり、中世の十津川にはなかなか食えぬ宣伝家がいたにちがいない。
これに乗って、平安期には花山院、白河院、後白河院といった京都貴族の大親玉が熊野からこの十津川までやってきて、玉置山に登っている。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)

P161

街道をゆく12

街道をゆく12

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/10/07
  • メディア: Kindle版
 
 
 
 
 
 
奈良県 十津川

淡路

P125
 淡路というのはむろん、日本の他の地域と同様、弥生式農耕が入って、銅鐸などもかなり出ている。その後古墳時代に入ってからは、漁民こそこの国の代表のように「日本書紀」などに登場する。しかし、広大な耕地をもつ古代土豪がいたのかどうか、この島における前記古墳や中期古墳の存在がまだあきあらかでないため、よくわからない。

 そのくせ、この島は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)神話で知られるように、古代国家の誕生神話のなかでも主流をなす伝承をもっている。この男女紳はまずははじめにおのころ島を生んだ。
おのころ島は、神話だからそれがどこということもないが、淡路島の属島である沼(ぬ)島であるといわれたり、淡路島そのものだともいわれたりする。
この神話は元来、ふるくから淡路島にあったものを畿内政権がとり入れたものかとも思える。
そのことはどうでもいいが、この両神の国生み神話が天皇家の神話の最も重要な話の筋に組み入れられているということは、淡路には大阪湾沿岸の権力(大和をふくめて)が古くから及んでいて、古墳時代がはじまっても、この島に大土豪を成立させなかったのかもしれない。古代天皇家そのものが、淡路を直轄領とする大豪族だったのである。
 また淡路島は、さきの「日本書紀」の「応神紀」にもあるように、「海人部(あまべ)」とともに「山守部(やまもりべ)」も置かれた。山守部は山林に入ってしごとをする人である。猟もする。これも王朝直属の民である。山守部には木材だけでなくシカやイノシシも獲って送り出す義務があったのであろう。淡路島の古代は、海彦も山彦も、そして農耕者も、古代王朝を食べさせてやってきたことになる。
この島が、神話で優遇されたり、また島ひとつで一国という礼遇をうけたことも、多少はこういう有難味から出たものではなかったか。

P186
 われわれはその(住人注:淡路の上代以来の)古道をたどった。 その途中に、伊弉諾(いざなぎ)神宮がある。
「記紀」の神話に出てくるイザナギ・イザナミの夫婦神は、天界からアマノヌボコという鉾(ほこ)をさしおろして海中をさぐるうちにオノコロ島を生み、やがて大八洲国と万物を生んだというが、おそらく淡路島の先住民の説話が「古事記」「日本書紀」の編纂のときにとり入れられたのであろう。
~中略~
 ともかくもこの神社は古来、広大な境内をもち、ほとんどが森林であった。森林に神が天降りするという古代信仰からいえば、たしかに神聖林であったであろう。

 

 

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

高松市 池上製麺所