2026年3月23日月曜日

「素」の美しさ

なげいれの花は、心にとまった花をさっと摑み、さっと水に放つもの。花そのものだけでなく、その背後にあるなにものかをすくいとることが大事で、そこに、わずかに、人為の余地があります。
 若いころより、なげいれの対極にある「たてはな」にも取りくんできました。~中略~ たてはなは室町時代に書院飾りの花として生まれた様式で、「いけばな」の原型となるものです。~中略~
 古代において「たてる」という行為は、花にかぎらずカミへの祈りの意味をもちます。当初のたてはなは、神仏とかわりないものだったはずです。
 しかし実際には、花をたてることは、器のなかで花を「とめる」ことです。花をとめるという行為は、人為そのものであり、そこにさまざまな工夫が生まれ、そうした人為を競う花として、近世に「いけばな」が成立します。
 日本という国の祖型は、いまでも、人為のおよばない自然ではないかと、私は考えています。「素」の美しさをとうとぶ心情も、そこに由来するものでしょう。草木になかば埋もれるような暮らしの中から生まれたなげいれは、素の花です。
人為を加えず、草木花のおのずからなる姿をめでる花。たてはなやいけばなとはことなる出自をもつなげいれの花に、美と心を見いだしたのは、わび茶の湯の茶人でした。
 素とは、引くことも足すこともできないものです。

川瀬敏郎 一日一花
川瀬 敏郎 (著)
新潮社 (2012/12/21)
P4

川瀬敏郎 一日一花

川瀬敏郎 一日一花

  • 作者: 川瀬 敏郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/12/21
  • メディア: 単行本

 

大台ヶ原山 奈良県

毒味

かつて大奥にいた者数十人から往時のさまを聞き取った「定本 江戸城大奥」とおいう本がある。これに毒見の様子がでてくる。将軍夫人の食事は「御広敷番頭及び中年寄の御毒味」をへて提供されていたとあり、江戸城では毒殺を避けるため将軍婦人用の御膳は一〇人前も調理させていたという。
一〇人前御膳を用意すれば、毒殺者は一〇人前全部に毒を盛らなければならず、毒殺が難しくなる。そんな工夫をしていた。
一〇人前のうち二膳が毒味に回され、残った八膳のうち三つだけが将軍夫人の前に出され。将軍夫人はその三つのうち二つの御膳にランダムに箸(はし)をつけていた。
残りはお付の登板の者が食べていたというから、この方式のおかげでお付きの者も、美味しい者にありついていらわけである。
~中略~
細川家の毒味役は毒味をさせる係であって毒味をする係ではなかった。毒味をするのは調理した者と御膳を運ぶ者であったのだ。

日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2017/10/18)
P128

日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで (中公新書)

日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/10/18
  • メディア: 新書

九重連山 大分県

日曜日という制度

当然のことながら、昔は日曜日という制度(?)すらなかった。日曜日だからって坂本龍馬が釣りに出掛けたなんて話を聞いたこともない。
つまり近代になってから、と自然に思い当たる。で、早速ながら、明治元年の話ということになる。それまでの当番順にとっていた休暇を、この年の九月十八日、明治新政府は布告をだして、一・六の日をもって一斉休日にすることにした。これがはじまりである。
しかし、陰暦ではうまくいかない。そこで明治五年のグレゴリオ暦(新暦)の採用と同時に、政府は「日曜は休日とすべし。土曜は正午以後は休暇たるべし」と改めて決めた。これが明治九年(一八七六)三月十二日。実施は四月一日から。
 ただし、明治の人びとは言ったという、「なぜ、休まなくてはあかんのかねぇ」と。勤勉なるかな。

この国のことば
半藤 一利 (著)
平凡社 (2002/04)
P251

この国のことば

この国のことば

  • 作者: 半藤 一利
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2002/04/01
  • メディア: 単行本

 

九重連山 大分県

東京裁判

   広田弘毅首相のスミス弁護人は、ウェッブ裁判長の偏った訴訟指揮を「不当なる干渉」と述べました。大島浩駐独大使の弁護人カニンガム弁護人は東京裁判が進行中にシアトルでの全米弁護士大会に出席し、「東京裁判は連合国による報復と宣伝に過ぎない」と発言しました。二人ともウェッブ裁判長から除籍されました。
 日本への憎悪を隠そうとしないこの裁判長は、訴訟指揮権を盾にやりたい放題だったのです。まったく一方的で裁判とはとても呼べないものでした。
当時から現代に至るまで、ほとんどの国際法専門家がこの裁判を否定的にみているのは当然です。すなわちこの裁判はまったく不当なもので、単なる復讐劇と言って過言ではありません。

日本人の誇り
藤原 正彦 (著)
文藝春秋 (2011/4/19)
P122

日本人の誇り (文春新書)

日本人の誇り (文春新書)

  • 作者: 藤原 正彦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2011/04/19
  • メディア: 新書

 

九重連山 大分県

人の生死に関わる仕事が法務大臣

現行法では法務大臣は、死刑の判決がでたものに対しては六ヶ月以内に刑の執行をしなければならないことになっているという。しかしそれを個人の良心として拒否する道がないのではない。
それは総理大臣から法務大臣就任の要請を受けた時、それを断るという方法である。それだけが合法的に、自分の思想や立場をはっきり示すやり方だ。
 しかし大臣という要職にには就きたい。でも死刑執行に署名だけはしたくない、という甘えた選択だろう。もし人の生死に責任ある形で関与したくないのだったら、世間にたった一つ法務大臣という役職にだけは就かないという道が合法的に残されていたのである。

人生の原則
曾野 綾子 (著)
河出書房新社 (2013/1/9)
P222

人生の原則 (河出文庫 そ 1-5)

人生の原則 (河出文庫 そ 1-5)

  • 作者: 曾野 綾子
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/02/08
  • メディア: 文庫

 

九重連山 大分県

コネ

  私たちのこの社会では、縁故関係は必要だ。慎重に関係を構築し、それをうまく維持できれば、そこに関与する者の成功はまちがいない。

 コネといっても、二通りある。君にはその違いを常に念頭において行動してもらいたい。
 まずは、対等な縁故関係だ。これは、素質も力量もほぼ似通った二者が構築する、互恵的な関係で、割合自由な交流、情報交換が行われる。
~中略~
 もうひとつは、対等でないコネだ。地位や財産が片方にあり、もう一方には素質や能力があるという場合がそれだ。
この関係では、恩恵にあずかれるのは片方だけで、その恩恵も、表面に出ないように巧みに覆われていることが多い。
 恩恵にあずかる側は、相手のご機嫌をうかがい、気に入られるように振舞い、相手の優越感をじっと耐え忍んでいる。

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章
フィリップ・チェスターフィールド (著), 竹内 均 (翻訳)
三笠書房 (2011/3/22)
P260

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2011/03/22
  • メディア: 文庫

 

九重連山 大分県

公平分配の習慣

ある日、子供(住人注;アンデスの山奥で今でもインカの伝統を守り続けているケロ村)たちと遊んでいて、たまたま私のザックの底からアメ玉が一つだけ見つかった。子供たちの大好物だ。一つしかないので迷った。
小さい女の子が一人になったとき、こっそりとアメ玉をあげた。欠けた歯をニュッとむき出して、うれしさこの上ないといった顔をした。

 日本の子供にアメ玉を一つあげても、逆にバカにされるだけかもしれない。しかし、彼女にとっては一年に一度、手にすることができるかどうかわからない最高の宝物なのだ。
 私は一人こっそりとなめてしまうだろうと思っていた。ところが、女の子はすぐに大声で叫びながら姉、兄のところに飛んで行った。その小さなアメ玉をお兄ちゃんが割って、四人で分けた。四人とも満面の笑みを浮かべて、小さくなってしまったアメをなめていた。

関野 吉晴 (著)
グレートジャーニー―地球を這う〈1〉南米~アラスカ篇
筑摩書房 (2003/03)
P52

グレートジャーニー ――地球を這う〈1〉南米アラスカ篇 (ちくま新書)

グレートジャーニー ――地球を這う〈1〉南米アラスカ篇 (ちくま新書)

  • 作者: 関野吉晴
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/10/31
  • メディア: Kindle版

 

 ところで、私は、ポケットの中にチューインガムを持っているはずだった。平素そういうものに嗜好はないのだが、モンゴルの乾いた空気でのどが痛むかもしれないと思ってポケットに入れてきた。ところが、一包みしか残っていなかった。
 それを授業料として進呈するとかれはすぐその包みを剥がした。そのあと、自分のまわりにいた子供たちの人数をかぞえて、公平に分配した。
 この幼児たちのごく自然な公平分配の習慣は、社会主義的人民の子だからというものでなく、太古以来、天幕の中で行われつづけてきたものであるように思える。
 清朝末期のモンゴル人は、当時の庫倫(クーロン)(ウランバートル)の経済をにぎる華僑高利貸のために、一部の僧や諸侯をのぞいて、乞食以下の暮らしに堕ちていた。そのときでさえ、モンゴル人による泥棒はまれだったといわれる。

街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P162

街道をゆく 5

街道をゆく 5

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1974/10/01
  • メディア: 単行本

 

三隈 北九州市小倉北区鍛冶町

匈奴

P190
 人類の歴史でもっとも古い遊牧民族は、前六世紀から前三世紀にかけて活躍したスキタイであるとされる。スキタイは黒海のそばの草原地帯を遊牧地とし、その種族は、かれらが遺した金属彫刻によって印欧系であると想像されており、その生活文化については、前五世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの「歴史」に紹介されている。すでにそこに包(ユルト)(パオ)が出現しており、馬乳酒もさかんに飲まれているのである。

P241
人間がジカに馬の背に乗っかって行動するというのを発明したのはスキタイ(前六世紀から前三世紀ごろまで黒海北岸の草原で活躍したイラン系民族)であるといわれているが、そのころギリシャ人や漢民族は馬に乗れなかった。
馬といえば、馬に輓(ひ)かせる戦車しか持っておらず、騎馬武人の軽快な運動性にとてもかなわなかった。
 ユーラシア大陸の西方においてスキタイが消滅するころ、東方においては匈奴という大役者が出現する。黒海で発生したスキタイの騎馬法がはるかにこのモンゴル高原へ東漸したのである。
匈奴という大騎馬民族出現するのは紀元前三世紀だから、スキタイの消滅とほぼ時期を同じゅうする。
 その匈奴が、中国の春秋戦国時代(紀元前七七〇~前二二一)の末期にあらわれて北方から南侵をくりかえし、五世紀までその苛烈な反復をつづけるのである。

漢民族はこの、人が馬の背に乗って騎射する連中に対し、戦車と歩兵で戦ったが、とうてい歯が立たなかった。P95
「匈奴」
 という、モンゴル高原の騎馬民族が、中国の史書に出現するのは、紀元前三一八年である。その後百年ほどして匈奴帝国が樹立し、南下して漢民族の地を侵した。
このとき、中国を統一して漢帝国を興したばかりの漢の高祖はみずから大軍をひきい、大同付近で戦ったが匈奴三十二万騎に包囲され、身をもって脱出し、のち、娘を匈奴の単于(ぜんう)(王)に送って妻とし、さらに年々ばく大な貢物をモンゴル高原に送り、単于をもって兄として事(つか)えるという屈辱的な関係をもった。
これが、もっとも豊富に匈奴関係の記事が史書にあらわれる最初である。
 匈奴は、騎馬人である。
 人間が馬にじかに騎(の)るという技術を考えたのは、紀元前六世紀から同三世紀ごろまで、黒海沿岸の草原で活躍していたスキタイらしい。スキタイはそれに関する出土品によってもわかるように、目がくぼんで隆鼻のイラン系の民族である。
 このスキタイの騎馬技術が、中央アジアの草原で牧畜をしている諸民族に影響をあたえ、それが東へすすみ、ついにモンゴル高原にいた民族の生産と生活をスキタイ化し、ついに大騎馬団をもって中国史に出現するのが、匈奴であろう。
~中略~
 この紀元前の匈奴が何者であるにせよ、その生産形態をほぼ生き写しにしていまなお踏襲している世界唯一の民族が、モンゴル人である。
「史記」の「匈奴列伝」には、
「家畜にしたがって移動し、鳥や獣を射猟して生業とする。君主以下、みな畜肉を食料とし、その皮革を衣服とし、旃裘(皮ごろも)を被(き)る」


 と、ある。

街道をゆく (5)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく5

街道をゆく5

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

三隈 北九州市小倉北区鍛冶町

不動明王

  不動明王は、古代ドラヴィダ人の富者が何人も召しかかえていた少年給仕をかたちどっている。
かれら給仕たちは使者として密林を切り分け、毒蛇や猛獣を退治しつつ遠くへゆき、もどってくる。~中略~
 この不動明王の目的は、修行する行者を守ることにある。行者に給仕し、行者をしてなすべきすべてをなしとげさせ、ついには大智恵を得させて成仏させるはたらきをもつ。
日本においては仏教伝来以前から山岳信仰があり、渡来後、修行者はしきりに山にのぼって修行した。つねに不動明王がつき従った。行者が成道して里におりてもこの明王をまつったために里人もまた尊崇するようになったにちがいない。
(初出「アサヒグラフ」臨時増刊 昭和58年3月20日発行)
「密教の誕生と密教美術」より部分抜粋
司馬遼太郎

名文で巡る国宝の観世音菩薩
白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P231

名文で巡る国宝の観世音菩薩 (seisouおとなの図書館)

名文で巡る国宝の観世音菩薩 (seisouおとなの図書館)

  • 作者: 白洲 正子
  • 出版社/メーカー: 青草書房
  • 発売日: 2007/06/01
  • メディア: 単行本

 

 

P67
 仏教の修行の道程には、さまざまな誘惑や困難が横たわっている。それらのものを乗りこえてゆく力を得るためのほとけも必要である。この意味をもったほとけは忿怒を現した姿に作られている場合が多い。そのうちの代表とでもいいうるのが不動明王である。
日本においては、多くの明王のうちもっとも信仰されてきたもので、現代においてもその信仰は衰えていない。そのために日本美術史をかざる優れた作品も多いのである。

P68
不動明王は密教においては大日如来のの使いと考えられている。そのことを証明するように、密教の根本経典の一つである大日経では不動如来使という名で説いているのである。不動明王関係の他の経典においても、不動使者としているものが多い。
 ヒンズー教の諸神でありながら、仏教にとり入れられて、仏教のほとけとして信仰されているものはかなり多い。
その諸神が仏教にとりあげられる場合には、二つの方法がとられている。その第一はヒンズー教における名称がそのままとり入れられて信仰される場合である。不動明王はその例の一つである。
この明王はヒンズー教の最高神の一つでありながら、そのままで仏教の一つである。この明王はヒンズー教の最高神の一つでありながら、そのままで仏教の守護神となり、如来の使者としての地位を与えられているのである。
第二の方法はヒンズー教の神を降伏させる力をもったほとけを作り出す方法である。不動明王と同躰であるということもいわれている降参世明王は、その足下に大自在天夫妻(シバ神夫妻)を踏んだ姿に作られている。しかしこの方法でとり入れられたものは比較的に少ないとみてよい。

P69
 日本で最古の不動明王像といえば、東寺講堂の像(七三ページ)をあげなければならない。この堂内に安置されている諸像は護国の経典である仁王経によって組み合わされ他者と言われている。しかしこの不動明王像は空海請来と考えられる仁王経五方尊図によって作られたものではなく、胎蔵界曼荼羅図中の像と摂無碍(しょうむげ)経に説くことなどを参考として作られたとみられる。

P71
不動明王像をより深く知るために、その内容(住人注;善無畏の講義を聞いて、一行が書きとどめた大日経疏廿巻)の概略をここに記しておくことにしよう。
「不動明王を画け、如来使者なり、童子の形に作せ。右に大慧刀の印を持ち、左に羂索を持つ。
頂に莎髻(しやけ)あり、屈髪垂れて左の肩にあり。細く左の眼を閉じ、下歯をもって右辺の上唇を嚙み、その左辺の下唇はやや翻って外に出せ。額に皺文ありて、水波の状の如し。石上に坐す。その身は卑しくして、充満肥盛なり。忿怒の勢、極忿の形を作れ。是れその密印の標幟なり。」
~中略~ この形容が如何なる意味をもって作り出されたかを考える材料としては、前掲の文章のあとに、「この尊は既に成仏しているが、その願いを達成するために、はじめて仏教修行を志し、大日如来の従僕となった形をとるために、諸相不備の姿を示現している」といっている。
即ちこの姿は、両眼が不揃いで、歯の並びは悪く、額にしわがより、ずんぐりとして肥満したもので、如来や菩薩の端正な姿に比べると、全く反対の姿を想定しているのである。
ここに述べられている姿は階級制度の厳しいインドにおける下層階級である被征服民族の姿から出発したものかと見られる。
それを証明するかのように、平安時代の大原長宴の撰集した四十帖決第八には、「不動明王の髪の型はインドの奴婢の風習である」と指摘しているのである。

P77
 日本において単独の不動明王信仰をとりあげたのは智証大師円珍のころからである。
円珍は承和五年に修行中に感得した不動明王像を描いたと伝えられている。それが三井寺に現在も伝えられている黄不動尊像である。
ここに描かれている尊像は筋肉がもり上がったたくましい肉体で、両眼を大きく見開いて立っており、頭髪は螺髪を規則的にならべた形に表されている。この姿は不動明王としては全く異形であり、儀軌によって描いたものとはみられない。それは円珍が偉大なる力をもった不動明王の性格を表現するための、より適切な姿として想像したものとみられる。
 その儀軌を無視した表現を行なうということは、既に東寺講堂の不動明王像の制作においても、空海が行なっていることであり、その甥である円珍はその儀軌に対する積極的な新しい解釈を行なう態度をうけついだものといってよい。

P78
 立った姿の不動明王を描くように規定する儀軌はない。しかしこの白描図像のなかの不動明王像と黄不動尊像をはじめとして、平安時代の不動明王像で立った姿に作られている彫刻や絵画がかなりある。
それは主として天台系統のなかにおいて制作されたものに多いと考えられる。~中略~
円珍大師以後における不動明王は天台だけでなく、真言系統においても盛んとなり、物の怪におびやかされる貴族のあいだにも急激にひろまっていった。

P92
 われわれが不動の中に直観的に見るのは、一つの力であり、衝動である。
しかし、経典はいささか違った説明を不動に与えるのである。不動の怒りは決して敵に向けられたものではない。それはむしろ己の煩悩に向けられたものである。不動のもっている剣できるのは、憎むべき敵ではなく、己の欲望であり、索でしばるのは他人ではなくして己の心なのであり、炎々と燃える火炎も、身を焼く衝動の炎ではなく、煩悩を焼きつくす炎なのである。
不動の怒りは、外より内に、他人より自己に向かっている。
それゆえ不動の力は、人に勝つためのものでなく、己に勝つためのものである。

P100
 日本の歴史において、不動明王がもっとも活躍したのは、元寇なのである。
高野山南院にある波切不動は輝かしき従軍の記録をもっている。弘法大師が唐から、帰朝の際に、海路安全を祈って師、恵果(けいか)から送られたというこの荒れ狂う波を踏んで立っている不動明王は、元寇という海からの侵入者の降伏に対して、もっとも有効な能力を発揮するほとけと考えられたものであろう。
この明王は、九州までもってゆかれ、敵国降伏を祈って、無事仏務を終えて帰ったが、背後の火焔だけはその地に置いてきたといわれる。また弘安五年二回目の元寇の際に描かれたという信海の不動明王図は、不動が激しく、同時に不安な面持で、海の彼方をにらんでいる、不動明王図の傑作である。これを見てもわれわれは、不動明王の像が、日本人にとっていかなる精神的意味をもったかを理解することが出来るのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

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天台宗青蓮院門跡 将軍塚青龍殿

チップ

親切にしてくれた人には誰にでもチップ、と思い込んでしまったら、これは失礼なことにある。
こういうことが国際的誤解(住人注;「日本人は金ですべてが解決すると思っている」と思われる)につながっていくのかもしれない。
 今のヨーロッパではチップの習慣はほとんどないといっていい。ほとんどのレシートにサービス料が入っているからだ。どこの国でも、チップを渡すのは年配の人たちで(もちろん、特別何かしてもらった場合は別)、アメリカとはまったく違う。

一度も植民地になったことがない日本
デュラン れい子 (著)
講談社 (2007/7/20)
P211

一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書)

一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書)

  • 作者: デュラン れい子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/07/20
  • メディア: 新書

 

稚加栄 福岡市中央区大名