2026年5月12日火曜日

一遍と熊野


南北朝以降、熊野信仰を全国に伝えたのは神道でも修験道でもなく、一遍が始めた時宗という仏教の一派だった。

そこにもミスティシズムがかかわっている。一遍の熊野における覚醒体験というか夢のお告げがなければ、時宗の融通念仏のその後の爆発的な流行も起こらなかったであろう。
~中略~
そもそも浄土真宗の蓮如は五人の妻をもち、二十七人の子をもうけたことが知られているいるが、高僧と呼ばれる人ほど異常な精力をもて余したことはご存知のとおりである。
一遍の場合も例外でなかったのであろう。ただし、一遍が二人の妻をもったこと自体は、当時それほど道を外れた行いでもなかったかもしれないが、五来重(ごらいしげる)は「そのためにヒトの遺恨を買う所行があっただろう」と推測している。(五来重「熊野詣」講談社、二〇〇四年、九二頁。)
おそらく痴情怨恨の類(たぐい)でちょっとした騒動にまで発展したのかもしれない。
 一遍上人ら一行は、それをきっかけにして、融通念仏の聖として「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人びとに念仏を勧める旅を始めたのだった。
 彼らは高野山を経て熊野本宮に向かおうとするのだが、その途中で出会った僧に念仏札を渡そうとして、断られる。
一遍らにとってそんなことは初めての経験だったので、「信心が起こらなくてもけっこうだからお札を受けとってくれ」と強引に手渡してしまう。
しかし、果たしてそれでよかったのかどうか迷いつつ熊野本宮にたどり着くと、証誠殿(しょうじょうでん)で次のような託宣を得る。「融通念仏を勧める聖よ、なぜそんなやり方をするのか。衆生はあなたの手によって往生するすのではなく、すでに阿弥陀仏によってそうなる定めになっている。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札を配るべし」と。
 このことは日本の浄土信仰に大きな転換をもたらした事件であった。
「衆生はすでに阿弥陀仏によって往生することが決まっている」という教えは、もともと天台の本覚思想に基づいた考え方であったが、改めて「お前が念仏を唱えさせたからその人間が往生するわけではない」と諭されて、一遍は自分の誤りに気づいたのだった。
それ以来、「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」は時宗の合言葉ともなったのである。こうして、時宗はその教えの素直さと「踊り念仏」という人と神仏との間の境を乗り越えようとする姿勢とによって、ついには一世を風靡することになったのだった。
~中略~
時宗では、一遍が熊野本宮で託宣を得た年を特別に一遍成道の年として祝っているし、大斎原(おおゆのはら)には一遍を記念する「南無阿弥陀仏」と彫られた石碑が残されている。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P87

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 まことに聖という存在は、中国の過去にも、朝鮮やヴェトナムの歴史にも存在しない。~中略~ ともかくも日本の中世の聖たちは、こんにちの日本の大衆社会の諸機能をすでに備えていた。ときに小説家のようであり、ときに新聞、テレビ、ラジオの機能をもち、ときに広地域の商品販売者であり、ときに思想の宣布者であり、ときに社会運動家のようでもあった。
 高野念仏、熊野念仏、善光寺念仏のように相互に排除しあう体質がなく、他からすぐれた聖がやってくれば、歓喜してそれにしたがったようにおもわれる。たとえば一遍がやってきて、
「佐久平で、別時念仏をしたい」
ということになれば、かれらは、行装(ぎょうそう)が乞食のようにきたないことで有名な一遍をかこみ、それを擁するようにして千曲川を南へさかのぼって佐久にむかったにちがいない。
ついでながら別時念仏というのは、念仏は本来日常に唱えるものだが、修行のためにとくに期間を設け(期間は一定しない。一日だけの場合もあれば、例外的ながら九十日という長期間を設定する場合もある)ひたすらに念仏を勤修(ごんしゅう)する行事であった。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P268

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

和歌山県 熊野本宮大社

悪人正機

 よく親鸞聖人が言うでしょう。「歎異抄」に書いてありますね。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあります。

~中略~
これはどういうことかというと、いい人というのは、善人というのではなくて、自分は悪かったと自覚していない人です。
自分は悪いことはしていないという人でも、仏は救おうとされるんです。
そして悪人というのは、私が悪うございあましたと目覚める人です。

そういう人があ救われるのは当たり前である。こういう意味なんですね。
だから、いちばん救えないのは、おれは悪いことをしていないんだ。おれは善人だという人が、いちばん救えない。
 それは神道の祓いとおなじです。一生祓いつづけて罪・穢が祓われるということと同じです。
自分は悪かった、間違っていた。だから、もっと改めましょうという人は救われる。  

葉室 頼昭 (著)
神道 見えないものの力
春秋社 (1999/11)
P24

神道 見えないものの力 ( )

神道 見えないものの力 ( )

  • 作者: 葉室 頼昭
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2013/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

P5
第三章
一、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世の人常にいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや、と。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心かけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死を離るることあるべからざるを哀れみたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみてまつる悪人、もとも往生の正因なり。
よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおおせそうらいき。

P10
第八章
一、念仏は行者のために、非行・非善なり。
我はからいにて行ずるにあらざれば、非行という。我はからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
ひとえに他力にして、自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なりと云々。

林 顯照(訳著)
歎異抄
朝日新聞西部本社編集出版センター (1983/10)

声聞はもともとブッダの教えを直接聞いた仏弟子を意味していましたが、大乗仏教では、菩薩が大乗仏教の実践者であるのにたいして、小乗教徒を表すことばとして用いられるようになります。
~中略~
「維摩経」では、この舎利弗の扱い方でわかるように、ドラマの筋書きうえでは、たしかに声聞はいつまでも無上のさとりを求める心をおこすことのできない存在として位置づけられています。
舎利弗だけでなく、ブッダ入滅後に仏教教団の統率者となった大迦葉さえも同様に扱われています。
衆生は煩悩をもっているからこそ無上のさとりを求める心をおこしてブッダの恩を報ずることができるが、煩悩を断ち切っている声聞は、たとえ身を終わるまでブッダのさまざまな特性を聞いても、ついに無上のさとりを求める心をおこすことはできないのだ」と歎きました(「仏道品第八)
 

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典
菅沼 晃 (著)
日本放送出版協会 (1999/06)
P234  

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典 (NHKライブラリー)

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典 (NHKライブラリー)

  • 作者: 菅沼 晃
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2022/03/29
  • メディア: 単行本

 

京都府 哲学の道

還相廻向

 親鸞には悪人正機説以上に大切な説がある。それは還相廻向の説である。
「ナムアミダブツ」と称えれば、阿弥陀仏のおかげでこの世から極楽へ往生することができるばかりか、また極楽からこの世へ還ることができ る。
 この極楽へ行くのを往相廻向、この世へ還るのを還相廻向といい、往相廻向と還相廻向を合わせて二種廻向という。
~中略~

この還相廻向こそ浄土真宗の要であると親鸞はいう。極楽往生した人間は利他のためにそこにいつまでもとどまるわけにはいかず、この世に再び帰って、悩める人たちを救わねばならないというのである。

梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P115

梅原猛、日本仏教をゆく

梅原猛、日本仏教をゆく

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2004/07/16
  • メディア: 単行本

 

仏教では自利利他と言います。極楽で安穏にしているのは自利です。そこには利他行が欠けている。
極楽から、もう一度この世へ帰って 来て悩める衆生を救う。それを還相廻向と言いますが、生まれ変わってまた帰ってくる。これは法然の信仰ですが、親鸞は特に強調してい ます。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)
P30

 

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫 う 10-5)

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫 う 10-5)

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/11/06
  • メディア: 文庫

 

二河白道(にがびゃくどう)

P199
もしお宅にお仏壇があって、本尊の脇に下半身が金色に塗りつぶされている僧侶の図が掛けられてあれば、それが善導(シャンタオ)です。善導は七世紀に活躍した中国浄土仏教の大成者です。法然が全面的に依拠した人です。~中略~
 この善導の主著に「観経四帖疏」というのがあって、その中の「散善義」という巻に「二河白道」の比喩が出てきます。
~中略~
 大雑把にお話しますと、以下のような構成になっています。

  ある人が西に向かおうとしたら、突然目の前が開けて、左手にはすべてを焼き尽くすような火の河、右手には荒れ狂う大波が寄せる水の河であることに気づく。
  よく見ればその二つの河が激突している中に 一本の白い道がかすかにある。
  まわりには誰もいないし、とてもこの道を歩いていけるとは思えない。立ちすくんでいると、その人に向かって大勢の賊や飢えた猛獣たちが襲ってくる。絶体絶命!ダイハード!(←使い方、間違っている)
 前にも進めない、後戻りもできない、立ち止まっていることもできない、死は必定の限界状況である。
  どうせ死ぬならこの道を歩もう、そう決心したとき、その人は声を聞く。西のほうからは「来い」、東のほうからは「行け」の声である。
  その人はその声に従って、無心でその道を渡る

~中略~
 この比喩は、原型らしきものが「涅槃経」や「大智度論」や「略論安楽浄土」などに見ることはできるものの、やはり作者である善導の臨床的観察と自分自身の体験から出来上がったものであると言えます。
 さて、ここで語られる象徴的表現はいったい何を指しているかを善導自ら解説しています。
 主人公が居るところ=火宅無常の世界
 西の岸=浄土の世界
 大勢の賊や猛獣=人間の認識や感情や心身を構成するもの
 火の河と水の河=人間の過剰な欲望と怒り
 一本の白道=人間の中にある仏の心
 西の声=阿弥陀仏の呼び声
 東の声=釈尊の教え

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

  • 作者: 釈 徹宗
  • 出版社/メーカー: バジリコ
  • 発売日: 2008/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

京都府 法然院

法然

法然の配流は、気の毒というほかない。
 その配流は、後鳥羽上皇のごく私的な感情に発している。上皇が寵愛していたらしい二人の女官が、法然の弟子のうちの公家出身の二人の僧と恋愛関係をもったということで、その一件とは何の関係もない法然とその弟子たちを遠国に流し、教団を事実上壊滅させた。
 法然という人は日本最初の民衆的教団の開創者というにはおよそふさわしくないほどに円満な人柄で、どうもうまれつきであったらしい。争いを好まず、ひたすら既成の権威や俗世の権力に対して衝突を避け、自分の思想と信仰を手固く守ってきた。が、結局は七十五歳という晩年になってくだらないことで大弾圧をうけ、配流の身になってしまったのだが、しかし一面、浄土教の発展という面ではよかったかもしれない。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P186

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -
 
京都府 法然院

親鸞と道元

P50
五木 なるほど。話を整理しますが、親鸞と道元が同時代に生きたということと同時に、両者には共通点がありました。
まず、両者とも比叡山に入った。それから幼少で母と別れた。上級、下級の違いはあれ貴族の出身であった。そして中退して山を下りた。そして比叡山にいるときに非常に大きな疑惑というか疑義にとらわれた、疑いを心に抱いた。
 道元の場合には、山川草木悉有仏性といって、すべてのものに最初から仏性があるというのなら、改めてそこで厳しい修行をする必要があるのだろうかという疑義だった。
 一方の親鸞の場合には、どんなに修行をしてもしても、仏に出会えない。常行念仏をやろうと、回峰行をやろうと、仏の姿を見ることができなかった。
念仏の中で、仏の姿をありありと見ることができる、出会うことができるという観想念仏というものが、彼にはできなかったようです。

P56
五木 道元禅師と親鸞聖人の共通性をいくつかあげましたけど、大きくちがうのが、まず、戒律に対する態度ですね。
当時の仏教界にあっては、戒律、戒律といっているけれど、実態は誰も戒律を守っていない。実際、僧侶が貴族の館などに招待されて行けば、魚も出れば肉も出る、それを袈裟を外せば問題なしなどという理屈をつけて、平気で食べる。
肉食妻帯どころか、密かに女性を囲いもする。加えてその当時は、比叡山に限らず、男色は当然という文化だったわけですからね。
 そうした中で、煩悩具足のわれわれ凡夫には、とうてい戒律なんかは守れない、守れないなら、守っているふりをするような偽善的な振るまいをやめよう。そして自らの悪を深く自覚してたのめ、というのが親鸞の立場です。ところが道元の立場は、守れていんだったら、守ろうじゃないかというほうですよね。

P109
立松 鈴木大拙の「日本的霊性」で、日本に仏教が確実に根づいたのは、浄土真宗と禅の二つがあったからだという指摘をしているんです。
鈴木大拙は禅者のですから禅が入るのはわかりますが、民衆一人ひとりの心の中に入っていたのは浄土真宗ですよね。
五木 なるほど。

立松 僕は親鸞聖人の時代というのは、仏教が本当に土着したというか、日本人の血肉になっていった時代だと思います。それまでは民衆に仏教が届いてなかったのかと、歴史を考えると不思議な感じがするんですね。だけど届いてはいなかったのでしょうね。 

親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)

親鸞と道元 (祥伝社新書)

親鸞と道元 (祥伝社新書)

  • 作者: 五木寛之 立松和平
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: 新書
滋賀県 延暦寺

西本願寺 京都市
福井県 永平寺

経だらにというは文字にあらず

 「経だらに(梵語で、善法を保ち悪法をさえぎる言句)というは文字にあらず、一切衆生の本心なり。本心を失える人のために、さまざまのたとえをとりて教えて本心をさとらしむなり。文字をまことの経というべからず」
京都に東福寺を開いた聖一国師(聖一国師仮名法話)

松原 泰道 (著)
般若心経入門―276文字が語る人生の知恵
祥伝社 (2003/01)
P102

般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫 ま 1-3)

般若心経入門―276文字が語る人生の知恵 (祥伝社黄金文庫 ま 1-3)

  • 作者: 松原 泰道
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2003/01/01
  • メディア: 文庫

 

京都府 東福寺

栄西

 日本は中国から仏教を移入して国づくりをしたが、平安時代の半ばに遣唐使が廃止されて以来、両国の仏教は大きく変わった。
日本では、初めは真言密教、後には浄土教が大流行したが、真言密教も浄土教も中国では唐の時代に一時流行した過去の仏教にすぎなかった。
中国においては破仏すなわち仏教の弾圧によって寺院は壊され、経典は焼かれ、裸の身一つで悟りを開くことを説く禅が唐から宋にかけて中国仏教の中心となった。このような日中仏教の相違をみて、栄西は日本の仏教を文明国中国の仏教に近づけようと思ったのであろう。
~中略~
この禅の大祖師というべき栄西に、曹洞宗の僧ばかりか臨済宗の僧すらいっこうに尊敬を払わないのはいささか忘恩的であるといわねばならない。

梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P143

梅原猛、日本仏教をゆく

梅原猛、日本仏教をゆく

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2004/07/16
  • メディア: 単行本

 

 永治元年(一一四一)、備中で生まれた栄西は、十三歳で比叡山に入山して天台宗を修め、やがて禅を修めるべく宋へ渡る。 一度目は平氏全盛期の仁安三年(一一六八)だが、この時は滞在わずか半年で禅を極めるには至らなかった。
帰国後しばらく博多に住み、今津の誓願寺で起草したのが国宝「誓願寺盂蘭盆一品経縁起」である。
 二度目の渡宋は幕府草創間もない文治三年(一一八七)で、宋の天台山において虚菴禅師から臨済禅の黄竜派を学び、建久二年(一一九一)に帰国。翌年、筑前香椎に建久報恩寺(福岡市東区)を建てたのが、日本における禅宗の始まりとなった。

あなたの知らない福岡県の歴史
山本 博文 (監修)
洋泉社 (2012/10/6)
P54

あなたの知らない福岡県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない福岡県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2012/10/06
  • メディア: 新書
東大寺 奈良県

仏になろう

 P20
真言密教の教えの中心は即身成仏ということです。

即身成仏というのは、現実の肉体なままに仏になれるという思想です。ずいぶん大胆な考えです。肉体が汚れているという考え方はないん だ。肉体のまま仏になれる、それが即身成仏です。

~中略~
真言密教の中心仏である大日如来は宇宙の中心にいる、宇宙を支配している仏です。そして大日如来は一木一草に宿っています。
人間 の中にも大日如来はいて、その大日如来と一体となることを灌頂といいます。

P22
 最澄の天台宗は「法華経」を中心経典とする仏教です。中国の天台宗を日本に輸入したのです。天台宗は天台智顗という、隋の煬帝と 親しい坊さんですが、その人の立てた教えです。
 天台の教えを一乗の教えと言います。~略~一乗仏教とは何か。簡単にいうと、それは誰でも仏になれるという教えです。
 平安仏教より古い奈良仏教の教えでは、仏になれない人間がいるんですよ。~略~仏になれるのは限られた人で、その限られた人が一 生懸命修行して仏になれるんだというのが奈良仏教です。
ところが最澄の天台宗では、みんなが仏になれると言う。すべての人が仏性を持っている。どんな悪い人でも心の中に仏性がある。
だから 何べんも生まれ変わって、いつかは仏になれる。
 これが「法華経」の思想です。「法華経」では、御釈迦さんが龍の女に授記を与える。授記というのは、いつか必ず仏になれると証明するこ とです。

P31
  親鸞はまた、念仏の信心を一たん確定した人は等正覚だと言っています。等正覚というのは、弥勒菩薩に等しいということです。
浄土真 宗の信仰を確立した人は、弥勒と同じ位に入った。ですから、仏になったといえます。やはり浄土教もこの世において「仏になる」ことを理想 としているのです。

P32
 禅は、はっきり「仏になる」ことを目指しています。
ただ真言と違うのは、真言は肉体を重視しますが、禅は心を重視します。悟りを開けば、 そっくりそのまま仏になれるんだと言います。

P38
日蓮の思想は、本来は天台宗と同じで法華信仰を日蓮独自の思想で思想で新しく解釈したものですが、従来の法華信仰とどこが違ってい るのか。日蓮は法然の影響を受けていると思います。
 法然が念仏を観想念仏から「南無阿弥陀仏」と口で唱える念仏でよいと解釈したように、日蓮も「南無妙法蓮華経」と言えば、それで法華 信仰は十分だと言うのです。
~中略~

「法華経」の信仰の中心というのは、朝夕説法している御釈迦さんが、「自分は実は歴史上の御釈迦さんじゃない。自分はずっと昔からここ でこうして説法している釈迦だ」という。そういう永遠の釈迦、久遠の釈迦の信仰を説くのが「法華経」です。
その久遠の釈迦の教えを広める人として、地の中から湧いてくる地涌の菩薩がいます。
あたらしい「法華経」の信仰を広めるために、菩薩が地から涌いてくるんですね。地涌の菩薩の筆頭が日蓮でしょう。だから、日蓮宗も地涌 の菩薩になる、仏になるという考え方です。

P218
 仏教というものは、仏になろうとすることです。
仏になるために人間の愛執を断つという考え方は、小乗仏教と言われる釈迦仏教でも、大乗仏教でも変わらない。ただ大乗仏教には、煩悩というものの強さを認めながら。煩悩の束縛から自由になるという思想があります。
~中略~

 

 人間の煩悩を断ち切る道には、自力の道とか他力の道とか、いろいろあります。
自力であれば、真言宗なら即身成仏ということになり、禅宗なら悟りを開くという思想になります。
他力なら、親鸞聖人が言うように阿弥陀仏によって極楽浄土に往生できるという信仰になります。
自 力によるか、他力によるか、考え方は違いますが、いずれにしても「仏になる」という目的は同じであろうと思います。
 そのためには、六波羅蜜の徳をつけ、十善戒という戒律をまもらねばならない。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫)

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫)

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/11/06
  • メディア: 文庫

 

五木 ~略 「仏も昔は人なりき
我らも終には仏なり
三身仏性具せる身を
知らざりけるこそ あはれなれ」
「梁塵秘抄」の法文歌の中

仏の発見
五木 寛之 (著), 梅原 猛 (著)
平凡社 (2011/3/8)
P27

仏の発見

仏の発見

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2011/03/08
  • メディア: 単行本

「遮那(しゃな)は中央に座す 遮那は阿誰(だれ)の号ぞ 本(もと) 是れ 我が心王なり」(弘法大師 空海 「遍照発揮性霊集」巻第一)
【現代語訳 遮那(大日如来)が中央にまします 遮那とは誰のよび名か 本来われわれの心のこと】

ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P114

ボクは坊さん。

ボクは坊さん。

  • 作者: 白川密成
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2010/01/28
  • メディア: 単行本

 

P28
仏(佛)という字は、もともと人偏(にんべん)に弗(はらう)と書きます。 つまり、人間から人間的ないっさいをとり払うこと、すなわち目覚めるということであります。世間はみな虚仮だが、しかしその世間はみな虚仮であるということに目覚めるということ、それだけが最後に人間に残されているというのです。~中略~
釈迦のことを仏陀と申しますが、仏陀とは「目覚めた者」という意味です。釈迦は何も新しいことを知ったのでも、得たのでもない。でれまでの自分、その自分はまちがっていたということに気づいたのです。
 つまり、釈迦は法に目覚めたのであるます。

P31
「覚悟」ということばがあります。しかし本来は覚も悟も同じ意味です。すなわち、目覚めるということです。~中略~
 ところで、「悟」という字は、禅特有のことばと見てよろしいいですが、これは忄(りっしんべん)(心)に吾、すなわち「わが心」ということです。つまり「悟り」という意味は、わが心を見つめる、という意味に近い。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

  • 作者: 立花 大亀
  • 出版社/メーカー: 里文出版
  • 発売日: 2011/03/15
  • メディア: 単行本

「経論(きょうろん)」(仏教の教えを記した「経」とその注釈書「論」)によれば、「仏は覚り(悟り)であり、覚りは一切衆生(いっさいしゅじょう)(生きとし生けるもの)の迷いを解き放つ」という。
迷いがなくなれば、「本性」(性)に立ち戻れる。その状態を「三界唯一心(さんがいゆいつしん)」という。
迷いが解けた仏の本性を「仏性(ぶっしょう)(仏になれる可能性)と呼ぶ。仏性は、天地人(三才)の本体である。
仏法の究極は、本性を知ることにつきる。仏から数えて二十八世にあたる達磨大師(だるまだいし)は、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」(仏性を見つけて悟りを開き、仏になること)を解いた。
 ※三界唯一心 欲界・色欲界・無色界の三界で起きるあらゆる現象は、心の働きによってのみ存在し、心がつくりだしたものであって、心を離れては存在しないとする思想。
 ※仏性 「涅槃(ねはん)経」は、「生きとし生けるものは、すべて生まれながらにして仏になる素質を持っている」と説いている。

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
P202

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)

  • 出版社/メーカー: 致知出版社
  • 発売日: 2016/09/29
  • メディア: 単行本

本気度

戒めの言葉七三
口に信修(しんじゅ)を唱うれども、心則ち嫌退すれば、頭(はじめ)有つて尾(おわり)無し。
言つて行ぜられば、信修するが如くなれども信修と為るに足らず。
遍照発揮性霊集 巻第十

「仏教を信じています」
「毎日、修行しています」
と口先でいっても、
それを心より受け入れる気持ちがなければ、
何もならないのです。
口でいうだけで実践がなければ、
信じて修行しているように見えても、
「信修」ではありません。

空海 人生の言葉
川辺 秀美 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/12/11)

空海 人生の言葉

空海 人生の言葉

  • 作者: 川辺秀美
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2013/02/04
  • メディア: Kindle版

 

高野山 奈良県