2026年5月1日金曜日

円空

 円空については、いままでいろいろなことが言われてきました。どういうわけか円空を研究するのは民間の学者ばかりで、アカデミズムに は円空の研究者はほとんどいません。
ほかの仏師について研究者はいくらでもあるんですよ。例えば定朝、運慶、快慶、彼らについてはアカデミズムの研究者はたくさんいますが 、円空についてはほとんどいない。
~中略~

円空は、現代の芸術家に嫉妬を感じさせるような仏像、神像をたくさんつくった。ところがその円空がアカデミズムには研究者がいないという 妙なことになっているんです。
 それはなぜか。定朝や運慶、快慶は時の権力者に認められて、彼らの要請によって仏像をつくった。だから、中央で認められている。円空は、中央で認められなかった。
地方の人に愛されたんです。特に飛騨の人には大変愛された。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)
P221

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫 う 10-5)

梅原猛の授業 仏になろう (朝日文庫 う 10-5)

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2009/11/06
  • メディア: 文庫

 

衣食はすべて喜捨に頼って、野宿の旅をつづける。みずからは乞食沙門と称していた。
「けさの野になまめきたてる女郎花かからぬ袖に花の香ぞする」
「我恋はけさの御山にあらなくにかかる心はわびしかりけり」
 円空さんの歌、これも色っぽくていい。
~中略~
 元禄八年(一六九五)七月十五日、円空さんの命日である。享年六十四。穴の中にみずから入り、竹筒を差し込んで「地中で鐘を鳴らす。その音が絶えたら、そのときがわれの入滅のしるしなり」と遺言した。
鐘の音はしだいしだいに小さくなり、この日、ぷつりと途絶えた。集まった村人たちは動かずに立つ竹筒を囲んで号泣した。

この国のことば
半藤 一利 (著)
平凡社 (2002/04)
P158

 

この国のことば

この国のことば

  • 作者: 半藤 一利
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2002/04/01
  • メディア: 単行本

 

平尾台 北九州市

臼杵

それにしても、この豊後国の山奥に弘仁、藤原、鎌倉と数百年にわたって巨大な石仏群をつくったものは何か。それは仏教に対するあつい信仰であろう。
しかしその信仰を生み、信仰を必要としたものは何か。ぼくはそれを石仏群のそもそもの発願者と伝えられる「真野長者夫妻像」のうずくまる姿そのものが語っていると思った。

古寺を訪ねて―東へ西へ
土門 拳 (著)
小学館 (2002/02)
P180

土門拳 古寺を訪ねて 東へ西へ(小学館文庫)

土門拳 古寺を訪ねて 東へ西へ(小学館文庫)

  • 作者: 土門拳
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: Kindle版

 

国宝臼杵石仏 大分県 臼杵市

新薬師寺

P216
いまの奈良市街は雑然とした観光地であって、ただ処々(ところどころ)にこうした(住人注;新薬師寺へ向かう高畑の道のような)古さびた面影(おもかげ)を残しているにすぎない。古(いにしえ)の平城京はすでに廃墟(はいきょ)と化して一面の田畑である。古寺をのぞけば、普通の民家で古の姿をとどめているのはまず稀有(けう)と云っていいであろう。

~中略~
 なにも好事癖(こうずへき)からではない。高畑の道筋が偶然こんな感想をもたらしたのではあるけれど、根本を考えてみるに、やはり私の不信心のためであるらしい。ひそかな祈りよりも、仏像見物の心の方がまさっていたからであろう。後ほど徒然草(つれづれぐさ)をひらいてみた折、兼好法師の次のような言葉に出会った。
「神仏にも、人の詣(まう)でぬ日、夜まゐりたる、よし。」
          ―昭和十七年冬―

P221
 新薬師寺の「新」は、新しいという意味ではなく、霊験あらたかなるの意である。
縁起によれば、昔時(せきじ)この附近に上宮太子創建と伝えらるる香薬師寺とよぶ寺があった。
その後天平(てんぴょう)の御代(みよ)となって、聖武(しょうむ)天皇が眼病を患(わずら)い給(たも)う折、光明皇后がこの寺に御平癒(へいゆ)を祈念されたところ、幸にして恢復(かいふく)され、叡感(えいかん)のあまりその香薬師如来(にょらい)を体内仏として、丈六(じょうろく)の薬師如来を行基(ぎょうき)をして造顕せしめた、由(よ)って現在の寺が草創されたという。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/05/02
  • メディア: 文庫

新薬師寺 奈良県

光明皇后

P183
 光明皇后の御生涯は、かくのごとく聖武天皇と信仰をともにされた美しい生涯であったが、しかし皇后もまた帝にもまして時の苦悩を負われた方であった。前にちょっとふれたように、光明皇后は不比等と橘三千代とのあいだにお生まれになったのだが、この橘三千代は天平の背後に躍った稀代(きだい)の辣腕(らつわん)家であった。血族国家において女権の伸長するのは、とくに女帝のみ代において甚だしい。

P184
 光明皇后はこの辣腕の夫人を母として生まれたのである。神亀(じんき)元年三月御年十六歳のとき光明子として聖武天皇の妃となられ、天平元年八月に皇后として立たれた。臣下の姫にして皇后となるのは稀有であり、まして不比等一族の背景をあることを思えば、当時群臣に与えた衝撃の大きかったことは云うまでもない。 ~中略~
若く美しい妃として、群卿(ぐんけい)に臨まれ、つねに優雅な振舞いをもって接したもうたことが推察される。
母君たる三千代夫人にも無心の孝養をつくされたであろう。しかも一方において、ご自身に注がれる羨望(せんぼう)と反感の眼をも、鋭敏な御心は必ずや感じておられたに相違ない。
皇后に関する伝説はすべて熱烈な信仰を物語っているが、血につながる一切のものの罪禍を、自らそれとなく悟られ、観無量寿経の韋提希(いだいけ)夫人のように仏前に祈られたのではなかろうか。 ともあれ光明皇后は、女性の身として、時の最も苦しい立場に立たれたことは歴史をみるとき明らかである。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

法華滅罪之寺 (法華寺) 奈良県

百済観音

  正直なところ、私は仏像にどうしても親しみえなかったのである。その主な理由は、仏像は人間を行為に誘う溌剌(はつらつ)たる魅力にとぼしいということであった。
仏像に対していると、彼は自らは語らず、私にのみ多くを語らせようと欲する。
私は自分の生存について、環境について、苦悩について、限りなく彼に訴え問うことが出来るが、仏像の表情は何事も答えない。半眼をみひらいたこのものは、人をみているのか、人の背後の漠々(ばくばく)たる空間をみているのか不分明である。人間を無視したような腹だたしいまでの沈黙が私を疎遠(そえん)にさせた。
~中略~
 奈良へ来てはじめてわかったことであるが、自分のこの感じは主として座像に関係していたようである。はじめどのような座像にも心をひかれなかった。殊(こと)に巨大であればあるほど。
わけても法隆寺金堂に佇立(ちょりつ)する百済観音は、仏像に対する自分の偏見を一挙にふきとばしてくれた。このみ仏の導きによって、私は一歩一歩多くの古仏にふれて行くことが出来たと云(い)ってもいい。
~中略~
仄暗い堂内に、その白味がかった体軀が焔(ほのお)のように真直ぐ立っているのをみた刹那(せつな)、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。
人間像というよりも人間塔―いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢(しし)にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらっすべてを通った彼岸の、イデアリスティックな体軀、人間の最も美しい夢と云っていいか。~中略~
 これを仰いでいると、遠く飛鳥(あすか)の世に、はじめて仏道にふれ信仰を求めようとした人々の清らかな直(す)ぐな憧憬(どうけい)を感じる。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P56

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2024/11/14
  • メディア: 文庫

法隆寺

薬師寺院堂聖観音

わたくしはきのう聖林寺の観音の写実的な確かさに感服したが、しかしこの像のまえにあるときには、聖林寺の観音何するものぞという気がする。
もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生とと同じではない。 一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。
芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。
~中略~
もし近代の結紮が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。

古寺巡礼
和辻 哲郎 (著)
岩波書店; 改版 (1979/3/16)
P171

古寺巡礼 (岩波文庫 青 144-1)

古寺巡礼 (岩波文庫 青 144-1)

  • 作者: 和辻 哲郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1979/03/16
  • メディア: 文庫

 

聖林寺


P141
 薬師寺はもと大和高市郡(たけちのこおり)岡本郷に草創された天武(てんむ)天皇勅願のみ寺であるが、その後、元明(げんめい)天皇平城遷都(せんと)さるるに伴い、いまの右京六条の地に移されたのだという。
金堂と講堂は、奈良朝以後屢々の災禍を蒙(こうむ)り、現存の御堂は後代の再建になるものだから、古(いにしえ)の結構はむろんうかがうことは出来ない。
しかし本尊と脇侍の三軀は、あらゆる災禍と風雨に耐えて、いまもなお白鳳の威容そのままに安置されてある。とくに本尊薬師如来は、白鳳期のみならずわが古仏のすべてを通して最高の傑作とさえいわるるみ仏である。
 荒廃した仄(ほの)暗い金堂の須弥壇(しゅみだん)上に、結跏趺坐(けっかふざ)する堂々八尺四寸の金銅座像であるが、私は何よりもまずその艶々(つやつや)した深い光沢に驚く。千二百年の歳月にも拘(かかわ)らず、たったいま降誕したばかりのような生々した光に輝いているのである。何処からこの光りが出てくるのであろう。
 ~中略~
 円満という言葉はこのみ仏を現出せしめたのであろうか。いままで我々は、彫刻の所謂(いわゆる)写実性によってのみこれを解せんとした。
だが前にも一度ふれたように、仏体における写実の「実」とは、仏自身であって、人間像への近接の度合によって推測されるべき事柄(ことがら)ではない。たとい近接してもこれを超えたところに、唯(ただ)ひとえにそこにみ仏の「実」が、即(すなわ)ち仏の仏たる所以(ゆえん)がある。
人間の願と仏の慈悲の相寄る刹那(せつな)であり、すでに記念の事に属する。かかる光のみ仏を現出せしめた祈念を私は歴史の上に辿ってみたい。
 前述のごとく薬師寺はもと天武天皇勅願の大寺である。日本書紀によれば天皇の九年冬十一月「癸未(みづのひつじ)、皇后体不予(みやまひ)したまふ。則(すなは)ち皇后の為(ため)に誓願(こひべが)ひて、初めて薬師寺を興(た)つ。仍(よ)りて一百の僧を度(いへで)せしめたまふ。
是(これ)に由りて安平(たひらぎ)たまふことを得たり」とある。
即ち皇后御病気平癒(へいゆ)を願って建立(こんりゅう)された寺であるが、忽(たちま)ち霊験(れいげん)あって皇后は御恢復(かいふく)になった。叡感のあまり薬匙三尊を鋳造されたと伝えられているのである。皇后は後の持統天皇である。
 然(しか)るに薬師三尊の鋪金(ほきん)未(いま)だ遂げぬうちに、朱鳥元年九月丙午(ひのえうま)、天武天皇は浄御原宮(きよみはらのみや)に崩御された。~中略~
しかし薬師寺の諸堂伽藍(がらん)の工が一応整ったのは次の文武(もんむ)天皇即位二年であり、造薬師寺司を置いて全く完備するには更に十年の歳月を要したのであるから、前後実に三十年に近き歳月を、三代の天皇が相継ぎ肝性に力をそそがれたのである。

P148
壬申の乱平定して八年の五月、皇后ならびに諸皇子を召して、久遠(くおん)の和を誓盟された有様が(住人注;日本書紀に)しるされてある。即ち、
~中略~
この一節によって、天武天皇が何を憂い、何を記念されたか、はっきり了知さるるのではなかろうか。「千歳の後に事無からむと欲す」と、久遠の和を念じ給い、各皇子盟約の後、自ら襟(えり)をお披(ひら)きになって皇子達を抱かれた。そのときの憂悩の深さを思うべきである。外においては、唐との外交、あるいは各群卿(ぐんけい)の統治と大化の改新の累積(るいせき)する諸問題を処理し給いつつ、内においては、血族の和をひたすら祈られたのであるが、上宮太子の御代より壬申の乱にいたる半世紀をかえりみるとき、実に衷心よりの念願だったと拝察される。
~中略~
 薬師三尊は、前記のごとく皇后全快を叡感されて造顕した勅願の仏体である。しかし、円(まろ)やかな相貌(そうぼう)と全軀にみなぎる深い光沢を仰ぐとき、天武天皇が生涯に(しょうがい)にわたって心奥に憧憬(どうけい)されたあの久遠の和の光輝を思わないわけにゆかない。
皇后の御病を縁として、信仰の一切がこのみ仏に念じこめられたのだと申してもいいのではなかろうか。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

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薬師寺

 

2026年4月30日木曜日

大和古寺の塔

 大和古寺には様々な塔がある。法隆寺の塔の持つ巍然(ぎぜん)たる威容は、上宮太子の御人格そのままと申していいほど立派なものである。
鳥仏師の釈迦(しゃか)三尊にみられるような、絶対帰依(きえ)に由(よ)る厳格さを偲(しの)んでもよかろう。
また法起寺と法輪寺の三重塔は飛鳥の小仏のごとく古僕(こぼく)で可憐な一面を持つ。二上山を背景に、中腹に立つ当麻寺の東西両塔の典雅な有様、あるいは室生寺(むろうじ)の大杉の間に立つ五重塔の華麗な姿も忘れられない。
しかし私は結局、薬師寺の東塔に最も関心するのである。~中略~ 西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇(どだん)と礎(いしずえ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている。
某という僧が定(じょう)に入って夢みた竜宮の塔を、うつつに現出したものといわれるが、かような様式はわが国にも唯(ただ)一つこの東塔あるのみ。
         ―昭和十七年秋―

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P160

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

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法隆寺
法起寺
法輪寺
當麻寺
室生寺
薬師寺

唐招提寺

法隆寺や薬師寺や東大寺に比べると格式もちがうし由緒(ゆいしょ)も深いとはいえない。しかし唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置のかもしだす。整然たる調和の美しさであって、私はそれをみたいためにやってくるのだ。
奈良朝の建築の精華はここにほぼ完ぺきな姿で残っていると云(い)ってもよかろう。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P163

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

大和古寺風物誌―写真版 (1953年) (創元選書)

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唐招提寺

東大寺

P176
 天平の美は、正倉院御物と万葉集と仏教美術によって代表されることは周知のところであろうが、とくにこのみ代の仏教を語るものにとっては、聖武天皇ならびに光明皇后の御名は、忘れ難いであろう。東大寺―わけても今日「奈良の大仏」として親しまれている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)鋳造や、法華滅罪時の建立は御二方の名を不朽ならしめた。
御二方なくしては天平仏教の開花はありえなかったであろう。何故かくも信仰が深かったのだろうか―。
~中略~
すでに仏教はわが国の上層にあまねく行きわたり、また唐との交通も益々繁(しげ)くなったので、優秀な僧侶(そうりょ)や博士やその他様々の専門家が渡来し、皇室に重用されたことはここに一々挙げるまでもない。
とくに隣邦僧侶の、芸文あるいは政治経済にも及ぶ指導力はこの時代一層つよいものがあった。聖武天皇が幼少の頃より、未曽有(みぞう)の「文明開化」の影響のもとに生育されたことは申すまでもなかろう。
 しかし御信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断ずるのは不当である。まことの信仰は、必ず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。 あの豪華荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにはゆかない。
天皇の御生涯(しょうがい)を偲ぶとき、私は一層その感を深くする。小野老朝臣(おののおゆあそん)が「あをによし寧楽(なら)の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠じたように、天平のみ代はたしかに稀有()けう)の黄金時代であったろう。
飛鳥白鳳(あすかはくほう)を通じて興隆し来(きた)った文化の、更なる昂揚(こうよう)があったであろう。だがそういう開花の根底には、必ずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。
 私は日本書紀や続日本紀を読みつつ、後代より慕わるる美しい時代が、その底につねに暗澹(あんたん)とした苦悩を、悪徳の深淵を湛(たた)えているのをみて驚く。
平和とはそもそも何だろう。平和とは内攻した地の創造の日々である。対外的には静謐(せいひつ)であろうと、一歩国内の深部に眼をむけると、そこには相変わらぬ氏族の嫉視と陰謀と争闘があり、煩悩(ぼんのう)にまみれた人間の呻吟(しんぎん)がある。ひそかに流された血のいかに多いことであるか。歴史は私に平和の何ものであるかを教えた。飛鳥のみ代がそうであったし、天平といえどもこの例に洩(も)れない。
そして激烈な信仰や美しい詩歌(しいか)や絢爛(けんらん)たる美術は、すべてこの暗黒を土壌として生育しているようである。

P180
その他日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や掠奪(りゃくだつ)も多く、人心不安だったことがうかがわれる。~中略~
要するに天平時代は、今日考えられているような平穏の日ではなかった。仏陀(ぶっだ)の教えを真に学び信じた者は、当時の一部上層の人々に限られ、一般国民には未だその感化及ばなかったのである。聖武天皇の御念願はそういう事情から発せられたのである。
私は徒に天平の暗黒面を指摘しているのではない。かかる暗黒の裡(うち)にこそ信仰の光りは輝き出(い)ずるのであり、聖武天皇と光明皇后の信仰も、泥中(でいちゅう)の蓮華(れんげ)のごとく咲き出でたのである。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/04/23
  • メディア: 文庫

東大寺

比叡山

 叡山というのは、ゆらい、政治的現象に敏感でありすぎたようである。すくなくとも、越前永平寺にくらべればこれはわかる。
中世末期までの宮廷政治の裏面にはかならず叡山の黒い影がみられた。そうした延暦寺の政治への過敏さに対して総決算を強いた人災は、元亀二年の織田信長の延暦寺焼討であったように思われる。
 信長という人物が日本歴史に果たした役割は、なんといっても中世の体系と中世的な迷妄を打破して歴史を近世に導いたところにあったろう。
この人物は、不条理や不可知なるものを並はずれて憎悪した。その点ではあるいは異常性格者であったかもしれない。
彼は叡山が、仏法の精舎たることをわすれて武力を貯え政争に容かいする不条理を憎み、火を放ち衆徒を殴殺して地上から延暦寺のすべてを抹殺することを考えかつ実行した。
この時以来、叡山は半ば衰退し、そのまま数世紀を経てこんにちに至っている。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P104

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

延暦寺