2026年1月5日月曜日

神と仏の共存と神仏分離

 私は、真言密教の日本の思想に対するもっとも大きな影響は、真言密教によって神と仏が一体となったことであると思う。
六世紀半ばに移入された仏教は従来の日本の神道とトラブルを起こし、その結果、蘇我・物部の戦いという宗教戦争が起こり、戦争は蘇我側、仏教側の完全な勝利に終わったが、神と仏との関係はその後も多生ぎくしゃくしていた。
しかし東大寺建造にあたって、応神天皇を主神として祀る宇佐八幡が宇佐から上京し、天神地祇(ちぎ)を代表して東大寺建造を祝福して以来、神と仏の新しい蜜月関係が生まれたのである。

 この蜜月時代は空海の真言密教によって決定的となる。東寺の境内にある鎮守八幡宮は平城一派の人々の怨霊の鎮魂のために空海が建てたものとされるが、そこに空海が造ったという僧形八幡神像がある。僧形八幡神像というのは宇佐八幡の主神、応神天皇が僧形になったものであり、これほど神と仏の合体を明らかに示すものはない。
~中略~

密教寺院には金銅仏などはなく、ほとんどすべて木彫仏である。日本人にとって木はもともと神を宿すものであり、仏像が木で造られることによって神と仏はまさに一体化したといってよい。そして日本人にとって神は異形の姿をしていると考えられ、異形の行基仏や密教の仏などは神に近いものと考えられたのであろう。

 神と仏はこのように空海以来、多生の屈折があるものの、仲よく共存していたが、明治維新政府は神仏分離、廃仏毀釈の政策をとることによって神と仏を分離し、仏を廃棄してしまった。
この政策の影響は今なお根強く残っていて、現在でも仏教は公教育から締め出され、一木一草の中に神仏をみるという、千年の間、日本人の心性を培った信仰は失われてしまった。

 現在、日本人の精神の空白がしきりにささやかれるが、空白を回復するには神仏分離、廃仏毀釈の政策を深く反省し、神と仏の融合を図った空海の思想を復活させねばならないであろう。

梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P57

梅原猛、日本仏教をゆく

梅原猛、日本仏教をゆく

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2004/07/16
  • メディア: 単行本

P59
 神仏習合と言いますが、神さんと仏さんが仲良くなったのは、奈良時代の終りからです。詳しい話をすると大変に面白いんですが、役行者で始められた神仏習合の信仰が確立されたのは白山信仰によってです。
越前と加賀と飛騨の間に白山という山があります。その信仰をつくり出した泰澄という人が神仏習合に大きな役割を果たしました。
白山は雪をかぶった白い山でしょう。雪が溶けて田植えができる。稲作農民にとって、水を供給してくれる白山ほどありがたい山はない。白山信仰は、日本の稲作農民の信仰になった。白山は神の山であり、仏の山でもあるという信仰ですが、その白山の主峰の本地仏は十一面観音です。
 十一面観音は、左手に水瓶を持っている。だから水の神さまです。この水の仏の信仰によって日本の農民に仏教が定着したんです。その白山信仰を始めたのが泰澄ですが、行基は泰澄から神仏習合の思想を学んだ。
 行基のほうが泰澄より年上です。行基は、泰澄の白山信仰を受け継いで新しい神仏習合をつくりだした。それが八幡信仰です。

P61
神さんと仏さんはずっと仲よくやってきたんです。
 それをいけないと言ったのは、国学の中の、特に平田神道です。国学でも賀茂真淵や本居宣長は仏教をそんなに排斥していません。
ところが、平田篤胤という人はエキセントリックな人で、神さんと仏さんが仲よくすることに反対した。
 その平田神道が明治維新の思想的原動力になりました。
その結果、明治政府の中に水戸学者や平田神道系国学者が入りました。彼らが行ったのが廃仏毀釈、神仏分離です。
~中略~

天皇は明治以前は仏教の信者でした。天皇になれない皇子は、門跡寺院の門跡になられた。青蓮院とか、三千院とか、たくさんの門跡寺院があるでしょう。
 ところが、明治政府は天皇家から仏教を奪ってしまった。そうして、天皇家を自分たちの祖先を崇拝する新しい神道の信者とした。しかし、第二次大戦に敗れて、その国家神もマッカーサー指令によって廃止された。
 だから、今の天皇家は無神論。そんな国は世界中にないですよ。京都の泉涌寺は天皇家の祖先の墓があるところです。今の天皇はよく泉涌寺へ参られますが、しかし、自分は仏教信者だとは言えない。やはり廃仏毀釈は続いていると私は思うんです。

 もうひとつ重要なのは、仏教の道徳が学校教育から追い出されたことです。千年以上の間、日本人の心を養ってきた仏教の道徳が公教育から締め出されてしまった。教育勅語には仏教の道徳はほとんど入っていません。
~中略~

  国を愛することはいいことです。私は自分は日本人の誰よりも愛国者だと思っています。
私が日本のことを研究したのは、日本が好きだからです。けれども、明治の国家主義が日本の伝統とは思えない。あれは明治にできた新しい考え方です。
 ところが、そういう修身道徳も、戦後、マッカーサー指令によって禁止されました。そうすると道徳がなくなってしまうんですね。世界的に見て、今の日本ほど無神論の国はないと思います。~略~
 国民も廃仏毀釈で神と仏を殺してしまった。宗教もない。道徳もない。仏教は檀家制という形で残っているけれど、だからといって日本人が仏教を信じているわけではない。神道も信じてない。キリスト教の人は神を信じているかもしれませんが、おおかたの日本人は無神論だということになる。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)

 

梅原猛の授業 仏になろう

梅原猛の授業 仏になろう

  • 作者: 梅原 猛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2023/11/24
  • メディア: 単行本

 

 

 俊政(住人注;求菩提山座主延寿王院俊政(三好久弥麿))が座主拝任をして(住人注;本山聖護院より)帰国後の二年目には、廃仏毀釈となった。
慶応四年(明治元年)である。座主二〇歳、奥方美也一四歳のときで、一山は元老山伏たちの評儀が毎日のように続き、いよいよ四月一一日廃仏毀釈が決行された。
 月次記録に「講堂鰐口取除事、仏像仏器御除事」、
また諸記録に、
「上宮中宮鰐口弐面并仏像仏器経巻取除多宝塔ヱ相囲戸并〆仕候」
とある。ところが明治一二年の宝物古器物古文書取調帳には、
「維新御改革廃仏の当時紛失に付詮索中に御座候」
とあり、多くのものが盗難に会ったように記述されているが、持ち出したものも多かったのであろう。
 明治の改変といったものは、これこそ大変なものであった。座主を始め、山伏たちは還俗して、普通の人の名前に改めなければならなかった。座主は、三好久弥麿と改めた。三好を名のったのは、初代座主の道達の祖が三好を名のっていたからである。
 山伏たちは改名にあたって、自ら思い思いの名前をつけた。第一回目の届出をみると、ほとんどの人が、日本国中の国名を自分の名につけた。陸奥、長門、大和、土佐、日向などであったが、これは許可にならず、次は武士名をつけた。そして明治五年修験道禁止令を受け、一山はますます深刻な立場となった。
 したがって、これまでの山伏たちは生活に当惑した。生活の方途として、これまでの檀家に改新した神社の大麻を配布したり、売薬を業とするものなどあった。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P80

 

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2023/11/24
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
 

DSC_6185 (Small).JPG臼杵石仏ホキ石仏

  ただ一つの仮説を提出してみよう。まず最初の問いである。なぜに不動明王は、それほどもまでに日本において崇拝されたか。
その理由をとく鍵は、日本における修験道の発展であろう。役小角に始まるといわれる修験道は、日本固有の山岳信仰と密教的な呪法を結びつけたものであった。この修験道でもっとも崇拝された仏は、他ならぬ不動明王だったのである。歌舞伎の「勧進帳」に出てくる山伏の姿を、弁慶は「不動明王の尊容を象(かたど)り」という。
一体、このように神道が仏教と結びつくとき、なぜ、不動明王のような怒れる神の像が選ばれるのであるか。
上田正昭氏は、この理由として日本における「荒ぶる神」の崇拝をあげられる。スサノオ命以来、日本では荒ぶる神の信仰が盛んである。荒ぶる神に祈って、その力を利用しようとする考えが、仏教と結びつき、不動崇拝を生み出したのではないかといわれる。
 この上田氏の仮説は大変興味深い。私はこの仮説にもう一つの仮説を加えよう。
火に対する日本人の並々ならぬ趣向が、火の神としての不動明王を数ある仏の中から、もっとも神と習合しやすいほとけとして選び出さしたものではないか。柴燈護摩といわれる修験道の行事は、実はサイ(遮る)の神のゴマという意味であり、境の地にあって火をたいて悪魔が入って来るのをこばむサイト焚きといわれる行事が、修験道にとりいれられたのであるといわれる。
夜、炎々と燃える火のイメージ、私は日本人は特にこのような火のイメージに狂的な感動を覚えた民族ではないかと思う。この火に対する趣向が怒りの神不動に特別な愛着をもたらしたものではないか。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P97

 

続 仏像―心とかたち (NHKブックス 30)

続 仏像―心とかたち (NHKブックス 30)

  • 作者: 望月 信成
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2023/11/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 

 そして、仏教は、日本の固有信仰のさまざまなかたち(とりあえずは、それらを総称して「神道」とよぶ)を、「仏教」の枠内に取り込もうとしたのであって、もともと対立的なものではなかった。
すでに八世紀には宇佐八幡(神道)が東大寺大仏建立(仏教)についての託宣をもたらしている。そして、後に東大寺が大仏建立に協力した宇佐八幡の神を勧請して鎮守(手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう))ともしている。
これを神仏混淆というなら、わが国の宗教は最初から神仏混淆であったというしかない。
極論すれば、悪名高い明治の神仏分離令(一八六八年)に至るまで、神仏はともに親しく拝まれてきたのであり、それを受け入れる柔軟な(そして寛容な)知性こそが、この国の宗教をかたちづくってきたのではないかと思う。
 われわれは神仏分離令以後の百五十年間において、行政による信仰への介入、つまり、神社合祀(一九〇六年)や神道指令(一九四五年)など、日本の宗教の本質部分を解体しようとする試みによって、次々と精神的拠りどころを奪い去られてきた。
自然を愛し、神も仏も同じように(宗派や教義にとらわれず)信じ、つねに祖先とともにあるようなおおらかな宗教風土はいまや絶滅寸前であるもといえよう。
 そんなときに「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは、とても偶然とは思えない。
それは熊野を中心としたネットワークをもとにして、日本の宗教を見直す機会が与えられたことだと理解してよいのではなかろうか。
日本中を旅すると、この列島にはかつての宗教風土がそのまま残されているところをいまだ無数に見出すことができる。
九州の阿蘇、国東半島、出雲地方、四国の八十八ヵ所めぐり、六甲山地、奈良の長谷寺、室生寺周辺、奥三河、日光、湯殿山をはじめとする出羽三山などには、かつての信仰の跡が数多く見出される。
そこでは、外来の仏教が土着の神祇(じんぎ)信仰となだらかに一体化していった過程がしばしばみてとれる。
実際には、神道から仏教へという変化は、一方を他方が凌駕したというわけではなく、共同体の祭祀に支えられた従来の神祇信仰から私的所有を根本とする氏族社会へと移行するにしたがって、仏教に精神的支柱を求める傾向が強くなったということにすぎない。
六世紀頃から両者の融和が促進されていったわけだが、そうやって、興福寺は春日大社を、延暦寺は日吉(ひよし)(日吉(ひえ))大社を、金剛峯寺は丹生都比売神社を、東寺は伏見稲荷を鎮守としてもつようになったのである。さらに、長谷寺はその奥の院として瀧倉(たきのくら)社をもつし、室生寺は背後に鎮座する室生龍穴神社なしには存在しえなかったのである。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P26

 

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書
求菩提山 福岡県

教育基本法第九条

梅原 学校の問題もあるな。今の教育に一番欠けているのは道徳教育です。
道徳の元になっているのは宗教ですよ。ところが、今の学校教育は宗教を排除していますね。
梅原猛

玄侑 確かに、各宗教のエッセンスだけでも、学校で教えてもらわないと困りますね。
教育基本法をよく読むと、宗教が完全に排除されているのではなくて、「特定の宗教を生徒に勧めてはいけない」ということなんですけど、先生もいろいろな非難が怖くて、宗教には触らないでおこうというのが実態ですね。「お寺の前では合唱して、神社では拍手を打つんですよ」と教えただけで、訴えられてクビになった人もいますから。

だけど実際には、教育基本法第九条に「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は,教育上これを尊重しなければならない」という条文もあるんですよね。
この寛容さというのも、各宗教を知らなくては培われません。

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P168

多生の縁 玄侑宗久対談集

多生の縁 玄侑宗久対談集

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2004/03/24
  • メディア: 単行本

 

佐賀県 祐徳稲荷神社

手をあわせる

 神社仏閣やお墓参りで、あるいは家の仏壇や神棚の前で、私たちは幼い頃から見よう見まねで、折に触れ、手をあわせてきました。また、昇る朝日に合掌するのも、先祖から受け継いできた昔ながらの習慣です。お天道様(太陽)の恵みを身にしみて感じていた先祖たちは、「ありがたい」という気持ちから自然に手をあわせてきたのでしょう。
 日本人にあまりにもなじんだ、この手をあわせるという行為には、実は深い意味があります。
右手は仏様や自分以外の人を、左手は自分自身を表します。合掌とは、両者をひとつにあわせることを意味するのです。
 神仏に手をあわせる時は、尊い存在と自分がひとつになるように、お墓や仏壇ではご先祖様に寄り添うように・・・・・。そうやって、私たちは感謝と祈りを届けていたのですね。
 この美しい習慣を見直してみましょう。
 朝は、「今日も一日、元気に過ごせますように」と祈りを込めて、夜寝る時は一日の無事に感謝して、そして食事の前後には「いただきます」「ごちそうさまでした」と、命をくれた食材や作ってくれた人への御礼とともに、力まず、恥ずかしがらず、自然な気持ちで手をあわせてみてください。
 ざわざわしていた心がチューニングされ、静かになっていくのを感じるでしょう。
 もし仏壇が家にあれば、どうぞその前に座って、ご先祖様にお線香を上げてから合掌してください。もし家に仏壇がない場合は、その場で心を込めて手をあわせる。それだけで十分です。
 それでも、心の拠り所となる場所があれば、こんなに心強いことはありません。

怒らない 禅の作法
枡野 俊明 (著)
河出書房新社 (2016/4/6)
P118

 

怒らない 禅の作法 怒らない禅の作法 (河出文庫)

怒らない 禅の作法 怒らない禅の作法 (河出文庫)

  • 作者: 枡野俊明
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/04/22
  • メディア: Kindle版
京都府 貴船神社

神道の聖域

P60
 もともと聖域のシンボルとして以下のような区分けが考えられる。(上田正昭「神道の聖域」「仏教」no.32(特集=聖域)、法蔵館、一九九五年、三八頁。)
①神籬(ひもろぎ)
②磐座(いわくら)
③磐境(いわさか)
④神奈備(かんなび)
⑤杜(もり)(神社)

 もちろん、①から⑤へと進化していくことになるわけだが、それらのいくつかは同時に存在することもある。以下、簡単に説明を加えてみよう。
神籬は「神事をとりおこなう際、臨時に神を招請するため、室内や庭に立てた榊(さかき)。しめ縄を張って神聖なところとする。
古くは、祭りなどの際に、周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて紳座とした場所」を指している(大辞林(第二版)三省堂、一九九五年、二一九三頁)。
磐座はそこが聖域であることを示す特別な石または石組みのことであり、磐境はその規模が大きくなったもので、特に大きな石組によって特徴づけられる。
神奈備は神座(かみくら)の山や丘を指す。杜(もり)についてはご存知のとおり。そこには祀る側の 人間の意思が反映されることになる。
 それらの場所において、古来、人びとは祈りを捧げ、祭事を執り行ってきた。しかし、そもそもは何もないところに結界を作って神を下すのが祭事の始まりであって、磐座はそのための目印だったのではないかと思われる。
後になって目印そのものをご神体としたり、そこに社殿をつくって特別な礼拝所として、人びとが恒常的に祈りを捧げる場所としたのであろう。
 祭場の推移を示唆する遺跡については、福岡県宗像郡沖ノ島の祭祀遺跡などいくつか知られているが、簡単にいうと、山中の巨岩(磐座)そのものへの信仰から、次第に祭場が分離して、困難な岩場から通りやすい平地へと場所を移してきた経緯が読みとれよう。
カミ観念の発展と祀り場の変遷との間には密接な相関関係がある。このことは沖ノ島の祭祀遺跡の場合のみならず、かなり広範囲にみられる現象であり、たとえば、奈良県天川村の山上ヶ岳(一七一九メートル。大峯山または金峯山と呼ばれることもある)の山頂祭祀によって形成された遺跡の場合にも当てはまる。

P64
もともとは「竜ノ口」という岩裂が信仰の対象となっており、そこで祭祀が執り行われていたのだが、そこの社が作られるとともに護摩壇が置かれ、時を経るにしたがい、行場としての性格を確立していったわけである。崇拝対象が「竜ノ口」から蔵王権現に移るとともに、いよいよ山上蔵王堂が拡張されていく。
時枝務は、それについて、以下のように述べている。「蔵王権現が顕在化した一一世紀が大峰山の山岳宗教にとって大きな画期であったことはまちがいない。蔵王権現が修験道独自の神格であり、その崇拝者が修験者であると考えてよいとすれば、一一世紀こそは修験道が成立して時期と判断できるのである(時枝務 「修験道の考古学的研究」 雄山閣、二〇〇五年、二九頁)」。

 

P130
 聖地には、たしかに神が降臨したと思われる場所と、人が一方的に神との交流を求めようとして設営した場所とがある。
それらが一緒くたにされていることが問題なのである。そうはいっても、ここでお断りしておかなければならないが、後者がまったく無意味だというわけではない。
人びとが集まり祈りを捧げる場所は、それでもなお「神を現出させる」ことがあるからである。多くの人びとが集まり祈りを捧げることによってそこが特別な場所へと変化するといった例も少なくない。
むしろ逆に、手つかずの自然に神が宿ることなどけっしてありえないのである。人跡未踏の地に神の姿を見つけることはできない。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 

奈良県; 山上ヶ岳;

福岡県宗像市 宗像大社 沖津宮 遙拝所

なぜ祈る

P84
貴人に向かってはいえないような義に反した言い方で「もしも願いが成就したなら、鳥居を寄進し、社の修復をさせていただきます」と祈願したら、受け入れるかどうか躊躇(ちゅうちょ)する浅ましい神が存在するだろうか。
そういう神はいないと高をくくって非礼なものを奉納し、神を冒瀆(ぼうとく)すれば、いつか神罰を受けるだろう。恐ろしいことだ。「心さえ人としての真(まこと)の道に適っているなら、祈らなくても神が守ってくれる」という意味の北野神社の御神詠(ごしんえい)(心だに まことの道に かなひなば祈らずとても 神やまもらん)もある。
 中国に目を転じても、孔子が重病になったとき、弟子の子路(しろ)が祈禱を打診すると、孔子は「私は、自分の行いを正すために普段からずっと祈っている。だから、病気になったからといって改めて祈ったりしない」(丘(きゅう)の禱(いの)ること久し)と答えたと「論語」(術而(じゅつじ)篇)は記している。
 ※丘(きゅう)の禱(いの)ること久し 孔子の病気が重篤になった。子路は、祈禱をなさいませんかと請うた。
孔子は、「そういう先例があるのか」と尋ねた。「「誄(るい)という昔の詞に天地の神々に祈るとあります」と子路が答えると、孔子は「私は、自分の行いを正すためにずっと祈ってきた。だから、病気のことで祈りたいとは思わない」と答えた。
(子疾(やまい)病(へい)す。子路禱(いの)らんことを請ふ。子曰く、諸(これ)有りや。子路對(こた)へて曰く、之れ有り。誄(るい)に曰く、爾(なんじ)を上下(しょうか)の神秖に禱ると。子曰く、丘の禱ること久し)

P85
礼を欠き義に背く賄賂(わいろ)を、わが国の神々が歓迎するはずもない。神は清浄潔白の源ともいうべき存在なので、神明(しんめい)というのである。
およそ神を信仰するのは、心を清浄にするためだ。ところが、礼に反し義に背くさまざまな願いを胸に抱いて、朝に晩にと神社へ足をはこび、さまざまな賄賂の手段を弄して神に祈る。不浄な思惑で神の清浄を穢(けが)す者がいたら、それこそ紛れもない罪人で、神罰を受けるのがふさわしい。

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)

  • 出版社/メーカー: 致知出版社
  • 発売日: 2016/09/29
  • メディア: 単行本

  

京都府 伏見稲荷

巫女

P178
 本物の巫女は、欺瞞でなしに特異な精神状態におちいる。

神が憑くと、すわったまま信じがたいほどの高さまで跳躍する。その間、戦慄があり、恍惚がある。また無意識の狂舞がある。そういう状態のなかから、憑依(ひょうい)した神霊の言葉を吐くのだが、どこか、女性に多いヒステリー状態と似ているせいか、巫女は女に多い。
 周知のように、巫女とそれらにちなむ宗教現象をシャーマニズムという。古アジア一般の原始信仰で、どうやら発生地はシベリアではないかという説が一般的である。ともかくも、シャーマニズムの系譜は、北の方の寒い土地からきた。エスキモーからツングース、モンゴル、朝鮮、さらに南下して海にうかぶ日本にいたる。
三世紀の卑弥呼もシャーマンであったとしていいし、いまなお日本の新興宗教の教祖にシャーマンが少なくない。
 韓国ではいまでもシャーマン(男女を問わない。ふつう巫堂(ムーダン)という)が多い。呪具をいくつか持っているが、太鼓もそのひとつである。先日、梨花女子大学の李御寧(イ・オリョン)教授に会ったとき、韓国南部のどこかの島に本物の―原始的な―シャーマンが残っているから会いに行ったらどうかという勧めをうけた。そのとき、この比較文化論の俊英は、つぶやくように、
 ―遠くシベリアで発祥したシャーマニズムが、いまなお韓国の島にのこっているのです。
 と、やや感動をこめていわれた。
 シベリアのシャーマンについては、ロシアの学者や探検家の著作によらねばならない。
たとえば、ヤクート族(いまは東シベリアのヤクート共和国を構成する)のシャーマンは十九世紀の探検家が書いた絵によると、烈しく踊りつつ太鼓をたかくかざし、乱打している。
 モンゴルのシャーマンも太鼓をつかうが、ヤクート族や韓国の太鼓のように大きくはなく、小鼓のようなかたちをしている。~中略~
日本の東北地方では、巫女のことをイチコという。モンゴル語では巫人(イテイガン)という。まさか関連性はないとももうが、いずれにしても、日本の基層文化の一部に、発酵食品にせよ、シャーマニズムにせよ、シベリア圏にまでおよぶ古アジアの民俗をふくんでいることをわすれるべきではない。

P181
 仏教は奈良朝のころに形をととのえるのだが、固有の信仰は巌(いわお)の下の木賊(とくさ)かなにかのように、地下茎をはびこらせつつ生き残った。
 固有の信仰のなかでも、神社の形をとったものは、幸せだった。 神社は仏教と習合することで、むしろ官によって保護された。神社とおなじ根をもつものに、巫女があるが、これはつねに野(や)にあって独行した。多くの巫女たちは旅をつづけたから、歩き巫女などともいわれた。
 巫女は、みずから神がかったり、他者に神を憑かせたりする。彼女たちは一般社会から怖れられることがあっても、「決して親しまれたり、愛されたりっしてはいなかった」(中山太郎著「日本巫女史」)。
つまり怪性(けしょう)に近い存在。ときにわざわいをなすかもしれない超能力者。あるいはこれとうかつに睦んだりすれば、病毒を感染(うつ)されるおそれのある者。
 この巫女こそ、古アジアのシャーマニズムと同根のものであり、日本におけるその末裔だったといっていい。
~中略~
 奈良朝あたりから、有力な神社は仏教の伽藍なみに社殿をもち、神官も官人に似た容儀で身をかためるようになった。同時にシャーマニズムがもつあらあらしさや妖異な感じをうしなった。
そのぶんは、野(や)における巫女がになうのである。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

ロシアについて 北方の原形 (文春文庫)

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版

佐賀県 祐徳稲荷神社

2025年12月27日土曜日

人間のすることだから

[7] 人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき(住人注;安元三年の大火災)京中の家をつくるとて、宝費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍(はべ)る。

方丈記 現代語訳付き
鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳)
角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)
P19

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/09/12
  • メディア: Kindle版

 感情と思考は拮抗する心理機能です。感情は基本的には快・不快にもとづく判断機能です。一方、思考は拮抗する心理機能です。
感情型の人と思考型の人の論争は、話し合いが決裂して結論が出ないことが多いのはこのためです。男女のもめごとや親子の言い争いに、この対立が多く見られます。
 例をあげましょう。以下は感情型の女性と思考型の男性の会話です。
~中略~
男性は論理的に説明しようとし、女性はそのことを感情的に受けつけていません。~中略~
一方、男性の方は、説明しようとすれば、どうしても論理的・思考的になっていまいます。論理的・思考的になると感情が無視されてしまい、論理でものごとを推し進めようとします。近代社会は感情よりも論理のほうを大切にしがちで、とくに社会生活では、論理的に指示されるといやでも従うことも多いでしょう。

プロカウンセラーの聞く技術
東山 紘久 (著)
創元社 (2000/09)
P170

プロカウンセラーの聞く技術

プロカウンセラーの聞く技術

  • 作者: 東山紘久
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2015/04/01
  • メディア: Kindle版

 父は人生を振り返って、一番大切な教えをこう考えているそうです。「自分に対しては真面目すぎず、他人に対しては厳しすぎないこと」。
自分や他人の間違いにもっと寛容で、失敗も学習プロセスの一環だと思えればよかった、と。いまの父ならわかるのです。過ちを犯しても、大地が揺らぐことなど滅多にないのだと。~中略~ 人生に起きることのほとんど、とくに失敗は、そのときの自分が思っているほど大したことではない―この点を何度も思い知ることになったと言います。

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
ティナ・シーリグ (著), Tina Seelig (原著), 高遠 裕子 (翻訳)
CCCメディアハウス (2010/3/10)
P212

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2010/03/10
  • メディア: ハードカバー

 昔の日本は功成り名を遂げた人物に「ダメなところ」があるのを受け入れる社会でした。
たとえば政治家や大物俳優が愛人を囲っているぐらいのことは、とくに問題視されなかったでしょう。
無頼派の芸能人やスポーツ選手が暴言を吐いてもバッシングされることはなく、むしろ世間は喜んで拍手喝采していたぐらいではないかと思います。
 しかし、今の社会は小さな欠点も見逃しません。たとえば大相撲の世界では、横綱の白鵬が審判の判定に対して「緊張感を持ってやってほしい」とクレームをつけたことで、「品格がない」などとバッシングされ、謝罪させられました。
~中略~
他の分野でも、その才能によって評価される立場の人物が人間的にもパーフェクトを求められる傾向はあるでしょう。浮気や暴言など、小さな不良行為が見咎(みとが)められて大騒動になることもしばしばです。「スキャンダル」のハードルは、昔よりもはるかに低くなった印象があります。
 そういうスキャンダルで大騒ぎしているメディアや受け手も、本音の部分では「そりゃあ、あれだけイケメンなら浮気ぐらいするよね」と思っているに違いありません。でも、そういう声は表には出てこない。これも日本が「建前社会」になっていることの表れのように思えてなりません。
 さらに問題なのは、行動に表れない心の中までパーフェクトを求める風潮が強まっていることです。
 人間は誰でも内心に邪悪さや欲望を抱えているので、誰かにイヤなことをされて頭に来れば、先ほどの話のように「あいつをブッ殺してやりた」とか「死ねばいいのに」などと思うこともあるでしょう。
それを本当に行動に移してはいけませんが、心の中で思うだけなら何の問題もありません。学校の教師が淫らなことをしたいという願望を持っていたとしても、実行しなければいい。
そういう「ダメなところ」も含めてその人の自己が成り立っているのですから、「そんなことを考えるだけでも許せない」と否定されてしまったのでは、心の安定は保てません。

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹 (著)
青春出版社 (2015/4/16)
P133

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者: 和田 秀樹
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書

P460
 まえの月の正月十二日、慶喜が京から逃げ帰って以来というもの、旗本屋敷では奉公人の整理をしはじめた。若党、中間(ちゅうげん)、その他雑役の下僕を解雇した。
いざいくさとなれば人手は何人あっても足りるということはなく、そういう奉公人も弾はこびや兵糧はこびに大いに役だつであろう。またそういう有事に役立たせるために人数を養い、それを養うために禄というものを世襲してきている。ところがいざ徳川家の危難というこのときになってかれらがどんどん人減らしをしてゆくというのはどういうことであろう。
 戦意がないからである。
(これが、江戸を滅亡させた)
 ともいえぬことはない。継之助は非戦論者であったが、かといって武士の腰がぬけてはならず、ぬけることについては憎悪以上のものを感じている。

P462
質屋どもは早晩江戸総攻撃がはじまって江戸が戦火に焼かれることを予想し、質草をとらないのだ、と継之助はいうのである。質草をとっても焼けてしまうだけであろう。それより金銀で持っていればまちがいないと思うのであろう。
~中略~
「そう。質屋といえども江戸っ子であるはずだが、その前に人間だ。女房も子もあるだろうし、とにかく生きて生活している。かれらが蔵止めをして金銀をひとに渡さないのは生きるがためだ。世の中はそういうことで動いていることを知らねばならない」

峠 (中巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (2003/10)

峠(中) (新潮文庫)

峠(中) (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/10/25
  • メディア: 文庫
北九州市門司区柄杓田

禅の世界

  ある日のこと釈迦牟尼仏が、聴衆が多数に集まっている中央の説法の座についた。
大衆は今日もありがたいお話が聞けるものと思い、緊張して釈尊の口許を見守っていた。釈尊は一言も発せず、会座の前に供えてあった一枝の花を取り、目の高さにもち上げて、二本の指でその花を何遍か拈った。
だれもそれが何の意味を示すか全然理解しなかったが、迦葉(かしょう)尊者はやがてにこっと微笑した。拈華微笑(ねんげみしょう)という。
その微笑を見た釈尊はすかさず、「今わたしが考えているこの法門を汝に付属する」といった時に、禅が釈尊から迦葉に伝わったものなのである。
これは文字通り以心伝心で、相互の心の触れ合いだけで重大な取り引きが行なわれ、言葉や文字などは一切使用しなかった。それで禅宗では、
 不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏
といい、経典とか解釈とかいうものを少しも重視せず、これらの文献は月を指す指のようなもので、最初に月ははどこにあり、どれが月であるか全く知らない時は、「あれが月だ」と指さす指が必要であるが、一度真如の月を知った以上、指は重要性がないのと同じように、究寛の目的である宇宙の真理を知るのには経文や仏画や仏像もそれほど重要性がないと説くのである。
それで「不立文字」という。釈尊の説法によらず別に心と心との触れ合いで重大な取引が完成したから「教外別伝」といい、直接に心と心の取り引きがあるから「直指人心」という。
そして宗教的最後の目的である「見性成仏」に達成するのが、禅の根本的な考え方であって、仏教の各派の行き方や考え方と全然異なるものをもっているのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P179

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

(住人注;百丈)禅師が八十歳のとき、体調を案じた弟子たちが作務を休んでくれるよう老師に提言したが聞き入れてもらえず、そのため弟子たちは老師の作務の道具を隠してしまったらしい。
すると老師、三日も坐したまま食事もとらない。それで弟子が理由を訊ねると、「一日作(いちじつな)さざれば一日食わず」と答えたという。
 この話を浅く読むと、「働かざる者、食うべからず」と似たように受けとられる危険がある。
しかしこの言葉は、あくまでも自律的なものであるからこそ意味がある。
どんな労働も三昧になれば快感を引き出す器であり、因果一如の行為であってみれば、他人にとやかく言われる筋合いのことではない。だから食べることを労働の報酬と見る見方もおかしい。

作務も食事も、禅では等しく「仏作仏行」なのであり、「コレが駄目ならアレもあかんやろ」というのが老師の真意なのである。
そんなふうに受けとっていただきたいのだが、まあしかし、拗(す)ねて見せたという印象は拭えない可愛いエピソードではある。


禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P155

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

  • 作者: 玄侑宗久
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/08/02
  • メディア: Kindle版

P36
中国に入った大乗仏教は、そこまでまた多数の意見がとり入れられ、まさに百花済済といいますか、それこそインド以上に花開き、爛熟します。
しかしそれは、いわば学問仏教であって、実際は、真実の釈迦の教えから遠いものとなっていったのです。
 それを見て、これでは仏教の本質に違(たが)うじゃないか。仏教の本質は禅定思想ではあるまいか。自分のことは自分で解決するほかはない。他から聞いて解決できるものではないのだ―ということを説いたのが、いわゆる達磨大師であります。
 達磨大師はインドから中国へ、南周りで来ておりますが、そのことと、禅定思想を中国へ持ち込んだということを合せて考えてみますと、どうも達磨大師は小乗仏教徒の中から出たのでは丹日と思われます。
われわれは、禅は大乗仏教である、と申しておりますが、達磨大師そのものは、私見では、いわゆる実践的な小乗仏教徒の一員として、中国へやってきたのではないかと思われるのです。
 達磨大師は嵩山(すうざん)の少林寺という寺へ行かれて、俗にいう面壁九年、いわゆる壁に向かって九年間ひたすら坐し、何事も語らず、ただ瞑想のみの生活をつづけられたといいます。
 たまたま、二祖慧可(えか)というかたがお弟子となって、はじめて中国人の手に達磨の意志が伝わった。それが、禅の中国における最初の種落としでありました。

P41
昭和二十二、三年ごろ、アメリカのある婦人が、大徳寺の境内の庵に住み込んで禅の研究をしておりました。彼女は禅について本を書いたほど、それは熱心な研究家でしたが、しかし彼女は、クリスマスカードこそちゃんと毎年送ってくれるけれども、お正月の慶びのことばだけは一度もよこしたことがない。
つまり、私が見るに、彼女は確かに禅の研究に没頭してはおりましたが、実際にはキリスト教から少しも離れてはいなかったのです。
 というよりも、離れることができなかったに違いない、と思うのです。私は、宗教というものは、それほどのものだと思っています。
 ですから、禅がたとえ欧米でもいろいろとり上げられましても、それがはたして宗教として定着するかどうかということになりますと、私は大きな疑問をいだかなかざるをえません。
しかし、私はそれで少しもかまわないと思う。キリスト教徒がここへ来て、座禅を組み、たとえ十字を切ったとしても、それはそれでよいと思います。

P45
 私もまた、若いときからそのように(住人注;百丈のように作務ということ、つまり働くということを大切に)暮らしてきましたから、いまでも草むしりなどの作務が大好きです。実際、働いているときほど、何もかも忘れて無念無想になれるときはない。
ある意味では、座禅をしているときよりも心はからっぽです。しかし無念無想だからといって、何もしていないのではない。せっせと草はむしりとっているのです。
けれども、オレはこれだけ草をむしったとか、これだけ庭をきれいにした、とかの観念は少しもない。 ただ生えてくる草を無心でむしりとっているだけです。十分にその仕事を果たしていながら、少しもそれに拘泥(こうでい)していない姿、これが禅の行動というものです。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

  • 作者: 立花 大亀
  • 出版社/メーカー: 里文出版
  • 発売日: 2011/03/15
  • メディア: 単行本
北九州市門司区

個人主義vs家族主義

P76
近年、クリスマスに主婦が出席するパーティやクリスマス会の種類も変化している。第一次調査(住人注;1999年12月~2000年1月)では、子供のお稽古の会や地域の子どもクラブなど「子供」中心の催しへの同伴出席が多かったのだが、第二次調査調査(住人注;2004年12月~2005年1月)では「私の昔の仲間と」「私の友人家族と」「私のお稽古の会で」など大人同士のパーティや、たとえ子供連れであってもお酒持参で主婦が楽しめる大人中心のクリスマス会への出席が増えているのだ。その数はこの五年間に二倍以上になっている。
 現代の主婦たちは、行事を「家族のため」にして上げる人や「家のため」に執り行う人ではない。「私がやりたい人」あるいは「私も楽しみたい人」である。そして、自分自身がそれを楽しめるかどうかをとても大切にするように変わってきている。このことは、いつの間にか家庭で行われる年中行事や、そのやり方にまで大きな影響を与えつつある。

P77
 家庭の年中行事の盛衰も、主婦の「私」が楽しめるかどうか、「私」がやりたいと思えるかどうかで大きく動くものとなり、親が作っていた正月の煮物など「御節」が衰退してゆく一方で、節分の「恵方巻き」が急激に拡まったりするようにもなってきている。

P83
 そして、昔から決まっていることをやり続ける旧世代について、それがまるで理解し難い行動でもあるかのように語る。

P86
 古くからの伝承ごとでさえ、自分のセンスや好み、気分などで自由に変えられて当然だと考え、あらかじめ「決まってること」には強い抵抗を感じてしまう、それは今時の若者だけの特徴ではなく、既に親となっている今の主婦たちの特徴でもある。

 

P176
自分が嫌の事は主婦自身なかなか家族に合せられないのも事実だ。家族のさまざまなバラバラ現象も、近年の子どもや若者世代から始まったことではない。
 このように家族が家族である前に、まず個人として優先されるのは当然と親も考えているから、いま「家族一緒」は個々の都合が何もなかったときにだけ成立する事となってきている。だから「家族一緒」を志向する気持ちはあっても、いつの間にか家族一人ひとりの都合の後回しにされて、実際には叶わなくなってきているのだろう。

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓
岩村 暢子 (著)
新潮社 (2007/10)

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓

  • 作者: 岩村 暢子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2021/12/22
  • メディア: 単行本

 

島根県 熊野大社

シシ

  峰続きの隙間もない林から、緩傾斜の一角をかこい取って畠を開こうとするには、長い石垣を築きめぐらして、山からきたり侵す者を防止せねばならぬ。
紀州の南熊野、または豊後の日向の境の村などで見たものと構造が同じで、国頭においてはこれをイヌガキと呼んでいる。
狗(いぬ)は内にあって守る者、猪垣を狗垣というはずがない。これはなお昔の語の名残であって、かつては野猪を単にイ(ヰ)といった時代に、イの垣とよんでいたのが、意味なしに伝わったものだろう。
 今日では野猪はヤマシシというのであるが、これによってシシガキという語を作るにはまだ故障があった。
何となればシシは沖縄では、宍すなわち食用の獣の肉の総称であって、今のわれわれのようにただ一種の山の獣だけを、意味していないからである。
 内地の方でも田舎に行ってみると、シシが宍人部(ししひとべ)などの宍と、もと一つの語であったことがすぐに分かる。
たとえば鹿をカノシシといい、羚羊(かもしか)をアオシシ、カモシシまたはクラシシなどと言い、九州の島などには、牛を田ジシと呼ぶところさえもある。
ただ宍を食う習慣がつとに衰えたために、何ゆえに肉をもって獣の名とするかを、久しく忘れていたというだけである。
沖縄の方では引き続いて宍を用いていた。ゆえに山のシシすなわち野猪に対して、牛を田のシシと言ったのが最も自然である。
鹿を産するは慶良間群島の、座間味の島だけになってしまったが、カノシシの代わりにこれをコ(カ)ウノシシと呼んでいる。鹿の宍に一種の臭気があるためか、そうでなければその鳴き声によってついた名であろう。
 豚は一般にワと呼んでいる。チェンバレン氏の語典には、ローマ字でWwaと書き、鳴き声からきた名であることは、誰もこれを疑うものがない。
先島の人たちはWwoと言っている。そうして見るとイノシシのイも、その理由は同じように簡単で、われわれも一度はそのウィーウィーの声に耳馴れるまで、親しく接していたことが知れるのである。それを忘れてしまって山に住むのをイノシシ、家に飼うのをイノコなどと、区分したのはおかしかった。
もっとも沖縄でも、区別のために一方をワ、また他の一方にいるのを、イといった時代があったかも知れぬ、前に申したイノガキのほかにも、婚礼の式の改まった料理に必ず出さねばならぬ野猪の吸い物を、イヌムルチなどと呼ぶ例が遺っている。

 正月の食べ物には、餅よりもさらに欠くべからざるは、すなわちこのワノシシである。
暮れにはたいてい家でワを屠って、われわれの彼岸の牡丹餅のように、やったり取ったりを盛んにする。これにも久しい由来のあったことと思うのは、豕(し)の記憶はもはや失った内地の国々の武家に、春の初めの野猪の料理を重んじたことである。
シナと交通していたからシナから来た風習だろうなどと、よい加減に珍しがっておいて今までは済んでいた。そうして古い日本は埋もれていったのである。
 北太平洋の島々には野猪はいたるところに住んでいた。島に猪がおりまた土人がおれば、必ずこれを捕えてきて家に飼うている。野猪が家猪になるのはそれほど手軽であった。
~中略~
 奄美大島にも山にはイノシシがおり、里にはワが孳殖(ししょく)している。少なくとも三百余年の分立前から、ワはすでに島人の生活に伴うていたのである。さらに今千年ほど以前にさかのぼれば、大和の京でもその通りであった。われわれはただ猪垣のこちらの側でむしろ不自然なる生活を忍びて、宍を食わずにいたのであった。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P69

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫
福岡県 英彦山