P164
兵庫という地名は、すでに律令時代からあらわれているほどにふるいが、この地名が諸国のひとの口にしきりととなえられはじめたのは、大坂夏ノ陣がおわった江戸初期のころだろう。
当時、中流以下の家庭の若い女性のあいだで、
兵庫髷(まげ)
というのが流行した。とくに遊女のあいだではやり、この髪型でない者はなかったという。
~中略~
つぎに兵庫ということばが人口に膾炙(かいしゃ)したのは、幕末になってこの地に兵庫奉行という役職がおかれたことである。
幕末にこの地が開港場に指定されたためで芙蓉(ふよう)の間詰の旗本が任命された。~中略~
ところが、維新前には「兵庫」の地名のみがあらわれて「神戸」の地名はほとんどいわれなかったが、ただひとつ、
「神戸海軍操練所」
というのがある。
当時の幕府の海軍奉行であった勝海舟がつくったものである。
これははじめ幕府の官設のものではなく、官費は出ていたものの内用は勝個人の海軍塾のようなもので、汽船の操法を教えた。
塾生も旗本御家人といった幕臣ではなく、ほとんど諸国の浪人者ばかりで、その塾頭役の一人が、土佐藩脱藩の坂本龍馬であった。
場所は、兵庫の生田ノ森である。ここに宿所を設けて、塾生を収容した。 ~略
(昭和37年5月)
P285
操練所の建設は勝海舟の建議に拠ったもので、勝自信が長官に任ぜられた。塾頭役の一人が、土佐藩脱藩浪士坂本竜馬である。
操練所の建設は勝海舟の建議に拠ったもので、勝自信が長官に任ぜられた。塾頭役の一人が、土佐藩脱藩浪士坂本竜馬である。
開設許可は文久三年四月で、閉鎖は慶応元年三月だから、一年余の歴史しかない。
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)
- 作者: 遼太郎, 司馬
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
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