2025年7月12日土曜日

人生には解決なんてない

P62
人生には解決なんてない。
ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。
そういうエネルギーをつくり出さねばならない。解決はその後でくる。
 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

P226
人生については誰もがアマチュアなんだよ。
誰だって初参加なんだ。
はじめて試合に出た新人が、失敗して落ち込むなよ。
伊坂幸太郎「ラッシュライフ」

大山 くまお (著)
名言力 人生を変えるためのすごい言葉 
ソフトバンククリエイティブ (2009/6/16)

名言力 人生を変えるためのすごい言葉 (SB新書)

名言力 人生を変えるためのすごい言葉 (SB新書)

  • 作者: 大山 くまお
  • 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
  • 発売日: 2009/06/16
  • メディア: 新書

 

 (住人注:健康だった私が突然脳梗塞で倒れた)あの日を境にしてすべてが変ってしまった。私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった。
 でも私は生きている。以前とは別に世界に。半身不随になって、人の情けを受けながら、重い車椅子に体を任せて。ことばを失い、食べるのも水を飲むのもままならず、沈黙の世界にじっと目を見開いて、生きている。
それも、昔より生きていることに実感を持って、確かな手ごたえをもって生きているのだ。
 一時は死を覚悟してたのに、今私を覆っているのは、確実な生の感覚である。
自信はないが私は生き続ける。なぜ?それは生きてしまったから、助かったからには、としかいいようはない。
 その中で私は生きる理由を見出そうとしている。もっとよく生きることを考えている。

寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P12

 

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2010/07/16
  • メディア: 文庫

奈良県 山上ヶ岳

人生の楽しみ

P24
人として生まれたならば、三つの楽しみを知らないのは悲しいことである。
一つは良い行いをして自尊心を高める。
二つは健康で心配事がないこと。
三つ目は長生きをして、人生を充分に楽しむことである。

P42
 静かに家の中ですごし、古書を読み、詩歌を楽しみ、香をたき、名書を見、山水を眺め、月花を賞し、草木を愛し、四季の変化を楽しみ、酒を少量たしなみ、自家栽培した野菜を煮たりするのは、すべて心を楽しませ気を補うものである。
 貧乏であっても、このような楽しみはいつでもできることである。この楽しみを知っている人は、財産をたくさん持っていてもこの楽しみを知らない人よりも優れているといえる。

養生訓 現代文
貝原 益軒 (著) , 森下 雅之 (翻訳)
原書房 (2002/05)

養生訓 現代文

養生訓 現代文

  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2022/08/04
  • メディア: 単行本

 

 人生にとっての幸せとは、究極的には好きなことが自由にできる状態だ。経済も政治も産業も文化も、そのための手段として活用すべきものである。
「世は自尊好縁」

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る
堺屋 太一 (著)
PHP研究所 (2004/12/7)
P57

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/12/07
  • メディア: 単行本

 私がこれまで出会ったほとんどの人は、あまりに多くの時間を、自分の問題を心配することに費やしていて、楽しむことに取りかかるための時間のゆとりがありません。私はいつも好んで人々にこのように尋ねます。
「あなたが自分の問題を乗り超えた時、残りの時間を全部使って何をするつもりですか?」もっと楽しむことに取りかかることは、幸せでいるために大切なことです。
 もう一つ幸せでいるための要素は、あなたが良い人間関係をしっかりと育むということです。あくせく働くことに人生を費やし、大切なことにフォーカスせずに人生を過ごす人がたくさんいます。
愛することに取りかかるということは、あなたの家族とクオリティの高い時間を過ごせて、あなたの人生において特別な人のための時間をつくるということです。
 あなたが愛する人を見つけるためにも、または、より良い社会的なネットワークや友達のグループをつくるためにも、もっと多くの人と出会うことが大切です。この地球上には何十億もの人が存在していて、誰一人として孤独を感じなければならない理由などまったくないのです。

望む人生を手に入れよう―NLPの生みの親バンドラーが語る 今すぐ人生を好転させ真の成功者になる25の秘訣
リチャード バンドラー (著),Richard Bandler (原著),白石 由利奈 (翻訳), & 1 その他
エル書房 (2011/6/1)
P226


 

奈良県 室生寺

この世に絶対にたしかなものはない

 それと、もうひとつ付け加えるとすれば、百人百様、みんなそれぞれ異なった人間であり、生き方、考え方一つとして、同じ人間はいないという自覚が必要だということです。
 たとえば、書店の棚に、長生きのための健康の本や生き方本が、無数にならんでいますが、それも、もとを正せば、ひとりの人間の考えたヒントであって、絶対に正しいというものではないということです。
そんなささいなことを例にとっても、この世に絶対にたしかなものはないというのが、私の考えなのです。

百歳人生を生きるヒント
五木 寛之 (著)
日本経済新聞出版社 (2017/12/21)
P214

百歳人生を生きるヒント

百歳人生を生きるヒント

  • 作者: 五木 寛之
  • 出版社/メーカー: 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 新書

兵庫県 斑鳩寺

古社に逃げこめ

P159
 ちなみに、東日本大震災の時の津波からの平均避難速度は毎秒0・六二メートル。一分に三七メートルであった。健康な老人や群衆は一分に六〇メートル歩く。しかし、歩行困難者や乳幼児・重病人は一分に三〇メートルとされる(消防庁国民保護・防災部防災課「津波避難対策推進マニュアル検討会報告書」による)。

P161
 人間は足が津波に三〇センチ以上浸かると動けなくなり、避難の自由を失う。
浸水一メートル以上の津波に巻き込まれると、ほとんどの人が亡くなる。
現代の木造家屋は二メートル以上の浸水で半数が全壊、三メートル以上でほとんどが全壊する(「南海トラフの巨大地震モデル検討会(第二時報告)」)。
伝統工法の木造家屋は、現代のものより弱く、二メートル以上の浸水で流失する、とされている。

P184
「このあたりで津波で流された神社は三つだけと聞いてます」。
 事実そうだった。荒沢神社はこのあたりで最古の海辺の神社だが、御神体の手前で津波がぴたっと止まった。ちょうど貞観津波(八六九年)の頃に作られ、慶長三陸津波(一六一一年)もくぐりぬけている。

 

P186
これは津波の時、高台の古社に逃げこめば助かりやすいことを示している。事実、南三陸の戸倉小学校は津波で二〇メートルも浸水したが教員らが近所の五十鈴(いすず)神社に児童を誘導。津波のなか神社の境内だけがポッカリ島のように浮かび、助かった。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2014/11/21)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書

 

兵庫県 達身寺

お金、やりがい、健康

 私は、老後には特に「3つのこと」が重要になってくる、と考えています。
 それは、「お金」「やりがい」「健康」です。
 生きていくためには、もちろん、なにはともあれ「お金」が必要です。
 けれど。はっきり言ってお金だけでは生きていけません。というか、いくらお金があったところで、ほかのふたつが欠けていたら、生きる意味を感じられないのではないでしょうか。
~中略~
 それに、健康であれば病院に通う必要もありませんから、入院代や薬代をはじめとする医療費がかかりません。 ~中略~
 お金、やりがい、健康―これら3つが重なったところに「充実」が生まれてくるのです。

「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人
横山 光昭 (著)
PHP研究所 (2015/10/3)
P39

「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人 (PHP文庫)

「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人 (PHP文庫)

  • 作者: 横山 光昭
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2015/10/03
  • メディア: 文庫

 

 いくら十分にあっても、何事かあれば一挙に消えるのが、お金というものではないかと思うのです。
 それは敗戦のとき、一夜にしても家も財産も奪われ、身一つで放り出された経験が、いまでも私の思考の根底にあるからです。
 「有事の金」と言われ、戦争になっても、インフレにも強いといわれる「金」ですが、そうとは思えません。

 国にお金がなくなり、どうしても必要となると、時の政府は、国民のもっている金を供出させることも可能なんです。

 預金封鎖や新円切り替えなど、あらゆる手段で、国民のささやかな財布に国が手を入れてもっていく・・・・ということが、実際にあったのです。
 そういうとき、老後の蓄えとして、コツコツ貯めた預金も、個人年金もすべて、水泡のように消えていくのです。
~中略~
 人生は、常に想定外のことの連続だと、覚悟を決めておいたほうがよいのではないでしょうか。

百歳人生を生きるヒント
五木 寛之 (著)
日本経済新聞出版社 (2017/12/21)

P176

百歳人生を生きるヒント (日本経済新聞出版)

百歳人生を生きるヒント (日本経済新聞出版)

  • 作者: 五木寛之
  • 出版社/メーカー: 日経BP
  • 発売日: 2018/05/23
  • メディア: Kindle版
>
兵庫県 圓教寺

健康が一番

 今、自分が生きていることは、まわりの人たちのおかげである。両親が自分を生み育ててこられたことを感謝し、そのほかに自然の恵みにも感謝しなければならない。
自分が健康で長寿を全うすることこそが、その人たちや自然にたいしての最大の感謝の表現である。
~中略~

 人生を楽しく過ごすのはいいことでるが、そのことで寿命を縮めることがあってはいけない。
お金をたくさん儲けたとしても、そのために自分の健康を損ない楽しく生活できないとしたら、儲けたお金は何の役にも立たないであろう。
健康で長生きするほうが、大きな幸せではないだろうか。

養生訓 現代文
貝原 益軒 (著) , 森下 雅之 (翻訳)
原書房 (2002/05)
P12

養生訓 現代文

養生訓 現代文

  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2020/12/31
  • メディア: 単行本

大事をなすには寿命が長くなくてはいけないよ。
[勝海舟] 幕末の武士・政治家 | 1823-1899

人生はワンチャンス! ―「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法
水野敬也 (著), 長沼直樹 (著)
文響社 (2012/12/11)
20

人生はワンチャンス!- 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 人生は~シリーズ

人生はワンチャンス!- 「仕事」も「遊び」も楽しくなる65の方法 人生は~シリーズ

  • 出版社/メーカー: ミズノオフィス
  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: Kindle版
 

 いつまでも元気で若く健康でいられれば、病院にかからなくてもいいし、薬に頼る必要もない。つまり、医療費や入院費などの費用がかからずに済みます。
余分な支出をしたくないなら、いつまでも健康でいること。そのためにも、働き続けるということは、収入を得られるだけでなく、「元気を保つ」という意味でも大切なことのような気がします。

「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人
横山 光昭 (著)
PHP研究所 (2015/10/3)
P181

 

「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人 PHP文庫

「貧乏老後」に泣く人、「安心老後」で笑う人 PHP文庫

  • 作者: 横山 光昭
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: Kindle版

 

奈良県 當麻寺

2025年7月11日金曜日

知性は信仰の妨げになる

P50
 唯一者への全き帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の知性は猛烈な抵抗を開始するのだ。
すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうという欲求にかられるのである。
現代人にとっては、こうした知的動きは賞賛(しょうさん)さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ。比較癖とともにいつも自分を苦しめるのである。
~中略~
 知性は博物館の案内人としては実に適任であろう。だが信仰の導者としては「無智(むち)」が必要だ。
「無智にぞありたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。
人は聡明(そうめい)に、幾多の道を分別して進むことが出来る。しかし愚に、唯一筋の道に殉ずることは出来難い。冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。
そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではないだろうか。宗教や芸術や教育について、様々に饒舌(じょうぜつ)する自分の姿に嫌悪(けんお)を感ぜざるをえない。
「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことを言っている僕が、愚にみえるだろうか。

P76
崇高なものに絶えずふれておれば、おのずから人の心も崇高になるであろう。
古典を学ぶことによって、我々の心もひらかれるであろう。しかし、そのひらかれた筈(はず)の心が、自らを高しと感じ、古典の権威を自己の権威と錯覚するようになったらどうか。
遺憾ながらこの錯覚から免れている人は尠(すくな)い。古典や古仏を語る人間の口調をみよ。傲慢(ごうまん)であるか、感傷的であるか、勿体ぶっているか、わけもなく甘いか。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2024/12/06
  • メディア: 文庫

求菩提山 福岡県

宗教というもの

梅原 (住人注;蓮如は)嫁さんも何人かいるし、子どもは二十七人もある(笑)。浄土真宗を私はあの世つきの楽天主義といってます。
玄侑さんもおっしゃるとおり、宗教というものはのびのびと、人生は辛いこともあるけれども、けっこう楽しいものだということをまず説くのがいい。空海の考え方もそうです。
玄侑 密教も禅宗も、生を愛する宗教だと思いますね。
梅原猛

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P174

多生の縁 玄侑宗久対談集

多生の縁 玄侑宗久対談集

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2004/03/24
  • メディア: 単行本

宗教とは、常に人間生活・人間精神の一番本源大宗に立ち反って全体的創造に生きようというものです。だから宗教という。
「宗」というのは本家ということだ。分家の本家だ。
科学の「科」という字は”枝”という意味の字だ。これは分かれるものを示す。
「宗教」というのは本家の教え、それから分かれた枝葉の学問が「科学」です。

安岡正篤
  運命を開く―人間学講話
 プレジデント社 (1986/11)
 P104

新装版 運命を創る (安岡正篤人間学講話)

新装版 運命を創る (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2015/03/31
  • メディア: 単行本

 

P10
(一) 第一に社会的事象として宗教を見るならば、それは一つの制度とも見られるのです。 彼の本山とか末寺、檀徒、信徒、という風に組織づけられている、これらの組織の上からして宗教は一つの社会的関係を表示する現象だと見ることができる。実際、宗教は全体の社会生活を構成する一分子であるからである。~中略~
(二) 次に宗教を儀式の方面から観察することも可能である。だいたいにおいて儀式のない宗教は宗教でないといわれているごとく経文の読み方やその他衣装とか大小の儀式作法やお祭など、あらゆる儀式がそれぞれの宗教に存在している。~中略~
また寺院の建築なども一つの儀式と見られるのである。キリスト教、回教、その他の宗教と仏教の寺院建築とを比較すると、その内面的差異が直ちに建築物という外形にも顕れている。その各自の宗教的感情生活の相違が如実に形骸の中に包まれているということは宗教の特殊性を知る上にまことに便宜であり、また興味ある事でもあるのである。
(三) また宗教はこれを知的方面から観察することも可能である。いったい、われわれ人間の場合においては知性、理知というものがわれわれ人間性の根本まで食い入っているのである。したがってこれが宗教そのものの中にまでも入り込んで来ることは免れない事実なのであるから、宗教と知性とは不可分離のものだといわねばならぬのである。~中略~
(四) また宗教を道徳上から眺めることも可能である。いったい世上においては宗教と道徳とは、どちらがより根本的なものであるとか、または宗教は従であって道徳が主であるとか、またはその反対であるとか、いろいろとこの問題について多くの議論が存するのであるが、本来宗教は道徳ではないのである。しかし、またそうかといって、道徳をことごとく破壊し去ったところに宗教があるとは言えないのである。
善人が必ずしも立派な宗教家ではなく、立派な宗教家だからといって必ずしもその時代にその人が善人として通るものとも限らない。~中略~
 以上は宗教に対する観察上の四つの立場を示したものであるが、これらの四つの要素をまことに手ぎわよく科学的に化合させ抱合させてゆくとしても、それで決して宗教を成立せしめてゆくものとはならないのである。ここに今一つ大切な要素がある。そして、これこそ宗教の本体を形成する最も重要なる要素をなすものである。
自分はこの要素を宗教経験という名題のもとに説いてみる考えなのである。これが以上の四要素に加わらなければ、その化合の仕方がいかに精巧であっても、そこに宗教なるものが形成されることは不可能である。
実に宗教をして可能ならしむるものは、この個人的宗教体験であって、したがって今日ここに最も考うべき重要な眼目となっているものなのである。

P17
そんな風に宗教は、病気になったり、事業に失敗したり、その他すべてなんらかの故障に会って、そして心の平静が破れて、初めてその萌芽を見せるものであるからして、宗教というものはすべて病的であって、健康な人間には必要ないなどと言う人もあるくらいである。
しかし、これは言うまでもなく愚説であって、そうした機会なるものは単にその人の宗教的萌芽を培養する一つの肥料にしかすぎないものである。

P35
仏教というものが発生して、ここに二千五百年という今日まで伝わってきた、その命脈不断なりしその原因が何であるかといえば、そこに生命があるからである。しかもその生命はどこから来るかといえばそれこそ、いかにしても仏教徒の、すなわち仏教の生活をやっている人々のその体験とその思想というものがそれに加わって動いているからである。
そして、これが第四の因子ということを考えると、われわれは仏の教えというものをそのままにとるということは、どうしてもできなくなる。
仏の方では病人にくれる薬は一つでないけれども、われわれはむしろ、われわれがその薬を自分の病気の治るように変えて飲む。こういう風にその薬に対する態度を解釈していってよいと思う。
今までの解釈は仏を中心にして仏が病人によっていろいろの薬をくれることになったのである。けれど、今日私の解釈になるというと、仏は一つの薬をくれるのであるが、それを自分の身に合うように変えて自分は飲むのである。そこに仏教徒というものには仏教徒としての個人の力というものが加えられて来なくてはならぬものがある。

P142
いずれにしても、今日のところは個人の経験ということを主にして、お話しするのであるが、それについては、そういう個人の経験としての宗教というものは、どういう要素があるか。
これを区別すると、だいたいに、伝統的要素と、知的要素と、神秘的要素という、この三つから成り立っているという風に見たらどうかと自分は考える。
 われわれが初めて宗教経験ということをもつようになる、それまでにはどういうことがあるかというと、今日の世界では、まず伝統的に宗教というものを取り入れるのが順序になっている。
それから宗教としても伝統に頼らなければならぬという風な点もある。宗教にはどうしても伝統的なものないというといけないので、それが、制度としての宗教を伝統的要素の中に入れておいてもよい。
その個人的経験というものから見れば、制度としての宗教というものは、どうでもいいようになっているけれども、またお互いに、一人では生きて行けないので、どうしても何か他の一人ないし、多勢のものと関係して行かなければならぬのであるから、そうなれば、そこにすでに制度としての宗教、制度として発達すべき宗教の根底ができるのである。
それからまた自分だけで生きているものなら、宗教というような考えも出てこないものであるかも知れない。だから、社会的生活というものを否定して、そして個人というものだけにしたならば、宗教というものは出て来ないのだ。
そうして見ると、個人の宗教経験ということもちゃんと、その中には社会生活ということを予想しているということになる。
そこで宗教には伝統的要素というものが必要になって来るのである。われわれは子供のときに、お寺につれられて行った。今日ではキリスト教の教会に行く場合もあるであろうが、―いずれにしても、私らは親なり、なんなりにつれられて行く。自分の宗教的要求があってもなくても、とにかく、親が釣れて行く。

P153
知的というのは、これは簡単に申しますと、理屈ということになるのである。
理屈ということは、普通に「理屈を言う」という意味で、事物に説明をつけぬと、埒があかぬということになる。
何かわれわれが物をするというときに、ただやるということでなくして、それが善いことであっても、悪いことであっても、それに何かの理屈をつけるということになるのが、われわれの普通の行き方である。また人間が何かしてしまったとき、良いことのときでも、悪いことのときでも、それを言いわけにする。
良いことをしたときには、「言いわけ」をする必要がないかも知れないが、なぜ良いことをしなければならないかと、問いを出してみるのである。
これが人間の共通の性質であって、宗教の上にもその通りである。
普通に、神を信ずるとき、阿弥陀さまのお助けを願うとき、いずれもそうであります。これが人間性の普通なのであります。

P154
 昔、われわれがまだ野蛮であった時代の宗教は、どういう形をとったかというと、大抵は儀式の形であります。
何のことか訳はわからぬが、いろいろの儀式をやって、そしてそこに一種の厳粛味というか、一種の畏れというか、何かそのような気分の交じった儀式を行うのが普通である。
それがあってから、今度はそこから神を信ずるとか、あるいは仏を信ずるというようなものが出て来るものらしい。初めはただ一種の満足を得るというようなところから、今度は神というものが出て来る。
~中略~
とにかく、そういうように、何かしなければならぬのでする。する、ということが先になって、それからすることに対して、何のためにするかという疑問が出て来る、説明が出る、言いわけがくっつく。そのときが、すなわち知的要素が、宗教へはいって来る時節なのであります。

P181
先に言った伝承的、伝統的分子、知的分子、儀式的分子というようなものによって宗教が出来ているけれども、それだけでは宗教はできないので宗教に、いわゆる竜を描いてそして最後の目を点ずるのは、神秘的感情でなくてはならぬ。神秘的分子が宗教に含まれて、いわゆる宗教が生き生きとしたものになって来ると言いたい。
それであるから、この神秘ということの中には、いろいろの感情的分子もよほど含まれている。

禅とは何か
鈴木 大拙
角川書店; 改訂版 (1999/03)






P11
 ところで、人間にとって何が大問題かと言えば、それは死ぬということです。
人は何のために生きる営みをしておるのか、それは死なないためです。物質文明も、結局は死なないためです。一日も長くこの世にいたいという、人間の最終的な願いから出たものです。
~中略~
 敗戦後の三十四年間の急速な物質文明と人間の持つ弱さ、この二つが、よしあしにかかわらず、何かに頼ろうとする弱い心を生んできたわけですが、その人間の弱さということは、具体的には、そうした宗教団体に走る人々の、病気を治してもらいたいという欲求に強くあらわれています。
宗教を信ずるいろいろな崇高な理由もありましょうが、それよりもなによりも、まず自分の病気を治してもらいたいということ、ここに私は人間の弱さ、何ものかによって救われたいと願う人間の弱さを端的にみるのです。

P15
 私は宗教というものの起こりは、この死というものに対する恐怖だと思います。
つまり死をどうするか、死をいかに見るかということです。この世にはいろいろな宗団があり、それぞれに宗旨も違いましょうが、しかし結局、宗教というものの本質は、世のためになることをするということはもちろんですが、しかし同時に、あくまでもこの死と対決することにんあると私は信じております。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ! (名著復活シリーズ)

  • 作者: 立花 大亀
  • 出版社/メーカー: 里文出版
  • 発売日: 2011/03/15
  • メディア: 単行本

自由とは、何ものをもっても抑圧すべからざるものなるがゆえに、自由なのではなかろうか。いかなる圧制の下にも自由はある。あたかも恋愛と同じように。いかなる権力も恋愛を奪うことはできない。そして自由とは本質的に孤独なものだ。自由が与えられた故に、何事でも自由に表現できると思うのは、人間の儚(はかな)い空想であろう。
私は政治的な意味で云っているのではない。宗教や芸術のごとく精神を追求する仕事においては、政治的自由の有無などは問題にならない。表現の困惑について、芸の至難について、言葉のもどかしさについて、私は悲しいほど思い迷うのである。
 何事でも自由に表現出来るか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は滞りなくあらわすことが出来るか。はっきり言いきってしまうことが可能か。 たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが進行や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界と云ってもいい。
これを感じたところに、祈りの微妙な世界が始まる。人間の言説絶えたところに、神仏の世界がある。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P115

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

大和古寺風物誌 (新潮文庫)

  • 作者: 勝一郎, 亀井
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2024/12/06
  • メディア: 文庫

 昔は、正しい道を知って徳を積んだ人に接して人々が感じ入り、懇願して社寺を建立してもらったように思われる。
そのことを考えるなら、今日でも、道を悟った徳のある神主や僧侶が人々を教え導き、商家の旦那衆もその人から教えを受けることで心が安楽になり、生死にかかわる疑念も消え去るというのなら、神主や僧侶が奉賀帳(住人注:奉加帳?)を出さなくても、どんな社(やしろ)や堂宇(どうう)でも建てられるはずだ。
昔も今も、人の心は天の命に従っている。どんなに時代が移ろうと、そのことは少しも変わっていないのである。

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
P265

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)

  • 出版社/メーカー: 致知出版社
  • 発売日: 2016/09/29
  • メディア: 単行本

 

宮崎県 高千穂宮

宗教の役割

牧師であり大学教授でもある鈴木崇臣(たかひろ)氏の「韓国はなぜキリスト教国になったか」(春秋社、二〇一二年)では、韓国ではこの四〇年間に爆発的にキリスト教徒が増え、いまや人口の四割を占めるほどになったという事実がくわしく述べられている。
 そしてその背景に、「とにかく何かのために祈る」というこの国の人たちの純粋性とともに、「祈らざるをえない」という彼らが置かれてきた歴史的、社会的な苦難の状況があったことが指摘されている。
 実はいま中国でもひそかにキリスト教が広まりつつあるといわれているが、その中心になっているのは富裕層ではなく貧困層や若者たちだという。つまり、ここでも出発になっているのは、「神さま、弱い私を見捨てないでください、お救いください」という小さな声での「祈り」ということだ。
 一方、日本ではどうなのだろうか。仏教、神道に親しみを持つ若者は増えているように見えるが、最初の例でも明らかなように「パワー」とか「仏像」「鳥居のデザイン」など”宗教の周辺”であればよいのだが、中核的な信仰に関する問題となるととたんに警戒してしまう。
~中略~
 紀藤(住人注;正樹)弁護士は著書「マインドコントロール」(アスコム、二〇一二年)の中で、日本の既存宗教に対して「魂の救済にコミットしてないことを猛省せよ」と強い口調で呼びかける。 いまの日本では、深い悩みごとを抱え、誰かに話したい、人生を決めてもらいたいと望んでいる人は少なくない。 しかし、宗教がそういう人たちひとりひとりにしっかり向き合おうとしないからこそ、営利目的の宗教まがいの集団などが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、マインド・コントロールの被害者になる人が後を絶たないのだ、というのが紀藤氏の主張だ。
~中略~

 ということは、日本にはおこまでのシビアな状況がなく、「祈らなくても何とかなるよね」という雰囲気の中で宗教が必要にされてこなかったのではないか、と考えることもできると思う。
しかし、紀藤氏はそうではなくて、実は困難な状況に置かれて「助けてください」と祈りたい人も多いのに、それにむしろ宗教が応えられていないのが日本、という考えだ。
~中略~
 本当は「私が進む道に光を与えてください」といちばん祈りを必要としているのは日本の若者なのかもしれないが、彼らは正しい意味で宗教と出会えないまま、いたずらに心霊スポットめぐりを続けているのだとしたら、事態は結構深刻だと考えられる。

若者のホンネ 平成生まれは何を考えているのか
香山リカ (著)
朝日新聞出版 (2012/12/13)
P198

若者のホンネ 平成生まれは何を考えているのか (朝日新書)

若者のホンネ 平成生まれは何を考えているのか (朝日新書)

  • 作者: 香山リカ
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2012/12/13
  • メディア: 新書


 国家も社会も、決して本質的には個人を守るものではない。
いい行いをしたからといって、現世で神仏がその人だけを特別扱いして守る、ということもない。
しかし神仏の恵は内面において信じられないほど豊かで複雑だ。信仰があるとないとでは、心に大きな違いがある。

人生の原則
曾野 綾子 (著)
河出書房新社 (2013/1/9)
P58

 

人生の原則

人生の原則

  • 作者: 曾野 綾子
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2013/01/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

P86
立松 発心とは、やむにやまれぬものでなければならないと道元はどこかで言っているんですけど、やむにやまれぬというのは心が決めることで、論理ではないんですね。
五木 ないです。 それと、やっぱりよくいわれることだけれど、ウィリアム・ジェームズという人が「宗教的経験の諸相」の中で、人間にはヘルシーマインドとシックマインドがあって、宗教的なものに惹かれるのはシックマインドだと言っている。
ヘルシーマインドには宗教は必要ない、と。シックマインドというのを「病める心」と訳されるとちょっと具合が悪いんだけど、僕は「悩める心」と訳すればそれも言えるんじゃないかと思いますね。
本来どうしても生きがいとか、生きている意味とか、死とかいうことを、つきつめて考える性格の人と、それからどんなに言われても、そういうことを全然意識しない人がいるというように、性格の違いはありますから。~後略

 P287
五木 いまだに、合格祈願だとか病気平癒の祈願は多いでしょう。それはいつまでたってもなくならないと思う。中国であれだけ大きな革命をやって、仏教寺院を叩き壊したけれど、いままた中国は仏教全盛です。ただし、いまの中国の仏教というのは、全部現世利益ですね。
 何か目に見えない力にすがって、いまの自分の顔貌を実現したいという気持ちは、人間がいるかぎり永遠に消えないでしょうね。ですから占いの人も減らないだろうし、いわゆる超能力者もなくならないだろう。

P290
立松 結構みんな宗教には興味があるんですよね。何かを求めようとしているわけでしょうね。
神社でお賽銭あげればそれだけで願いがかなうなんてみんな思ってやいやしませんけどね。神や仏に願いごとをするというのは、合格できますようにとか、あの人と結婚できますようにとか、金持ちになれますようにとか、仕事がうまくいきますようにとか、やっぱり煩悩みたいなところが多いですよね。
五木 ただ、何となく、いまは宗教的なものへの自然の時代の流れというか、関心があることは事実なわけです。「阿修羅展」はあれだけの人が集まって、阿修羅像の表情を見に来て、感激して言葉もないなんて言っている若い人も多かったですね。ああいう像とか、そういうものに対して最初から拒絶反応があれば、人はやっぱり見ないですから。

親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)

親鸞と道元

親鸞と道元

  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2010/10/26
  • メディア: 単行本


宮崎県 天岩戸神社

神権国家の近代国家を創ろうとした日本

 日本では、近代国家を創ろうとするときに、国家が特定の宗教(神道)を利用して、民族主義の高揚をはかりました。 これは、ヨーロッパとは逆のプロセスになっていることに注目する必要があります。ヨーロッパでは、近代以降、民族主義が高まるにつれて、教会の権威は失われていきます。つまり、宗教から離れていくのと、民族主義が高まっていくのが、平衡して進んでいきました。日本では、近代化のプロセスで、神道の国教化を進めたことになりますが、これでは、どうもうまくいきません。
 日本の場合も、近代国家として生まれ変わるには、西欧の文明を導入せざるをえませんでした。その西欧文明というのは、中世キリスト教文明ではなく、近代になってキリスト教会の力が衰えた後に栄えた近代の西欧文明です。 近代西欧文明というのは、前に書きましたように、キリスト教から離れていく過程で生み出された科学や啓蒙思想が基本にあります。
それなのに、近代西欧文明が宗教から分離していったことは封印したうえで積極的に受容し、天皇を頂点とする神権国家をつくるというのは、ずいぶん無理なプロジェクトでした。

イスラームから世界を見る
内藤 正典 (著)
筑摩書房 (2012/8/6)
P208

イスラ-ムから世界を見る (ちくまプリマー新書 184)

イスラ-ムから世界を見る (ちくまプリマー新書 184)

  • 作者: 内藤 正典
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/08/06
  • メディア: 新書

 

 P42
 皇紀などという奇妙なものを公式に制定したのは、民族主義が昂揚、もしくは昂揚せざるをえなかった明治初年のことで、太政官は「日本書紀」の紀年法を採用し、西暦から六六〇年古くして神武天皇の即位の年とした。
「日本書紀」の上代が、建国を古くするためにずいぶん荒唐無稽な年代のひきのばしをやっていることについては、すでに江戸時代でも国学者の本居宣長(一七三〇~一八〇一)や籐貞幹(とうていかん)(藤原貞幹・一七三二~一七九七)が疑問を提出した。
明治初年の太政官は、宣長や貞幹の説を知らなかったのであろう。
明治五年、「太政官布告第三四二号」をもって、無知な官員どもが紀元をさだめ、布告した。
 津田史学が成立する以前にも、東京帝大文学部講師那珂通世(なかみちよ)(一八五一~一九〇八)が、明治三十年に「上世年紀考」(「史学雑誌」第八編)を発表し、神武即位紀元が、「日本書紀」のつくり手の作為であることをこまかく立証した。しかしこれらは学問の場にとどまり、政治や教育の場には入って来なかった。
~中略~
 もっとも、神武紀元はウソだという津田左右吉の学問は、当時の内務省の大小の役人の知識のなかにはなかったらしく、二千六百年の紀元節である二月十一日が近づいてからそのことに気づき、あわてて一月十三日、岩波書店に対し、津田左右吉の著作を内務省に持って来させ、その翌月、発禁にしている。泥縄というのはこのことでろう。

P44
カムヤマトイワレヒコというのが神武天皇だが、この人物についての記述は「古事記」「日本書紀」にしかない。日向(ひゅうが)から出てきて瀬戸内海岸を東に進み、やがて大阪湾に入って上陸し、河内平野を分け入り、やがて生駒山を越えて大和の国に入ろうとしたが、土酋の長髄彦(ながすねひこ)に阻まれ、退却し、ふたたび海に泛(うか)んだ。捲土重来(けんどちょうらい)を期し、紀伊半島の先端にまわった。先端で上陸し、熊野の山々を越えに超えて北上し、十津川を経て(?)大和盆地のいわば搦手(からめて)から入って盆地の平定に成功した―というのが、神武神話のあらましである。
~中略~
 本来、実在性のとぼしい神武天皇がどこを通ろうが、考証は無意味なのだが、明治から大正にかけての独学の歴史・地理学者である吉田東伍博士(一八六四~一九一八)は、記紀をさほどに疑わない時代に生きていたから、その大著「大日本地名辞書」にも「神武帝、大和打入の時、熊野より吉野に出で給ふ、実に十津川を経由したまへり」と断定している。
断定のための証拠などはむろんない。しかし紀伊半島の南端から北上して熊野の山々をこえ、大和盆地に入らねばならぬとすれば、古代の地理条件を考え、他のコースを比定するより十津川経由を考えるのが自然だというふうにこの地理学者は思ったのにちがいない。

P46
 江戸時代に「大和名所図会」というのが、出ている。この本の(ばつ)に寛政三年(一七九一)という年号があるから、江戸中期のもので「古事記」の研究を最初におこなった本居宣長の在世当時である。
 ただし、この「大和名所図会」をながめてみると、作者が「古事記」「日本書紀」を読んだという形跡がまったくないことにおどろかされる。
このことは、江戸中期までの知識人の多くが「記紀」を読まなかったどころか、ふつうその所在さえ知らなかったという私の印象に符号する。すくなくとも、「大和名所図会」はそのことの有力な証拠の一つといっていい。
~中略~
 江戸後期になって国学がさかんになり、宣長の注釈書である「古事記伝」も大いに読まれ、「日本書紀」も、一部読まれるようになり、「記紀」は流行の署名になった。というよりも、国学者以外の知識人のあいだでは、「記紀」をも参考にした頼山陽の「日本外史」を読むことによって神武天皇の名も知り、神話時代の概略をも、新知識として知った。
 この流行は、幕末の政治思想につよく影響をあたえるところの一種のモダニズムであったにちがいない。
 幕末の文久二年(一八六二)といえば京都は長州的過激主義の全盛期で、かれらが宮廷をかつぎ、同年に畝傍山東北の隆起をもって神武陵とし、山之上の神功皇后の神社をおろして西麓に移した。
 この畝傍山麓に現在ある樫原神功などは、ひどく古い伝統の神社のような印象をうけるが、明治二十二年の設立で、それまで神武天皇を祀る神社などは、日本のどこにもなかった。
ひとつの伝説を国家をあげて三十年宣伝すれば古色を帯びるという説があるが、日本史は幕末から昭和二十年までのあいだ、そのことを経験したのである。貴重な経験といっていい。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫 し 1-68)

街道をゆく 12 十津川街道 (朝日文庫 し 1-68)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/10/07
  • メディア: 文庫

宮崎県 高千穂宮

靖国神社

  靖国神社の意味を外国人に伝えるには、マッカーサー司令官に求められて意見書を提出したイエズス会のドイツ人神父ブルーノ・ビッターとメリノール宣教会のアメリカ人神父パトリック・バーンの見解が貴重です。(志村辰弥「教会秘話」―太平洋戦争をめぐって)参照)。
~中略~
西洋人神父が靖国神社の存続についてマッカーサー元帥に意見書を提出し「いかなる国民も、祖国のために身命を賭した人びとに対して、尊敬を表し、感謝を献げることは、大切な義務であり、また権利でもあります」と述べたことを世界に人びとが想起してしてくださることを切望してやみません。
 私は首相の靖国神社参拝が憲法の政教分離に反するという説を聞くと、現行の日本憲法は唯物論に立脚し、無神論を国民に強要するのか、という訝(いぶか)しい気持ちに襲われます。
死者を弔いその安息を祈ること自体がすでに広義の宗教的行為である以上(米国憲法も政教分離を規定していますが、ヨーロッパ各地にある米軍墓地には十字架が立っているものもあります〕、他宗教を排除しない靖国の社が日本国民の戦死者を追悼する場となるのはきわめて自然な選択だと思います。


日本人に生まれて、まあよかった
平川 祐弘 (著)
新潮社 (2014/5/16)
P82

日本人に生まれて、まあよかった (新潮新書)

日本人に生まれて、まあよかった (新潮新書)

  • 作者: 平川 祐弘
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/05/16
  • メディア: 新書

 

宝満山 竈門神社 福岡県

2025年7月10日木曜日

信じるものは救われる

   世の中にはよこしまな考えの持ち主も、犯罪的な行為をする人もいるので、ある程度の守りは必要です。しかし、過度に防衛的な人は、基本的に人を信用していないところがあり、それが人間関係を阻害しがちです。
 「因幡の白ウサギ」という話がありますね。ウサギはワニザメをだましたため、皮をはがれます。そして荒ぶる神々に言うことを聞いてひどい目にあいますが、大国主命の言葉を再度信じて救われます。
人間は一度だまされるとこりてしまい、人の言うことを聞かなくなるものですが、因幡の白ウサギは信じたために救われます。これはなかなか示唆に富むお話なのです。あまりに何度もだまされるのは問題ですが。

プロカウンセラーの聞く技術
東山 紘久 (著)
創元社 (2000/09)
P122

プロカウンセラーの聞く技術

プロカウンセラーの聞く技術

  • 作者: 東山紘久
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2015/04/01
  • メディア: Kindle版

手術は医者がひとりでするものではない。手術を受けたとき(住人注;筆者の患者)ブルークには迷いがなかった。こんなふうに時間をかけて築き上げられた信頼関係は手術の成功に欠かせないものだと僕は思っている。
信頼がお互いの気持ちを強くするのだ。

「NO」から始めない生き方~先端医療で働く外科医の発想
加藤 友朗 (著)
ホーム社 (2013/1/25)
P68

「NO」から始めない生き方 先端医療で働く外科医の発想 (集英社文庫)

「NO」から始めない生き方 先端医療で働く外科医の発想 (集英社文庫)

  • 作者: 加藤 友朗
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2022/01/20
  • メディア: 文庫

たまには担当医のことを教祖様みたいに盲信する人もいますが、多くの患者さんは医者のことなんかせいぜい七割程度しか信じていないと見るべきでしょう。それよりはテレビの健康情報や聞きかじりのマスコミからの知識をよっぽど信用しているようです。
 だから薬は医者が金儲けのために「あえて多めに」出しているとか、不要な薬も在庫処分のために便乗処方しているのではないか―そんな程度の疑いをひそかに抱いている可能性はけっこう高いと思います。寂しい話ですよね。
~中略~
 あまりにも信頼を寄せられ、頼りきられるよりも、そんな淡い関係のほうが「まとも」です。そうでないと、縁談や人生相談まで持ち込まれかねません。ささいなことで失望されたりしかねません。

「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室
春日 武彦 (著)
医学書院 (2007/07))
P112

「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室

「治らない」時代の医療者心得帳―カスガ先生の答えのない悩み相談室

  • 作者: 春日 武彦
  • 出版社/メーカー: 医学書院
  • 発売日: 2022/03/25
  • メディア: 単行本

島根県 鰐淵寺

刺激に反応してしまう

実は、私たちの日常は「心の反応」で作られているといっても、過言ではないのです。
 たとえば、朝の通勤ラッシュで「今日も混んでいるな」とゲンナリする。これは、心を憂鬱にさせる反応です。心ない相手の態度にイラッとする。これは、怒りを生む反応です。
大事な場面で「失敗するかもしれない」と、マイナスの想像をしてしまう。これは、不安や緊張を生みだす反応です。人と会うときも、仕事をしているときも、外を歩いているときも―心は、いつも反応しています。
 その結果として、日ごろのイライラや、落ち込みや、先ゆきへの不安やプレッシャー、「失敗してしまった」という苦い後悔などの”悩み”が生まれます。
 というのは、悩みの始まりには、きまって”心の反応” があるのです。
心がつい動いてしまうこと―それが悩みを作り出している”たった一つのこと”なのです。
 だとすれば、すべての悩みを根本的に解決できる方法があります。それは―”ムダな反応をしない”ことです。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P2

 わたしたちの思考パターンの基礎は、さまざまな拡(ひろ)がりをもった回路に支えられていて、わたしたちは練習により、それを細かく調べることができるようになります。
まず第一に、それぞれの思考パターンには主題があります。
主題とは、意識的に考えていることですね。たとえば、わたしが小さな犬、ナイアのことを考えているとしましょう。ナイアは天国に行くまでの八年間、この本を書くのを手伝ってくれ、いつもわたしの膝(ひざ)のうえに座っていました。
ナイアについて考えるのは、脳の中の特殊な回路です。
第二に、それぞれの思考パターンには、感情の回路がつながっていることがあります。ナイアは素敵な可愛(かわい)い生きものでしたから、ナイアのことをを考えるといつも大きな喜びを感じます。脳の中で、ナイアが主題の回路と喜びの感情回路が密接につながっているのですね。
最後に、こういった思考と感情の特殊な回路は、複雑な生理回路にもつながっています。生理回路は、刺激を受けると予測可能な行動をもたらすのです。
~中略~
 しかし、このワクワク活(い)き活(い)きした回路に加えて、ナイアのことを考えると、愛犬の死による喪失感に襲われ、激しい悲しみの反応を示す傾向があるのです。
こうやって考えが変化すると、その基礎をなす感情的・心理的な回路のせいで、あっという間に目には涙があふれます。深い悲しみのループに捕まって胸は重苦しくなり、呼吸は浅くなり、感情的に落ち込んでいく。膝の力が抜けて、エネルギーは弱まり、暗黒のループに屈服するのです。
 こういった情熱的な思考や感情は、たちまち心の中へ飛び込んでくる可能性をはらんでいます。でも、その持ち時間九〇秒が過ぎれば、意識的にどの感情・心理ループに接続したいかを選ぶことにしています。
怒りや深い絶望の回路の中にどれくらいの時間、とどまるべきかに気をつけることは、健康にとってとても重要です。
長時間にわたってマイナスの感情に染まったループに捕えられてしまうと、それが感情的・生理的な回路に対してもっている力のせいで、からだや精神には大きな打撃となります。

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
ジル・ボルト テイラー (著), Jill Bolte Taylor (原著), 竹内 薫 (翻訳)
新潮社 (2012/3/28)
P252

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/03/28
  • メディア: 文庫

島根県 鰐淵寺