2026年3月31日火曜日

沖縄人

 沖縄に何度か旅行して感じたことは、沖縄人の温和さである。
 沖縄に住むひとびとは、いかにも固有のにおいの高い日本人的形質をもち、ことばも、奈良朝もしくは室町時代に分化した日本語を話している。
日本人よりも日本人であるこの地のひとびとが、日本人が集団になった場合のたけだしさや、鋭敏すぎる好奇心からまぬがれているのは、歴史的に鉄器が不足していたことに有力な原因があるのではないか、とふと思ったりした。
 沖縄は、この稿の沖縄の旅(第六巻)ですでにふれたように、石器(木器をふくめて)時代が、本土の室町時代までつづいた。その後も、鉄器はつねに寡少で、農具は生産性のひくい木器がしばしば主力であるという歴史がつづいた。
木器の稼働能力が人間の欲望の限界をなしたということが沖縄人のおだやかな性格をつくるのに、よほど重要な原因をなしたかと思える。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P193

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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和歌山県 那智の浜

サバニ

P65
 恩納のの仲泊から美里の石川まで、島の幅がこの辺ではわずかに三十町しかない。大昔、神がいまだ草木をもってこの国を恵まざりしころ、東海の波が西海へ打ち越し、西の波はまた東へ越えたと伝えるのは、あるいはこの近所のことかも知れぬ。
今でもサバニと称する小さな刳船(くりぶね)だけは、人がかついで陸の上から往来し、遠く辺土名喜屋武(へんとなきやん)の岬を廻る労を避けている。
内地の府県で船越という多くの地名はいずれもかつてこの方法によって、小舟を別の海へ運んだ故跡である。島尻郡の方にも玉城(たまぐすく)村富名腰(ふなこし)がある。
また同じ郡の佐敷村、八重山石垣島の伊原間(いばるま)などに、フナクヤという地名があるのは、皆この船越のことだろうと思う。
 近いころまでのサバニは、みな国頭の山の松の樹を刳って造っていた。
糸満の漁師たちは遠く屋久島の杉を買い求めて、おいおいにその船を改造し、なお鱶(ふか)の脂を船と船具とに塗って水を防ぎ、飽くまでも軽快に海上を馳駆しようとしている。
しかも山のよい樹は次第にとぼしく、真の丸木舟はもうほとんど見られなくなった。
刳舟の縁にも他の材を綴じつけて形を作り、その隙間を白い漆喰で留めている。よってまた綴じ船の名もあるのである。

P66
 遠い国地の珍しい文明を、まず見てくるものは船であった。それゆえに最初は蒲葵の帆を掛けてシナの物見の役人を驚かした島人も、久しからずして福州あたりの造船所に依頼して、新しい立派な進貢船を造らせ、次では那覇の船大工がその型によって、大きい船を工夫するにいたった。
淋しい山原の磯山蔭で作り出す船が、西南数百里の外を走っているシナのジャンクと、このようによく似てきたのも偶然ではなかった。
しかもその改造のさらに以前をさかのぼってみると、島人は出でて新しい物を求めんがために、とにかくみずから渡海の船を思っていたのである。
 島では人よりも船のほうが早かったわけである。しかるに八重の汐路の先島においては、アマミコが碧空より降ったという神話はもうなくて、かえって船の始めの物語が伝わっている。
竹富島では島仲粟札志の幼き兄弟、ある日浜に遊んで形半輪の月のごとくなる物が、海上に漂い来るを見て、木を伐ってその制にならい、初めて船というものを作り、これを五包み七包みと名づけて浜に浮かべて楽しみとした。
その玩具の小船、後にまた流れて隣の黒島に行き、黒島の人はこれを大きくこしらえて、漕ぎ乗って竹富にやって来て、初めて子供たちの神から学んだ術であったことを知ったとある。

 同じ話の変化かと思う話を、また宮古島の仲間御嶽にも伝えている。 

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫
山口県下関市 角島

禅と詫茶

 茶祖といわれる村田珠光が一休禅師に参禅(座禅して公安を参究すること)し、中国の圜悟克勤禅師の墨跡を大切にしていたことはご存じかもしれないが、その後の
武野 紹鴎も茶聖の千利休も本格的に参禅している。
利休などは「三十年飽参の人」といわれ、長い参究の末に古渓禅師から印可証明(お悟りの証明書)までいただいているのである。
「利休」というのは古渓禅師につけてもらい、正親町天皇から下賜された名前だが、「名利共に休す」とか「名利頓に休す」という禅語に由来しているらしい。
一言で言えば外に名誉や利益を求めない寂然たる「無事」の境地。ほかに「鋭利休歇(えいりきゅうけつ)」が根拠で、鋭利さのとれた老古錘(ろうこすい)の意味だという説もあるが、ともあれ彼等は、禅室でなく、娑婆のなかに茶室という妙用の場を設け、そこを修行の場にしたのである(老古錘は閑古錘と同義。一八六ページ参照)。
 派手なバサラ文化を背景にした大名茶などと反対の方向に進んだ詫茶の底流には、仏教の「寂(寂滅)」の思想がある。これはお悟りによって波立たなくなった静謐な心だが、これが「さび(寂)」を生み、さらには「我がさび」から「「わび」が発想されていくのである。
「数寄(すき)」というのも「空(くう)」(すき)に通じている。
 千宗旦は「茶禅同一味」という書物を残しているが、そこでも「自己の心法を観ぜしむる茶道」であることが説かれる。
またその本分を踏まえた妙用をお茶では「体用露地」と云うが、そうして言葉も宗旦は禅語からでていると言う。「露地」とは「露わになった清浄な心」。地は心のことだと、宗旦自身が定義している。だから清浄な心が露わになるべき場所が露地であり、清浄な心という本体がいかようにも現象に応じて用(作用)していくのが「体用露地」なのである。ちなみに悟りの世界、仏性そのものをお茶では「白露地」とも云う。

禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P141

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

  • 作者: 玄侑宗久
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/08/02
  • メディア: Kindle版

 

伊藤久右衛門 京都府宇治市

能は地獄の芸術

 このように能の構成を考えるとき、能は正に地獄の芸術とよばれるものであると思う。天台や浄土思想の教えた地獄の世界が、数々の地獄図に似た戦乱の体験の中で、見事に文学に定着していったのである。
そしてこの思想は、むしろ以上語るひまをもたないが、能はふつう考えられるように禅的でも、時宗的でもなく、台密的なのである。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P177

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

仏像〈続〉―心とかたち (1965年) (NHKブックス)

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千如寺大悲王院 福岡県糸島市雷山

2026年3月27日金曜日

江戸

P29
 1590年に家康が江戸城に入った、といってもそれは荒れ果てた砦であった。
天下人の秀吉と雌雄を争う家康が入るような城ではなかった。
 それ以上に、江戸城郭から見渡す風景は、凄まじいほど悲惨であった。
 見渡す限りヨシ原が続く湿地帯であり、雨になれば一面水浸しになる不毛の地であった。
秀吉による江戸転封命令が、徳川家にとっていかに我慢ならない仕打ちであったか。その理由は、この関東が途方もなく劣悪で使い物にならない土地だったからだ。

P32
 1590年に江戸に入り1600年の関ヶ原戦い以前、家康は関東一帯の調査に引き続いて二つの工事に着手していた。
 一つが有名な1592年の日比谷入江の埋立てである。近くの神田山を削って江戸城下を取り巻く湿地帯を埋め立てる。埋立地に武士たちを住まわし、埋立地を沖へ押し出し、船の接岸の水深を確保するものであった。
~中略~
 1594年、江戸から北へ60㎞も離れた川俣(現在の埼玉県羽生市の北部)で人知れず着手されていた。それは「会(あい)の川締め切り」と呼ばれる河川工事であった。
家康はこの工事を極めて重要なものと認識していた。その証拠に、家康は四男・松平忠吉を工事責任者として今の埼玉県行田市の忍(おし)城の城主に据え、利根川の治水と関東の新田開発に専念させる体制を構えた。
 この「会の川締め切り」は湿地の関東を乾燥陸化する第一歩であった。これにより、気の遠くなる自然との闘いの緒戦が切って落とされた。
~中略~
 江戸に帰った翌年の1604年、後に「お手伝い普請」と呼ばれる制度を編み出した。これは諸大名を動員し、彼らの財力や人材を利用して大土木工事を行うものであった。このお手伝い普請で利根川との戦いが再開された。~中略~
 この(住人注;下総台地の一番狭い部分)台地の開削によって、利根川が太平洋とつながった。家康の「会の川締め切り」から30年目、江戸幕府は3代将軍家光の時代になっていた。

P202
 小名木川は、海の波に影響されないで進軍する軍事用の高速水路であった。家康は、このためにわざわざ海岸線の内側の干潟に水路を建設したのだ。
 行徳の塩田を征するだけなら、このような水路など不必要である。天気の良い日を狙って、海岸沿いを伝って行徳まで行けばよい。

P231
 江戸を襲う隅田川は北西から流れてくる、河口は江戸湾の入江が深く入り込んでいて、その入江の奥に中洲の小丘があつた。その小丘の上に江戸の最古の寺が建っていた。それが浅草寺であった。
 徳川幕府はこの浅草寺に注目した。浅草寺が1000年の歴史を持っていることは、この一帯で最も安全な場所という証拠なのだ。その浅草寺を治水の拠点とする。
 つまり、浅草寺の小丘から堤防を北西に延ばし、その堤防を今の三ノ輪から日暮里の高台にぶつける。このお堤防で洪水を東へ誘導して隅田川の左岸で溢れさせ、隅田川の西の右岸に展開する江戸市街を守る。

P371
「なぜ、家康は(住人注;京都にとどまらず)あの江戸へ戻ってしまったのか?」
  この問いのエネルギーからの解答が373ページの図2である。この図は、巨木の伐採圏の遷移を示している。図のタイトルの「記念構造物のため」でわかるように、宮廷、寺院、城などを建造する巨木の伐採の時代変遷である。
~中略~
 家康が関ヶ原で戦っていた頃、木材需要は関西圏の森林再生能力を超えていたことが図2からわかる。当時、大坂で約40万人、京都でも約40万人の人口であったといわれている。
少なく見積もっても、関西圏で年間800万本の立木が必要であった。これでは関西の山地は荒廃せざるを得ない。すでに室町時代の後半、京都の山や比叡山は荒廃していたと伝えられている。

P374
1590年に家康は秀吉によって江戸へ移封されたが、そこでみたものは日本一の利根川流域の手つかずの森林であった。目にしみ入るような緑は利根川流域の未来の発展を告げていた。家康は利根川の江戸を選択した。
 これが「なぜ、家康は(住人注;京都にとどまらず)あの江戸へ戻ってしまったのか?」の問いに対するエネルギーの観点からの答えである。
 強力な権力を確立した江戸幕府は、木材供給基地を利根川・荒川流域でけにとどめなかった。幕府直轄の木材基地を日田、吉野、木曽、飛騨、秋田、蝦夷と全国へ広げた。
江戸幕府は、文明のエネルギー負荷を日本列島全体へ広く薄く分担させることに成功した。全国各地から江戸に向かう大型船の船底には大量の木材が積み込まれた。
 こうして日本全土から江戸へエネルギーが注入されたことにより、100万人という世界最大の都市・江戸の出現が可能となり、徳川幕府260年の長期政権が保たれたのであった。

日本史の謎は「地形」で解ける
竹村 公太郎 (著)
PHP研究所 (2013/10/3)

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫)

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫)

  • 作者: 竹村 公太郎
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2013/10/03
  • メディア: 文庫


 関ヶ原と、大坂ノ役によって豊臣家の勢力が地上から消えるや、徳川政権の所在地である江戸は、都市として爆発的な繁栄をはじめるkととなった。
 こんにち、農村の次男坊以下が、東京へゆけばなんとかなる、と考えているように、徳川初期の諸国にみなぎった江戸熱というものは相当なもので、諸国から一代身上を夢みる一旗組がぞくぞくとあつまってきた。
 江戸は、将軍とその直参のほか、三百諸侯がその家臣をひきいて駐留している、武家の町である。人数にすれば、五十万はくだらぬといわれ、そのすべてが、完全消費生活者であった。国もとから吸いあげる金穀を江戸でつかうのである。江戸の町人は、かれらの消費生活のおかげで衣食しているわけで、手に職があるか、商才さえあれば、江戸で旗をあげるのはさして困難ではない。
「江戸へゆこう」
 というのは、覇気ある諸国の庶民の合言葉のようなものであった。
 漁師までが江戸へ行った。大坂の佃(つくだ)に群居していた海岸漁師が、集団移動していまの東京湾の佃島にすんだのもそのころだし、いまの大阪府大和田にいた鰻とりのうまい淀川の漁師たちが、鰻をとるだけの技術で、江戸の川すじに集団移住したのもそのころである。いまだに東京の鰻屋の屋号に「大和田」というのが多いが、この屋号には、三百年前のそういう歴史が秘められている。
~後略
(昭和37年5月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P157

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫


 江戸は確かに人工都市である。家康が後北条氏の滅亡後に関東移封になったとき、当時の常識では小田原城に入るのが普通だった。しかし彼は敢えて江戸を選び、廃城に等しい江戸城に入った。
当時の人口は二千人、それが天明七年(一七八七)の大飢饉に救い米を出すときの人口調査では百六十二万六千五百人になっている。それでいて江戸はドン・ロドリゴ・ビベーロの「日本見聞録」でも宣教師フェリスの「東洋書簡集」でも、当時のヨーロッパのどの町よりも美しい町としている。
そしてその基本となったのが利根川の水流を変えたことと、駿河台から神田につづく高台をほりくずして、いまの皇居前の海を埋め立てたことであった。皮肉なことに、開発反対・自然を守れの急先鋒の新聞社は、かつての「江戸ポートピア」の上に建っている。そして神田付近の平地は、「江戸ポートピア」をつくるため掘りくずされた台地の跡である。
駿河台から猿楽町に下りて行く急な長い石段が今もあるが、その近くの印刷所や製本所行くたびに、私は、これはかつて台地を削りとったために出来た崖だなと思う。そしてその土をもって、今の帝国ホテルから帝国劇場に通ずる線の南の海を全部埋めたて、それが現在の日本の中心地になっていることを思うと、「政治権力と土木」ということを考えざるを得なかった。
~中略~ それ(住人注;東京という都市)は家康型「土地改良事業法」俗にいう「土改法」の強大な権力による施行の結果である。

「御時世」の研究
山本 七平 (著)
文藝春秋 (1986/05)
P47

「御時世」の研究

「御時世」の研究

  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1986/05
  • メディア: ハードカバー


東京都 浅草

重信川

 豊臣時代までは、伊予第一の川といううことで、伊予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、この川だけではないか。
 秀吉の子飼いの大名には土木家が多かった。城普請の藤堂高虎、石畳と灌漑土木の加藤清正が有名だが、加藤嘉明(よしあき)や福島正信さえ、凡庸でなかった。~中略~
 当時、土木は国土経営の核心のようなもので、同時に土木感覚は武略の感覚とも表裏していた。秀吉政権における武断派とよばれたかれらが、関ヶ原まで家康方につき(というより家康に操作され)、文吏派であった石田三成と戦ってこれを滅ぼしたことは、周知のことである。
 関ヶ原以前、伊予で六万石の身代でしかなかった加藤嘉明(後年、会津に転封させられる)は二十万石に加増され、関ヶ原から三年後に家康に乞い、道後平野に新城と新城下町を築くことを許可される。今の松山城(勝山城)と松山旧市街がそれだが、この加藤嘉明以前の松山付近というのは一望の田畑と葦(あし)の野で、めだつほどの集落もなかった。
~中略~
 松山城とその城下町をつくった加藤嘉明も、似たようなことをした。旧城の松前(正木)城下におたたという魚を行商する女がいて、陽気で頭がよく、唄がうまかった。
 「おたたよ、一つたのむ」
 と、どうやら嘉明自身が、この行商の女に地元をにぎわすことを頼んだらしい。
この時代には奴隷労働がなく、賃銀(米で支払う)労働であった。かつて秀吉がやった大坂城造営も、賃金労働であった。それでも、農事以外の労役農民はきらったから、施工主としては地元を普請にむかって祭気分で沸かさねばならなかった。奈良・平安初期なら行基や空海のような大衆に人気のある僧がそのことをやったが、戦国・豊臣期をへた社会は、その種の神秘人格を昔ほどには信じなくなっていた。
 その代わりとして、おたたのような人気女が登場する。 ~中略~
 嘉明の夫人をお萬といった。お萬はみずから炊出しをし、おたたらの一行に握飯をくばったという。
 この間、重信川の名のもとになった足立重信という普請奉行が、みごとな普請指揮をした。
 かれは山上の城に多数の瓦を運ぶのに、運搬のひとびとがいちいち一人ずつ山坂を登るという無駄をはぶき、麓から山上まで近郷の農民を一列にして長大な人垣をつくらせ、手から手へ瓦を渡させて一日のうちに所要の瓦のすべてを片づけ、嘉明をおどろかせた。
 それまで伊予川はしばしば氾濫した。重信は嘉明から命ぜられて堤をきずき、水の勢いを殺いだり、流れを変えたりして、みごとに治水した。
 重信は、通称を半助、のち半右衛門とあらためた。地元が自然に名づけるとすれば半助川とでもよんだろうが、わざわざ諱(いみな)を河川の名にしたというのは、嘉明自身の命によるものといっていい。領内の重要な河川に家臣の名をつけるなど、よほどのことであったろうと思われる。

街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
 P26

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

街道をゆく 13 (朝日文庫 し 1-14)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1985/05/01
  • メディア: 文庫

愛媛kenn 松山市

隠岐

 隠岐は、ただの島ではない。佐渡、淡路、対馬、壹岐と同じく、一島をもって一国と称せられてきた島である。
 従って、数千年の独立の文化をもち、また数千年のあいだ中央と、政治、文化上の接触をうけてきた。しかも、いわゆる離島的条件のおかげで、その古い文化が、本土よりのはるかによく保存されてきている点でも、異風である。
(昭和36年11月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10

司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P76

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

沖ノ島 宗像市

久高の屁

久高では外間(ほかま)の根人真仁牛(ねびとまにうし)に、女の同胞が二人あった。姉は於戸兼(おとがね)は外間の祝女で、島の御嶽の御祭に仕えていた。
妹の思樽は巫女であった。首里に召されて王城の巫女となり、日夜禁中に住んで神の御役を勤めている中に、国王の御心にかない、すなわち入って内宮の人となった。
性貞静にして姿は花よりもさらに美しかったゆえに、一人の寵愛と幾多の恨みを嫉みと、ことごとくこの君の身に集まり、宮中眼をそばだてて物言いかわす友とてはなかったところに、どうした悪い拍子であったか、多勢のいる中で、とんでもない不調法な音がしたそうである。
宮女たちはこれを聞いて大いによろこび、寄るとさわるといつまでもこの噂のみをしたために、何ぶんにも辛抱して御前には仕えかね、ついに御暇を賜わって故郷の島に帰ってきた。そうして久しからずして王子を生んだ。~中略~

 思金松兼八歳の童子となって、日夜にわが父は誰ぞと母にたずねたもう。~中略~
 その七日目の夜明け方に、沖の方から光り輝いて、寄ってくる物がある。衣の袖をのべすくい取ってみると、不思議や黄金の瓜であった、大いに喜んでこれをふところにし、母に別れを告げてはるばると首里の都の、王城の前に立って、世の主加奈之に対面がしたいと申さるる。
髪は赤く衣は粗く姿はしかも気高い童子が、かくかくの次第と聞しめして、何事の願いぞと御前近く呼び上げたもうに、懐中よりかの黄金の瓜を取り出し、これはこの国家の宝、天甘雨を降し沃土すでに潤うの時、かつて屁をしたことのない女をして、この種をまかしめたもうならば、繁茂して盛んに実を結ぶべしと申し上げた。
国王大いに笑いたまい、そんな女がこの世にあろうかとおおせられる。しからば屁でおとがめを受ける者もないはずと、まず御心を動かしてたてまつる。やがて内院に左右の人を遠ざけ、おたずねによって、くわしく久高の母が嘆きを言上した。
この王他の御子とてはなかったゆえに、後に思金松兼を世子と定めたまい、ついに王の位に登って百の果報を受けたもうと語り伝えている。
 第四王朝の尚金徳王は、すなわちこの思金松兼の御事かという説がある。

海南小記
柳田 国男
(著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P88

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫


奈良県 聖林寺

竹富島

P91
竹富島では、島民の申しあわせによって、旅館・ホテルのたぐいは許されない。
この島を訪ねる者は、住民の住まいに民宿するという規定になっている。私どもが予約した高那旅館も、やや専門化した民宿であった。ついでながら、浜でキャンプすることも許されない。すべての来訪者を民宿させることによって、住民の暮らしを潤させるためである。
 むろん、廉(やす)い宿泊料しかとらないから大した潤いにはならないが、それでもこの取り決めによって、いま沖縄の島々の土地を、札束で頬をたたくようにして買い占めつつある本土の観光資本をかろうじて防ぎとめているのである。
 竹富島は、民俗学の宝庫とされている。というよりも沖縄の心の宝庫だという意識が住民の側に濃厚にあり、外部資本に土地を売らないだけでなく、住民が今の暮らしの文化をそのまま維持できるよう、経済的にも配慮されたのが、この徹底した民宿主義なのである。

P107
このことは、あるいはすぐには信じられないことかもしれないが、八重山諸島では十七世紀まで石器、木器の時代がつづいていた。話は飛躍するが、この事実を、冷静に知的にそして濁りのない情緒で把握しなければ、現代にいたるまでの沖縄史と沖縄問題の本質をとらえぞこねるのではないかと思える。
~中略~
東アジアで鉄器が普及していわゆる鉄器時代が成立するのは、中国がもっとも早いとされている。
春秋戦国時代に鉄器が出現するとはいうものの、普及するのは紀元前三世紀以降といわれる。
その普及が、日本にもおよんだ。日本では弥生式前期(紀元前三―紀元前二世紀)というから、中国本土で武器や農具として普及しきったところに上陸するのである。
それが普及したのは、古墳時代であろう。大規模な古墳をつくるには大量の鉄製の鍬が必要だし、その鍬も、中国古代の農具のように鋳鉄製であってはもろくてどうにもならない。
鍛鉄製の、つまりハガネ造りだったわけだし、古墳時代にはその大量の鍛鉄製の鍬が灌漑土木につかわれ、飛躍的に耕地がふえ、自然、人口もふえ、各地で大小の土豪が成立し、古墳時代ができあがたかと思えるが、その普及は、紀元前から日本人が住んでいたといわれる沖縄にまでおよばず、要するに沖縄は均等に発展する仲間からはずれていた。
 その唯一と言っていい理由は、沖縄諸島では砂鉄を産しなかったからである。

P117
 このあたりの島のおもしろさは、島の大小だけでは島々の政治史が測れないのである。この竹富島は地図でみてもわかるとおり、ちっぽけな隆起サンゴ礁なのだが、それが本土の室町期には、となりの大きな石垣島や西表島、またそれらをふくめた八重山諸島ぜんたいの総督府(蔵元)が置かれていたという事実が、ちょっと理解できない。
その理由は、竹富島の出身者ではじめて首里王府の官吏になった西塘(にしとう)(竹富島では島出身の最大の歴史上の人物である西塘を神として祀っているし、そのよび方も様という尊称をつけている)が、この小さな島が故郷であるためにここに総督府を置いたという見方もある。しかしほかに、マラリアその他の風土病がないのはこの竹富島だけだったからという説もある。
 石垣島は川や湧水が多いせいもあってマラリアが多かったと言い、室町期までは海浜の一部に人が住んでいる程度だった。
 それ以上の大島である西表島は考古学的遺跡などからみて人間が居住した痕跡はふるいようだが、集落が栄えたことはなく、いまも「西島町」などという独立の町名はなく、竹富島の名を冠した「竹富町」に属しているのである。

 そのくせ、竹富島は、川や池がないために稲作ができず、川が幾筋もある西表島においてそれが大いに可能なのである。このため、昔も今も竹富島のひとびとが西表島に水田をもち、舟に鍬などをほうりこんで、海を渡って耕作にかよっている。 

街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)

街道をゆく6

街道をゆく6

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

藍島 北九州市

与那国

 与那国では平家の一族の末という部落があって、今なお在来の島人の子孫たちと対立し、平和の競争を続けていると言った人があるが、はたしてそうであろうか。
平家は北に四百里(約一六〇〇キロ)をへだてた南九州の山村から、島では川辺郡の十島を始めとして、どこへも上陸して遺蹟を留めている。
モリは社地または霊山を意味する普通名詞であるが、これを祀る島ではことごとく、行(ゆき)の盛友(もりとも)の盛などの神歌を存し、さらに系図ができ、また後裔が栄えていて、系図を否認すればおそらくは決闘を申しこまれる。
海は一続きであるから壇の浦の船の数だけは、落人の漂着した例もあり得るのであるがであるが、実はその後の六、七百年も、彼らをして優美なる由緒を保存せしめるほどに、島の生活は無事単調ではなかった。
 たとえば石垣島にあっては、赤蜂本瓦が井底の痴蛙であったために、宮古の仲宗根豊見親は、沖縄の船軍をしてこの島に攻め入り、各村の旧住民を制御してこれをただの百姓にしてしまった。すなわち石垣のユカルピト(優越階級)は、少なくともその血の三分の二まで、宮古系になったのである。
これに反して与那国の島では、宮古出身と伝うる酋長の鬼虎が、あまりに暴虐を振るまったために、ついに石垣からの遠征を受けて、たちまち全村の屈服となってしまった。 ~中略~
こうした長い年月の交通往来を重ねているうちに、人の血はいよいよ混淆(こんこう)して、恨んだ者も恨まれた者も、ただ忘却の一体となってしまったことは、あたかもこの漫々たる大海の波濤のごとく、永古に残るものとては、ひとり底知れぬ潮の力のみであった。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P135

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫
角島 山口県