2026年3月27日金曜日

竹富島

P91
竹富島では、島民の申しあわせによって、旅館・ホテルのたぐいは許されない。
この島を訪ねる者は、住民の住まいに民宿するという規定になっている。私どもが予約した高那旅館も、やや専門化した民宿であった。ついでながら、浜でキャンプすることも許されない。すべての来訪者を民宿させることによって、住民の暮らしを潤させるためである。
 むろん、廉(やす)い宿泊料しかとらないから大した潤いにはならないが、それでもこの取り決めによって、いま沖縄の島々の土地を、札束で頬をたたくようにして買い占めつつある本土の観光資本をかろうじて防ぎとめているのである。
 竹富島は、民俗学の宝庫とされている。というよりも沖縄の心の宝庫だという意識が住民の側に濃厚にあり、外部資本に土地を売らないだけでなく、住民が今の暮らしの文化をそのまま維持できるよう、経済的にも配慮されたのが、この徹底した民宿主義なのである。

P107
このことは、あるいはすぐには信じられないことかもしれないが、八重山諸島では十七世紀まで石器、木器の時代がつづいていた。話は飛躍するが、この事実を、冷静に知的にそして濁りのない情緒で把握しなければ、現代にいたるまでの沖縄史と沖縄問題の本質をとらえぞこねるのではないかと思える。
~中略~
東アジアで鉄器が普及していわゆる鉄器時代が成立するのは、中国がもっとも早いとされている。
春秋戦国時代に鉄器が出現するとはいうものの、普及するのは紀元前三世紀以降といわれる。
その普及が、日本にもおよんだ。日本では弥生式前期(紀元前三―紀元前二世紀)というから、中国本土で武器や農具として普及しきったところに上陸するのである。
それが普及したのは、古墳時代であろう。大規模な古墳をつくるには大量の鉄製の鍬が必要だし、その鍬も、中国古代の農具のように鋳鉄製であってはもろくてどうにもならない。
鍛鉄製の、つまりハガネ造りだったわけだし、古墳時代にはその大量の鍛鉄製の鍬が灌漑土木につかわれ、飛躍的に耕地がふえ、自然、人口もふえ、各地で大小の土豪が成立し、古墳時代ができあがたかと思えるが、その普及は、紀元前から日本人が住んでいたといわれる沖縄にまでおよばず、要するに沖縄は均等に発展する仲間からはずれていた。
 その唯一と言っていい理由は、沖縄諸島では砂鉄を産しなかったからである。

P117
 このあたりの島のおもしろさは、島の大小だけでは島々の政治史が測れないのである。この竹富島は地図でみてもわかるとおり、ちっぽけな隆起サンゴ礁なのだが、それが本土の室町期には、となりの大きな石垣島や西表島、またそれらをふくめた八重山諸島ぜんたいの総督府(蔵元)が置かれていたという事実が、ちょっと理解できない。
その理由は、竹富島の出身者ではじめて首里王府の官吏になった西塘(にしとう)(竹富島では島出身の最大の歴史上の人物である西塘を神として祀っているし、そのよび方も様という尊称をつけている)が、この小さな島が故郷であるためにここに総督府を置いたという見方もある。しかしほかに、マラリアその他の風土病がないのはこの竹富島だけだったからという説もある。
 石垣島は川や湧水が多いせいもあってマラリアが多かったと言い、室町期までは海浜の一部に人が住んでいる程度だった。
 それ以上の大島である西表島は考古学的遺跡などからみて人間が居住した痕跡はふるいようだが、集落が栄えたことはなく、いまも「西島町」などという独立の町名はなく、竹富島の名を冠した「竹富町」に属しているのである。

 そのくせ、竹富島は、川や池がないために稲作ができず、川が幾筋もある西表島においてそれが大いに可能なのである。このため、昔も今も竹富島のひとびとが西表島に水田をもち、舟に鍬などをほうりこんで、海を渡って耕作にかよっている。 

街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)

街道をゆく6

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  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
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藍島 北九州市

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