2026年3月24日火曜日

熊本城

 徳川幕府の仮想敵は、家康の時代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。
 幕府は島津氏を封じこめるために、九州に石高の大きな大大名をいくつも置いた。熊本の細川氏、佐賀の鍋島氏、福岡の黒田氏、久留米の有馬氏などがそうで、とくに島津氏が兵を繰りだす要路にあたる熊本城について、細川氏に命じ、つねにその堅牢さを保たしめた。
~中略~
豊臣期に加藤清正が設計築造した熊本城は大きな防御力をもつ城だったが、清正もこれだけの城をつくったのは島津抑えのためであった。

P79
 熊本城を築いた加藤清正は石積みの名人といわれたが、かれが築いた石垣はくずれない。それにはいろいろ秘法があるらしいが、もっともかんじんなことは、地下水が抜けてゆく道を作っておいてやることだったらしい。

 

P81
 加藤清正というのは、古今第一級の石垣の設計者だったように思える。かれの熊本城の場合は、こんにち補修のために築きなおしたあたらしい石垣のほうは鉄パイプを通したりして排水にずいぶん苦心しているが、古くからの石垣は、どういう仕掛けがひそめられているのか、そういうぶざまなことをせずともなお堅牢なのである。
 江戸城が拡張されたときはいわゆる天下普請だったから、その石垣を築くについては諸大名が分担した。諸大名はそれぞれの境界を幔幕(まんまく)で仕切りし、自分の工事現場を他家に見られることをきらったというから、石積みというのはそれぞれ秘密だったのだろうか。
 ところで、技術のへたな大名がいた。その現場は、普請の最中に大雨がふると、もう崩れるのである。その大名がたまりかねて清正のもとへゆき、やりかたを見せてほしいとたのんだ。
 清正は心やすく見せてやった。「明良洪範」だったかに出ていたと思うが、清正の工事には格別の秘法というものはなかったらしい。ただ基礎工事が比類なくしっかりしていて、見学させてもらった大名は、これならば崩れぬはずだと拍子抜けする思いだったという。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P72

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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