2026年3月24日火曜日

淡路国分寺

 国分寺というのは奈良朝の国力未熟のところによほどの無理をして建てられているために、寺域はさほどに大規模でなく、境内はふつう正方形で、一辺が二丁程度の大きさのものとされている。
 近づくと、この(淡路)国分寺もそれほどのものであるらしかった。
 創建のころはどの国の国分寺でもまわりに土手がめぐらされていたというが、ここもその土手の痕跡があるようであり、いまは土手のあとの上の松などが巨木になっていて、森をなしているといった格好である。
ふつう南大門などもそびえていたというが、淡路の場合はわからない。せまい境内に入ると、右手に礎石がのこっている。礎石に近づくと、塔の趾のようだった。
~中略~
 大日堂もある。
 国分寺のころには真言密教の原理的象徴である大日如来の信仰がまだ入っていなかったから、この国分寺はいろいろ変遷して真言密教の寺になったのであろう。
~中略~
 やがて七十年配の小柄な婦人が出てきた。モンペ姿で、畑仕事をされていた様子だった。
 彼女は大日堂の扉をあけてくれて、なかへ入れてくれた。仏像の前の法具が、真鍮製の密教の法具だったから、
「ここは真言宗ですか」
 と、きいてみた。さきに述べたように奈良朝の国分寺にはそういう宗旨はないが、平安・鎌倉に入って諸国の国分寺が衰えるにつれ、時代に勢力のある真言や天台といった宗旨が入って寺運を維持したりした例が多い。ここもそうかと思ったが、
「本当は律宗(りっしゅう)なのでございます」
 と、老婦人は言った。律宗などという奈良朝以来の戒律体系を守っているだけでは庶民の信仰に結びつかないため、真言宗のお経をあげたりして地元の要求と結びつくべく努めているのだ、といった。淡路は、真言宗の多い四国の影響をうけて、たいていの家の宗旨が、真言宗なのである。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P169

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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阿波国分寺(あわこくぶんじ)徳島県徳島市国府町矢野

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