P171
中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きい想像力をはたらかせなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。
P172
戦国中期に日本にきた耶蘇会士ヴィレラは、
「日本において堺の町より安全な所はない。諸国に動乱があってもこの町にはかつてあったためしがなく、町はつねに平和で、諸人はたがいに睦まじく暮らし、他人に害を加えるという者はない」
さらに、外にあって敵味方である者もひとたびこの町に入れば仲よく暮らす。しかしながらかれらが町壁の外に出れば、たとえ石を投げたほどの距離を離れただけでも「すでに町外なり」といって剣を抜き、互いに殺傷しようとするのである、という旨のことを書いている。
堺という、あらゆる勢力に対して局外中立であったというこの町の不文律が、いかにみごとにその外部からまもられていたかがわかるであろう。~中略~日本には鎌倉以来、各地の著名の社寺に「守護不入」という不文律があった。
守護とは、鎌倉体制以後の大名のことである。大名の行政権も軍事権も、中立地帯であるこの社寺の境内に入るべからず、という意味で、戦国期にあってもこのことはよく守られていた。
国際的な貿易都市である堺の中立性は、そういう慣習があったからこそ、ごく抵抗なくまもられることになったに相違ない。 ただし、かつてのドイツの自由都市やいまのスイスがそうであるように堺も重厚な武力はもっていた。海戦ができるような船隊ももっていた商人もあり、個々に牢人部隊をやしなっている者もあり、また富商階級が金を出しあって市中見廻りの傭兵隊をつくり、かれらをして門の警備や市中の治安に任ぜしめていた。
「市街にはことごとく門があって、番人をつけている」
とも、ヴィレラが書いている。
P175
博多は、堺に似せてつくられた。堺にせよ、それを模倣した博多にせよ、
「町人を基礎としてつくられた国家のごとき制度」(ルイス・フロイス)
をもっていた。中世末期の堺をみるとき日本史のなかにおける宝石のようなまばゆさを感ずるというのはそういうあたりである。
P177
しかしながら結局は堺は信長に屈した。
信長は堺に命じて軍事力をもつことを禁じ、傭兵隊を解散させ、自治制を廃止させて、自分の奉行を送りこんで行政にあたらせた。
自由都市である堺はこれによって死滅するのだが、しかしながら信長の意図はそれを遙かに超えたものであったであろう。かれは自治を縊(くび)り殺したかもしれないが、その国家構造では堺の貿易を国家規模にまでひろげ、瀬戸内海を通じてゴヤを見、ローマを見、マドリッドを見ようとしていた。
P180
「堺の市民は高慢とみえるほどに名誉心に富んでいた」
と、フロイスが書いていることは、ごく個人的な、たとえば千利休が秀吉に対して終始とりつづけた態度でもうかがえる。中世末期の堺の町人を、江戸期の町人などから類推すれば大きくまちがうことになるであろう。
その自尊心と美的教養と国際知識と、そして富こそ軍事力を超える力だとする自信などからみても、日本史上のあらゆる時代を通じてこういう種類の日本人集団が出現したことはなく、ほとんど異国人を見るような思いがする。
かれらは起居言動に、中世人特有の節度を持っていたという点では、なまなかな室町武家などよりも端然たる紳士であったかもしれない。さらには船舶の運用に当たってはたえず海賊に備え、ときにはそれと戦って殲滅しなければならないという点では、日本武家以上の豪胆さを必要としていた。かれらの対明貿易の必要と京の五山(大徳寺、相国寺など臨済禅の諸本山)の僧と結ばなければならなかったという理由もあるがほとんどが禅宗に帰依し、日常の精神を禅的な死生観でもってささえていた。 さらにはそれを美的意識に転化して文明創造をする力ももっていた。
こんにちの経済界の構成者たちとくらべると、よほどちがった存在であったようにおもえる。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

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