2026年3月27日金曜日

波照間島

 波照間島は石垣から西南、なお十一里あまりの海上に孤立している。これから先はただ茫々たる太平洋で、しいて隣と言えば台湾があるばかりだが、しかもここえくればさらにまた、パェパトローの島を談ずるそうである。
パエは南のことで、われわれが南風をハエと呼ぶに同じく、パトローはすなわち波照間の今の土音である。
この波照間の南の沖に今一つ、税吏のいまだ知っておらぬ極楽の島が、浪に隠れてあるものと、かの島の人は信じていた。
 昔、百姓の年貢が堪えがたく重かった時、この島のヤクアカマリという者、これを救わんと思いいたって、あまねく洋中を漕ぎ求めて、ついにその島を見出し、わが島にちなんでこれを南波照間と名づけたと伝えている。
徐福が大帝の命をうけたのとはことかわり、これはこれは深夜に数十人の老幼男女を船に乗せて、ひそかにその縹渺の国へ移住してしまった。
その折りにただ一人の女が、家に鍋を忘れて取りにもどっている間に、夜が明けかかったのでその船は出で去った。鍋掻(なべかき)という地はその故跡ということになっている。~中略~
沖縄でも南に大海を望む具志頭(ぐしかみ)村の銀河原に、俊寛僧都同系の悲惨な話があって、磨小塘(うすおども)の遺跡はまた南の果ての島の鍋掻と対している。昔この里に住む夫婦の者、家計の不如意を愁(うれ)えている折から、一人ある僕、釣りに出でて颶風にあい、珍しい島に上がって数月を過ごした後、ある日南の風に乗じて帰ってきた。
こんな結構な島があります、お伴してまいりましょうと、五穀の種やいろいろの道具とともに、すでに女房を乗せおわってから、いつわって主人に向かって、石臼を持ってきてくれよと頼んだ。
主人は急ぎもどって臼を持って出てみると、もうその小船は沖中に漕ぎ出していて、追いつくこともできなかった。~中略~
 しかしこの話は一方に、「今昔物語」の土佐の妹背島の話にも似たところがある。
船で田植に行く幡多郡の海岸の農夫、苗と兄妹の子供とを船に乗せ、ちょっと家にもどっているうちに風が吹いて、船は沖に出てしまった。
二人ばかりその島に漂着して、せん方なくその苗を植えて、後に同胞で夫婦になったというのである。
台湾の生蕃にはほとんど各蕃社ごとに、これに似た兄妹漂流の事件をもって、部落の始めとする口碑がある。
神の怒りの大水で、臼に乗っていた二人のほかは皆死んだ。その臼のすみに挟まっていた穀物の種をまいて、新たに次の世の親となったと伝えているのである。
 波照間島の人類の始めも、やはりまた災後の兄弟で、神の恵みによって子孫をもうけたち伝えられる。ただしここでは大水のかわりに火の雨が降り、臼のかわりに白金の鍋も要するに皆、ノアの箱舟に他ならぬ。

海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P123

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫

 

杉材

 杉が建材として流行したのは、せいぜい室町時代ごろからかと思える。古い寺院建築や書院造りの建物をみても、ヒノキのようなずっしりした硬い材が主役で、杉のような軟かくてかるがるした材は、せいぜい杉戸のようなものとして使われていた程度のようである。
室町期に、茶室を中心に発達した数奇屋造りがさかんにおこなわれてから、杉が主役になったのであろう。
 いまの日本の住宅建築は、数奇屋造りの系譜をひいている。杉の軽みともくの美しさがよろこばれて、天井板や欄間に使われたり、たるきや床柱に使われてきた。強度などよりも装飾的に杉がよろこばれたという室町期の美学が、四百年以上にわたって日本建築を支配しつづけているのである。
室町期の偉大さに感じ入ってしまうが、逆に言えば、後世の不勉強といえなくもない。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P118

街道をゆく8

街道をゆく8

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

奈良県 金峯山寺

クスノキ

  クスノキは、関東地方より西部の日本と、韓国の済州島から中国南部などに生育する樹種で、日本では九州が圧倒的に多い。
古来、樟脳の原料として、盛んに植林されたという。香木であることから仏像彫刻材にも用いられた。
また、害虫に強く材質が固く、しかも巨木になることから、船材としても貴重な木材だった。
「古事記」の上の巻に次ぎのようなくだりがある。「次に生める神の名は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、亦の名は天鳥船(あめのとりふね)と謂ふ」
 船材としてクスノキを使っていたことを示す記述は、ほかにも「日本書紀」「日本霊異記」「播磨国風土記」などにも見られる。
古来、最も尊ばれた樹種がクスノキだった。

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳 (著)
平凡社 (2001/01)
P184

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)

  • 作者: 加藤 則芳
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: 単行本

 

開聞岳 鹿児島県

安来

安来平野には南の方の中国山脈から、伯太(はくた)川と飯梨(いいなし)川が流れて野をうるおしつつ、中海に入っている。
この河川の上流の山々―とくに出雲・伯耆(ほうき)の国境付近―が、古来、良質の砂鉄を出すのである。~中略~
中国山脈は山陽道の側も古来砂鉄を出しつづけてきたが、質は伯耆国境のそれに劣っている。この方面の砂鉄は、おもに農具にむけられ、また熔かして鋳物用にもちいられたりしてきた。
 古来、精妙な鋼(はがね)の材料になってきたのは出雲砂鉄であり、とくに伯耆国境のそれである。
この出雲砂鉄が鋼塊のかたちにされて山から海岸へ運び出され、この安来港にうかぶ和船に積みこまれて全国に送られた。江戸期、安来の栄えは、鉄によるもので、そのにぎわいは安来節の古い歌詞の、  安来千軒 名の出たところ  社日桜に十神山(とがみやま)  に、しのぶことができる。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P209

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

島根県 清水寺

篠山青山氏

P145
(住人注;丹波)篠山城主は江戸初期は諸家が頻繁に交代したが、青山氏が入部してからは維新までそのままつづいている。
 青山氏の遠祖は近江から三河に流れてきて、家康の祖父の代から仕えていたというから徳川家にあっては譜代重恩といわれる部類の家である。べつにめだった戦功はなかったが、実直な性格のものが数代つづいた。~中略~
 江戸期を通じて、忠朝、忠裕というように幕政を担当して多少の功のあった藩主もあるが、民政上の名君というのは出ておらず、典型的な官僚型の大名家だったのであろう。

P147
 丹波篠山藩は、江戸期における大名の典型ともいうべき平凡な藩だった。せいぜい、東京に青山という地名をのこしたということぐらいだろう。この地名には、伝説がある。青山家の先祖忠成が、家康が江戸入部したとき、
―あのあたりを馬で駆けてみよ。駆けただけ土地をやる。
 といわれてそのとおりにした。このため小大名のわりには江戸の屋敷地は諸侯のなかでももっとも広大だったといわれているが、その後、その地が家名で通称されるようになり、いまなお地名としてのこり、地名が転じて青山大学や青山霊園といったかたちで残っている。
もっとも青山の地に藩邸をずっともっていたのは別家である美濃郡上藩の青山氏のほうで、この篠山青山氏のほうの藩邸は霞が関にあった。

 幕末の動乱期にも篠山青山氏はしずかで、一人の国事奔走家も出さなかったというのは、むしろこの藩の藩風のおだやかさを物語るものかもしれない。 

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
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兵庫県 竹田城

石田三成

 石田三成の生まれは豪農といえる程度の農家だったらしいが、到底品種を誇れるほどのものではない。しかし秀吉に仕えてからのこの男の歩みは、今日のエリートと酷似している。
彼は、羽柴(のちの豊臣)という大名組織に入り、早くからエリート官僚としての道を歩み、ついにはこの体制の中軸機構を掌握するまでになる。石田三成の経歴のなかには、信長のような同族闘争も、新要素の導入もない。秀吉のような苦しい少年時代も知らないし、攻城野戦の武功も乏しい。
 彼は、少年時代からエリートととして育てられ、新しいものの導入よりも既成の補修維持に熱中するのである。この男が「へいくわい者(横柄者)」といわれたのも、今日のエリートに見られる特色と一致している。


歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか

堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P88

歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: 日経BP
  • 発売日: 2012/10/13
  • メディア: Kindle版

 

滋賀県 延暦寺

徳川家康

 家康は、信長や秀吉のような天才はもたなかったが、なによりもこの両雄よりすぐれていることはその義理堅さ、律義さであり、家康のこの性格に対する信用が、かれをして天下をとらしめたといっていい。
 家康は、だまさない人だった。
~中略~
家康は律義そのものの男で何度か信長に煮え湯をのまされたが、それでも裏切らなかった。
「三河どのの律義」
 というのは、天下に知られるようになった。どの大名も家康の言葉だけは真にうけて大丈夫という見方をもった。戦国の世でこれほどの信用のある男はいなかった。
~中略~
 かれがたぬきおやじになったのは七十前後からで、当時大坂城には秀頼がいた。すでに二十になろうとしていた。
 家康自身は、七十の老人で、老いさき、長かろうはずがないが、秀頼はこれからの年齢である。もし自分が死ねば、せっかく得た天下は、砂上の楼閣になりかねない。
 ここで家康は、たぬきおやじになった。まるで死ににものぐるいのように秀頼をいじめ、だまし、ついにその家を覆滅した。
 家康が律義のカンバンをおろしたのは、そういう事情からであった。このため後世食えぬ男といわれるようになった。どうじょうされていい人間である。
(昭和37年11月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P256

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

佐賀県 嬉野温泉 椎葉山荘

2026年3月26日木曜日

応神天皇

  大阪湾沿岸の平野における弥生式農耕が最初の大成熟期をむかえるのは、三世紀末から四世紀にかけてであろう。
この時期に、応神天皇といわれる専制者が、出現した。その古墳はよく知られているように大阪府旧南河内郡にある巨大な陵墓だが、要するにこれだけの大土木を可能にするだけの大権力が成立するほど、生産があがり、人口がふえ、支配圏がひろがった。
 ―応神天皇は、応神王朝という新しい王朝の始祖である。
 という水野祐氏のすぐれた説は、その後、その説の上に、他の多くのあたらしい見方が築かれた。
たとえば応神の権力には、海外へのひろがりがある。この時期、朝鮮半島でも、大変動があった。
四世紀はじめに中国支配圏の楽浪がほろび、本来の朝鮮半島民族である高句麗がおこり、南鮮の小さな部族国家が滅んで、新羅・百済という広域国家ができあがった。この朝鮮半島の大変動によってはみ出たひとびとが、海をわたって応神王朝の傘下に入った。
伝説上の学者である王仁(わに)や阿知使主(あちのおみ)といった漢文化を身につけたひとびとが朝鮮半島から渡来したとされるのも、この時期である。応神王朝は日本における最初の広域権力であろう。
「日本書記」の記述を信ずるわけではなく、これを想像の手掛かりにするとして、応神天皇の五年八月のくだりに、諸国に令して「海人部(あまべ)」と「山守部」をさだめたとある。そのときに淡路の漁民が、海人部という、王朝直属の技能民として支配された。獲れたあわびなどを船にのせ、大阪湾を漕ぎわたり(おそらくいまの西宮市の浜に上陸したであろう)それら海の幸を宮廷の台所におさめるのである。農業で成立した広域権力が、漁業を隷属させた。
 部(べ)というのは津田左右博士はその語源が朝鮮半島南部の百済のことばであるとされた。部の制度もまた百済の制度にあったにちがいない。それを応神朝という名称で象徴される大阪湾沿岸の古代権力がとり入れた。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P120

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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神戸

金屋子神

 カツラの木は、古代以来、山で砂鉄を吹くひとびとにとって、聖木なのである。山中でタタラをおこすとき、そばに鉄の神の金屋子神(かなやこかみ)を祭るのが常だった。
その金屋子神というのは天から天降(あも)りするときにカツラの木を伝って降りてくる。このため、タタラのそばにかならずカツラの木が植えられた。
 金屋子神というのは、「古事記」や「日本書紀」には出てこない神である。
「古事記」や「日本書紀」に出てくる冶金の神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)で、彼女はたしか天香具(あまのかぐ)山で鏡をつくったというし、また鹿の皮を剥いで天羽鞴(あまのはぶき)(フイゴであろう)をつくる技術ももっていたといわれている。
 余談だが、先日、紀伊の一ノ宮の日前宮(にちぜんぐう)(ひのくまぐう)に行って、宮司の紀さんから紀州鍛冶の話をうかがったとき、
 ―そういえば、このお宮に、石凝姥命も祀られています。
 と、いわれた。紀ノ川流域は古代から鍛冶がさかんで、その鍛冶たちが自分たちの技術の祖であるとされる石凝姥命をまつった。しかし中国山脈系では、この「記紀」による筋目の神は、まつられていない。
 中国山脈系はあくまでも金屋子神なのである。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P212

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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奈良県 丹生川上神社

堺

P171
中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きい想像力をはたらかせなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。

P172
 戦国中期に日本にきた耶蘇会士ヴィレラは、
「日本において堺の町より安全な所はない。諸国に動乱があってもこの町にはかつてあったためしがなく、町はつねに平和で、諸人はたがいに睦まじく暮らし、他人に害を加えるという者はない」
 さらに、外にあって敵味方である者もひとたびこの町に入れば仲よく暮らす。しかしながらかれらが町壁の外に出れば、たとえ石を投げたほどの距離を離れただけでも「すでに町外なり」といって剣を抜き、互いに殺傷しようとするのである、という旨のことを書いている。
堺という、あらゆる勢力に対して局外中立であったというこの町の不文律が、いかにみごとにその外部からまもられていたかがわかるであろう。~中略~日本には鎌倉以来、各地の著名の社寺に「守護不入」という不文律があった。
守護とは、鎌倉体制以後の大名のことである。大名の行政権も軍事権も、中立地帯であるこの社寺の境内に入るべからず、という意味で、戦国期にあってもこのことはよく守られていた。
国際的な貿易都市である堺の中立性は、そういう慣習があったからこそ、ごく抵抗なくまもられることになったに相違ない。  ただし、かつてのドイツの自由都市やいまのスイスがそうであるように堺も重厚な武力はもっていた。海戦ができるような船隊ももっていた商人もあり、個々に牢人部隊をやしなっている者もあり、また富商階級が金を出しあって市中見廻りの傭兵隊をつくり、かれらをして門の警備や市中の治安に任ぜしめていた。
「市街にはことごとく門があって、番人をつけている」
 とも、ヴィレラが書いている。

P175
博多は、堺に似せてつくられた。堺にせよ、それを模倣した博多にせよ、
「町人を基礎としてつくられた国家のごとき制度」(ルイス・フロイス)
 をもっていた。中世末期の堺をみるとき日本史のなかにおける宝石のようなまばゆさを感ずるというのはそういうあたりである。

P177
しかしながら結局は堺は信長に屈した。
   信長は堺に命じて軍事力をもつことを禁じ、傭兵隊を解散させ、自治制を廃止させて、自分の奉行を送りこんで行政にあたらせた。
自由都市である堺はこれによって死滅するのだが、しかしながら信長の意図はそれを遙かに超えたものであったであろう。かれは自治を縊(くび)り殺したかもしれないが、その国家構造では堺の貿易を国家規模にまでひろげ、瀬戸内海を通じてゴヤを見、ローマを見、マドリッドを見ようとしていた。

P180
「堺の市民は高慢とみえるほどに名誉心に富んでいた」
 と、フロイスが書いていることは、ごく個人的な、たとえば千利休が秀吉に対して終始とりつづけた態度でもうかがえる。中世末期の堺の町人を、江戸期の町人などから類推すれば大きくまちがうことになるであろう。
その自尊心と美的教養と国際知識と、そして富こそ軍事力を超える力だとする自信などからみても、日本史上のあらゆる時代を通じてこういう種類の日本人集団が出現したことはなく、ほとんど異国人を見るような思いがする。
 かれらは起居言動に、中世人特有の節度を持っていたという点では、なまなかな室町武家などよりも端然たる紳士であったかもしれない。さらには船舶の運用に当たってはたえず海賊に備え、ときにはそれと戦って殲滅しなければならないという点では、日本武家以上の豪胆さを必要としていた。かれらの対明貿易の必要と京の五山(大徳寺、相国寺など臨済禅の諸本山)の僧と結ばなければならなかったという理由もあるがほとんどが禅宗に帰依し、日常の精神を禅的な死生観でもってささえていた。 さらにはそれを美的意識に転化して文明創造をする力ももっていた。

こんにちの経済界の構成者たちとくらべると、よほどちがった存在であったようにおもえる。 

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)

 

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

街道をゆく〈4〉洛北諸道ほか (1978年)

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大台ヶ原山 奈良県