2025年5月31日土曜日

地方と東京

   欧米では著名な学者や作家、画家などは風光明媚な地方か、生まれ育った故郷に住むこと誇りにしている。特にアメリカやドイツではその傾向が強く、地方に住んでも出版社や画商が追いかけて来るのが「一流の証」という人も少なくない。
 ところが日本はまったく逆、地方で育った学者や作家、画家も、いささか名が売れると急いで東京に居を移す。東京にいなければ一流ではないような雰囲気が出来上がっているのだ。
「「新都」建設」

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る
堺屋 太一 (著)
PHP研究所 (2004/12/7)
P87

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/12/07
  • メディア: 単行本

 社をやめてみると、なんとなく手もちぶさたで、妙なぐあいです。長い習慣で、朝八時に起きると、すぐ洋服にきかえます。十時半まで女房と駄法螺(だぼら)をふきあい十一時から仕事にかかります。夜八時まで書いて、あとは和服にきかえて遊びます。十一時半には就寝。この日課はくずすまいと思っています。~中略~
 三月に二度は東京にあそびに行っている勘定になりますが、一週間も滞在すると、帰りたくてたまらなくなります。東京や関東の荒涼とした風景は、小生にはすこししんどいようであります。
(昭和36年4月)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P257

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫





考えるまでもなく、日本の厚生労働省は、東京も北海道も沖縄も同じように規制しているので、まともな薬で、東京なら(金を積めば)手に入るが地方では無理、というものがあるはずはない。
ただ地方の人の地方不信、東京信仰はものすごいものがあり、マスコミもこれを煽る。
 これのどこがいけないのか。最大の問題は、地方の良心的な臨床医の士気を挫くことである。~中略~
この先生とその病院は、文句なく日本のトップレベルにあるのだが、ただ東京でないというだけで地元の人にも低く見られてしまう。その無念や思うべしである。大都会の神戸ですらこれである。もっと地方の中小都市できちんとした臨床をやっておられる先生は、もっともっと悔しい思いをしておられるだろうと推察する。 地方の医療崩壊に拍車をかけない方が不思議であろう。

偽善の医療
里見 清一(著)
新潮社 (2009/03)
P164

偽善の医療 (新潮新書)

偽善の医療 (新潮新書)

  • 作者: 里見 清一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/03/01
  • メディア: 新書


「どの字(あざ)ですか」
と、出身の集落をきくと、地名など下界(げかい)の人間に言ってもわからないと思ったのか、
「田舎です」
 というばかりだった。日本の文化意識にあっては、都鄙(とひ)の差別がうるさい。
平安期のころから江戸期、こんにちにいたるまで、かつての京、または江戸、あるいは明治期の東京に価値のすべてが集中し、田舎は蛮地のように見なす習俗があって、日本文化(あるいは文化意識)の重要な特徴の一つであるといえる。
この特徴はじつに精妙なもので、田舎には田舎としての都鄙があり、たとえば、県庁の所在地が県下に対して文化的優位意識をもつというぐあいだが、十津川郷にも都鄙の落差感覚があるというのは、ちょっとおもしろかった。

街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)
P142

街道をゆく〈12〉十津川街道 (1983年)

街道をゆく〈12〉十津川街道 (1983年)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2020/07/09
  • メディア: -


福井県 神宮寺

都会の暮らしは楽ですか?

 新潟地震は一九六四年六月十六日にマグニチュード七・五でおこった地震で、亀田郷の揚水ポンプなどが破壊され、亀田郷だけでなく信濃川や阿賀野川ぞいの埋立地で被害が大きかった。
上杉川のひとびとも里に降りて土工などの仕事をし、いい賃金をとった。贅沢もおぼえた。人間はいったん現金が手軽に入って手軽に消費できる暮らしの中にまぎれこんでしまうと、山に帰る気がしなくなるのであろう。
山では何もかも自分の手と足で生活の必需品をつくらねばならないし、燃料も山へ入ってシバを刈らねばならず、そのシバで風呂をわかすにしてもまず谷から家まで何度となく上下して水を汲み上げることから始めねばならない。
(里というのは、こんなに体が楽なものか)
 と知ってしまったために離村したというのが、どうやら実情であるらしく、上杉川の場合、その以外には理由も考えられないようである。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P95

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

福井県 神宮寺

筋目好き

蘇我氏のそもそもの成り立ちは、歴史のなぞである。ただ蘇我氏は、クンナカの王家に対して自分の筋目をたてるために、「蘇我氏は武内宿禰の子孫である」
   と自称していたことはたしかで、その伝説的人物である武内宿禰はさらに伝説的天皇である孝元天皇(第八代)の曾孫であるという体になっているから、蘇我氏も「皇別」になる。大和民族の筋目好きは、どうやら成りあがりくさい蘇我氏あたりが最古の先例になるのではないか。

街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1978/10)
P87

街道をゆく〈1〉長州路ほか (1978年)

街道をゆく〈1〉長州路ほか (1978年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

 

野武士というのは、野伏とも書き、武士でなく不良土民のことだ。集団をなし、戦いがおわると落武者をさがしだして、その所持品をうばうのが商売である。戦場泥棒というべき存在だろう。
~中略~
 戦国時代に身をおこした大名のほとんどは名も素性ない土民の出だが、江戸時代になって、しかるべき家系をつくった。系図づくりは、当時の風潮で、しかも幕府は諸大名や旗本に家譜をさしだすように命じているから、大名の家としては公務でもあった。
(昭和36年11月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P51

 

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

 

前近代の東アジア世界では、他人が人を「諱」で呼ぶと大変な失礼になった。本来、名前というものは人を呼ぶためにあるが、それが呼称にならない、というこの奇習は、中国に発し、朝鮮にひろがり、日本にまで到達した。
庄屋や名主など上層農民が、この「諱」をさかんにつけ、のちには、武士に憧れる普通の百姓たちもこの真似をした。
新撰組などは、その最たるものであり、武州多摩郡上石原村の百姓勝五郎は近藤勇昌宜(まさよし)、同郡石田村の百姓歳三は土方歳三義豊などと名乗り、まずはその名前から「武士」をはじめた。~中略~
 こういうことは、なにも百姓にかぎらない。大名も「大名らしい名前」を名乗った。
近世大名は、そのほとんどは戦国の乱れから、槍一本でのし上がってきた「土豪」の子孫である。文字通り、「氏素姓」が定かでないものが多い。そこで、いかめしい朝廷の官名を名乗って、大名らしくした。つまり、大名は、公家の真似をして、大名らしくなる。
―名にこだわる
 というのは、ある種、日本人の性といってよい。この国では、「名」によって驚くほど簡単に支配が正当化される。
木下藤吉郎が「豊臣」の姓を賜り、「関白」の官名を名乗ると、草履取の支配も、たちまちにして正当化された。
つまるところ、名があれば、日本人は納得する。
ブランド名による納得と支配。これが日本人の深層心理の一つといってよい。その中心には、いうまでもなく、天皇が位置しており、不思議なことに、この中心点は真空になっていて、天皇には姓という「名」がない。
肝心の天皇はもっぱら、臣下に姓を与えることによって、支配の中軸をなしてきた。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P27

 

殿様の通信簿 (新潮文庫)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

  • 作者: 道史, 磯田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/09/30
  • メディア: 文庫

 

 

日蓮(~略~)は自分のことを、
 ―海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり。
 とはっきり言っている。旃陀羅とは、インドの四姓(カースト)のなかにもはいらない再下層民で、おもに屠殺(とさつ)、漁労をなりわいとしていた階層である。
 それなのに、のちの日蓮信者は、
 ―聖武天皇のばっそん(末孫)。
                     「日蓮大聖人註画讃」
 などと、日蓮の血統を高く持ちあげねば気がすまなかった。これは、われは海辺の賤民の子と誇らかに名乗った日蓮の精神に、あきらかに反した操作である。だが、日本人は、大聖人がただの海辺の漁夫の子であることを許そうとしなかったのだ。
 おなじことは親鸞(~略~)にもいえる。
 彼が貴族日野有範の子であるというのは、きわめて疑わしいこととされている。
 王朝がしばしば交替した中国では、血への信仰はそんなに深まらなかった。また官僚制度においては、実権派が固定しないこともあって、日本のような「尊血主義」はうまれなかった。
 しばしば問題になる「家元」の制度にしても、日本でなければ誕生できなかった形態である。

日本人と中国人――〝同文同種〟と思いこむ危険
陳 舜臣 (著)
祥伝社 (2016/11/2)
P144

 

日本人と中国人――“同文同種”と思いこむ危険 (祥伝社新書)

日本人と中国人――“同文同種”と思いこむ危険 (祥伝社新書)

  • 作者: 陳舜臣
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2017/04/21
  • メディア: Kindle版

 

福井県 若狭彦神社

村の総代

P17
四ヵ浦共有の文書を見たいと私がいい出したら、千尋藻の総代が、「それでは四ヵ浦総代に使いを立てましょう」といってくれたので、のんきにかまえて、ただ「どうもありがとう」ですましてしまった。
ところが使いは小舟にのって湾奥の村の総代の家までいかねばならない。片道一里はある。申しこんでから三時間ほどたって使いがかえり、他の三ヵ浦の総代に連絡がついたと知らせてくれた。地図をひろげて見て大へんな迷惑をかけたことに気がついた。一時間ほどたって三人の総代が船できた。
それぞれきちんと羽織を着て扇子をもっている。夏のことだから暑いのだが、総代会というのは厳重なものであるらしい。

P19
その夜三人の総代はまた千尋藻の総代の家へあつまり、帳簿を帳箱に入れて封印し、夜十二時頃それぞれの浦へかえっていった。
私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で一声がして松火(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。
私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、「これは役目ですから」といってどうしても受け取りもしなかったのだった。
船が出るとき「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」とお礼をいうと、「いや、これで私の役目も無事にすみました」といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。


忘れられた日本人

宮本常一 (著)


岩波書店 (1984/5/16)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/04/20
  • メディア: Kindle版


 じつは江戸時代の村における庄屋の大切さは、もう限りないものです。よく西日本では庄屋、東日本では名主が多いと言いますが、そうとは限りません。地域の呼び名で庄屋、名主、肝煎(きもいり)というふうに言われていました。いずれにしても、この庄屋が優秀で、しっかり働いたから江戸時代の行政ができていました。
 年貢の収納や村の治安維持、そして特に重要なのは年貢の割付といって、村のなかで請け負っている田畑の面積に応じて、きっちりと村民たちに年貢を割り当てて、納めさせることが庄屋の役目でした。また村民に法令を守らせ、人口の調査をやり、戸籍簿の管理にあたることもやっていましたし、村入用という村費を運用し、勧農といって村のなかの道やインフラの整備を行うことなども、この庄屋の世話によるところが大きかったわけです。
 この庄屋が江戸時代の初めには村人との間に、「私を構える」といって、村の費用を横領したり、様々な事件が起きたりしていましたが、だんだん庄屋がうまく機能するようになると、村の行政が回り始めます。江戸時代、兵農分離で空間的に武士と農民が分かれていたにもかかわらず、村を滞(とどこお)りなく治めることができたのは、この庄屋という制度と彼らの能力の高さによるものだったわけです。
 今日でも、日本社会で出世している人、たとえば会社や組織の長になっている人には庄屋出身の人が少なくありません。

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)
P120

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 NHK出版新書

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 NHK出版新書

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2017/06/25
  • メディア: Kindle版

福井県 若狭姫神社

2025年5月30日金曜日

日本国内の「南北問題」

P29
 明治政府は意識的に”朝敵連盟”を疎外したのであろうか。残念ながらそれを明確化する資料を私はまだ手に入れていない。だが「あまり手ひどく痛められ過ぎた。そのうえ賊軍というハンディを負った。何しろ僕らのころまで長岡出身者は軍人になっても出世しないと言われたもんだから。必然的に”ひとひねり”した反骨精神も生まれたのだろう」という農林官僚出身の小林市長の言葉は、「朝敵差別」が全く根拠のないものではないことを示しているであろう。
だが、彼らがそう思ったことが、本当に事実であったか否かは別として、近代化を急ぎかつ資本不足に苦しむ明治以降の日本が、投下資本の最も効率のよい地点に投資し、政府の開発投資、インフラストラクチュアの整備もそこに重点が置かれて行ったことは否定できない。藩閥政府には「薩長だからといって特に出身地を優遇したワケではない、その証拠に薩と長が特に経済的に優位にあるわけではないではないか」という言い分はあったであろう。だが、投下資本の最も効率のよい地点となればそれは否応なく暖国の太平洋岸になる。
七メートルを越す積雪に交通網がズタズタになる地域がまず開発の対象になることは、朝敵か否かに関係なく、経済性という点から見ても、あり得なくて当然であろう。と同時にこの積雪は生産的な労働を不可能にする。
一方、新しい開発地点は多重の臨時的労働力を必要とする。特に機械化が進まず、シャベルとモッコとトロッコの時代には人海戦術にならざるを得ない。この労働力の需給関係は、徳川時代からあった出稼ぎをますます盛んにし構造化し、暖国政治はこれを当然とする。
~中略~
これが明治以来つづいて来た構図であった。彼らは高度成長の下積みで最も苦しい労働に服しながら、その恩恵は受けなかったが、これになんらかの「責任を感じた」暖国人もいない。
これを無視して地球の南北問題を論じ、「後進国の貧困は先進国の責任」であるとのきれい事を口にしている者は、彼らには偽善者としてしか見えないであろう。この点に暖国人は全く無関心・無感覚である。
 だが出稼ぎ人の立場から見れば”暖国人”が感じないこともはっきりと感じられ、これへの暖国人の無感覚が逆に一種の怨念のようになってきても不思議ではない。

P52
確か司馬遼太郎氏は徳川時代の末期になってもまだ石器時代のままのようであった地方のことを話された。それがどこか失念したが、明治にはいり、自由民権運動時代になってもまだ貨幣さえほとんど流通していなかった地方のあったことは、当時の新聞を見るとわかる。
貨幣なき地方の自由民権運動は部族社会のままの社会主義運動のような感じをうけるが、これがいわば「まだら社会」で、徳川時代の日本はまるで現在の全地球上の先進国・中進国・後進国が日本という四つの島に集約されているような状態だったわけである。~中略~
幕府の握っていた当時の先進国すなわち大坂や江戸は同時に購買力をもつ大消費地であった。
その大消費地へ向けた臨海工業地帯とはいえぬが、その母体となる臨海産業地帯とも言うべきものも出てきた。面白いのが四日市である。ここは江戸への灯油の積出し港で、江戸の需要の六割をまかなっていたと言われるが、この「油を扱いなれた港」に目をつけたのが海軍で、ここに海軍燃料廠ができ、ついでその跡に出光が進出した。
いわば四日市は徳川時代から一貫して「油」の町で、現在も、徳川時代から連綿とつづく近代化した「油屋」―というより大精油会社―がある。
こういう例は決して少なくない。そして日本海沿岸にも北前船の港として栄えた町は決して少なくないが、それは明治の発展へとつながらなかった。
政治と経済の中心は依然として東京と大阪で、しだいに東京の比重が重くなっていくが、鉄道と巨大な蒸気船の出現は物流の流れを変え、どうじに外国貿易という新しい要素が加わってきた。
明治になるとかつての臨海産業地帯が新しく臨海工業地帯へと脱皮するには鉄道が不可欠であり、後背地に鉄道をもち、これが経済の中心につながらない港はさびれていった。新潟には雪という障害のほかに上越国境には三国山脈という厚い壁が東京との間を遮断していた。

P54
「新幹線と高速道路ができたらオレは政治家をやめる」と彼(住人注;田中角栄)は言ったといわれるが、これは案外、彼の本音だったかもしれない。だが皮肉な言い方をすればこれもまた「新潟が江戸でありそれが東京となったら」角栄の出現を待たずに解決していたであろう。
 そうならなかった一因は皮肉にも新潟が穀倉だったからである。これが巨大な一藩となって統一された政治力をもち、上杉謙信のような人間が出現したら関東は北からの脅威にさらされる。家康はそれを忘れていなかったから、約三百万石はあったであろうといわれる信玄の支配地の中心を小藩に切りきざみ、その間に天領を入れてこの地の統一的な政治力をゼロにした。いわば江戸が恩恵を受けたとは逆に、この地は被害を受けたわけである。
家康は偉大な政治家かも知れぬが、彼の発想の基本は「徳川家の存続と権力維持」であり、それにとって危険なものは「潰すべき対象」であった。
新潟は幕府により政治的な被害を受けながら、明治には「朝敵連盟」の一員として扱われた。

 

P128
確かに道路の無雪化は産業基盤の基礎で、これが出来、同時に暖国との間の”風穴(住人注;交通インフラ?)”を大きくしなければ工場の誘致はできない。
それが出来なければ永久に農業県に甘んじなければならず、角栄のいう「二次産業の平準化」は達成できない。だが経済成長は無雪道路の建設が終わるまで待ってくれるわけではない。
こうなると雪の悩みのない暖国の方が早く成長するから雪寒国はまた取り残される。皮肉なことに無雪道路の建設中にも暖国への人口流出と出稼ぎがつづき、それがやっと完成したときには過疎による労働力不足のため工場が誘致できないという事態になる。
さらに皮肉なことに、産業基盤がどうやら整備されたと思われるころ、オイルショックが来て企業は新規の投資や事業の拡張を差し控える。そしてすでに成長が一段落した暖国主導の世論は、成長・開発はストップ、公害問題解決、環境保護、自然に還れとなり、これが全国一律に主張されて雪寒国の特殊性など全く認めようとしない、というよりマスコミにはその問題意識がはじめからなかったというべきであろう。

「御時世」の研究
山本 七平 (著)
文藝春秋 (1986/05)

御時世の研究

御時世の研究

  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1986/05/01
  • メディア: ハードカバー

 

土居ヶ浜遺跡 山口県

百姓

P68
 古代においては、「百姓」と書いて「おおみたから」あるいは「たみ」と訓がつけられていました。逆に言えば、その訓にあてはまる言葉として「百姓」が用いられたのです。~中略~ つまり、「官人」「郡司」は官職・位階を持っている人ですが、それと併記して官職・位階を持っていない普通の人を指す言葉として「百姓」が用いられているのです。
その他、「郡司・百姓・不善輩」という面白い用例もあります。 「不善輩」とは、殺人や強盗を行ったり、博奕・双六に興じている人たちを指す言葉ですが、官職を持たないだけでなく、そういった「遊手浮食の徒」ともいわれたような人たちとは違う、普通の人々が「百姓」だったのです。
 そもそも「百姓」の「百」には「非常に多くの」「あらゆる」という意味があります。また、「姓」は姓氏、われわれの名字とは多少違いますが、血縁集団の名前ということになります。
そして、姓には職能が結びついていることもあるのです。従って、字義通りにとらえれば「百姓」は「あらゆる姓を持つ人々」あるいは「あらゆる職業の人々」が本来の意味であり、一般の普通の人々を指す言葉なのです。そこには先ほども述べたように、「農民」の意味はまったく含まれていません。

P79
 近世に入ると、「百姓」の中で年貢賦課の基準となる石高を持たない人々を指す言葉として「水吞(みずのみ)」という語が出てきます。これは地域によって異なり、加賀・能登・越中では「頭振(あたまふり)」、長門・周防では「門男(もうと)」「亡土(もうと)」、越前では「雑家(ぞうけ)」、隠岐では「間脇(まわき)」、伊豆では「無田」などさまざまな名称で呼ばれていますが、これらすべて「水吞」と同じ無高の百姓です。~中略~ ごく最近、一部の教科書では訂正されましたが、多くの教科書は「水吞」は貧しい農民、小作人であり、本百姓が標準的な農民と説明しています。
 しかし、その説明ではどうしても理解できない事実が、文書を読んでいますと、たくさん浮かび上がってくるのです。~中略~
私は十五年ほど前から十年間、奥能登の調査をしたことがありますが、「頭振」と呼ばれる輪島の水呑についての泉雅博氏の調査によりますと、その中には漆器職人、素麺職人、それらを売る商人、船持・船問屋などが数多くいたことがわかりました。
つまり、「頭振(水吞)」が土地を持っていなかったことは事実ですが、それは貧しくて持てなかったのではなく、その過半数は土地を持つ必要のない人々、商人、職人、船持だったのです。我々が「水呑」の常識から連想する日雇のような立場の人々はその中のわずかな人々に過ぎませんでした。

 

P92
 このように、「百姓」に対する誤解の背後には千三百年に及ぶ歴史が存在しています。ですから、その誤解を解くのは容易なことではないと私は思っています。
しかも、問題なのは、今述べたようにわれわれ歴史の研究者もこれまでその誤った「常識」の中に浸り続けてきてしまったことです。もちろん、私も例外ではありませえんでした。
 その大きな理由の一つは、研究の対象として扱ってきた古文書のほとんどは、「農本主義」的な国家制度に即して作成されたものといえます。従って、田畠の土地台帳、田畠の売買・譲与に関する文書、年貢課役の徴収に関する文書など、田畠に関する文書が著しく多く残っているのは、極めて当然のことだったのです。
かつて、佐藤進一先生は、中世の荘園に関する文書は寺社の荘園支配に関する文書であり、そうした文書からは人々の生活の実態はうかがい難く、荘園そのものも正確には知り得ないという趣旨のことを、一九五八年に書かれた論文「歴史認識の方法についての覚え書」(十二頁参照)で述べられておりますが、まさしくその通りだと思います。
~中略~
 そして、農業以外の海や山の生業、商工業・金融などの関係の文書は、破棄されてしまうことが多かったと思われます。
しかし、土中から木簡として文字資料が発掘されることもあり、また破棄されるはずの文書の裏に日記などが書かれたために残った「紙背文書」、廃棄された文書が襖や屏風の下張りとして使われたために残った、「襖下張り文書」などのように、全く偶然残された文書も多く、その研究が最近、特に注目を集めています。

歴史を考えるヒント
網野 善彦(著)
新潮社 (2001/01)

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

  • 作者: 網野 善彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/08/27
  • メディア: 文庫

 

大分県 臼杵

恐るべき昆虫

P210
 そして病気を媒介する昆虫としてもっとも恐るべきものは、ハエ目カ科のカである。「カに指された程度という言葉があるように、カに刺されても、多くの場合は一過性の痒みしかないが、媒介する病気の威力には背筋の凍るものが多い。 実は世界的に見て、野生動物によるヒトの死亡原因の第一位はカが媒介する感染症である。その数は殺人(第二位)よりもずっと多いという。
そして、その感染症のなかでも、ハマダラカのなかま(写真114)が媒介するマラリアがもっとも注目すべき病気である。~中略~
 よ訪れるタイの調査地で、そこえお少し前に訪れた植物研究者が悪性のマラリアで亡くなったと聞いたこともあり、私のような熱帯で調査する者にとっては、身近な恐怖である。
 日本で昔「おこり」として恐れられた病気もマラリアだといわれている。比較的最近まで北海道から沖縄まで土着していた歴史があり、沖縄のある島の集落では、マラリアで廃村になった例も少なくない。
 そのほか、デング熱、日本脳炎、バンクロフト糸状虫症など、カの媒介する感染症は枚挙にいとまがない。

P213
 最近ではSFTS(住人注;重症熱性血小板減少症候群)という致死率の高い病気が見つかって注目を集めているが、感染症という点では、日本では昆虫よりもダニ(マダニやツツガムシのなかま)がずっと怖い。
 あまり知られていないが、恐ろしいダニ媒介性脳炎も日本に存在する。これはヨーロッパから極東ロシアにかけての流行地でいくつかの型があり、いずれも致死率が高いうえ、治療しても重い後遺症が残ることがある。
 また数種のリケッチャ症は日本の広い地域でツツガムシやマダニが持っている。冷涼な地域ではマダニが媒介するライム病というのもある。これらの病気も症状が重く、治療が遅れると死に至ることが少なくない。
 近年、日本各地でシカやイノシシが非常に増えており、それらが人里に出没することが増えている。それに伴って、それらに寄生するマダニ類も身近な存在になりつつあり、ダニに刺される機会も多くなってきている可能性が高い。

昆虫はすごい
丸山 宗利 (著)
光文社 (2014/8/7)

昆虫はすごい (光文社新書)

昆虫はすごい (光文社新書)

  • 作者: 丸山 宗利
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2014/09/12
  • メディア: Kindle版

 

英彦山 福岡県

2025年5月29日木曜日

日本人と鉄

P227
 稲作は、夏季が高温多湿でなければおこなわれにくい。とくに河川の流域が、低湿地でなければならず、そういう条件の土地ではすぐ人口が満ちてしまい、余剰の人口は他に敵地をもとめねばならなかった。それには、のちにその名称でよばれる日本列島がいいという情報を得て、民族移動がはじまったとおもわれるのだが、この事態は、古代的状況のなかではコロンブスの新大陸発見よりも重大だったにちがいない。

 かれらが出発するのは南中国の沿海からであったであろう。中国南部は、ばくぜんと越(えつ)とよばれており、黄河流域の漢民族の側からみればいわば南蛮であった。このあたりに、稲のことを、イネとよぶ音があったり、、クメとかクミとかよぶ音があったりして、日本の稲の故郷である痕跡をのこしている。
 江南のイネ民族の移動は、一部は南朝鮮へゆき、一部は北九州で定着したという。あるいはべつのルートがあって、中国北部の漢民族の手で朝鮮へゆき、朝鮮半島を南下して北九州に到着したともいう。
 いずれにしても、イネのモミが、モミだけ飛んできたわけでなく、また、在来の縄文人が、貿易業者のように稲作を輸入したわけでもない。人間そのものがきた。
稲作が可能なだけの人間の群れがこの新たな可能性をもつ島々にやってきて縄文人と混血し、こんにちの日本人ができあがった。
こんにち、われわれが文化概念でとらえている日本人というものの成立は弥生時代の開幕からであるといってよく、その意味では、新大陸にヨーロッパ人が住みついてアメリカ人ができあがった事情と似ている。
 この弥生式稲作農耕とともに、鉄器が当然の付着物のようにして―まだ製鉄はされなかったにせよ―入ってきた。

P228
 窪田蔵郎氏の「鉄の考古学」(雄山閣刊)には、べんりな表がある。弥生前期の鉄器の出土状況の表がある。弥生前期の鉄器の出土状況の表である。
 それを漫然とながめていると、出土した県は、八府県である。福岡県(直方市)、熊本県(玉名郡)、鹿児島県(日置郡)が九州で、さすがに九州が日本における弥生式農耕の源流地であることをあらわしている。あとは山口県、兵庫県、大阪府、奈良県で、それ以東の府県からはまだ出土していないらしい。
 それらは、いろんな角度からみて鉄そのものは”国産品”ではなく、舶来品であるらしい。
どこから舶来されたものかはわかっていないが、常識として想像できるのは、中国地域からよりも、北九州との往来のはげしい南朝鮮地域からであろう。
「魏志」(紀元二八〇年代に成立)の「東夷伝」の弁韓辰韓の出てくるくだりに、
~中略~
 という記述がある。
 ここに出てくる民族名は、まず漢は南朝鮮の古代文化の主役である韓人である。も朝鮮半島における古くからの民族で、最後の倭というのがこんにちの日本人の有力な先祖である。
 倭が南朝鮮に居住していることについては、こんにちの歴史研究ではふしぎとされない。倭はどこからきたかはわからないが、北九州と南朝鮮(釜山付近?)を居住区としていたことはどうやら確かで、要するに倭とは稲作を日本列島にもたらした弥生人のことなのであろう。「魏志」では韓と区別している。区別さるべき風俗(結髪・服装)のちがいや、言葉のちがいがあったに相違ない。
 倭も、韓や濊にまじって鉄をとっている。この鉄を北九州に送っていたのであろうか。右の「魏志」に「どの市でも物を買うのに鉄を用い、ちょうど中国での銭のようにして使っている」という記述がいかにもおもしろい。
南朝鮮(弁韓・辰韓)では、だれでも市へ物さえ持って行けば、鉄は買えたし、また物がほしければ鉄を貨幣としてそれを買うことができた。鉄が支配者の独占物だったというだけでなく流通していたことになる。いかに南朝鮮における製鉄がさかんだったかということが、目に見えるようである。

P196
 製鉄は、まぎれもなく朝鮮半島から伝わったと思われる。
 朝鮮半島の製鉄の歴史は、朝鮮北部地方が中国文明を早くから共有したということと、中央アジアからくる非漢民族の金属文明の影響なども考えられるから、黄河流域の漢民族のそれとおなじぐらいに古かったにちがいない。七世紀の新羅による朝鮮全土の統一までの朝鮮文化の高さは、玄界灘をへだてた日本の島々のそれとは、とうてい比較しがたい。
 東アジアの製鉄は、ヨーロッパが古代から鉱石によるものだったのに対し、主として砂鉄によった。
 砂鉄は、花崗岩や石英粗面岩のあるところなら、どこにでもある。問題はそれを熔かす木炭である。
「一に粉鉄、二に木山」(「鉄山(かねやま)秘書」)  というように、古代にくらべて熱効率のいい江戸中期の製鉄法でも、砂鉄から千二百貫の鉄を得るのに四千貫の木炭をつかった。四千貫の木炭といえば、ひと山をまる裸にするまで木を伐らねばならない。
~中略~
 さらに、その社会で鉄が持続して生産されるための要件は、樹木の復元力は、朝鮮や北中国にくらべて、卓越している。
 古代は、中国や朝鮮も冶金時代がはじめるまでは、鬱然たる大森林がゆたかに地をおおっていたかと想像する。

 

P241
 冶金学の桶谷繁雄氏の「金属と人間の歴史」(講談社刊)によれば、鋼一トンを得るためには、砂鉄一二トン、木炭一四トンが必要だったという。以下、同書の計算を引用させてもらう。
「・・・・・昔の人がやったたたら一回で得られる大塊を二トンとすれば、砂鉄は二四トン、木炭は二八トン必要となる。
木炭二八トンのためには、薪は一〇〇トン近くを切らねばならなかったに相違ない」とある。
すさまじいばかりの森林の浪費であり、くりかえし言うようだが、古代から近世までの製鉄事情としては、東アジアでは森林の復元力がもっとも高い日本列島がいかに適地だったかがわかる。
 (住人注;日立金属関連会社 鳥上木炭銑工場代表取締役)並河氏も、
「山林一町歩で、鉄が一〇トンですね」
 と、いわれた。
~中略~
スサノオの故地だったという辰韓(新羅)の地については、並河氏はそれを訪ねて先年慶州に行ったという。
「慶州の浜側です。そこに砂鉄をとっている所がありまして見学しましたが、ここと品質がかわらないですね」
 ともいわれた。
 この話は、興味ぶかかった。
 慶州に近い迎日湾からの水路が出雲にもっとも近いのである。水野祐氏の説のように、スサノオを奉じて出雲にやってきたのは新羅の製鉄者集団であったとすれば、かれらはこの航路をつたって出雲にきたであろう。 
その慶州の浜の砂鉄は、この鳥上の砂鉄と同質である―チタンやリン、硫黄がすくない―という。かれらが自分の故地と同質の砂鉄をもとめて鳥上山を見つけたのも、あるいは当然だったかもしれない。
 かれらが移動してきた理由は、ひょっとすると韓国(からくに)の採鉄場付近の森林が尽きてしまったからであるかもしれない。「日本書記」では、かの地の曽尸茂利(ソンモリ)にいた素戔嗚尊が、卒然として「此ノ地、吾居ルコトヲ欲セズ」といって、出雲にくるのである。水野氏の説に妄想を加えることをゆるされるとすれば、木がなくなってしまったということが想像できるように思える。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

 

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

島根県 荒神谷遺跡

海民

P172 
 (住人注;筆者が山口県萩沖の見島の本浦を調べた時)この島は古く浦と地方(じかた)の二つにわかれ、それぞれ庄屋がいてこれを治め、氏神も地方は八幡宮、浦は住吉神社があり、別々の世界をつくり、地方と浦との間には通婚も少なかった。
~中略~
地方の者は間取りが田の字型で引戸のついた家に住んでいるが、浦の者は並列型の間取の家に住み、蔀戸を持っている。
~中略~
中世の宮殿や神社などには内外の障壁を蔀戸にしたものが多く、古い寺院が扉を用いているのと対照的であるが、その蔀戸が浦の家に見られる。浦の家は漁家である。
 地方と浦の家は相接して建っていても居住様式は違うのである。そして間取が並列であるというのは、船住居の型をそのまま陸へ持ってあがったのではなかろうか。 

P175
八幡神のなかに、御神体が海岸に漂着したとか、海底に示現したなどという伝説を持つものが少なくない。
八幡神は宇佐神宮を根源とし、のちに武士がこれを信仰するようになってから、地頭たちがそれぞれの領内の鎮守神として祀ったものがきわめて多いが、そうした中に漂着神伝説を持っているものが多いのはどうしたことであろうか。
対馬西海岸の木坂というところに木坂八幡という社があり、対馬の一の宮であった。この社はその初めは和多都美(わたつみ 住人注;IMEで「わたつみ 」入力すると「海神」と変換される)神社とよばれ海の神であったが、一三世紀の頃から木坂八幡とよばれるようになった。
~中略~
 あるいはまた宗像の神が海岸の各地に祀られているが、宗像神も海の神であった。
こういう神の古く祀られたところは海民が他から来て居住したのではないかと考えている~後略

日本文化の形成
宮本 常一 (著)
講談社 (2005/7/9)

日本文化の形成 (講談社学術文庫 1717)

日本文化の形成 (講談社学術文庫 1717)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/07/09
  • メディア: 文庫
宇佐神宮 大分県

神功皇后は多分に「記紀」伝承上の存在で、実在は否定されている。息長氏伝承の巫女像に、後の斉明天皇の朝鮮出兵の事蹟が投影されて創出された人物ともいわれる。
 ただ「三韓征伐」への起点となる筑紫には、彼女の伝説が多い。
~中略~
「三韓征伐」伝説は、北九州の海人たちの海神信仰に由来するという。香椎など糟屋の地に神功皇后伝説神功皇后伝説が多いのは、この地に安曇(あずみ)氏支配の海人集団が多くいたからのようだ。

あなたの知らない福岡県の歴史
山本 博文 (監修)
洋泉社 (2012/10/6)
P30

あなたの知らない福岡県の歴史 (歴史新書)

あなたの知らない福岡県の歴史 (歴史新書)

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2012/10/06
  • メディア: 新書

P100
 近代以前、日本も中国も、そしてヨーロッパもそうだが、国家は農民や牧畜民の上に乗っかってきた。しかし、漁業民の上には乗っからなかった。日本の場合は中国から導入した律令体制で農民に対する管理―班田収授など―が確立し、その上で日本国が成立した。国家は漁業民を収奪の対象にさえしなかった。くだって鎌倉幕府は開墾農場主である武士団が律令体制の一角をつきくずして成立した政権とみるべきだが、漁業民との関係はきわめて薄い。
 言いかえれば漁業民は自分たちだけの技術社会を構成していて、百姓どもがつくる国家など何するものぞという気概をもっていたかもしれない。
たとえば日本の敬語は農村という身分社会のなかで発達し、さらにはその農村を基盤にした支配階級のなかで精巧で煩瑣(はんさ)なものになった。
しかし漁村では敬語はほとんど発達しなかった。海へ漕ぎ出して、自分の腕で魚を獲るのにだれに頭をさげる必要があるかということがあったからだろう。

P117
 しばらく、道ずれになった。二人の漁師のうちの一人は、赤い鉢巻をしていた。赤を好むのは、宗像大神を奉じていた古代の海人である安曇族いらいの伝統で、いまも漁師は、鉢巻きや下帯に赤を好んでいる。

P120
岩屋の海人は他の日本列島のいたるところにいた海人たちとおなじように、古代、構造船は知らなかった。魔よけのいれずみをし、身ひとつで海中にとびこみ、もぐって魚を突き、また買いをひろってくらしてきた。
そのようにして岩屋の者はこの岩壁にはりついた小さな漁村だけで小さな国をつくり、
 ―たれの世話になる必要もない。
 と、大いにひらきなおって自由を享受することもできたであろう。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

街道をゆく7

街道をゆく7

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

福岡県 宗像市 大島 宗像大社沖津宮遙拝所(むなかたたいしゃおきつみやようはいしょ)

倭人

P124
 東アジアでは歴史のながい時間、日本人は「」という語感で認識されてきた。
いまでも中国人にせよ朝鮮人にせよ、日本国や日本人に腹がたつとき、「日本め」というより、
「倭」
 という語感が、その感情にしっくりくる。
 その語感の中での「倭」というのはどういうイメージであるのかというのが、私のながい関心であった。
むろんせは矮(ちい)さい。ハダカでいる。どうもフンドシ一本で太刀を背負って肩ひじを張っている、イメージではあるまいか。
 礼教(儒教)の国というのは、男子は(むろん女子も)人前では決してハダカにならない。
いまでも朝鮮人が、いくら暑くても上半身ハダカになって夕涼みをしているとか、あるいは人前で水をかぶったりしているという風景は決してない。

P130
 朝鮮の使臣が、中国の都で日本の使者をしばしば目撃するようになったのは、おそらく室町期だったであろう。足利将軍義満などがさかんに朝貢貿易をやったころに相違なく、使臣たちは頭に烏帽子をいただきすべて室町風の武家礼服で出かけて行って、その異族ぶりはひとびとの目をおどろかせたにちがいない。
 むろん中国の宮廷にあっては、朝鮮のように儒礼の優等生ではないからすべて倭風にふるまった。それだけでも優等生の目(住人注;朝鮮の使臣)にはおかしかったにちがいなく、さらには日本の使臣の従者たちは、都の宿舎や酒場などで暑ければ遠慮会釈なくハダカになったであろう。
 その上、日本の武装私貿易者である倭寇―たいていはハダカに太刀という風俗―に朝鮮も中国もなやまされていたから、倭の武に懼(おそ)れ、おそれつつもその非礼教ぶりを一面軽蔑し、いわば「ケッタイなやつ」ということを強調するために、例の「拝謁の図」を描くについて日本の使臣をしてフンドシ一本で大あぐらをかかせた。むろんデフォルメだが、デフォルメであるだけに外国人の日本人イメージを知る上で参考になる。

P201
 これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にもないふしぎな言葉は、古代に南鮮に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。
倭人とよばれていた人種が漢民族とともに南鮮の原住民であったことはすでに金海のくだりでのべた。むろん倭人の居住地は南鮮だけでなく、その後日本とよばれるようになった地域、とくに対馬、壹岐、松浦諸島、北九州一帯に多数住んでいた。
この連中が、日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域をひろげて行って、今日の日本国の原型をつくったという点では、おおかたの古代史家も承知してくれるにちがいない
~中略~
 当時、いまの釜山から金海あたりにかけて団結して生活していた倭人たちの目からみれば、
「大国(クンナラ)」
というあざやかな印象に映じたであろう。クンナラという朝鮮語がクダラの語源であるという一説はそういうところからくる。
 南鮮における倭人社会は、中国の「魏志」によれば狗邪(くや)(金海のあたり)を地盤にして活動し、東方の辰韓に鉄をさかんに求めていたというから、農具や兵器の生産力がひくく、そのためもあって、かれらの社会はさほどふるわなかった。
馬韓が百済国になったころの辰韓も新羅国になったが、倭人たちはそのあいだにはさまれて大いに難渋したに相違なく、自然のいきおいとして、日本に住む同種の倭人にたすけをもとめることが多かったに違いない。南鮮における倭人のたちは、やがて、
「任那」
 という一種の国家を作った。一種というのは王国ではなく、族長どもの連合社会だったという程度であったかという意味である。
~中略~
「いま、東に新羅、西に百済という大国が勃興してじぶんたちの土地が奪われようとしている。なんとかたすけてくれまいか」
 というようなことを、たえず言っていたにちがいない。そういう任那人たちの危機をきいて、元来血の気の多い北九州の倭人たちは勃然として侠気を発して集団で渡海したこともあったろうし、ときに任那人をなだめて、
「いっそ日本(こっち)のほうに移住してしまわないか」といったこともあったにちがいない。
神功皇后伝説というのはそういう古代的状況のなかで成立したものにちがいなく、以上のような程度の想像なら、ありうべきことへの想像というものさえ卑しむ古代史家でも許してくれるにちがいない。
 やがてのちのち、大和にできあがった統一政権がしきりに対朝鮮外交を―戦争をふくめて―やりだすのは、植民地対策というようなものではなく、同種族への援助行動というものであろう。

P204

かれ(百済の始祖温祚王)は南下当時、南鮮の一角に住んでいる倭人を見たに相違ない。

 倭人たちは他の夷人の風俗とは異なり、頭髪を繊維で結んでいる。しかし衣服は粗末で、縫うことをせずただ布を体にまきつけただけで、男女とも裸足で歩いている。性質は後漢のころの字書である「説文解字」の説明が正しいとすれば、倭というのはチビという語感よりもむしろ人によく従うという従順な感じをあらわすというから、その首領たちの命令をよくきくという特徴をもっている。
「われわれはすこしおとなしすぎますね」
 と、この道中のあるとき、編集部のHさんがそっとささやいたことがある。Hさんにいわせると、案内者であるミセス・イムがまるで羊飼いで、われわれは羊のごとくつき従っている、というのである。
「倭人の特徴ですな」

 と、私は答えておいた。 


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく2

街道をゆく2

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

ながめわたすと、どの人も背丈が矮(ちいさ)いのである。このあたり、沖縄人というのはいかにも原倭人という感じで、背丈の高い旧満州民族(ツングース)や華北の中国人とは外見的にもちがっている。
 黒潮が洗っている沿岸地方はみな背丈が矮小であるといわれている。沖縄から薩摩半島、大隅半島、土佐、熊野、いずれも背のひくい人が多い。
 薩摩隼人の骨格については、
「背がひくく、体がツイタテのようで、脚がみじかい」
 といわれていて、それが良か青年(にせ)どんだ、とひらき直って誇っている古い民謡が鹿児島県にある。日本人の寸法が世界のほとんどの民族にくらべてひどくチビで、朝鮮人との間にも相当なひらきがあるということは言うまでもない。

街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)
P42

街道をゆく6

街道をゆく6

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

土居ヶ浜遺跡 山口県

渡来して来た人たち

P52 
   ところで日本へ稲作が渡来するのと、越が呉をほろびおして江南の地に国家を形成したときとほぼ時期が同じようであり、越の勢力範囲は華南の海岸一帯から、浙江省、福建省、広東省、江西省からベトナムにわたっており、竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国であるというから、漢民族とは系統を異にするものであろう。
この民族に属する一派が倭人ではなかったかと考える。
そして舟または筏を利用して、朝鮮半島の南部から北九州へかけても植民地を作ったのではないかと考える。そして倭と邪馬台国とは一応区別して見てゆくべきものと思う。
そのことは「旧唐書」「日本国伝」に次のように記されているのがひとつのてがかりになる。
~中略~
そして倭というのは、倭人によって日本列島の西部につくられた植民地ではなかったかと考える。その倭人たちは、東南アジアの海岸から北上して来た海洋民ではなかったと、「論衡(ろんこう)」や「後漢書」「魏志」を通して考えるのである。

P55
 このように朝鮮半島南部に南方から沿岸沿いに来て植民した倭人を、日本側からは任那といったのではなかろうか。そして任那という言葉も御魚(まなま)という言葉から来たのではないかということが、「風土記]逸文(摂津の国)と思われる記事の中に見えている伝承から考えられる。
~中略~
 このようにして朝鮮半島を経由して、大陸内部から日本列島へ渡来する人びとの前に、南の海から日本列島へ渡来して来た者も多かったと見られるのである。そしてこの人たちのもたらしたものが、弥生式文化ではなかったかと考える。
つまりこの文化は東アジアの沿岸伝いに日本列島にもたらされたもので、海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした。しかもその稲作には鉄文化が付随していた。それがまた構造的な船を造るのに大きな役割を果たしたと考える。
 倭人が朝鮮半島と九州の両方に植民地を作ったことは、大陸と日本列島との往来関係を密接にし、大陸の文化が朝鮮半島を経由して比較的スムーズに流入するようになった。
~中略~

 一方、日本列島へ稲作が普及していく速度も速かった。それはひとつは水路を伝って船を利用してひろがっていったものではないかと考える。

P51
「魏志」には弥生文化後期時代の日本列島のありさまが記録されており、「日本書紀」は奈良時代人の眼で律令国家形成への過程を反省しているのである。
しかも律令国家を形成していく手動力になった者は、どうやら縄文文化人たちの後裔でもなければ、稲作をもたらした者でもないようである。それらの人びとは土蜘蛛であるとか、国樔(くず)であるとか、海人(あま)などとよばれており、北の方に住む者は蝦夷とよばれているのである。
このような人びとを統一して国家を形成したのは、あらたに海の彼方から強力な武器を持って渡来して来た人たちであったと考えられる。

 

P72
 関東以北に住む者を蝦夷とよび、それ以外の地方に住む者を国樔、土蜘蛛などといっていた。
これは中央政府に属する人びとのよび方であったが、そういうよび方をした人たちはむしろ大陸から高い強力な文化と武力を持ち、国家を統一した人びとではないかと考える。
そして、われわれもいつの間にか、そういう人たちの見方にまねて物を見るようになってしまっているのであるが、もっとひろい視野で日本の文化を見直す必要があるのではなかろうか。

日本文化の形成
宮本 常一 (著)
講談社 (2005/7/9)

日本文化の形成 (講談社学術文庫 1717)

日本文化の形成 (講談社学術文庫 1717)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/07/09
  • メディア: 文庫

 

いま在日韓国・朝鮮人は六十七万人だが、うち半数が関西に住む。大阪府下は十八万余で、実に全国の三割に近い。
中でも大阪市生野区に多く、同区の全人口十五万五千のうち四万人を占める。四分の一である。先祖の高度な技術で橋を架けた旧猪飼野に特に多いのも因縁である。
この人たちもほとんどは、あの古代の朝鮮半島とをつなぐ水路を大阪へ来た。大阪湾岸は、昔から解放された国際都市であった。
大阪人がそれをあまり意識しないほど、その共生は当たり前のことである。古代には、このあたりは大陸からの渡来人であふれていたのだ。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P114

大阪学

大阪学

  • 作者: 大谷晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/05/24
  • メディア: Kindle版

P183
飼飯(けひ)という普通名詞は、猪(ぶた)などを飼ふこととという意味であることは、ほぼまちがいない。
「時代別国語大辞典」(上代編)の「け」(食)の項をひくと、「飼は(中略)飯を伴って、ケヒを写すのに用いられている」というから、要するにぶたなどを飼うということであろう。
 ぶたは、上代、朝鮮半島からの渡来人の渡来の波の密度が濃かったところ、摂津に猪飼野(猪甘(いかひ))や伊勢に猪飼という上代以来の地名がのこっているように、ところどころで飼われていたらしい。
 越前敦賀に、「気比(けひ)ノ松原」という、浦の白い砂を松のみどりでうずめつくしている松原がある。
その越前のケヒの松原とこの淡路のケヒの松原とは、コトバとして何かつながりがあるのであろうか。
 この敦賀湾というのは上代から平安期にかけて、朝鮮半島からその北部の大陸(渤海国)よりやってくる渡来人あるいは国使の航路の終着点であり、敦賀付近(だけではなく北陸一帯)に渡来人集団が定着していたということは、いまではほぼ異論のないところであろう。
敦賀ノ浦は、「日本書紀」の「垂仁紀」に、もともと「笥飯浦(けひのうら)」とよばれていたとある。淡路のこの「飼飯」も「笥飯」と書かれたりするから、普通名詞としては、気比、飯飼、笥飯は同じコトバなのであろう。
淡路の場合、こんにちの応神陵や仁徳陵から想像される古代河内王朝の食糧供給地であったことはたしかだから、いまは慶野松原(けいのまつばら)とよばれる地も、食用の動物を飼っていた野であったのであろうか。

P195
 中国大陸に興って熟した大文明は。ひとつの特徴として、海を渡って島嶼(とうしょ)へゆくことをおっくうがったということがある。
 中国大陸人は海岸で漁撈することをきらったし、また島へ渡って島で住むこともきらった。
 たとえていえば、中国大陸の南部に接して台湾というあれだけ大きな島がありながら漢民族の農民の移住がはじまるのはやっと十七世紀になってからで、海南島にいたってはそれ以後である。
 それからみれば、日本列島は、やや幸いしている。紀元前に稲作を知る民族が渡海してきたし、その後、何世紀か経って、製鉄という古代における最高の技術を持ったひとびとが渡ってきて大いに農耕生産をあげ、ついには古墳を築くという土木事業をおこせるまでになった。
これらの渡来人流入は、日本の島々が水が豊富で稲作の適地であるうえに、マラリアのような風土病がないということが、朝鮮半島をふくめた東アジアの沿岸地方に、古代的な情報としてつたわってからであろう。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: -

琉球は倭人の国

P24

 沖縄問題のなかに、独立論というのがある。
 復帰のときにも、この声が、ごく少数ながら聞かれた。そのことは、ここ数年、沖縄のことを考えるたびに、肺の内側にとげが刺さったようにして、思案のなかから離れることがない。

 沖縄人は、たとえば津軽人や長州人や肥後人がそうであるように、倭人の一流であることはまぎれもない。
 しかし地理的に遠距離にあったということもあって、独立性の高い文化性を持った。この風土性をてこに政治論へ転化させるとき、琉球独立論が多分に試験管のなかながらも成立しうる。
 さらには、
 ―島津の琉球侵略後、また明治の琉球処分(廃藩置県)後日本とくっついていて、ろくなことがなかった。
 とも、その論者はいう。
 明治後、「日本」になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大坂人も東京人も、佐渡人も長崎人も広島人もおなじになってしまう。
ここ数年そのことを考えてみたが、圧倒的におなじになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える。

P26
「琉球処分」
 とよばれる琉球の廃藩置県は、明治十二年である。
 本土における廃藩置県も、各藩の実情をみると、旧権威の崩壊という意味では悲惨であった。
 本土の廃藩置県の場合、薩長土三藩の士族兵を東京にあつめることによって太政官の権力の裏付けとした。
諸藩に砲門をむけ、反対する藩があれば容赦なく討つ、という武力態勢をつくった。
 この三藩から供出された士族兵は最初は御親兵と言い、あとで近衛と称されたが、かれらは何の目的て上京させられたかは、知らされていない。
まさか自藩をつぶすためとは思わず、やがて自藩否定という意外な結果を知って動揺し、薩摩系の近衛士官、下士官が、大挙辞職して帰国し、やがて西南戦争をおこす主力となるのである。
 この当時の多くの薩摩人にすれば、自藩の金穀と兵をもって幕府を倒したのにそこから成立した太政官政権によって藩そのものを潰され、さらには武士の栄誉も特権も経済基礎もとりあげられ百姓町人とおなじ「国民」に組み入れられるなど、これほどぶの悪い話はなかったであろう。
~中略~
 太政官政権の主力を占めて、いわば優遇されていた薩摩藩でさえ、こうであった。他の藩での悲惨さは推して知るべきだし、この日から、全国三〇〇万といわれた士族は失業するのである。
 琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。さらには日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかもしれないが、しかし事態を廃藩置県という行政措置にに限っていえば、その深刻の度合いは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。

P29
 雑誌「太陽」の一九七〇年九月号に、比嘉春潮氏が、「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。
 沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。
 このころ、北九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。その波は南九州の沿海に住む、主として漁撈民族を刺激して、「南の島々に移動せしめたと考えられる。
この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の一支族―沖縄民族が誕生する。
 沖縄人の由来について、これほど簡潔に正確に述べられた文章はまれといっていい。
さらに「沖縄民族」という言葉については、氏がその昔「新稿沖縄の歴史」(三一書房刊)の自序において、
「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の一部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。

P30
 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治四年の廃藩置県で島を去り、東京に移らされた。
旧藩主を太政官のひざもとの東京に定住させるというのは、この当時の方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、旧藩領に帰ることを許されていない。
このことは、最後の琉球藩王尚泰においてもおなじである。
 また「県」になった旧藩にやってくる県知事(権令・県令)も、他藩出身の者であることを原則とした。
旧長州藩である山口県には旧幕臣が知事になったし、旧肥前佐賀藩の佐賀県には土佐人がゆくというぐあいだった。
 沖縄県の場合もそうだった。ただかれら県知事がどういう人物で、不満を弾圧するためにどういう苛政をおこなったかという問題がある。しかし廃藩置県という、当時の本土の士族階級に不評判だった大変革を大筋として琉球も共同体験したということはいえるのではないか。
 むろん共同体験をしたから結構だといっているのではない。
 琉球には、それ以前、二百五十年にわたって薩摩藩から受けた痛烈な被搾取の歴史がある。~中略~
 太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
 同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄ではそれが現実におこなわれ、その戦場で十五万の県民と九万の兵隊が死んだ。

P39
「鉄の暴風」(住人注;沖縄タイムス刊)のなかにも、軍隊が住民に対して凄惨な加害者であったことが、事実を冷静に提示する態度で書かれている。
もし米軍が沖縄に来ず、関東地方に来ても、同様か、人口が稠密なだけにそれ以上の凄惨な事態がおこったにちがいない。
住民をスパイ扱いにしたり、村落に小部隊がたて籠って、そのために住民ごと全滅したり、それをいやがって逃げる住民を通敵者として殺したりするような事態が、無数におこったのではないか。

P32
 ごく最近、古美術好きの私の友人が、沖縄へ行った。かれは在日朝鮮人で、齢は五十すぎの、どういうときでも分別のぶあつさを感じさせる人物である。
 かれは帰ってきて、那覇で出会った老紳士の話をした。私の友人は、Rという。
―Rさんはいいですね。
 と、その那覇の老紳士は、しみじみとした口調で、「祖国があるから」と言った。相手が日本人ならば、このひとは決してこうは言わなかったにちがいない。

~中略~

 沖縄人は、比嘉春潮氏のいわれるように縄文文化以来の「日本民族の支族」であるには相違ないが、しかし独自の神話をもち独自の古典をもち、さらには世界のどの民族にも誇りうる民族文化をもっている以上、他から堂々たる独立圏としての尊重と尊敬を当然受ける権利をもっているし、そのことはむろん、復帰という歴史の再共有の出発ぐらいではとても片づかない問題なのである。 


街道をゆく (6)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/12)

街道をゆく6

街道をゆく6

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版

 

シナの学問に向かっては、沖縄には五山僧以上の独占者があった。久米三十六姓の末はすなわちこれで、彼らはこれによってこの方面の交通を立ちふさいでいたのである。
その階級を除いた一般の上流にとって、文芸の標準はやはり山城(やましろ)の京であった。関東奥羽の果てよりも、さらに因縁が薄く見えるのは単に路の遠近に比例したまでである。
 二百余年前の「混郊験集(こんこうけんしゅう)」を見るに、「伊勢」や「源氏」の物語類から、「徒然草」「太平記」などまでが豊富に引用せられている。
これが慶長の琉球入以後に、ことごとく薩摩を経て持ちこまれたものと考える人は誰もあるまい。旧文明の誇りとしては、大和にも例のない平仮名文の石碑が十いくつかも残っている。~中略~
 聖禅二道の僧も多く入っている。権現の信仰はもっぱら熊野の系統であった。彼らにたとえ伝道の志があっても、たがいの湊に訪い寄る船がなかったら、またその船人の胸の中に、似かよう何者かがなかったら、万里の波濤を越えてくる因縁は結ばなかったろう。
後に航海が自由でなくなって、寺も増さず名僧も出ず、古来の神道のみが引き続いて全盛であったために、沖縄の文明史を研究する人々に、この影響はいたって軽く見られているが、少なくとも名目なり外形なりに、今存する大和文化の痕跡も決して幽(かす)かではない。
いわんや宗教こそは平民一般の風潮に、根を持たねばならぬから衰えもしようが、彼ら帰化の大和人は、必ずしもこればかりを携えてはこなかったのである。

海南小記
柳田 国男
(著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P83

海南小記 (角川ソフィア文庫)

海南小記 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 柳田 国男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/06/21
  • メディア: 文庫
土居ヶ浜遺跡 山口県