べらべらとしゃべりながら歩くうち、三十三間堂に着いた。さっきは引き返した駐車場の中に足を踏み入れる。
バスの数はすこしだけ減っていたが、それにしたって十台以上はあった。
すさまじい人気だなと思いながら、駐車場を抜けて驚いた。大勢の拝観者をさばくための柵とゲート、まさにディズニーランドの入口だった。
とまどいながらゲートをくぐる。堂内に入る前に靴を預けるための、新しい施設が出来ていた。かなり大きなロッカーが沢山並んでいる。
靴を脱いだ途端に、おばちゃんから”はいはい、こっちに入れてください”と迅速な指示を受けた。
これは賛否両論あるだろうな、と思った。風情を取るか、システムを取るか。事はなかなかに難しい。
見仏記ガイドブック
みうらじゅん(著), いとうせいこう(著)
角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/10/19)
P58
P75
古寺の美しさは、それが荒廃のまままさに崩れんとして行くところにあるというのは真実だ。
荒廃を悲しむ心は誰にでもある。保存や再建を思うのは当然であろう。だがそれに手を加えることの重大さを我々はつい忘れ易(やす)い。崩れゆく文物を、崩れるままにしておくべきか、或は補修を加え博物館に陳列すべきか、私にはそういく経験がないが、いつも迷う。
これはむずかしい問題である。崩れるままにしておけばやがて朽ち去るであろう。再び人の眼にふれることもない。しかし、掘り出して近代的設備の全き宝蔵や博物館に陳列保存されると、忽(たちま)ちガラス張の牢屋(ろうや)にとじこめられ、名札を添えられ、写真をとられ、批評され、胴上げされて見世物になり易い。
やむをえぬことではあろうけれど、名もない荒寺の奥に千年の塵(ちり)をかぶってひそむ風情は失われる。そういう風情を失わずに、何げなく保存するには篤(あつ)い信仰と繊細な心が必要なのだが、そういう心もいまは途絶えがちである。
これは当今すべての古典の扱い方について言いうるところではなかろうか。ひとり法隆寺のみの問題ではない。古仏を語ることすらいかに至難であるか。私は宝蔵殿の見世物式陳列ぶりをみて内心疑懼(ぎく)たるものがあった。
P122
法隆寺にしても、一切が整備保存されて居心地のいい観光地となり、美術研究が容易に出来るような現在になると、哀惜の情に深く身を委ねることは益々むずかしい。仏像も宝物も、堂宇もいまの我々は悉く見物出来る。拝観料を払った当然の権利のように思って見物する。しかし荒廃の法隆寺を訪(と)うた昔日(せきじつ)の人は、一軀の仏像さえみることは出来なかったのだ。堂前に佇んで拝する以外のことはしなかったのである。
しかもそういう人々の方が、我々よりも却(かえ)ってみるべきものをみていたと云えないだろうか。
愛惜の情と信心とが、荒廃の裡(うち)にひそむ久遠(くおん)のいのちを一挙に感得したといえないだろうか。
荒廃の遺趾(いし)を補修再興していつまでも保存しておきたいという願いを私は尤(もっと)ものことと思うし、そういう人の信心も疑わないけれど、これは前にも述べたごとく至難の業である。「技術の進歩」といううぬぼれが、廔々古人の精神を忘却しかねない。
復興のつもりで却って冒瀆(ぼうとく)するような結果を招く例は、今日の古典取扱いの中にいくらでも指摘できるだろう。
P124
荒廃に対するこうした思いは、感傷にちがいないが、しかし古寺を巡る最初の心はこれを経なければならぬのではなかろうか。
完備された美術館や仏閣で仏像をみるのは、初心にとって邪道であろう。古寺を訪れる初心とは、つまりは発心(ほっしん)であり、祈りの心の湧きおこるときでなければならぬ。
荒廃という死に近き刹那(せつな)の裡(うち)に、千年の塵(ちり)に蔽(おお)われた端厳(たんげん)のみ仏を拝し、愛惜の情に身を委ねるにしくはない。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
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