玉置山というのは明治後は神仏分離で玉置神社などと、いわば明治風の国家神道の名称でよばれるようになったが、それ以前は神域を社僧が護持じ、社名も神仏混淆ふうに玉置(たまき)三所権現(さんしょごんげん)とよばれ、江戸期には七坊十五ヵ寺という多くの建物があった。山僧も数百人もいたというが、いまは宮司ひとりに数人の補助者が山を守っているにすぎない。
この山の歴史は、むしろ平安期から鎌倉にかけて栄えた。京都の貴族まで巻きこんだ熊野詣での流行が、熊野とは川で結ばれている十津川にまでおよび、玉置山が熊野信仰の圏内に組み入れられた。
熊野の奥の院だと称せられたが、このあたり、中世の十津川にはなかなか食えぬ宣伝家がいたにちがいない。
これに乗って、平安期には花山院、白河院、後白河院といった京都貴族の大親玉が熊野からこの十津川までやってきて、玉置山に登っている。
街道をゆく (12)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1983/03)
P161

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