P103
この章のはじめに示した図5-1を見てもわかるように、日本人にもっとも多いハプログループはDです。
~中略~
D4、D5の双方で日本の人口に占める割合は四割弱となります。ハプログループD4と5は中央アジアから東アジアにかけてもっとも優勢なハプログループで、朝鮮半島や中国の東北地方の集団でも、この二つがおおむね人口の三割から四割程度を占めています。ですからハプログループDを持つひとの総人口は数億を数えるでしょう。東アジア最大のハプログループです。
P106
日本人の七人に一人が該当する第二のグループがハプログループBです。~中略~
ハプログループBは、およそ四万年ほどまえに、中国の南部で誕生したと推定されています。~中略~
誕生の地である中国南部から東南アジアにかけて人口に占める割合が大きくなっていますが、それ以外ににも南米の山岳地域や南太平洋の集団に多いことが分ります。
~中略~
人類のアメリカ大陸への進出には複数のルートが想定されていて、彼らに見られるハプログループA,B,C,D,Xのうち、Bのみがアジア南部で誕生したハプログループであることから、これだけが別のルートで進出したという説が有力になっていることは前章で説明しました。その場合、ハプログループBの集団は大陸の沿岸地帯を伝って新大陸に入り、そこから海岸沿いに南下したとかんがえられます。その進路の途中には日本列島がありますから、当然東南アジアの沿岸を北上する集団の中には、日本にとどまった人たちもいたと思います。ですからこのハプログループは日本には比較的古い時代に到達した可能性があります。
一番最初に日本列島に入った、このハプログループに属する人たちは、東アジアの南から北上する大きな人の流れの主体を構成していたのでしょう。
一方、南太平洋への展開は約六〇〇〇年ほど前のできごとですので、歴史的に見ればごく最近のことになります。現在の南太平洋の先住民は、ほとんどすべてがこのハプログループを持っていますから、中国南部もしくは台湾から農耕をたずさえて東南アジアの海岸地帯へ展開した集団の主体をなしたのが、このハプログループBに属する人たちだったと考えられています。メラネシアの海岸地域に到達した彼らは、やがて遠洋航海の技術を身につけて、南太平洋の島々に進出します。
~中略~
彼らの外洋への進出は、ポリネシアの島々を征服して終わりますが、そのすぐ先には南米大陸がありますから、なかには南米の西海岸にたどり着いた人たちもいた思います。アンデス原産の植物のなかには、ヨーロッパ人が南太平洋に到達する以前にポリネシアの人々の間に伝わっていたものもあります。古代におけるアンデス住民とポリネシア人の遭遇があったことは明らかです。そのアンデスの人たちもやはりハプログループBを主体とする人たちだったのです。もちろんお互いに気がつくことはなかったでしょうが、彼らは四万年前の中国南部に共通の祖先を持ち、一方は北へ、他方は南へ拡散した集団の子孫でした。
~中略~
それでは南へ進出した人たちと、私たち日本人の関係はどうでしょうか。人骨の形態学的な研究からは、縄文人の南方起源説が提唱されてきました。
しかし、拡散の方向と時期から見て、ポリネシアに進出した人々と縄文人の関係は薄そうですし、彼らは基本的に農耕民であったと考えられていますので、その点でも主に狩猟採集生活をしていた縄文人との共通性はなさそうです。
むしろ、最初に北上した新大陸にまで到達するハプログループBの人たちの中に、後に縄文人となった人たちがいたのかもしれません。
P112
M7が生まれたのが四万年以上前、各サブグループが生まれたのが二万五〇〇〇年ほど前と計算されています。
その時代には、地球の寒冷化によって、極地方に大量の水が集積して、海水は低下していましたから、黄海から東シナ海にかけては広大な陸地が出現していました。おそらくM7の起源地は、今は海底に沈んでいるこの地域だったのでしょう。
そこで生まれたサブグループのうち、ハプログループM7aは、琉球列島を伝って日本に入ってきたと考えられます。このハプログループは本土の日本人では約7%を占めるだけですが、沖縄に行くと実に四人に一人が持っているのです。また、同じM7aのD-ループ領域のDNA配列を比較すると、沖縄のものがもっとも多様性に富んでいることもわかっています。まさに、沖縄はこのハプログループのルーツの地なのです。
日本人の成立については人骨の形態学的な研究から、弥生時代に大陸から北部九州に渡来した大量の移民が在来の縄文人と混血して成立したとする、いわゆる「二重構造論」が唱えられています。
そのなかで、現代のアイヌと沖縄の人たちは、大陸からの渡来系移民の影響をあまり受けない縄文系の人々であると説明されています。とすると沖縄にもっとも普遍的に見られるM7aは、縄文人を代表するハプログループの候補として資格がありそうです。
ただ、二重構造論にしたがうと、沖縄は縄文時代にあっても、その中心地から遠くへだたった辺境の地というイメージを受けるのですが、このハプログループが南から日本に入って縄文人のある部分を形成したと考えると、ここは縄文の源郷の一つで、決して辺境の地ではないことになります。
P114
このハプログループは日本人では七%を占めるだけで、しかもユーラシア全体の分布も、主として中央アジアから北アジアに限られています。~中略~ ハプログループAの起源地はバイカル湖周辺と推定され、その成立は分岐年代の計算から三万年ほど前だと考えられています。
~中略~
A5は分布が朝鮮半島および日本に限られる特異なサブグループなのです。~中略~ ともにバイカル湖周辺から南下したのでしょうが、A4が東アジアの各地に広がったのに対し、A5の方は、比較的一直線に朝鮮半島に向かったようにもみえます。その成立年代は、彼らが縄文以降に日本に入ったことをうかがわせますが、渡来系弥生人との関連は薄いようです。
P117
G1は本土日本やアイヌ、朝鮮半島などに少数見られます。G2は中央アジアに分布の中心があり、南中国や東南アジアではほとんど見ることができません。G3はあまりハッキリした分布境界を持たず、中央アジア、モンゴルなどを中心に少数が分布しています。
P121
稲作の伝わらなかった北海道では縄文時代に続いて、弥生時代から古墳時代に相当する続縄文時代を経て、飛鳥時代から平安時代に相当する擦文(さつもん)時代へと変遷していきます。
その後、一三世紀以降はアイヌ文化の時代を迎えるのですが、その直前の五世紀末から一〇世紀まで北海道のオホーツク沿岸には「オホーツク文化」と呼ばれる独特の文化が栄えました。オホーツク文化を担った人々は、考古遺物や人骨の研究からアムール川流域の漁撈民をルーツに持つと考えられています。彼らはオットセイやアザラシを捕獲する漁撈民でしたが、アイヌ文化の発展とともに姿を消してしましました。
日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
篠田 謙一 (著)
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