私たちの側に見る力があればあるほど、多くの物が見えます。
ダライ・ラマ14世テンジンギャツォ (著), Tenzin Gyatso H.H.the Dalai Lama (原著), 谷口 富士夫 (翻訳)
ダライ・ラマ 365日を生きる智慧
春秋社 (2007/11)
P190
P158
三代将軍家光のころ、伊勢国度会(かたらい)郡鵜倉村から江戸を志したひとりの少年があった。
幼名を七兵衛といい、成人してから十卯右衛門とあらためた。おなじ郷里から江戸へ出た者の出世ばなしをきくにつけて、矢もたてもたまらず、山畑屋敷を弟にゆずって江戸へくだったのである。
しかし、いかに新興都市のころの江戸とはいえ、徒手空拳で伊勢からはい出てきた少年に、うまいはなしがあろうはずがない。少年はたちまち、乞食同然の境涯におちた。やむなく、車曳きになった。
~中略~
「これ以上、えどにいてもうだつがあがるまい」
家財道具を売って路銀をつくり、江戸を出た。
~中略~
「江戸へ帰りなされ」
といった。
「江戸はこれからますます繁昌してゆく。まるで宝の山のようなものじゃ。才覚のある者だけがその宝をつかむことができる。宝の山をすてて逃げることがあろうか」
「しかし、資本(もとで)もない田舎者がひろい江戸の町の出たところで、大海にただようごみのようなものでござりまする。宝などどこにもみえませぬ」
「宝のみえぬのは、その宝を見ようとせぬからじゃ。宝は、見ようとする者にだけ見えるものゆえ、もう一度餓死するつもりで江戸にもどり、目をひらいて町をみなおしなされ」
(なるほど)
と、十右衛門は、自分の短気に気づき、そう思うと矢もたてもたまらず江戸の空が恋しくなった。
その翌朝、江戸へもどるために一番だちで小田原をたった。
品川の宿をすぎるころ、浜辺にただよっているおびただしい瓜やナスを見た。江戸の町民が捨てたものが品川の浜にながれついたのである。いままで気づかなかったことだが、江戸町民の消費力の大きさにおどろき、これこそ老人のいった宝かもしれぬとおもった。
さっそく、江戸に帰ってから川や浜辺で町民の捨てた残菜をひろいあつめ、漬物に仕込んで行商をした、主として土木工事現場の土工や人足を相手に売った。
安くもあったし、昼の弁当の菜にちょうどよかったので飛ぶように売れた。 ~中略~ 買って食う者こそいい面の皮だったが、十右衛門にとっては材料はただである。金がおもしろいほどもうかった。
一方、工事場に出入りする便宜をはかってもらうために、普請の役人に袖の下をつかうことも忘れなかった。
役人はよろこび、目をかけるうち、
「そのほうほどの才覚のある者が、ただの物売りでは惜しい。日傭(ひやとい)の頭にならぬか」
とすすめてくれ、十右衛門もいつまでも漬物屋でもあるまいと思ったので、その好意をうけることにした。
十右衛門は人夫頭として数年働き、そのあいだに、土木や建築のことをおぼえた。
やがて独立して、土木請負と材木商をはじめた。
明暦三年、有名な振袖火事が起こり、江戸は灰燼にきした。十右衛門はいまだとおもった。
このときの英雄的な商機のつかまえかたは、紀伊国屋文左衛門に似ている。
江戸の火がまだ消えやらぬときに、十右衛門は家じゅうのありがねをさらって木曾へ急行し、山主をつれて山中に入った。
そのとき、建材になりそうな木を立木のままでほとんど買い占め、ことごとく印を押して江戸へもどった。
~中略~
材木を売るだけでなく、十右衛門自身は諸方の大名屋敷、富商の家の建築をうけおい、たちまち江戸一の大富豪になった。
同時に、このときの活躍で、幕府をはじめ諸大名の御用商人になり、とくに時の老中稲葉正則の気に入られ、めぼしい官設の建築や土木はほとんど請け負った。
~中略~
その後、八十二歳で死ぬまでの河村瑞賢の仕事は、中学の社会科の教科書にもかかれているし、あまねく知られている。
~中略~
しかしこの日本史上最大の土木家は、品川の浜辺で瓜やナスを拾うところから身をおこしたというはなしはあまり知られていないので、右に紹介した。
没年は元禄十二年六月十六日である。墓は鎌倉建長寺にある。
(昭和37年5月)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)
- 作者: 遼太郎, 司馬
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
P188
現像のできた写真をならべてみてじっくりと見たが、よく写っている。病気前に撮ったものと比べてみて見劣りしない出来である。ところが何かがちがうのである。
写真を睨みながら、何度も何度もねらった対象の姿をゆっくりと思い返してみた。
そしてやっと合点がいった。ぼくがこの建築を撮ろうと考えて見上げたのは車椅子の上からであり、助手の構えたアングルは病気前のぼくが立った眼の高さだったのである。
約五十センチの差がぼくをいらいらさせていたのであった。車椅子がぼくの足になってこのかた、知らず知らずのうちに僕の視点は低くなり、車椅子から見る視線が身についてしまっていたのである。
理屈では解決のつかないことであるが、かっては僕が唯一絶対であると信じていた視点が、いつのまにか五十センチ下がって、今の僕の視点として落ち着いているわけである。
~中略~
話が脇道にそれたが、さて視点とは無数無限にあるものだとはいうものの、これだと決められる視点は一人に一点しかありえない。その一点とは、ある人は美意識に裏打ちされたものであるといい、またある人は思想に支えられるべきものだというかもしれないが、ぼくはそれは言葉の綾であると思う。
車椅子から見るようになって、ぼくの視点は低くなったが、決して美意識や思想が変わったとは思わない。 ぼくにとって視点とは生活からにじみでる、理屈抜きの感覚的なものなのである。
ぼくの中に、ぼくの見る位置は厳然としてある。しかしながら写真家たるぼくは、ただ見るだけではすまされない。写真を撮るに当たって、被写体も撮られる視点をもっていると思うのである。それは人物の場合はもちろんのことであるが、仏像も建築も自分の写される視点をもっているのだとぼくは考えている。
ぼくは被写体の対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そしてときには語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる。そして火花が散るというか、二つの視点がぶつかったときがシャッターチャンスである。パシャリとシャッターを切り、その視点をたぐり寄せながら前へ前へとシャッターを切って迫っていくわけである。
古寺を訪ねて―東へ西へ
土門 拳 (著)
小学館 (2002/02)
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