2026年1月24日土曜日

江戸時代の殿様

P23
―そもそも、殿様というものは、何人いたのか
 江戸時代を通じて、二百五十前後の藩があり、それぞれ一人ずつ大名がいた。この状態が約二百七十年つづいたから、随分たくさんの人間が大名になっている。結論からいって「大名は3千人以上いた」とみてよかろう。
江戸時代は二百七十年つづいた。人間の一世代が二十五~三十年であるとすれば、江戸時代は約十世代である。普通に考えれば、一つの藩に十代=十人の殿様がいた計算になるが、実際にはもっと多い。大名は、まるで種馬のように「早めの子作り」を強制されていたうえ、政治的にも、しばしば「代替わり」があったから、たいていの藩では、十三代目あたりで明治維新をむかえた。

P58
大名たちは、江戸と国元を大名行列で往来するが、彼らにとって、その道中は悲惨である。
 ―殿様はお駕籠のなかに監禁される
 まったく、みじめなものであり、殿様は狭い駕籠に押し込められて、その間は、籠の鳥になる。~中略~ とくに、遠国の大名は、一ヵ月ちかくも、この拷問に耐えねばならず、神経がもたない。
P30
一般に大名の位階は低かった。江戸時代のおもしろさは。大名の官位が必要以上に低くおさえられ、その一方で、神主の官位がべらぼうに高く設定されていたことである。
―神主の位階は高い
 という事実は、この時代の常識であり、小社の禰宜(ねぎ)が、大名と同じ官位をもっている場合も少なくなかった。そのかわり、神主は貧しく、「富」という点では寺の僧侶に到底かなわないようにされていた。
 いうまでもなく、これは幕府のしわざである。幕府は、意図的に、大名の官位を低く抑えた。そのかわり、神主をのぞけば、ある二種類人間の官位をわざと高くしていた。
―一つは、徳川家の親類
この人々は数万石の小大名であっても、官位を高くしていた。
―もう一つは、高家
つまり、足利将軍や織田信長の子孫たちである。
~中略~
「足利・織田の子孫は優遇する。豊臣の子孫は殺す」
というのが、徳川家の方針であった。

P32
 江戸城のなかで、大名の席順は、石高でなく官位できまる。そのため「官位」は、大名の最大の関心事になっていた。
これは歴史の通則であるが、人間は貴族化して、喰うに困らなくなると、次の三つのことにしか関心をもたなくなるのかもしれない。

一つは、恋愛。一つは、遊興、そして最後に、位階である。庶民は位階がないから、たいていは宗教に凝る。貴族というものは、とにかく、位にこだわり、位階の上下で、心が天にも昇り、地にも堕ちた。 

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

  • 作者: 道史, 磯田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/09/30
  • メディア: 文庫


 とにかく決戦態勢だけはととのえなければならぬと思った。
 継之助はすぐさま大殿様と殿様に拝謁し、その旨を申しあげた。大殿様は、
 ―よきにはからうように。
 といったのみであった。古来、日本の大名というものの伝統というものは、そういうようなところにあるらしい。「統治はすれども政治はせず」ということであり、すべて実務者にまかせきってしまう。それが帝王学の伝統からきたものであろう。
家老たちのなかから執政や参政をえらぶ人事すら、多くはかれら相互にまかせてしまう。
このことは、暗君や暴君が出たときのいわば危険防止の思想から出たものであろう。

峠 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (2003/10)
P201

峠(下) (新潮文庫)

峠(下) (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/10/25
  • メディア: 文庫

 

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