2024年11月21日木曜日

不老町

  また、前記柳御所考(住人注;佐野経彦)に
「風呂という処ありて、いとめでたき清水あり。古へは土俗傳言、古へ安徳天皇此村におわせしほど、此清水を汲てめしたまひしとぞ。吾学兄犬甘知言は曰。春日氏の硯海日記に、柳村の不老水は安徳天皇の、めし給ひし水とて今に里人の口碑にのこり、常に汲よごす事をいましめ、縄引しかへたり。小児のむしけ、婦人の血の病あるものは、此の水を汲みてのめば、必ずしるしあると、峯親親(ママ)王なる者に語りけるを聞たり。云々」
大正末期につけられた不老町という町名も、このいわれで名付けられたものである。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P 81

郷土門司の歴史 

門司郷土叢書〈第4巻〉村誌編 3.大里宿場編 (1981年)

門司郷土叢書〈第4巻〉村誌編 3.大里宿場編 (1981年)

  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2024/08/24
  • メディア: -

柳の御所

宗盛はじめ平家一門は、この地眺望よく故ある所なりとて、御所造営にとりかかった。
 里人は京都の御所になぞらえて、周囲に柳、梅、桃、李等を植え、幼帝をお慰め申し上げた。
~中略~
 柳御所に天皇が滞在されたのは、源平盛衰記に七日としている。
「柳御所考」で佐野経彦は、いろいろな状勢から、皇居材せし程は、八月末より九月の末に到れると思われる、と推定している。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P79 

郷土門司の歴史 

静泰院

静泰院 大里の戸ノ上山のふもと、豊国学園の西隣、柳小学校との間に静泰院という堂庵がある。
 静泰院は小倉藩主小笠原忠真(初代)の弟、出雲守長俊の霊をとむらうため、その法名の「静泰院殿」をとって名付けられたものである。
~中略~
 開基当初はあまり名の知れない一寺院にすぎなかったが、この静泰院が北豊第一の禅寺とし、後世になって、一時、小倉広寿山福聚寺(黄檗宗)と並び称されるようになったのは、名僧の譽高い蘭山が小倉開善寺(臨済宗)を辞し、明和七年二月十五日に静泰院に入ってからである。
 城下町の騒音と菩提寺としてのいそがしさから離れた蘭山は、戸ノ上山麓の静寂さを愛し、この地で余生を送ろうとしたようである。(黄檗宗は臨済系の禅寺で、もと臨済宗の一派であった。)
 しかし、その学徳を慕って諸国から、教えを請うもの相続いて絶えず、断っても去らず、樹下の石に座し、ひたすら許しを乞うので、遂に余生を禅徒の錬成にうちこもうと意を決した。
 同年秋には小笠原藩主の外護により、お寺もでき、諸堂も完備し、学園の経営はもとより、九州、四国、山陰の遠方よりの請にも応じて宣教開化の労を辞ぜず、日もこれ足らぬという有様で、修業した学徒は常に百余名もいたという。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P113

郷土門司の歴史 

P117
蘭山禅師後、後継者により維持されてきたが、長州との戦を経て次第に荒廃し、建物は解体され、本堂や庫裡は行橋の沓尾の高円寺に移され、鐘楼は大里の西生寺(現存)に残っている。

郷土門司の歴史

門司郷土叢書〈第4巻〉村誌編 3.大里宿場編 (1981年)

門司郷土叢書〈第4巻〉村誌編 3.大里宿場編 (1981年)

  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2024/09/27
  • メディア: -

戸上神社

寛平年中(八八九年~八九八年)柳ヶ浦の漁夫の重松大江(一書に大江繁松)という人あり。  ある夜海上に船を浮かべ漁獵をするとき、漁網に光輝く玉のようなものがあった。
 はじめ、これを大里松原の根二の海岸の松の根元に安置したが、馬寄(まいそ)村の一老夫(一書に伊古野大学)の夢枕に、夜毎に異光を放つものあり、われは天之中主命也と告げられたので、行って見ると、清水がわき出る所にある鳥居の上に、その物が置かれていた。
 老父はもったいないことと持ち帰り、屋敷内に柴を結び小社を建てて祀った。これは現在伊古野家に祭られているもので、この宮は鳥居の宮と申し上げる。
 其後、里近きは恐れ多いと、一ヶ坂前立山に遷座、更に鶏の鳴声の聞こえない清浄な場所へとの御神託があったので、枝折戸に載せ山上に移し鎮座した。
 よって社を戸ノ上神社と称し、山を戸ノ上山と呼ぶようになったという。

 のち、神仏混合の時代になってから、小倉福聚寺黙厳(一七五二年歿)が、仏教側から縁起をたて(戸上山満隆寺記)次のように記している。
 これより先、大同元年(八〇六年)空海は中国より帰朝の際、船を柳ヶ浦に着け、この山上は瑞雲たなびく霊境なるを知り、山に上り一七日の密法を修し、山麓に一寺を建立し、唐から持ち帰った観音像を安置しお祀りした。これを満隆寺という。
 天慶年中(九三八年~九四五年)藤原純友の乱がおきたとき、源経基は討伐のために西下し、戸ノ上神に戦勝を祈り大勝を得た。
 経基いたく感激し、新祠を再建、宝剣一振を奉納し併せて社領若干を下附し、国家安全の祈禱を命じた。
 当時、寺院は山上、山下に六坊(満隆寺・東源寺・修善寺・法高寺・円明寺)があり、歴代密乗を唱え、満隆寺が取り締まっていた。
後略~

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P57

恒見八幡神社

  天長元年(八二四年)恒見城主安芸入道平道金が祭主となって、豊前国宇佐八幡宮の御分霊を勧請して奉祀した。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P69

甲宗八幡神社

  貞観元年(八五九年)奈良大安寺の僧 行教に詔あって、宇佐八幡宮を平安京の鎮護として山城国男山にお遷しする途次、神輿を門司関に休めた。この地は神宮皇后が三韓出兵後、穴門豊浦宮に還御したとき、三韓の親交船が入港した門司関(着船の地名をそれぞれ白木崎、葛葉、小森江と云)で、この関はわが国の西門に当たる要津である。
ときに筆立山の麓に、白旗八旈が天より降下し、光日月の如く行教の袈裟を照らす。・・・・
(宇佐)大神の応現固(まこと)に疑う可からざる地なりとの霊感があった。
 そこで翌二年(八六〇年)大宰大貮清原眞人岑成(たかなり)は勅命を奉じ、宇佐神宮の御分霊をうけ、神宮皇后着用の御甲を神霊(御神体)として賜り、宇佐の大神義勝を祭主としてこの地に創建した。
 よってその御甲を神璽と鎮め、外朝西門鎮守甲宗八幡宮と称し、略称を門司八幡宮と申し上げた。

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P18

和布刈神社

 創立 仲哀天皇九年(二〇〇年)
 当社祭神彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、「海幸山幸」に由緒ある神で、兄神の隼人族始祖火蘭降尊(ほのすそりのみこと) より、隼人族のまつりごと即ち「毎歳除夜に和布を刈り神前に供える」ことや海神の潮干珠、潮満珠の秘伝を相承されたいわれがある。
 神宮皇后は角鹿(つねが)(敦賀)より豊浦に向かう海中にて、如意珠を得、後に海神の末裔阿曇磯良神(あずみいそらのかみ)より より、この両珠の秘伝を授かり、三韓に出兵した。
 皇后は帰国後、豊浦宮に殯宮(ひんきゅう)(葬らない前に祭りを行う宮殿)を長門に住吉神の荒魂を祭り、同時に速門(急潮奔騰するので)の故地に、阿曇磯良神の幸魂、奇魂に併せて皇神等を祭られた。
ときに仲哀天皇九年で、これが和布刈神社のはじまりという。
P34


 関門海峡に竜神思想がある。この海峡は昔から渦潮たぎり、岩礁の多い海の難所である。
~中略~
 昔人はその様子を、あたかも竜の昇天の姿と想像したかもしれない。
 また、航海の困難や天候の変化のため、船が難破すれば、自然への畏敬の念から竜神思想も生まれてくるであろう。
満干両珠の秘法というのは、住吉、妙見信仰にみる北辰尊星のもので、日月星の関係、季節風位、潮の満干等で航海するというような、古代航海術といた程の意で、自然の驚異を竜神と結びつけたのであろうことが想像できる。
 韓国・中国等文化のわが国への流入は、船によって行われた。海路は天候と潮流、海の浅深などに注意をはらい、風待ち・日和待ちをし、更に水先案内をつければ、古代の陸の困難な旅にくらべ、安全・迅速・快適・多量という交通の要件にそうわけである。
 関門海峡は、交通上・軍事上重要な要地である。
この地で、へいぜいは漁猟をしながら、水先案内もしていた氏族がいたということも想像できる。
この豪族を古代史では、海神族・海賊・海人族等といって、戦略上はもとより、文化の伝達者として、大きな役割を演じていた。
 この氏族が祖霊を祭り、後世には霊験あらたかな神とし、明神思想となる。
P37

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)

2024年11月20日水曜日

有能と呼ばれる人と一般人の違い

 人間は、君が思っているほど理知的、理性的な動物ではない。感情に支配され、簡単に崩れ落ちるもろさを持っている。一般に有能と言われる人でも、絶対的でないことは、君も承知しているだろう。
それでもなおかつ「有能」と呼ばれるのは、他者と比較してそう呼ばれているにすぎない。
一般の人より欠点がすくないということだけで「有能」と呼ばれ、優位に立っているにすぎないのだ。
 彼らはまず自分を制し、欠点を減らすことによって、残りの大多数を御しやすくしている。その時、理性に訴えて御すような、馬鹿な真似はしない。
感情や感覚など、御しやすいところを巧みに突く。だから、失敗することはほとんどない。

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章
フィリップ・チェスターフィールド (著), 竹内 均 (翻訳)
三笠書房 (2011/3/22)
P160

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

父から若き息子へ贈る「実りある人生の鍵」45章 (知的生きかた文庫)

  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2011/03/22
  • メディア: 文庫
 成功している人は、すべてにおいて強さがあり、運に恵まれ、考えや行動がすこぶる効率的で、何事においても人並みはずれて要領が良いように見える。
ところが、彼らにもまた、ふつうの人と同じように欠点や弱さがあるものだ。

 ただし彼らは、欠点や弱さが誰からも見えないように奥底に隠しているわけではない。むしろ、それらをあたかも強さのバリエーションであるかのようにカムフラージュして見せているのだ。
その点において、他の人たちよりも老獪なのだ。
 これができるのは、彼らが自分の弱さと欠点がどういうものであるかを熟知しているからだ。
たいがいの人は、自分の弱点については見て見ぬふりをする。
しかし彼らは、それをよく見つめて理解している。そこがふつうの人とは異なっているのだ。
「漂泊者とその影」

超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦 (翻訳)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/1/12)
121

超訳ニーチェの言葉

超訳ニーチェの言葉

  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

「サメを飛び越える」(jump the shark )

  70年代の人気ドラマ「ハッピー・デイズ」も、約一〇年の放送期間でお決まりの道をたどった。
オンエア当初から人気を博し、数年で視聴率が大きく伸びたが、ピークに達してからは下降の一途。
ダメ押しの決定打は、登場人物の一人、フォンジーがハワイで水上スキーをしながらサメを飛び越えたときだったと言われている。

熱狂的なファンでさえ、このとき一斉に見切りをつけた。以後、「サメを飛び越える」(jump the shark )は、視聴率が低迷し、熱狂的なファンでさえも離れてしまう状態を表す業界用語として使われるようになった。
 製品カテゴリーも同じだ。カテゴリーが成熟するまでは、製品の質はどんどん向上し、消費者も恩恵を被る。
だが、どこかの段階でサメを飛び越える。ひねりやこだわりを追求しすぎて消費者をうんざりさせてしまう。

ヤンミ・ムン (著), 北川 知子 (翻訳)
ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業
ダイヤモンド社 (2010/8/27)
P78

ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業

ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業

  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2010/08/27
  • メディア: 単行本

 

お客さまは常に正しい

P16
 会社が成長していくためにはどうすればいいでしょうか。その答えは明快です。「お客さまに満足していただく」ことしかありません。
  お客さまのニーズにお応えすることができれば、会社は必ず成長し、その逆なら必ず衰退します。これは、小売業だけではなく、すべての業種に通じる真理です。,br>  お客様は常に正しいのです。お客様がおっしゃることがすべてであって、それ以外の真実はこの世にありません。
~中略~

 もう一度言います。お客さまは常に正しいのです。それが接客業の鉄則です。お客様に満足していただくことが接客業なのですから、真実は何かを言い争いをしたところで無意味です。
 完全にお客様の間違いを証明できたとしても、「申し訳ございません」と頭を下げることのほうが大事です。

P28
どこの会社でも「お客様第一主義」などといった経営理念を掲げています。お客様の満足を高めるための手を打ち、現場に対していつも「お客様を大事にしなさい」と言っているはずです。では、実際にそうなっていないのはなぜなのでしょうか。

もし、「お客様第一主義」が本当に徹底されていたら、すべての会社がお客様に支持されて、業績が向上していなければおかしいのです。
つまり、いくら経営理念で「お客様が大事だ」と謳っていても、お題目に過ぎないのが実態なのです。

利益を3倍にするたった5つの方法―儲かる会社が実践している!
大久保 恒夫 (著)
ビジネス社 (2007/08)

 

利益を3倍にするたった5つの方法: 儲かる会社が実践している!

利益を3倍にするたった5つの方法: 儲かる会社が実践している!

  • 作者: 大久保 恒夫
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2007/08/01
  • メディア: 単行本