寛平年中(八八九年~八九八年)柳ヶ浦の漁夫の重松大江(一書に大江繁松)という人あり。 ある夜海上に船を浮かべ漁獵をするとき、漁網に光輝く玉のようなものがあった。
はじめ、これを大里松原の根二の海岸の松の根元に安置したが、馬寄(まいそ)村の一老夫(一書に伊古野大学)の夢枕に、夜毎に異光を放つものあり、われは天之中主命也と告げられたので、行って見ると、清水がわき出る所にある鳥居の上に、その物が置かれていた。
老父はもったいないことと持ち帰り、屋敷内に柴を結び小社を建てて祀った。これは現在伊古野家に祭られているもので、この宮は鳥居の宮と申し上げる。
其後、里近きは恐れ多いと、一ヶ坂前立山に遷座、更に鶏の鳴声の聞こえない清浄な場所へとの御神託があったので、枝折戸に載せ山上に移し鎮座した。
よって社を戸ノ上神社と称し、山を戸ノ上山と呼ぶようになったという。
のち、神仏混合の時代になってから、小倉福聚寺黙厳(一七五二年歿)が、仏教側から縁起をたて(戸上山満隆寺記)次のように記している。
これより先、大同元年(八〇六年)空海は中国より帰朝の際、船を柳ヶ浦に着け、この山上は瑞雲たなびく霊境なるを知り、山に上り一七日の密法を修し、山麓に一寺を建立し、唐から持ち帰った観音像を安置しお祀りした。これを満隆寺という。
天慶年中(九三八年~九四五年)藤原純友の乱がおきたとき、源経基は討伐のために西下し、戸ノ上神に戦勝を祈り大勝を得た。
経基いたく感激し、新祠を再建、宝剣一振を奉納し併せて社領若干を下附し、国家安全の祈禱を命じた。
当時、寺院は山上、山下に六坊(満隆寺・東源寺・修善寺・法高寺・円明寺)があり、歴代密乗を唱え、満隆寺が取り締まっていた。
後略~
郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P57
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