スシは日本においてすでに固有なものから脱して普遍性に達した食べ物ともいえる、
スシの原形の一つはたとえば近江の鮒(ふな)ずしだろう。そのにおいの強烈さに、馴れぬ他府県人は驚倒してしまう。鮒ずしは、なれずしの一種である。こういう発酵食品は極東の古文化をおおっていたようで、中国にもベトナムにもあり、エスキモーの社会にもある。
ともかく鮒ずしのような固有すぎるものは、近世ともなると、近江だけに残り、普遍性をうしなってしまっていた。
近世では、大阪もまた、諸国から人のあつまる地で、小さいながら文明(普遍性)が成立する条件をもっていた。ここに箱ずしという、いわば多数に通用する(つまり普遍性の高い)すしができた。
鮒ずしにおける臭気という魅力的な(しかし排他的な)固有の文化はのぞかれて、たれも出会いがしらに口にできるすしになった。
私は一九二三年うまれだが、当時、大阪では圧倒的に箱ずし(大阪ずし)だった。私自身は、中学四年生のとき、はじめて”東京ずし”を食った。いきなりうまいとおもった。そのいきなりが、普遍性というものである。いまは大阪でも大阪ずしは普遍性をうしない、特別なものになってしまっている。
江戸は大工・左官といった職人が、他地方とけた外れに多くいた街で、資本の蓄積を心がける商人とはちがい、腕さえよければ宵越しの金をもたずにくらせたため、さかんに美味をもとめ、うまい店の情報に敏感だった。
酢と塩を加えためしを用意し、客の前で即席でにぎり、江戸前のサカナをのせるというこの食品は伝統的ななれずしとはまったくちがったもので、その味覚には万人が参加できた。
スシはアメリカに受け入れられる前に、濾過過程を日本において経ているのである。
アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P45
シャコで想い出したことだが、二十年ほど前、亡くなった富沢有為男氏に連れられて築地の河岸のすし屋に行ったことがある。
そこの主人の話によると、震災で東京のすし職人が一時大阪に多数移った。老主人もそのうちのひとりだったが、かれの実感によると、すしといえば箱ずしだった大阪の土地に握りずしへの嗜好が圧倒的に定着したのは震災が契機だったという。~中略~
老主人の体験談では、すし職人が穿(は)いている高下駄は大阪へ移動した東京の職人が、東京が復興してから帰って来たときに調理場で高下駄を穿く大阪風をもたらしたものだという。いまの中国人がよくいう文化交流というものである。
「ただすしのたねのなかで、シャコだけは大阪では好まれなかったですな」
と、老主人がいった。たしかに京阪の地ではシャコはその形がグロテスクなせいか食品としては通用せず、私の管見(かんけん)ではすしだねとしてのシャコがすこしずつ普及しはじめたのは敗戦後ではなかったかと思える。
シャコは、播州の沿岸でよく獲れる。かつて播州の高砂の浜で聞いたところでは主として肥料にされていたという。が、いまでは京阪神のすし屋で圧倒的な需要があるために、室津の漁船も沖へ出ては懸命にシャコを獲っているわけだが、ただし私事をいうと、私自身はまだシャコを食べる勇気が出て来ない。
街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)
P174
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