「名前は静(しず)といいます(住人注;高取静山)。若いころ、女名前だと作品を発表するときに変だというひとがあって、その下に山を付けていただきました」
と、いった。
高取家は、彼女で十一代目である。
先祖の高取八山は朝鮮からきた。自発的にやってきたのではなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略(朝鮮側の呼称で壬辰(じんしん)ノ乱)のときに、諸大名が陶工をとらえて日本に連れて帰るのがはやった。
八山もその被害者のひとりだった。かれは黒田長政の手でとらえられ、その家臣にさせられて日本で仕事をし、多くの作品をつくった。以後、家系がつづいて彼女の代になっている。
街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P187
八山は、日本の茶陶を作るために、その美学を知らねばならなかった。黒田藩はそのため、八山を晩年の小堀遠州の門人にして指導を受けさせた。遠州は幕臣だったから、黒田藩としては、多少は政治的な配慮でそうしたのかもしれない。
八山は本来豪放な作風のひとだったが、遠州の指導をうけてから繊細になった。こんにちの感覚でいえば、八山の作風が本来のままであった方がよかったように思える。
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