2024年11月20日水曜日

関門海峡

 二〇〇年には隼人社(和布刈神社)が創建された。
~中略~
 八〇六年(大同元年)には僧空海によって、戸ノ上山満隆寺が開創、密教修行が盛んに行われ、八六〇年(定観二年)には、西海守護神として甲祖八幡神社が建立された。
 この間、神宮皇后朝鮮半島出兵の伝説、遣隋使、遣唐使、帰化人などの通峡も盛んであった。
 関門海峡は文化的に見て、瀬戸内海文化圏と福博文化圏の交流点に当たり、遠くは朝鮮半島や中国大陸、東亜アジアに通ずる国際航路上にある。
~中略~

郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P2

 

                  和布刈神社

 一一八三年(寿永二年)花の京都を源氏に追われた平家一門は、九州ならば平家恩顧のところ多く、頼むべき有縁の豪族もあるちなればと、一路筑紫大宰府へと下ったが、緒方、松浦などの離反にあい、柳ヶ浦(大里)に逃れ、安徳天皇の行在所をおいた。
 しかし、ここも安住の地ではなく、一端四国屋島に渡る。~中略~ 翌一一八五年屋島を追われた平家は再び南下、決戦の地として関門海峡を選び、田野浦沖の海戦に破れて、一族の者総て海の藻屑と消え、時代は封建社会へと推移した。
 鎌倉幕府は平家の残党に備え、さらに諸豪族制御のため、一二四四年下総前司藤原親房を派遣してきたが、菊池氏などの諸勢力に押され、大宰府にいたたまれず、赤間ヶ関に北上、越えて一二五五年門司に地所を定め、姓を門司氏と改めた。
~中略~

 蒙古軍の侵入による文永、弘安の両役には文字ヶ関六ヶ郷の精鋭は大いに活躍した。
 関門海峡に臨む門司の戦略的価値は、元弘以後の戦乱期に、諸豪族間争奪の場ともなったことでもわかる。
~中略~
一三七四年、大内義弘は豊前守護職と任ぜられると、門司氏は大内氏に属した。
~中略~  一五五一年大内氏が滅び、これに代わった毛利氏と豊後の大友氏との間に、この地の争奪戦が長期にわたって繰り返され、多くの民家や社寺が消失するなど、庶民は塗炭の苦しみを味わった。

 地政学的にいって、九州ではきまった戦争のやり方がある。九州で乱が起きた場合、いちばん最初に押さえないといけない最重要地点は、
「小倉・下関線」
 である。ここさえ取れば、本州と九州の連絡路をおさえることができ、日本海側からの京大坂への海上物資の輸送まで、とめられる。
 西南戦争のとき、西郷隆盛に率いられた反乱軍は熊本あたりでぐずぐずした。 ~中略~ 
 戦国時代から、このような九州の地政学的条件は変わっていない。
「南の島津が攻め上ってくる」
 戦国以来、これは変わらず、豊臣秀吉以来、徳川にいたるまで、中央政権は、九州の島津を抑えるため、北九州に、子飼いの武将を配置した。
徳川時代、幕府は小倉・下関線を維持するため、
―小倉、中津、延岡
 三つの譜代大名を置いた。小倉は小笠原という大名を入れ、中津には奥平という家を置いた。
この奥平家は、長篠の合戦のとき、徳川方につき、わずか五百人で一万五千の武田軍を引き受け、籠城戦を戦い抜いた家である。幕府はその先例に倣って、中津に奥平を入れた。それより南が延岡、内藤家がおかれたちである。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P187

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