静泰院 大里の戸ノ上山のふもと、豊国学園の西隣、柳小学校との間に静泰院という堂庵がある。
静泰院は小倉藩主小笠原忠真(初代)の弟、出雲守長俊の霊をとむらうため、その法名の「静泰院殿」をとって名付けられたものである。
~中略~
開基当初はあまり名の知れない一寺院にすぎなかったが、この静泰院が北豊第一の禅寺とし、後世になって、一時、小倉広寿山福聚寺(黄檗宗)と並び称されるようになったのは、名僧の譽高い蘭山が小倉開善寺(臨済宗)を辞し、明和七年二月十五日に静泰院に入ってからである。
城下町の騒音と菩提寺としてのいそがしさから離れた蘭山は、戸ノ上山麓の静寂さを愛し、この地で余生を送ろうとしたようである。(黄檗宗は臨済系の禅寺で、もと臨済宗の一派であった。)
しかし、その学徳を慕って諸国から、教えを請うもの相続いて絶えず、断っても去らず、樹下の石に座し、ひたすら許しを乞うので、遂に余生を禅徒の錬成にうちこもうと意を決した。
同年秋には小笠原藩主の外護により、お寺もでき、諸堂も完備し、学園の経営はもとより、九州、四国、山陰の遠方よりの請にも応じて宣教開化の労を辞ぜず、日もこれ足らぬという有様で、修業した学徒は常に百余名もいたという。
郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P113
P117
蘭山禅師後、後継者により維持されてきたが、長州との戦を経て次第に荒廃し、建物は解体され、本堂や庫裡は行橋の沓尾の高円寺に移され、鐘楼は大里の西生寺(現存)に残っている。
門司郷土叢書〈第4巻〉村誌編 3.大里宿場編 (1981年)
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2024/09/27
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