M・C・ペリー大佐(のち准将。一七九四~一八五八)は、有能で勇敢な海軍軍人であるばかりでなく、豊富な知的好奇心をもつ人物だった。ただユーモアを解しなかった。その欠点をのぞけば、新興国がもちうる申し分のない艦隊指揮者だった。
この時期、アメリカじゅうのほとんどの灯火は鯨油で、ヨーロッパやアジアのように菜種油をつかっていなかった。鯨油のため捕鯨業がさかんで、しかも獲った鯨は油だけしぼって他は捨てていた。(いまのアメリカ人の教養のなかにそういう歴史知識が入っているのだろうか。おそらく忘れているだろう。)
~中略~
「白鯨」(住人注;ペリーよりも二十五歳下のハーマン・メイビル(一八一九~九一の名作(一八五一年))のなかで、
「日本近海の台風」
という現象が幾度か出てくる。ところが、メイビルのいうところの”未知の閉ざされた国”はアメリカの捕鯨船に避難港を提供しないばかりか、近づけば砲撃さえしてくる。まことに、アメリカの捕鯨業者にとって最大の敵であった。
―日本を開国させよ。
という声は、当時のアメリカ人一般が発したわけではない。捕鯨業者というただ一種類の業界が連呼しつづけた声だったのである。まことに日本の鎖国はアメリカの鯨とりたちにとっての損害だった。かれらはロビイストを使って政界に働きかけた。ペリー艦隊が出てゆくにいたる発射薬はそれのみでないにしても、最大の要素の一つだった。
日米間の尽きざるゲームは、この一八五三年(嘉永六)においてはじまるのである。しかもペリーがやったのはドアを足蹴(あしげ)にしてぶちやぶり、ピストルをつきつけるような西部劇のやり方だった。もっとも当時はナマの西部劇の時代でもあったが。
アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P105
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