貞観元年(八五九年)奈良大安寺の僧 行教に詔あって、宇佐八幡宮を平安京の鎮護として山城国男山にお遷しする途次、神輿を門司関に休めた。この地は神宮皇后が三韓出兵後、穴門豊浦宮に還御したとき、三韓の親交船が入港した門司関(着船の地名をそれぞれ白木崎、葛葉、小森江と云)で、この関はわが国の西門に当たる要津である。
ときに筆立山の麓に、白旗八旈が天より降下し、光日月の如く行教の袈裟を照らす。・・・・
(宇佐)大神の応現固(まこと)に疑う可からざる地なりとの霊感があった。
そこで翌二年(八六〇年)大宰大貮清原眞人岑成(たかなり)は勅命を奉じ、宇佐神宮の御分霊をうけ、神宮皇后着用の御甲を神霊(御神体)として賜り、宇佐の大神義勝を祭主としてこの地に創建した。
よってその御甲を神璽と鎮め、外朝西門鎮守甲宗八幡宮と称し、略称を門司八幡宮と申し上げた。
郷土門司の歴史
中山主膳 (著)
金山堂書店 (1988/06/01)
P18
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