ロシアという国家はその成立から今にいたるまで、常に最も抵抗の弱い部分に向かって膨張する傾向を示してきた。
地政学入門―外交戦略の政治学
曽村 保信 (著)
中央公論社 (1984/01)
P58
海音寺 ぼくは昨年の五月、北海道の根室に行って、問題になっている北方領土をつい目の前に見て来たのですが、あそこの島々は地勢的にいっても、北海道の一部ですね。
見ていて、ぼくはロシア人というやつは近代人ではない、中世人なのだという気がしましたね。だから中世的領土慾がまだ旺盛なのだとね。
おっしゃるとおり、共産主義は今のロシア人にとっては、領土拡張の手段にすぎませんよ。帝政時代の侵略策をあのかたで実行しいているのですね。
新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P69
ウラジオストック港は冬期にには流氷で使えなくなるため、朝鮮まで二十キロほどのポシェットに港を作ろうとしていました。 すでに幕末からロシアの南下を恐れていた西郷隆盛は、早くも明治初年に朝鮮や満州調査のために個人的にスパイを派遣していましたから、この情報を摑んでいました。 まごまごしていると朝鮮はやられる、との思いが主君島津斉彬の大陸出撃策にも重なり、一八七三年(明治六年)の征韓論にまで発展しました。
日本人の誇り
藤原 正彦 (著)
文藝春秋 (2011/4/19)
P219
ロシアは一六世紀のイワン大帝の時代、毛皮を求めてシベリア探検をはじめた。一八世紀初頭にはシベリアを制覇しカムチャッカ半島を領有。さらにベーリング海峡を越え、一八世紀半ばにはアリューシャン列島からアラスカにまで到達した。
一七九九年にはアラスカに国策会社ロシア・アメリカ会社を設立した。~中略~
一八一二年。ロシア・アメリカ会社は、スペイン人との交易とラッコ猟を目的とした基地を造るため、今のソノマ郡の小さな入り江に上陸した。二五人ロシア人と八〇人のアラスカ先住民の猟師たちだった。
当時、そこに住んでいたのは、カシャ族という先住民だった。三枚の毛布、三本のズボン、二本の斧、三本の鍬、数個のネックレスが土地との交換物として先住民に提供された。~中略~
しかし、一八二〇年ごろには乱獲のためラッコは激減。基盤を牧畜と畑作中心に切り替えたが、猟師たちの士気はあがらず、霧による日照不足や大量のネズミなどによる被害から、一八四一年に撤退してしまった。
ロシアの南方進出の夢は潰(つい)えた。だが、もし植民が成功しカリフォルニアでの勢力をのばしていたなら、その後のアメリカ開拓の歴史は、あるいは大きく変わっていたのではないだろうか。
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ
加藤 則芳 (著)
平凡社 (2001/01)
P104
自然の歩き方50―ソローの森から雨の屋久島へ (平凡社新おとな文庫)
- 作者: 加藤 則芳
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/01/01
- メディア: 単行本
ロシアは国際法違反の常習者として悪名がたかい。
我が国に対しても、昭和二十年八月の騙し討ちとその後の阿鼻叫喚の地獄絵図、女は犯され自決と中絶が相次ぎ、男は極寒のシベリアに送られ強制労働をさせられた事実は、許すまじき非道である。
しかし、ロシアは国際法やウェストファリア体制を理解できないわけではない。理解したうえで破るのである。国際法どころか、「法」とは何かを理解できていない中国とはまるで違う。
~中略~
現代の歴史問題を考えるうえでも、プーチン大統領が日本にリップサービスだけは欠かしていないことに注目すべきである。たとえば、金正日が無警告で日本上空にテポドンを打ち上げたときは、「北朝鮮は文明国ではない」との批判を行った。
また、靖国神社参拝問題で中韓両国と一線を画していることにも注意が必要である。すでに講和条約が締結された戦争の戦没者の慰霊に外国が内政干渉するなど、ウェストファリア体制の全否定である。少なくとも、現在までのロシアは自国の国益を勘案したうえで靖国問題に介入せず、文明国としての節度を守っている。
国際法を破ることと、理解できないことは別なのである。
日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)
P169
日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか (PHP文庫)
- 作者: 倉山 満
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/04/03
- メディア: 文庫
十六世紀以後のロシア帝国は、膨張こそ本能だった。コサックたちは、シベリアを東にすすみ、土地を略取しては皇帝に献納しつづけた。十七世紀にはついにロシア領土が太平洋に達した。
コサックたちが相手にしたのは、原始的な採集生活を送っていたシベリアの住民たちだったが、そのしごとが一段落したあとは、コサックの私的冒険の限界ということもあって、国家そのものが乗りだすべき段階になった。 ロシア帝国は清国に対して土地割譲を交渉し、アムール川流域の全域を得(一八五八年)、またシベリア全土がロシア領であることを清国に確認させ(一八六〇年)、さらに清国領の満州に南下して権益を得た。
次いで朝鮮に手をのばし、鴨緑江森林の伐採権を獲得、遠からぬ位置にある日本をふるえあがらせることになる。
そういう一連の膨張運動のなかで、一八六一年、ロシア軍艦ポサドニク号が対馬の一部を占領し、藩兵と交戦した。これに対して幕府が抗議したがロシア軍艦は動かず、結局、駐日英国公使の干渉によって退去した。
この間、日露のあいだに些末(さまつ)なことがらがたくさんあった。ざっといえば、右のような膨張運動による反作用が日露戦争(一九〇四~〇五年)だったといえる
アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P314
P32
ロマノフ王朝は、モンゴル汗がそうであったように、皇帝の専制に終始しました。
王朝末期の政治家で、積極的に解明政治を推進し、地主貴族(当然、専制派でした)とはげしく対立し、最後には追われるように政界から引退したウィッテ伯爵(一八四九~一九一五)でさえ、その回想録のなかで、 ロシアは全国民の三五パーセントも異民族をかかえている。ロシアの今日までの最善の政体は絶対君主制だと確信している。
なにがロシア帝国をつくたか。それはむろん無制限の独裁政治であった。無制限の独裁であったればこそ大ロシア帝国は存在したのだ。
と書いているのは、かつての―あるいはその後の―ロシア的本質を考えるうえで、深刻な問題をふくんでいると思います。
ソ連になってからも、毎年、メーデーの日に、赤い広場で、おそろしいばかりの威力をもつ兵器が、兵たちとともに行進します。私はむかしから、あれは外国に対する示威よりも、連邦内の諸共和国に対し、
―モスクワはこんなにすごい兵器をもっているのだ、むほん気をおこすのはむだだぞ。
と言っているのだと思っていましたし、いまも思っています。
P193
奴隷。この古代的な存在が、日本でいえば江戸時代のロシアにたっぷりと存在した。
農村においては、農奴制がごく一般的なものであった。そのころのロシアにあっては、町や村の女たちをだましてシベリアに連れてきて奴隷として売ることは、習慣上の抵抗はなかったのであろう。
ときに、自分の妻を賃貸することもあったらしく、また奴隷として売ってしまうこともあった。まことにシベリア的というほかない。
こういう状態が十八世紀半ばまでつづいた、という。ロシア国家の体質をさえ変えたシベリアというものが、そのロシア化途上にあってどういう一面をもっていたが、右の記事で察しうる。
同時に、ロシアが、シベリアに住む人間たちを征服してゆく上で、アメリカ合衆国の開拓時代と同様、人間のもつ蛮性―プラス面でいえば民族としての若さ―が推進のエネルギーになっていたことに感じ入らざるをえない。
他の古い文明圏に比して、ほんの二百年ほど前まで、野蛮でしたたかなことをやっていたということは、ロシアの若さにつながるようでもある。
P36
クリミアのタタール(クリム汗国)が、十八世紀末にポチョムキンの武力に滅ぼされるとき、じつに泡が消えるようにあわれなものでした。
クリム汗国の文明の段階はキプチャク時代のレベルにとまってしまっており、政治的にはオスマン・トルコを頼ってその武力に保護されていて、経済的には草原をさまよう乞食のように薄よごれた状態になってしまっていました。
エカテリーナ女帝がこれを併呑するのにいいチャンスだったのです。彼女は第一次トルコ戦争(一七六八~七八)の結果として、クリミアの地をポチョムチンに武力奪取させ、あらたにロシア領としたのです。いまも、むろんソ連領です。
彼女の寵臣デアルポチョムキンは、この遊牧国家の地に有名なセヴァストーポリの要塞を築き、かつ要塞と一つのセットのものとして黒海艦隊という強力な海軍を建設しました。
武力のみが国家をたもつという物騒な思想を、ロシア帝国は、かつて自分たちを支配したキプチャク汗国から学び、ひきつぎました。また武力をうしなえば、クリム汗国のような最後をとげるという教訓を得た、とみるのは―ちょっと遠慮していいますが―文学的であり過ぎるかもしれません。
P120
江戸期の日本を北方からおびやかして、日本人に対露恐怖心を植えつけるもとになったものは、はたしてロシアの本質そのものなかのか、それとも露米会社のなりふりかまわぬ活動が当時の日本人や私どもの歴史学者を眩惑させて、それがロシアの本質として印象されたのか、あるいは二者不離のものなのか、このあたりはなお両国の多くの歴史学者に精密に検討されねばならない。
~中略~
くりかえすが、シベリアの食料問題は、ロシアにとって恒常的な難問題だった。
その難問解決のために、露米会社の代表(N・P・レザノフ)を日本に派遣したこともある。その交渉は失敗した。失敗したレザノフが腹を立てて会社所属の船二隻に命じ、日本の北辺を襲撃させた(フヴォストフ大尉事件)こともあった。その実行者は、国家によって裁判にかけられた。
またそれに過剰に反応した日本側が、侵略の意図をもたないロシア軍艦の艦長ゴローニン少佐を逮捕したりした。
この作用と反作用という国家間の物理現象は歴史的条件さえ悪くそろえば、十分に戦争へ誘導してゆくべき事件であった。
その間、ロシアは海の国へと発展して行った。 ~中略~ その成長ぶりは、日本の江戸後期、三度も欧露から極東への世界周航をおこなうほど華やかであった。ここで思わねばならないことは、この三大世界周航の目標が、三度とも日本だったことである。
ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
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