白川谷の平瀬という部落に着いたのは、午後四時ごろである。
この村でかって遠山家といった家の合掌造りの屋敷が、そのまま村立の民俗館になっている。
~中略~
平瀬を過ぎた。
この白川郷というのは南北十八里とか十九里とかいわれ、あわせて四十余ヵ村といわれてきたが、室町末期の乱世にあっては、この谷は真宗寺院を中心として、いわば実質上自治の地帯であった。その自治的な時期がどの程度つづいたか、よくわからない。
それを崩した勢力がある。越中のほうから侵入してきた武士団で、かれらがよほど平野地方であぶれてしまった連中に相違ないことは、この白川郷というのは当時米が獲れないのである。米がなくては武士の収奪経済が成立しがたく、それに白川郷は古来自給自足がやっとであった。
縄文時代のように焼畑耕作をしてヒエやアワを穫る。あとは魚鳥を獲って食うしかなく、この生産のどこをかすめて収奪しようとしたのであろう。
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P96
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