P176
天平の美は、正倉院御物と万葉集と仏教美術によって代表されることは周知のところであろうが、とくにこのみ代の仏教を語るものにとっては、聖武天皇ならびに光明皇后の御名は、忘れ難いであろう。東大寺―わけても今日「奈良の大仏」として親しまれている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)鋳造や、法華滅罪時の建立は御二方の名を不朽ならしめた。
御二方なくしては天平仏教の開花はありえなかったであろう。何故かくも信仰が深かったのだろうか―。
~中略~
すでに仏教はわが国の上層にあまねく行きわたり、また唐との交通も益々繁(しげ)くなったので、優秀な僧侶(そうりょ)や博士やその他様々の専門家が渡来し、皇室に重用されたことはここに一々挙げるまでもない。
とくに隣邦僧侶の、芸文あるいは政治経済にも及ぶ指導力はこの時代一層つよいものがあった。聖武天皇が幼少の頃より、未曽有(みぞう)の「文明開化」の影響のもとに生育されたことは申すまでもなかろう。
しかし御信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断ずるのは不当である。まことの信仰は、必ず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。 あの豪華荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにはゆかない。
天皇の御生涯(しょうがい)を偲ぶとき、私は一層その感を深くする。小野老朝臣(おののおゆあそん)が「あをによし寧楽(なら)の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠じたように、天平のみ代はたしかに稀有()けう)の黄金時代であったろう。
飛鳥白鳳(あすかはくほう)を通じて興隆し来(きた)った文化の、更なる昂揚(こうよう)があったであろう。だがそういう開花の根底には、必ずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。
私は日本書紀や続日本紀を読みつつ、後代より慕わるる美しい時代が、その底につねに暗澹(あんたん)とした苦悩を、悪徳の深淵を湛(たた)えているのをみて驚く。
平和とはそもそも何だろう。平和とは内攻した地の創造の日々である。対外的には静謐(せいひつ)であろうと、一歩国内の深部に眼をむけると、そこには相変わらぬ氏族の嫉視と陰謀と争闘があり、煩悩(ぼんのう)にまみれた人間の呻吟(しんぎん)がある。ひそかに流された血のいかに多いことであるか。歴史は私に平和の何ものであるかを教えた。飛鳥のみ代がそうであったし、天平といえどもこの例に洩(も)れない。
そして激烈な信仰や美しい詩歌(しいか)や絢爛(けんらん)たる美術は、すべてこの暗黒を土壌として生育しているようである。
P180
その他日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や掠奪(りゃくだつ)も多く、人心不安だったことがうかがわれる。~中略~
要するに天平時代は、今日考えられているような平穏の日ではなかった。仏陀(ぶっだ)の教えを真に学び信じた者は、当時の一部上層の人々に限られ、一般国民には未だその感化及ばなかったのである。聖武天皇の御念願はそういう事情から発せられたのである。
私は徒に天平の暗黒面を指摘しているのではない。かかる暗黒の裡(うち)にこそ信仰の光りは輝き出(い)ずるのであり、聖武天皇と光明皇后の信仰も、泥中(でいちゅう)の蓮華(れんげ)のごとく咲き出でたのである。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

0 件のコメント:
コメントを投稿