九世紀の初めに唐に丹霞天然(住人注;たんか・てんねん)とよぶ禅僧がいた。ある寒い朝に蒔割りで木造の仏像を割り、それを燃やして身をあたためていた。
それを見た信者は驚いて、「もったいないことをしている」となじった。
天然和尚は、「なんの、あなた方が大切にしている舎利を取るために荼毘に附しているいる所だ」と答えた。
舎利とは八十才で入滅した釈尊の遺体をインドの風習として荼毘(=火葬)に附し、その遺骨を弟子どもが分けて、これを礼拝した。その遺骨のことを舎利というのである。
天然和尚は木仏像を焼いて舎利を取るのだと答えたところ、信者は、「木の仏を焼いても舎利は出ませんよ」という。
和尚はすかさず、「舎利の出ないような木のはしくれを焼いて何がもったいないか」と答えたという話がある。
~中略~
従来の礼拝の対象としての偶像は禅門ではさまで重要性を認めず、そのほかにもっと重要なことがあると説く。
たとえば、「自仏是真仏」というように考える自分または自分の心の完成が先決問題であり、仏像や仏画を拝んだり、経文を読んだりする様な従来の宗派の在り方には飽き足らなかったものにほかならない。
「直指人心、見性成仏」が最初であり、同時に最後の問題なのである。
続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P180


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