(二二)このようであるから知るべきである。尊者は釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果(注;阿羅漢になるまでの修行の四階停。)を証して後に続く仏の出現を待っているのであって、どうして釈迦牟尼仏に会わなかったことがあろうか。
釈迦牟尼仏にただ会っただけでは見仏ではない、見仏とは、釈迦牟尼仏をまさしく釈迦牟尼仏として見るのである、釈迦牟尼仏の覚りと境地を等しくすることを「見仏」と云うのである。
現代文訳 正法眼蔵 3
道元 (著), 石井 恭二 (翻訳)
河出書房新社 (2004/9/4)
P319
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