P002
右手をあげた仏さまは、お釈迦様の誕生の姿をあらわしたもの、
毎年4月8日(お釈迦様の誕生日)には、
この誕生仏に甘茶をかけてお祝いをする花祭りが行われている。
文/小村正孝(浄土宗無量寺)
「天上天下唯我独尊」
生まれたばかりの釈尊(ゴータマ・シッダールタ)が七歩あゆんで語ったとされる言葉だ。
「天上天下」とはこの宇宙、世界。
「唯我独尊」は、自分独りが尊いと読める。
字面のまま解釈すれば、これほどの傲慢さがあろうか、と思われかねない。
これと似た言葉が伝えられている。 「天上天下唯我為尊」(修行本紀経)。
「独」と「為」の違いは、文章の意味に違いをもたらすが、 実は注目したいのは、そのあとに続く「三界皆苦吾当安之」(さんがいかいくごとうあんし)の一文だ。
「この世界はどこも(三界)、苦に満ちている。吾、これを安んぜしめん」というほどの意味になろうか。
釈尊は、この娑婆世界に出現されるまでに何度も生まれ変わりを繰り返したとされる。 輪廻転生(りんねてんしょう)だ。
そして、この人間世界に人間として生まれた際に発したのがこの言葉だったわけだ。
とすれば、これは「この度の生においてこそ、この世に救いの教えを広め人々を救いに導きたい、いや必ずそうしよう―」との意、
つまり、ここで自分がやらずしてどうするかという不退転の決意表明がなされたと理解することはできないだろうか。
実際、釈尊はその35年後、覚りを開き解脱を得た。これは、二度と輪廻のサイクルには戻らないことを意味する。
こうした意味における「独尊」あるいは「為尊」なのではないかと受け取っている。単純に他人さまと比較して優劣を定める世俗的な「尊」としてとらえると、過ちを犯しかねない。 釈尊がそんなことをおっしゃるはずも、その意義もないのではないだろうか。
~中略~
仏像に対して興味を持つことは、たとえどのようなきっかっけ、視点であっても、きっと仏さまは喜んでくださるに違いない。
しかし、私たちは2つのことを心のどこかに留めておきたいと思う。
1つは、遙か古(いにしえ)の弟子や信者たちは、尊崇の念のあまり、仏さま絵や像に表すことすら思いとどまったという事実。
もう1つは、「見るもの」であるかもしれないけれど、「拝するもの、信仰の対象」が仏像の持つ本来の意味であるということ。
博物館であれ、寺院であれ、そのときできる敬意の表し方をすることで、仏さまと、より深く、親しいご縁が結ばれる、そんなふうに思うのである。
仏像探訪 (エイムック 2124)
エイ出版社 (2011/2/17)
0 件のコメント:
コメントを投稿