話は枝葉へゆくが、その一例をあげよう。いまから数年前に、私は島根県の地方紙の元旦号を読んだ。その新聞の元旦号もそうであるように、全面広告の欄がある。
しかし、私のみた欄は、ありきたりな商品広告ではなかった。年賀広告なのである。
県知事および地方自治団体の首長が、県民のみなさんおめでとう、と呼びかける年賀あいさつなのだ。
ことわっておくが、これも新聞広告の慣例として、めずらしいことではない。どこの新聞でもやることだが、島根県の新聞のばあいはすこしちがっていた。
たしか、紙面の上十段のスペースに正月らしく出雲大社のシルエットがえがかれ、「謹賀新年」と活字が組まれ、そこに、ふたりのひとの名前が出ていた。
ひとりは、とうぜんなことだが島根県の知事田部長右衛門氏の名前である。それにならんでもうひとつの名があった。「国造、千家尊祀(せんげたかとし)」という。われわれ他府県人にとって、これは「カタリベ」の存在以上に驚嘆するべきことである。
これは化石の地方長官というべきであろう。出雲では、他府県と同様、現実の行政は公選知事が担当するが、精神世界の君主としてなお国造が君臨しているのである。
P229
話の解釈はどうでもよい。いずれにせよツングース人種である出雲民族は、鉄器文明を背景として出雲に強大な帝国をたて、トヨアシハラノナカツクニを制覇した。
その何代目かの帝王が大己貴命(おおなむちのみこと)(以下大国主命という)であった。
そこへ、「高天ガ原」から天孫民族の使者が押しかけてきた。国を譲れという。いったい、天孫族とはナニモノであろう。おそらく出雲帝国のそれをしのぐ強大な兵団をもつ集団であったにちがいあるまいが、ここではそれに触れるいとまがない。とにかく、最後の談判は出雲の稲佐ノ浜で行われた。
天孫民族の使者武甕槌命(たけみかずちのみこと)は、浜にホコを突きたて、「否(いな)、然(さ)」をせまった。
われわれはここで、シンガポールにおける山下・パーシバルの会談を連想しなければならない。
出雲民族の屈辱の歴史は、この稲佐ノ浜の屈辱からはじまるのである。出雲人の狷介(けんかい)な性格もこの屈辱の歴史がつくった、とW氏はいう。
話は枝葉に多すぎるようだが、しばらくがまんしていただきたい。
この国譲りののち、天孫民族と出雲王朝との協定は、出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないということであった。
哀れにも出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに住んだ。三輪氏の祖がそれである。
この奈良県という土地は、もともと、出雲王朝の植民地のようなものであったのだろう。神武天皇が侵入するまでは出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ない。
滝川政次郎博士によれば、この三輪山を中心に出雲の政庁があったという。
神武天皇の好敵手であった長髄彦(ながすねひこ)も出雲民族の土酋(どしゆう)の一人であった。~中略~
むろん、長髄彦の年代(?)は、古墳時代以前のものであるから妄説に過ぎまいが、大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい(現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神(おおみわ)神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。
かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先きや」という。
かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)
- 作者: 司馬 遼太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
P82
出雲おんなというのは、性的魅力がある点で古来有名である。京の公卿は、平安時代から、女は出雲、として、そばめとして京へ輸入した。いわゆる京美人は出雲おんなが原種になっている。
出雲おんなは、美人というよりこびが佳(よ)い、と古書にある。歌舞伎の元祖といわれる出雲のお国が、出雲女性の舞踏団をひきいて、戦国中期の京にあらわれ、満都の男性を魅了したのも、出雲おんなの佳さが、すでに天下の男性の先入観念にあったからだ。
~中略~
彼女らは、ひと革の眼が多い。
顔の肉がうすくて、ややおもながであり、男好きがする。
彼女らの顔は、出雲の地下から出土する弥生式の土器と同じ系列のものだ。それらの土器は、朝鮮、満州、蒙古から出土するものとほぼおなじものとみられている。
出雲女性の血には、ツングースの血がまじっているのであろう。
P84
この神武天皇が、葦原中国を征服したとき、さっそく女房をもらった。
その女房の名は、媛蹈鞴五十鈴姫というのだが、名というより美称だろう。
~中略~
この姫は、出雲王朝の皇帝事代主命(ことしろぬしのみこと)のむすめで、天孫族と出雲族の融和のためにはるばる出雲の地から大和へとついできた。政略結婚である。
とはいえ、古代的英雄である「神武」という征服王が、その男性的気質からみて、たんに政略だけで女房をえらぶまい。やはり当時から、男どものあいだで、「おんなは出雲」という定説があったように想像する。
(昭和36年12月)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)
- 作者: 司馬 遼太郎
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P254
出雲飯石郡吉田村は、地図の上では虫眼鏡で見てやっとわかる程度の地名にすぎないが、この村に、中国山脈のほとんどを所有しているといわれる大山林地主の田部(たなべ)長右衛門家が存在することで、その方面の学者の世界では高い知名度をもっている。
出雲―というより中国山脈―は古代から中世、近世にかけて、さらには明治期に及ぶところの砂鉄王国であった。
中国山脈は、良質の砂鉄を蔵しているが、山陽側よりも三陰側のほうが質が良く、とくに出雲国がよい。田部家は中世末期に紀州田辺から出雲に移り、やがて最大の砂鉄業者になった。
~中略~ 田辺家は江戸期から明治にかけて大いに稼働した。その結果として中国山脈のほとんどを所有するはめになった。戦後の農地解放では山林が除外されたから、田部家は日本最大の山持ちになった。(もっとも田部家をはるかに凌ぐ山林地主は天皇家のはずであったが、こんにち国有林のうちのどのくらいがいわゆる「御料林」なのか、それについて公表された数字を私は知らない)。
田部家の当主の長右衛門氏が、昭和二十年代から何期か、島根県知事になった。自分でなりたいと思ってなったものではなく、適当な人がなかったために、推されてほとんど無競争で選出されたちというのが実情だったらしい。
出雲は古い国である。神代から途中の中間がなくていきなり現代がある、というような言い方をする人もある。こういう土地だから、田部家より古い家系が幾軒かあって、たとえば神話の国譲りの家系伝説をもつ出雲大社の千家家(せんけけ)・」北島家などはその最たるものとされている。
~中略~
出雲を古代に支配した家と、新憲法下の公選知事が連名で県民にあいさつしているというのも、なにやら縹渺(ひょうびょう)としていて出雲的だが、その知事さんが中世以来の砂鉄の家で、中国山脈を山脈ぐるみ持っているというのも、中世がそのまま続いているみたいで、これも出雲的といえるかもしれない。
P258
田部氏は、おっとりとしたその風貌にすれば意外なほど早口である。さらに話されているうち、どこか凄味があって、とても殿サマや公卿サンのような感じではない。
そのように言うと、我が意を得たりといったふうに笑って、
「出雲には、私の家だけじゃなく、こういう仕事の家が十指を超すほどありました。それらは普通、タタラモンとよばれていまして、決して上品なもんじゃない」
といった。
田部家が宰領してきたような採鉱冶金の現場は「山内(さんない)」とよばれ、鉄師(かねし)である田部家を首領とする一国のようなもので、江戸初期から幕府公認による独特の法と慣習がおこなわれていて、犯罪者なども鉄師の裁きによって断罪された。
~中略~
「タタラはアラシゴトでしたよ だからぼくなんぞは、山賊の親玉のようなもんで」
と、田部氏は笑わずに言った。
P260
「シマリアイというのをやかましく言いましてね、田部の家はとても節倹な家風で、たとえば私の子供のころなどは昼に茶を用いない、ということになっていました。茶のかわりに御飯の釜底の焦げに湯をかけてのむのです」
さらに、
「(田部家が)長く続いたのは、こんな不便なところに本拠を据えていたことと、それに、シマリアイで、万事質素にやってきたからでしょう」
P264
田部家がこの菅谷に製鉄(タタラ)場をすえたのは大阪夏ノ陣のあった元和元年(一六一五)年であった。
菅谷タタラは江戸期いっぱい稼働し、明治後もつづき、一般に砂鉄製鉄が西洋式の製鉄にとってかわられたあとも独りここだけは稼働していて、大正十二年にその長すぎるほどの歴史の幕を閉じた。その間三百余年である。工場の歴史としては日本でもっとも古い。
街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
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