2025年3月8日土曜日

仮好人と硬漢子

 善を為すに表裏終始の異あるは仮好人(かこうじん)たるに過ぎず。
悪を為すに表裏終始の異なきは倒(かえ)ってこれ硬漢子なり。

酔古堂剣掃「人間至宝の生き方」への箴言集
安岡 正篤 (著)
PHP研究所 (2005/7/1)
P157

現代活学講話選集5 酔古堂剣掃 「人間至宝の生き方」への箴言集 (PHP文庫)

現代活学講話選集5 酔古堂剣掃 「人間至宝の生き方」への箴言集 (PHP文庫)

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2016/03/04
  • メディア: Kindle版

 

当今乏しきものは人物

(住人注;文久二年、城中で松平慶永と老中水野忠精に、海軍はどうすれば盛んになるか質問され)
当今乏敷(とぼしき)ものは人物なり、皇国の人民卑賎をいわず、有志を選抜するにあらざれば、極めて其人得難からん、唯幕府の士のみを以てこれに応ぜしめんと欲せば、盛大得べからず
~中略~
(住人注;翌日の御前会議で)「今如此(かくのごとき)の大業を議せんよりは、寧ろ学術の進歩して、其の人物の出でんことこそ肝要ならめ」というわけである。
そうして、この勝の意見は、(住人注;横井)小楠 のかねてから唱えているところとまったく同じである。

勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)
松浦 玲 (著)
中央公論新社 (1968/04)
P91

勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)

勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)

  • 作者: 松浦 玲
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2025/01/06
  • メディア: 新書

 

  日本人は、長期安定の時代をむかえると、過去にとらわれ、行動が形式化する習性をもっている。

しかし、いったん、大きな激動がはじまれば、たちまち、柔軟性を発揮して、これが同じ人々かと思えるほどに、短期間に変わる。戦国末期がそうであったし、幕末維新期も、戦後の数年間もそうであった。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P251

 

殿様の通信簿 (新潮文庫)

殿様の通信簿 (新潮文庫)

  • 作者: 道史, 磯田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/09/30
  • メディア: 文庫

 

 

 世の中が非常に乱れてくると、型にはまった人間では役に立たない。常識的な平凡な者ではどうにも話にならぬ。
どうしても型破りな、自由な革新的な人間が出て―これを豪傑というのでありますが―時代の要請即ち天命に応じて、過去の沈滞を破って新しい時代を創造する。この豪傑の時代がある。
 そういう人物が現われて新しい時代を創造するのであるが、これが成功して革命から建設が一通り出来上がると、やがて「継体守文」の時代となる(一〇二頁参照)。
出来上がった組織・制度・文化を保守する時代ががくる。こういう時代には、真面目で忠実な、間違いのない良識的な人が役にたつ。あんまり型破りの活きのいい者では納まらない。かえって害になる。
 そういう保守的な時代が続くと、やがてまた沈滞してくる。今日いうマンネリズムとかコンヴェンショナリズムの世の中になる。~中略~
 この衰頽の時期がくると、やがて混乱の時代になる。

知命と立命―人間学講話
安岡 正篤 (著)
プレジデント社 (1991/05))
P20

人間学講話第6集 知命と立命 (安岡正篤人間学講話)

人間学講話第6集 知命と立命 (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1991/05/27
  • メディア: 単行本

 

2025年3月7日金曜日

大阪人

P134
 一つのテーブルに、四つのシートがある喫茶店でのことだ。
 恋人なり友人同士が、その二つに座を占めたところで、空いている他の二つのイスにはたれもすわらない。ちょうど領海件のように、かれらに一種の準占有権がみとめられているようである。
 もっとも、国法や自治体の条例で保護されている権利ではないから、ずけりとすわりこむ人物があらわれた場合には、何人も撤去を要求することはできない。
ところが、大阪では、おうおう、平然とそのシートにすわりこむオッサンがあらわれる。コーヒーを注文する。
ひとりでは退屈だから、なんとなくラジオでもきくような気安さで、むかいの恋人同士の会話に身を入れてきいていたりする。 やりきれない無神経さである。
 旅行の機会の多い人なら、なんどか実見されたに相違ない。車内の空気をひとりじめにしている大阪の観光団の喧噪さだ。~中略~
 べつに国法に触れるわけでもないから構わないようなものだが、車内には他の乗客もいる。彼らの神経や感情はまるで無視されているのである。

P136
 江戸の最盛期では、百万の市民のなかで五十万が武士であったといわれている。そのころの大坂では、六、七十万の人口のなかで武士といえば諸藩の特産の商いをする蔵役人をのぞけば、東西両町奉行所の与力同心がざっと二百人程度の数であった。
~中略~
 幕吏が二百人しかいなかった大坂ではまるで封建時代がなかったといっていい。
かれらは身分意識がうすい。分際をまもろうとはしない。他人をおそれるというところがない。
「文句があったら稼ぎで来い」という自尊心は江戸三百年を通じて野放図にそだち、いまなおそだちつづけている。
 封建的節度がないために、江戸時代から江戸者にきらわれ、今日でも汽車のなかや喫茶店の店内などでその封建的節度のなさなさが、他国の人のめいわくになっている。
三百年の伝統とはいえ、その社会的感覚の奇妙さは一種のバカというほかない。
 ~後略~
(昭和35年1月)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 

P13
 不法駐車追放の声が上がると、「駐車場がない」と言い立てる。しかし、駐車場はがらがらで、周りの道路駐車があふれている風景をよく見かける。
運悪く警察に検挙されたら、どうなるか。反則金が一万五千円、レッカー移動費が一万二千円、計二万七千円もとられる。
市内の駐車場は一回に五百円から千円もする。三ヶ月も引っかからなかったら、「罰金を取られる方が得や」というのが大阪人の思考法なのである。
不法駐車は、法律を守るかどうかの善悪ではなくて、損得の問題なのである。

P16
 東京の車は二つの道の合流点で、まず一方が行けば、次は反対側と順序良くスムースに流れる。大阪では強引に割り込むしかない。譲るという気持ちが少なく、自分が先に行かないと気がすまない。気の強い人が勝ちである。

P18
大阪と東京を比較観察した学生は「東京で信号が赤か青かで横断するが、大阪人は信号よりも、実際に車が来ているかどうかを確かめて渡る」と結論している。赤なら渡っていけないという観念よりも、目で見る現実に生きているのである。

P216
 もう一つ、右折の矢印信号の話がある。赤信号に矢印表示が付いて右折できる。その矢印が消えたあと黄信号を点滅させるように、と警察庁が全国に通達した。
ドライバーに無理な右折をさせないためである。昨九五年から警視庁はじめ各地で新方式に切り替えている。福岡県では、このため赤信号を無視して右折する車が半減した。
 ところが大阪府警で検討した結果、かえって危険であると判断した。大阪では黄色で停止しない車が東京の二倍近くあるためである。黄信号は「もう行ってはいけない」ことを表示しているのだが、大阪では「まだ行ける」と受け取るのが常識なのである。
また、黄色を入れるだけ青が短くなり、渋滞がひどくなるおそれがある。そこで、大阪府警だけは従来の方式を続けることにした。
 九五年のことだが、阪神淡路大震災のテレビ・ニュースを見ていた。震源地の北淡町長が、「さア、こんな時は冗談を言うて大笑いせなあかん」と言うている。家が全壊したおばさんがマイクの前で、「家はないけど、元気はありまっせ」と話している。傾いたビルのオーナーが、「これは自信過剰やったわ」と地震と自身をからませて洒落(しゃれ)を飛ばしている。
仮設住宅のの抽選に外れたおじさんがマイクを尽きつけられて、「地震に当たって仮設に当たらん」と口走る。非難所に見舞いに来た村山首相に、おばさんが「来るだけやったらあかんでエ」と浴びせる。こんな光景は、ほかではあまり見られないだろう。この復興は当初考えていたよりも早いだろうと、私はテレビの前で思った。

P19
 大衆食堂でよく見かける光景がある。先の人が食事が終ると、まだテーブルの上が散らかっていてもおかまいなしに、次の人一目散に席につく。自分たちで皿やコップを隅に片づけて使用後のおしぼりでテーブルの上をフキ、ウエイトレスを待ち構える。来ないと、大声で呼ぶ。
東京では入り口に列をつくり、テーブルがちゃんと片づけていないと、座らない。ウエイトレスも片づけないと客を座らせない。

P24
大阪人とは、大阪で生まれ育った人だけではない。よその人でも、大阪ではそうなってしまう。汚い場所だとごみを捨て易いのと同じである。
東京から転勤してきた友人が大阪の駅の様子を口をきわめて非難したが、三か月もすると彼も並ばなくなった。

P25
筆者が池袋の東武線のプラットホームで体験したことである。
 実に整然とした三列ができている。これだけでも感心していた。筆者はその先頭に立っている。ところが、その横へさっと三十代の女性が来て並んだのである。先頭が四人になった。
筆者は、いくら何でもひどいと思った。大阪でもそれはない。「ここは先頭ですよ」と小さい声で言った。すると、その人は「何いってんのよ、この田舎者が」というような目で私を見返し、「次の電車です」と答えた。
ここは始発駅だった。それでも、まだ私は疑っていた。少なくとも大阪では有り得ないことであった。その内に、その人の後に続く列が出来て来た。つまり、六列になってしまった。
 まず先の電車が入って来た。だが、列は少しも崩れなかった。ドアが開くと、最初からの三列が整然と乗車して行く。後から来た三列は少しも動かない。それは、息をのむばかりの見事さであった。車内から見ると、新しい三列がちゃんと並んでいる。
 東京の駅がすべてこういうわけではない。だが、全体から見て大坂の方が行儀が悪いのは明らかである。東と西は違う。東京から大阪へ来た人は、そんな大阪がひどく気に障るらしい。

P42
 筆者は朝日テレビの「どんなんかな予備校」でハイヒールら吉本興業の新人たち十人ばかりに「大阪学」を講義したことがある。
その時に分かったのは、案外に他地方から出て来た人が多いことである。しかし、彼ら彼女らはまぎれもなく大阪人である。大坂人とは必ずしも大阪生まれでなくてもいいのだ。
 そういえば、近世からの大阪商人は堺や伏見に始まり、阿波や近江から来た人たちであった。大坂人がガメツイ、ケチなどと言われるが、これはもともと近江商人の性格であった。
大阪は絶えず、新しく野趣にあふれて生き生きしたエネルギーを受け入れ補給してきたのである。

P43
これ(住人注;自分そのものを阿呆だとして笑う)は芸能の世界のことだけではない。大坂人自体が、もともとそういう人間なのである。
自分の欠陥や弱点を平気でさらけ出して、これを売り物にする。失敗談を自分から話題に乗せる。筆者もそうである。頭の毛が薄いことを自分から平気で話す。~中略~
 自分はどう見られようと、どうでもいい。相手の心をゆるめて、その自尊心を満足させる。そこで実際に相手との間がうまく行けばよい。利を手に入れればそれでよい。これは商人のやり方である。自分をさらけ出して裸になり、心の垣根を取り払って人間同士の結び付きを深める。東京式の建前ではなく、本音で相対しているような雰囲気になる。
~中略~
 自らの欠陥をさらけ失敗談をして、自分を笑い者にする。それは、本当に自信があるからである。一人の人間にはいい点も悪い点もあって、すべてを取り繕う必要のないことを熟知していることでもある。

P219  大阪人はせっかちである。いつも気忙しくて、せかせか、いらいらしている。よそから見るとやかましく騒々しい。だが、反面からいえば、活気があり、いつも元気だということになる。これは近世から大阪が競争の社会だからである。~中略~ だから信号も交通道徳も守りたがらない。
 大阪人は何か行為をするとき、善悪ではなくて損得で判断する。 ~中略~  大阪人は本音でものを言う。建前が嫌い。格好よくしようという気持ちがない。これが相手には、ずばりと心に踏み込まれる思いをさせる。
~中略~
 最後におまけとして、大阪風「人間関係の秘訣7か条」を紹介しよう。グリコ以来、大阪はおまけが好きである。大阪人気質をそのまま利用すれば、人間関係がうまく行く。
1、人見知りせず、明るく大きな声で自分から声をかける。
2、身分や地位にこだわらず、おじけずえらばらず、同じ態度で接する。
3、自分の欠陥や弱点や失敗談を平気で披露し、自らを卑下して相手の自尊心を高める。
4、格好をつけず、建前や見栄をはさまない。 5、人の話をよく聞き、喜怒哀楽を十分に表現する。迎合せずに、ときには突っ込む。
6、何にでも「はる」というインスタント敬語を付けておく。
7、相手の考えに反対の場合は必ず、「それは分かるけど」と応じ、あるいは、「ちゃう、ちゃう」と軽い調子でいなす。相手の頼みを拒否するときは、「考えときまっさ」と穏やかに断る。友好の雰囲気を壊さない。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)

大阪学

大阪学

  • 作者: 大谷晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/05/24
  • メディア: Kindle版

 

樹木の五衰

P115
樹に関しては、いろいろな哲学あり、文学あり、信仰あり、これもまた無限であるが、ここに一つ面白い樹相学を紹介します。
これは幸田露伴翁が昔、名文をもって論じている。趣味津々たる文章であるから写して置かれるとよい。
 それは、樹には五つの相がある。第一に懐の蒸れることだ。枝葉を払わないと、風通しや日ざしが悪くなる。
あれを「懐の蒸れ」という。
その次に、あるところまでゆくと樹の発育が止まる。
これを「梢(うら)どまり」という。それから「根あがり」「裾あがり」というやつ―これは土が落ちて根が出てしまう。それからボツボツとうらどまりが進んで「梢枯れ」が始まる。
この辺の樹をご覧なさい。みな梢枯れだ。煤煙や虫などのため特にひどい。第五に「蟲つき」だ。
樹には、こういう懐の蒸れ、梢どまり、裾あがり、梢枯れ、蟲つきという姿がある。
 これを樹のことだと思ったらおおきな間違いだ。お互い人間にも、懐の蒸れ、梢どまり、裾あがり、梢枯れ、蟲つきがあるというのだ。まさにその通り。~中略~ 原文を読んでみましょう。

「人長じては漸くに老い、樹長じては漸くに衰ふ。樹の衰へ行く相(すがた)を考ふるに、およそ五あり。
天女にも五衰といふ事の有るよしなれば、花の樹の春夏に榮え、葉の樹の秋冬に傲るも、復(また)五衰を免れざることにや。」
~中略~
「樹の五衰は何ぞ。先ず第一には其の懐の蒸るゝことなり。樹の勢(いきおい)氣壯(さかん)にして枝をさすこと繁く、葉を持つことも多ければ、やがて風も日も其の懐深きあたりへは通らぬ勝(がち)となるより、氣塞がり、力閊(つか)へて、自らに葉も落ち枝も枯れ、懐蒸れて疎(まばら)となるに至る。
これは甚だしき衰の相にはあらねど、萬(よろず)の衰に先だてる衰なり。
たとへば人の勢に乗じ時を得て、やうやく美酒嬌娃(きょうあい)に親むがまゝに、胸中の光景(ありさま)の前には異(かわ)りて荒(すさ)み行くが如し、不祥これより起らんとす。」
~中略~

「第二には梢止なり。樹の高は樹だに健やかならば限無かるべきが如くなれども、根の水を送り昇す根壓力も、幹の水を保ち持つ毛細管引力も、極まるところありて、其所に盡くれば、稀有の喬木もその高三百尺に超ゆるはなしと聞く。
まして常の樹は、およその定例(さだまり)までに至れば、天をさして秀で聳えんとするの力極まり盡きて、また其の本幹の高をば増さずして已(や)む。これを稱して梢止といふ。
よろずの樹梢止に至れば、やがて成長の機そこに轉じ發達の勢そこに竭(つ)きて、幾程も無く衰を現ず。たとへば人の學問藝術よりよろづの事に至るまで、或地歩に達すれば力竭き願撓(たゆ)みて、それより上には進まざるが如し。
力士、優伶(ゆうれい)、畫人、詩客などを觀れば、其の技の上に於ける梢止となれるものと、梢(うら)の猶止まらぬものとの異れるさま、明らかに曉(さと)り知る可し。期も人も梢止となりて後は、榮華幾許(いくばく)時もある可からず。萬人に稱(たた)へられ一時に誇る時、既に梢止の文を爲し居るがおほし。
矯樹灌木は皆早く梢止となりて、葉を展(の)べ枝を張りだにすれば宜しとせるに似たり。卑むべし。」
~中略~

「第三は裾廢(すそあがり)なり。松杉樅檜(もみひのき)など、天に冲(ひい)るまで喬くなりたるは宜しけれど、地に近き横枝の何時(いつ)と無しに枯れて、丈高き男の袴を着けずして素臑露(すずねあら)はしたるを見るが如くなりたる、見苦しく危げなり。」
~中略~
「野中の一本杉など、裾廢となれるが暴風雨(あらし)には倒され勝(がち)なり。是たとえば人の漸く貴(とうと)く漸く富みて、世の卑き者に遠ざかるに至れるまゝ、何時と無く世情に疎くなれるが如し。軍人官吏など、位高きは裾廢となれるが少なからず。徳川氏の旗本など、用心給人の下草に蔓(はびこ)られて皆裾廢の松杉となりしなるべし。」
~中略~

「第四に梢枯なり。梢の止りたるは猶可し、梢の枯るゝに至りては、其の樹やうやく全(まつた)からざらむとす。
歌ふ者の聲に潤無く、畫く者の筆に硬(こわみ)多きに至るは、梢の樹ようやく枯れたるなり。
梢枯れ初めては、樹も日に月に衰へて、姿惡(あし)く勢脱けて見え、人も或は暴(あら)びて儼(いか)つくなり、或は(ほ)れて脆(もろ)げになり行く。
一腔の火の空しく燃えて双鬢 の霜の徒(いたずら)に白き人など、まさしく梢枯の相(すがた)をあらはせるにて、寒林に月明らかにして山の膚(はだえ)あらはなる禿頭も、また正しく然り。五十前後よりは人誰か能く梢の枯れざらむ。

 第五には蠧附(むしつき)なり。油蟲は嫩芽(わかめ)に附き、貝殻蟲は葉にも椏(えだ)にも附き、恐ろしき鐵砲蟲は幹を喰ひ通し毛蟲根切蟲それぞれの禍をなす。此等の蟲に附かるれば、樹も天壽を得ず、十分に生い立たで枯る。
蟲は樹に附くのみかは、亜爾箇保兒蟲(アルコホルむし)は酒客の臓腑を蝕(く)ひ、白粉蟲(おしろいむし)は好ものの髓を食ひ、長半蟲は氣を負ふ者の精を枯らし、骨董蟲は壯夫の志を奪ひて喪ふ。
さまざまの蟲、人を害(そこな)ふこと大なり。

 樹木の五衰上(かみ)の記すが如し。一衰先ず起れば二衰三衰引き続きて現はれ、五衰具足して長幹地に横たはるに至る。

嘆く可く恨む可し。ひともまた樹に同じ、衰相無き能はず、ただまさに老松古相の齢(よわい)長うして翠(みどり)新なるに效(なら)ふべきのみ。」 

安岡正篤
   運命を開く―人間学講話
  プレジデント社 (1986/11)

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

人間学講話第2集 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1986/12/02
  • メディア: 単行本

 

人生の五計

   第一は「生計」ということであります。生計といいますと、今の人はたいてい暮らしのこと、経済問題と考えられるでありましょうが、この場合、学問的な意味における生計はそうではありません。
文字通り生きるはかりごとであります。
我々がどうして生きるか。肉体的・生理的にどう生きていくか。こうした考えが生計ということであり、言うなれば養生法といってもよいかと思います。

安岡正篤
  運命を創る―人間学講話
  プレジデント社 (1985/12/10)
   P85

新装版 運命を創る (安岡正篤人間学講話)

新装版 運命を創る (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2015/03/31
  • メディア: 単行本

 

P90
 第二計は、身の計りごと、「身計」であります。これは今日の我々の社会生活に最も関係することになっております。すなわち、肉体生活に対する社会生活ですね。
たとえば、我々が社会人として、職業人として、どういうふうに自分の身を処していくかといったような問題、これなども分析解明しますと、このこと自体、大部の書物にもなる重大問題であります。

P91
 この「家計」とは、自分の家庭をいかに維持していくかということで、これも学問的にいえば、非常に複雑広範な問題であります。ただ、昨今、世界の学界・思想界に現れておる重大問題を、この家計を通じて、一端をお話申し上げますと、まず教育・学問という問題があります。明治以来久しい間、特に日本人は、人間を仕立てる、子供を仕立てる、大成させるのには学校に入れることだと考えてきた。
子供を偉くするのには学校へ入れなきゃならん。したがって教育というものの主体を学校へ置きました。ところが、この考え方は、もう今日の文明世界からは落第であります。教育は主として家庭にあるという結論に到達いたしております。

P98
 第四は「老計」といいます。老ゆる計りごと。人間はいかに年をとるかということであります。「ほっといたって年をとる」というのが馬鹿の言うことでして、そういうのは無意味です。
人間は伊達に年をとるのではありません。老年はそれだけ値打ちのあるものでなければなりません。
この老ゆる計りごと―いかに年をとるかということは、実に味のあることであるのですが、どうしたことか年をとることを悔しがる思想が昔から多い。
ところが「老計」からいいますと、年をとることは楽しい、意義のあることです。
 伊藤仁斎先生は「老去佳境に入る」―年をとって佳境に入る、という詩を作っております。これが本当であります。
人生の妙味、仕事の妙味、学問の妙味、こういうものは年をとるほどわかるのであります。

P101
 いよいよ最後になりましたが、第五計、それは「死計」であります。これは死ぬ計りごと、すなわち、いかに死ぬべきかという計りごとであります。刀折れ矢尽きて死んでしまうというのが、最も情けない死に方であります。最も立派な死に方を考えなければならない。
 さて、死計といいますものは、第一計の生計と同じで、「死計」即「生計」であります。 ただ、初めの生計といいますものは、もっぱら生理的な生計であり、一方、老計を通ってきた死計というものは、もっとも精神的な、もっと霊的な生き方です。
つまり普及不滅に生きる、永遠に生きる計りごとであり、いわゆる正とか死とかいうものを超越した死に方、生き方です。これ本当の死計であります。深遠な問題です。
 時間も限りがありますので、この辺で結論的なお話をいたしますと、要するに人生には、生計、身計、家計、老計、死計とあり、これが順ぐりに回り、また元の生計に戻る。
このようにして無限に人生、人間というものが発展していく。これ、すなわち「人生の五計」であります。

 

新装版 運命を創る (安岡正篤人間学講話)

新装版 運命を創る (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2015/03/31
  • メディア: 単行本

 

京都 平等院

2025年3月6日木曜日

血圧の薬を飲むと病気になる。

P56
 降圧剤を飲むことで、はたして寿命が延びるのか?
~中略~
 日本では国民病とされ、これほどうるさく言われるにもかかわらず、驚くべきことに、偽薬を用いた本格的な臨床試験は、ほとんど行なわれていない。欧米では、何度も行われている。
 ただし日本でも、一度だけ行われたことがある。いや、行われたという言い方は、正確ではない。マスコミの横やりが入り、途中で止めてしまったからである。にもかかわらず、その試験は信用に値する、非常に精度の高い結論をもたらした。
 厚生省の事業の一環として行われた実験が、それである。~中略~ これは製薬会社ではなく、研究者の主導で行われた。
~中略~
 その結果、降圧剤を使用した人としなかった人のあいだに、死亡率の差はなかった。脳卒中や心筋梗塞などの発症率にも差は見られなかったのである。
 これは、高齢者に降圧剤は、効果がないことを示している。
 それだけでない。ガンの発症率は降圧剤を使用したグループのほうが高いという結果が出たのだ。
 研究者や製薬会社の期待とうらはらに、降圧剤の副作用が強調される結果となってしまったのである。

 しかし、試験中に一部のマスコミから、「高血圧患者に対して偽薬を使うのは問題だ」と非難の声が上がり、中止されてしまった。

P62
カルシウム拮抗剤(住人注;降圧剤のタイプの中の一つ)には大きな問題がある。
 カルシウムチャンネルは、血管だけでなく、体中すべての細胞にあるものだ。降圧剤により、そこをふさいでしまうと、細胞が十分に機能しない可能性がある。
 このことで、何よりよくないのは、免疫細胞がきちっと働かなくなることだ。~中略~
 カルシウム拮抗剤は、免疫力を弱めてしまう。そのため、普通なら摘み取っていたガンの芽を放置してしまうのだ。
 1993年の茨城県の調査によると、降圧剤を飲んでいる人は、飲んでいない人に比べて、ガンによる死亡危険度が1・14倍。しかも男性に限ると1・3倍大きいという結果が出ている。

 

P67
 なぜ、降圧剤を飲むと自立度が下がるのだろうか?
 薬で無理に血圧を下げると、脳の血流が悪くなる。実際、降圧剤を飲み始めてから、頭がボーッとしたり、忘れっぽくなったりするという話をよく聞く。
 立ちくらみがしたり、足元がふらついたりすることも多い。そうなると転びやすくなる。
~中略~
古くから使われているチアジドという利尿系の降圧剤では、尿酸が溜まりやすくなり、痛風の原因になることがわかっている。


高血圧はほっとくのが一番
松本 光正 (著)
講談社 (2014/4/22)

高血圧はほっとくのが一番 (講談社+α新書)

高血圧はほっとくのが一番 (講談社+α新書)

  • 作者: 松本 光正
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/04/22
  • メディア: 新書

 

患者に優しい医療

 患者、つまりペイシェントとは、耐える者、待つ者の意味である。
だから待つのはやむを得ないと、患者も病院も思っているらしい。しかし、度を過ぎた待たせ方は患者の人権にかかわる。
3時間待って三分の診療といわれるが、予約があったにもかかわらず一時間以上待たせられたら、私はその病院の信頼性を疑う。医者と喧嘩して帰ってしまったこともある。
~中略~

 近頃「患者さん」から「患者様」に呼び名は変わったが、耐え忍ぶ人、待つ人という点は変わらない。
終わった診療票を提出してから名前を呼ばれるまで、早くても三、四十分はかかる。
~中略~
患者に優しい医療は、名前に「様」をつければいいというものではない。

寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P150

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

  • 作者: 多田富雄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2014/10/03
  • メディア: Kindle版

 

 患者様と言われた本人たちの中にも「バカにされている感じがする」と言う人もいて、患者様の旗色はよくない。~中略~
 粗末なベンチに何時間も待たされるのでは、患者様などともち上げられても、うれしくないのか。病院としては本当のサービスにはカネも人手もかかるから、とりあえず、タダのことばでサービスしようというのではないか、患者はひがみっぽいから、そう勘ぐる。

日本語の作法
外山 滋比古 (著)
新潮社 (2010/4/24)
P60

 

日本語の作法 (新潮文庫)

日本語の作法 (新潮文庫)

  • 作者: 滋比古, 外山
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/04/24
  • メディア: 文庫

 

 

 

P9
「患者様」という奇妙な呼称はどこから出てきたか、についてはあまり一般に知られていないと思う。
これはそもそも医療者が横柄で傲慢であるということを反省し、医療はサービスということを再認識して百貨店などが顧客を「お客さま」と呼ぶのに倣ってそうしようと、「良心的な」病院が使い始めた習慣―ではないはずである。
まあどこにでも変わったことを考えてそれが良いことだと思い込む勘違い野郎はいるので、そういうお調子者がいたのかもしれないが、実際には二〇〇一年に厚生労働省が「患者の呼称は様を基本とすべし」という、実にくだらない通達を出したからである。
~中略~
 ところが驚嘆すべきことに、この間違いなく木っ端役人の思いつきで出てきた新語「患者さま」は、多くの病院で守られている。
わたしの病院でも掲示板はすべて患者さまになっている。ただし、この言葉を蛇蝎の如くに嫌う私は、若い医者をつかまえて、「絶対に使うな」と指導しまくっているが、それを咎めだてした人間は一人もいない。
 つまり、病院で、誰一人、患者さまを「様」だと心から思っている人間はいないのである。
したがって、あなたのことを「患者さま」と呼んでいる職員は、お上からの通達の手前、心にもない呼び方をしているのだと思って間違いない。
そういう奴が、あなたを「患者さん」と呼ぶ職員よりも、言葉が丁寧な分だけ気遣っていると、もし思うのなら、あなたは身体の病気で病院に来たかも知れないが、まず頭を良くした方がよい。
~中略~
 とはいえ、自らの信条はともかく、「患者は今や顧客として扱うべき」だとか、自ら率先して「患者さまと言え」と下に指導するような、医者の矜持や使命感をドブに捨てたような発言をする管理職が、私の身近にもいるのは事実である。
~中略~
 そもそも患者さまとはなんであるか。病気になったときに人は偉くなるはずはないので、「様」というのは、医療サービスの供給者である医療者が、顧客である患者に対して、「お客さま」として、「この病院を選んでくださって(そして診療をうけてくださって)ありがとう」という意味で使うことになる。
どうして「診療を受けてくださってありがとう」なのか?
医療行為で病気が良くなるのであれば、当然利益は患者側にあるので、ありがとうと言うのは患者側であろう。これが人間社会の常識であると、私は思う。
 そうでなくて、客に対しての「ありがとう」だというのならば、それは「お金を支払ってくれてありがとう」ということ以外にないだろうと思う。もしくは、潜在的には、うちの修行中の医者とか看護婦とかのトレーニングの材料になってくれてありがとう、というのもある。
ただ、この意味であなたが「患者さま」といわれているとしたら、背筋が寒くなりはしないか。
 お金への感謝であるならば、あなたが何らかの理由で診療費が払えなくなったら、あなたは「患者さま」ではない。どころか、(医療)サービス泥棒、ということになって、身ぐるみはがされて表に叩き出されることになっても文句は言えない。ここで文句を言う奴は「盗人猛々しい」と呼ばれる。
嘘だと思うのなら、高級ホテルに宿泊し、支払いの段になって「金がない」とやってみてくれ。それでもあなたを「お客さま」として丁重に取り扱うところがあれば、是非教えてほしい。私も泊りに行く。
 さて、それほど極端でなくても、顧客として「お金を払ってくれてありがとう」なのであれば、当然の帰結として、金を余計に払ってくれる患者がよい患者である。デパートであなたは一万円の買い物をする。そこへアラブの大富豪が現われて、百億円の買い物をしようとするときに、担当者がみなそちらへすっ飛んでいくのを見て、不快ではあろうが表立って苦情を言い立てるわけにはいくまい。
しかし、あなたが重病で苦しんでいるときに、医療者が高い金を払ってくれる美容整形の患者のところにばかり行って、あなたは大したことをしてくれないとしたら、それは不快を通り越して文字通り命がけの憤怒になるであろう。当然である。
~中略~
もし、患者の支払い能力で優先順位を決められたら、普通はとんでもないと思うであろう。
 しかしそんなことがあるのか。ある。アメリカでの大きな国際学会の会場で、突然、黒人の太った掃除のおばちゃんが倒れた。かけつけて救急処置をしようとしたのは、そこにいた日本人の出席者ばかりだった。圧倒的多数のアメリカ人医者は知らんぷり。
あとから日本の医者が聞かされたのは、そういう患者はだいたい支払い能力がないので、関わらないようにするのが普通だということであったそうだ。

P20
 あなたは、病気がよくなって退院するときに、「お大事に」と声をかけられたいか、それとも、「毎度ありがとうございます」と言われたいか。
後者は嫌だ、とおっしゃるのであれば、この「患者さま撲滅運動」に御賛同いただきたい。

偽善の医療
里見 清一(著)
新潮社 (2009/03)

 

偽善の医療 (新潮新書)

偽善の医療 (新潮新書)

  • 作者: 里見 清一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/03/01
  • メディア: 新書

 

 

保険制度下における医療消費は、一般の消費財やサービスの消費活動とまったく同じではない。社会保障制度のなかの保険財源という公共性を持った消費である。保険参加者のモラルハザードが広がると保険システムの破綻にもつながりかねない。
「自分さえよければ」「使わないと損」といったことはできるだけ避けなければならない。「患者サマ」という呼び方は、患者側に、こうしたモラルが要求されていることを忘れさせるのではないだろうか。患者の呼び方は「○○さん」がよいと思う。

患者満足度―コミュニケーションと受療行動のダイナミズム
前田 泉 (著), 徳田 茂二 (著)
日本評論社 (2012/3/2)
P153

 

患者満足度―コミュニケーションと受療行動のダイナミズム

患者満足度―コミュニケーションと受療行動のダイナミズム

  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本

2025年3月5日水曜日

年寄りの役割

森 毅
テレビに出てきたあるおばあさんに僕は感動しました。「私は室戸台風も経験しました」と言うのです。
室戸台風は昭和九年で僕が小学校一年生のとき、それからその次には関西地方を襲った阪神大水害を経験し、もちろん戦争で空襲も体験した。そしてまた今度、しばらく間はあきますが、この震災(住人注;1995年の阪神大震災)に遭遇したというわけです。

そのおばあさんの、「そやけど、まぁ長生きしたらいろいろとありますわ。それでも生きていったらなんとかなりますわ」という言葉に、実に感銘を覚えました。

~中略~
僕は、年寄りの役割というのは、いろいろと変化を体験していること、そしていろいろ変化があってもなんとか生きているということそのものだと思うのです。

森 毅 (著), 養老 孟司 (著)
寄り道して考える
PHP研究所 (1996/11)
P94

寄り道して考える

寄り道して考える

  • 作者: 森 毅
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1996/11
  • メディア: 単行本
高知県 室戸岬


玄侑 「黒船が来た」なんていう未曾有の体験をしたときは、やっぱりお年寄りに意見を訊くわけですよね。
若いと特定の条件に思い込みが強くなっちゃうわけですけど、お年寄りは複数の条件をインプットして、結晶を見るように並べて均等にみる能力があるんだと思うんですね。
結晶性知能と言っている方がいますけど、そういう複雑な状況を総合的に判断する能力は、お年寄りのほうが優れていますよね。

~中略~
養老 人間そのものが変化していくパターンは、年寄りが一番よくわかっているんですよ。
自分がそうだったし、周りをみてるから、今、あいつはあんなことを言ってるけどこう変わるよっていうことがわかるんですね。
玄侑 そういうわかる人がもっと大事にされてほしいですね。 

養老 孟司 (著) 玄侑 宗久 (著)
脳と魂
筑摩書房 (2007/05)
P192


脳と魂 (ちくま文庫)

脳と魂 (ちくま文庫)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫


 およそわかき人は、老人の、ふるき物語をこのみききて、おぼえおくべし。
わかき時は、おほくは、老人のふるき物語をきく事をきらふ。いましむべし。又わかき時、わが先祖の事をしれる人あらば、よくと(問)ひたずねてしるしおくべし。

和俗童子訓 巻之二 
総論 下

養生訓・和俗童子訓
貝原 益軒 (著), 石川 謙 (編さん)
岩波書店 (1961/1/5)
P236

 

養生訓・和俗童子訓 (岩波文庫)

養生訓・和俗童子訓 (岩波文庫)

  • 作者: 貝原 益軒
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1961/01/05
  • メディア: 文庫


十二音技法で知られているシェーンベルク(一八七四年、ウィーン生まれ、アドラーと同時代人です)の「弦楽四重奏嬰へ単調」「室内交響曲」が初演されたたとき、その斬新さはウィーンに大きな衝撃を与え、演奏会ではひどい口笛と怒号が浴びせられました。聴衆は椅子を鳴らし、大勢が席を立ちました。
 このとき演奏会場にいたマーラーは立ち上がって静粛を命じ、最後の反対者が立ち去るまで喝采したといわれています。
しかし、、そのマーラーがその夜こう告白しました。
「わたしには彼の音楽がわからない。だが彼は若いし、たぶん正しいのだろう。わたしはもう年で、あの音楽がわかる耳を持っていないのかもしれない」(ヒルデ・シュピール「ウィーン黄金の秋」原書房)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
岸見 一郎 (著)
KKベストセラーズ (1999/09)
P98 

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

  • 作者: 岸見 一郎
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 1999/09/01
  • メディア: 新書


 あまり医療に依存しすぎず、老いには寄り添い、病には連れ添う、これが年寄りの楽に生きる王道だと思います。
 年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。

大往生したけりゃ医療とかかわるな
中村 仁一 (著)
幻冬舎 (2012/1/28)
P7

大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)

大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)

  • 作者: 中村 仁一
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2012/01/30
  • メディア: 新書


昔、大家族の時代はじいちゃんばあちゃんが死ぬところを、孫までみんな見ていた。今はそういう風景がなくなった。病院は酸素吸入したり点滴ぶらさげたりいろんなことするでしょ。あれが普通の死に際だと思っちゃってますから。
多いものは減らす、足りないものは足すのが医療。酸素不足だと足す。でも酸素不足になれば脳内モルヒネが出て、本人はいい気分で死んでいくわけですから、本来は酸素なんかすわせちゃいかんのですよ。本人にとっては、余計なことはしないのがいちばんいい。
 中村仁一

別冊宝島2000号「がん治療」のウソ
別冊宝島編集部 (編集)
宝島社 (2013/4/22)
P141

別冊宝島2000号「がん治療」のウソ (別冊宝島 2000)

別冊宝島2000号「がん治療」のウソ (別冊宝島 2000)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2013/04/22
  • メディア: 大型本


辻(住人注;辻嘉一) 今の年寄りは弱いというか、ええ子になろうとして。わたしはね、このごろの若い人のふしだらなことをもますと、われわれがよくなかったんだ、もっと終戦直後のどさくさのときに、叱るべきことはもっと叱っておけばよかったと反省しますね。
幸田 そうですね。
(一九七九年 七十四歳)

幸田文 台所帖
幸田 文 (著) , 青木 玉 (編集)
平凡社 (2009/3/5)
P53

幸田文 台所帖

幸田文 台所帖

  • 作者: 幸田 文
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2009/03/05
  • メディア: 単行本




 しかし、こういう(住人注;村の)世話役は人の行動を単に善悪のみでみるのではなく、人間性の上にたち、人間と人間との関係を大切に見ていく者でなければならない。そしてそういう役割はすでに家督を子供にゆずって第一線から退き、隠居の身になって、世間的な責任をおわされることのなくなった老人にして初めて可能なことであった。

忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P42

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

  • 作者: 宮本 常一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1984/05/16
  • メディア: 文庫




北海道 有珠山

リスクは分散、時々再評価

P135
  2007年のペットフードと2008年の乳児用ミルクのメラミン事件に共通しているのは、被害が出たのは毎日同じものだけを食べる集団だったということです。

このような毎日同じものだけという食生活はなにかの汚染があったときはもちろんのこと、そうでない場合でもリスクが高いものなのです。

P139
リスク分析の考え方は私たちが日常生活を送るうえでも役に立ちます。
なんらかの問題に直面したとき、それがどういう問題であるか見極め、自分にとっての影響をできるだけ正確に見積もり(リスク評価)、
いくつかの選択肢の中からベストと思われるものを選択し、必要に応じて評価・見直しを行う、という一連の対応はふつうの人でも無意識のうちにやっているものです。

畝山 智香子 (著)
ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想
化学同人 (2009/11/30)

ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想(DOJIN選書28)

ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想(DOJIN選書28)

  • 作者: 畝山 智香子
  • 出版社/メーカー: 化学同人
  • 発売日: 2009/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


P36
池田 たとえば、六千五百万円前の白亜紀末に代隕石が衝突した際の津波の高さは一千メートルだったと推定されている。
それを考えたら、どこまで「想定」すべきかなんてことに際限はないですよ。
一千メートルの津波を想定した防波堤なんて現実的に造れませんよね。
池田 清彦

P44
養老 さきほど話に出た、釜石の防波堤というのは、二年前に完成したものだったそうですが、造るのに千二百億円もかかったといいます。
防波堤ひとつとってもこれだけの巨額の金がかかる―しかもその防波堤をさえ津波は乗り越えて街を襲った―のだから、せっかくお金をかけてかけるのならやっぱり町を移転したほうがいいんじゃないかと思ってしまうけど、地元の人にしてみればそうではないのでしょう。

ほんとうの復興
池田 清彦 (著), 養老 孟司 (著)
新潮社 (2011/06)

ほんとうの復興

ほんとうの復興

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2020/02/14
  • メディア: 単行本



 どのようなリスクがあるかを正確に分析し、それに基づいて優れた意思決定をしても、結果が伴わない場合がある、ということも覚えておく必要があるでしょう。リスクがなくなるわけではないからです。


20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
ティナ・シーリグ
(著), Tina Seelig (原著), 高遠 裕子 (翻訳)
CCCメディアハウス (2010/3/10)
P116

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2010/03/10
  • メディア: ハードカバー


早野 ひとつは、ぼくがこれまでに、200ミリシーベルト近い放射線をすでに浴びているということです。ほとんどは医療被ばくです。
 いまから10年以上前ですが、ぼくは肺にガンが見つかって、右肺上葉切除、つまり右の肺を半分切ってるんです。いま広く使われているCTは旧型で、検査のときに浴びる放射線量がまだ高かったんです。手術前の検査、それから手術時、そのあとの確認作業も含めてすべて合わせて計算してみると、医療被ばくが200ミリシーベルト近くになってました。だから、まあ、200ミリシーベルトぐらい浴びても即死しないってことは、自分の身をもってよく知っていたわけです。
糸井 200ミリシーベルトってかなりの量ですよね。人が自然界から受けている放射線量の目安が年間1ミリシーベルトですから、その200倍。
早野 そう。ただし、その200ミリシーベルトは、私がそのCT検査を受けることと受けないことのメリット、デメリットを天秤にかけて、きちんと選んだ結果、浴びたものですから、今回の事故みたいに、一方的に突然放射性物質が降ってきたということは、まったく意味が違いますよね。
放射線を浴びた体にとっては、医療被ばくも同じ放射線で、区別はないんだけれども、受ける状況によって本人にとっての意味合いはまったく違う。
糸井 そうですね。意味としては違う。でも、純粋に放射線量として考えれば、早野先生はそれだけの量を震災前に経験していたということですね。
早野 はいですから、放射線被曝を考えるときに、「ある定量を超えたとたんに、何か悪いことがすぐに起きるわけではない」ということ、あるいは「100ミリシーベルト単位もの放射線を浴びせるということを、お医者さんは治療のためなら選択する」といった事実は知っていました。
 また、200ミリシーベルトの医療被ばくから10年以上経っていますが、ぼくがそれによって再度ガンになっているということもない。将来はわかりませんけど、いまのところは健康に影響がないということも知っている。
糸井 ちなみに、早野さんの場合は、毎月ジュネーブに行かれていますよね。飛行機による被ばくも相当あるんじゃないですか。
早野 わりと大きいですよ。日本とジュネーブを行き来するときの被ばく量は季節によって違うんですけど、大体片道0.07、往復で0.14ミリシーベルトぐらい。ぼくは年に10回以上、だいたい毎月1回ぐらい往復するので、そうすると、それで年に浴びるのは、2ミリシーベルトぐらいですかね。国際線のフライトアテンダントの方はぼくの2倍ぐらい浴びていると思います。
~中略~
 ですから、放射線量の問題に関しては、各個人が自分の事情にあわせてメリットとデメリットを比較して判断する事が重要で、かつ、簡単に決められることではないんだということは、自分の経験からも強く感じていました。
糸井 なるほど。
早野 被ばくに関するもうひとつの経験は、ぼくが物理学科の学生だったころの話です。大学にある小さな加速器(原子核の実験に用いる装置)を使った施設で、実験をやっていたんです。
加速器のある部屋には出入り口のところに放射線のモニターがあって、体が放射線で汚れていないことをチェックしてから部屋を出ることになっていました。
 ある日、女性の技術者がそれに乗ったところ、すごく高い反応があって警報が鳴り響いたんです。これは加速器のどこかで大変なことが起きたに違いないってことになって、汚染源を突き止めるために、みんなでサーベイメーター(携帯用放射線測定器)を持って加速器の中を調べました。でも、なかなか見つからない。そしたら、外に通じる廊下、そこに足跡のように、飛び飛びに汚染が続いてるってことがわかったんですね。
つまり、汚染は加速器の中ではなく、外から来ていた。
 それで、外へ出てみて計測してみたところ、あたり一面が汚染されているという状態でした。
~中略~
 研究室にはサーベイメーターだけでなくゲルマニウム検出器もあったので、汚染源が何なのか詳しく調べてみました。すると、核分裂以外では生じえないものが検出されたんです。
 つまり、「これはどこかの国が核実験をやったに違いない」と。
 その時点では、まだニュースも流れていなかったんですが、後日、中国が大気圏内核実験やった直後だったということがわかったんです。 ~中略~ 核実験の後に東京に雨が降って、その放射線をぐうぜんに計測してしまったわけです。
糸井 大事件ですねそれが。
早野 1973年、東京の都心での出来事です。~中略~ 
 それはぼくにとってある意味、強烈な原体験でした。
 ぼくは核分裂というのはどういうγ線を出すかということを実際に計測して初めて知りましたし、核分裂で降ってくるフォールアウト(放射性降下物)というのは、雨と共に一様に広く薄く散らばるんじゃなくて、わりと、ゴロンゴロンと粒で地上に残ることも知りました。
また、汚染された靴を洗ったりシャワーを浴びたりして、その程度の汚染であれば、洗い流せるということも知ったんです。
糸井 当時、東京にいた人たちは、何も知らずにフォールアウトの雨の中にいたんですね。
~中略~
早野 ~中略~
 地域差があるので一概には言えませんが、少なくとも首都圏に関しては、1973年のフォールアウトと比較しても、(住人注;今回の事故の数値は)それほど心配するレベルではないなと。また、この程度の数値であれば、放射線によって福島の方が将来バタバタと体を壊していくようなことは決して起こらない。それを早い時点で確信していたので、たしか3月14日には、そのようにツイートしていたと思います。

知ろうとすること。
早野 龍五 (著), 糸井 重里 (著)

新潮社 (2014/9/27)
P32

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/09/27
  • メディア: 文庫


鹿児島県 霧島

安全と水はタダでない

P31
ああ、日本人は何と幸福な民族であったことだろう。自己の安全に、収入の大部分をさかねばならなかった民と、安全と水は無料で手に入ると信じ切れる状態に置かれた民と、

P34
思いつめたからといって、自己の生存も、自己の安全も、自己の希求も確保できない。
これらすべては、自らの手で、高いコストをかけて、保存しなければならない、というのが、二千年の体験から割り出したユダヤ人の結論であり、日本人と根本から違う点なのである。

日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫


幸田 いまね、あばれ川とか、山くずれとかいうことに気がついて、見に行ったりしているんですけれども、それで県庁なんかの人にいろいろ聞きますとね、家庭での水をもっとセーブするしかたをよくしないと、しょせんはつらいときがくる。

辻(住人注;辻嘉一) ともかく畏れということを知らんですよってね。さいわい日本は雨が多かったり、雪が多かったり、雪が多いさかい、水はあるとはいうものの、もっと畏れて尊ばなければいけませんね。

(一九七九年 七十四歳)

幸田文 台所帖
幸田 文 (著) , 青木 玉 (編集)
平凡社 (2009/3/5)
P54

幸田文 台所帖

幸田文 台所帖

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2009/03/05
  • メディア: 単行本




P107
 聖書に出て来る「平和」という言葉にはヘブライ語「シャローム」が当てられている場合が多い。現代のイスラエル人の「こんにちは」に当たる挨拶も「シャローム」である。
 この「シャローム」の本来の意味は「欠けたことのない状態」だという。現実的に言えば、人間の暮らしには必ず苦労が伴う。病気、死別、経済的不安、地域抗争に巻き込まれることは常に考えられる。
そのような欠けたことのない人などまずいないだろう。
だから「シャローム」という言葉に含められた意味は「この世にあり得ないすばらしいもの」なのである。それを「あなたに贈ります」とイスラエルの人たちは言うわけだ。
その言葉の背後には「平和」「平安」というものに対する烈しい、そしてもしかしたら永遠に叶えられないかもしれないという悲しい希求がこめられている。
日本人のように、「皆が願えば必ず平和になる」などという甘さはどこにもない。
日本人は、水も電気も、緑も海も、与えられているから、こういう「たわごと」を言う。

P223
戦後、私たち日本人は、大きな幸運に恵まれてきた。地域戦争にも巻き込まれず、大旱魃(かんばつ)、大都市が呑み尽くされるような火山の大噴火にも遭わずに済んできた。 幸福と安全の配当は当然のことだから、感謝の対象ではなかったのである。
 人々は「安心して暮らせる」生活を求め、それが可能であると考え、一部の人はその安全と安心が実現されるのが当然と思ったようだ。
人間にとって現世で叶わないことが二つだけある。一つが「安心して暮らせる」生活であり、もう一つが死なないことである。
 このことは東日本大震災でこんなにも明確に実証されたにもかかわらず、その後もまだこの言葉を使い続けて平気な人たちがいる。

人生の原則
曾野 綾子 (著)
河出書房新社 (2013/1/9)

人生の原則

人生の原則

  • 作者: 曾野 綾子
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2013/01/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



熊本県 通潤橋