どれほど深い信仰を獲得したとしても、人間としての悩みや恐れは消えないでしょう。
むしろ大きな悲しみや、生きる痛みは、信仰に目覚めたことで、いや増すことのほうが多いと思います。
<他力>という考え方もそうです。完全に<自力>を捨てることなど、不可能です。
しかし、<他力>こそ<自力>の母であると感ずるとき、生きる不安や、悩みや、恐怖に最後のところでなんとか耐えて踏みとどまることができそうな気がするのです。
五木 寛之 (著)
他力
幻冬舎 (2005/09)
P324
禅浄双修
五木 京都の禅寺の偉い方と話していて、その方が、「いや、最終的にはやっぱり他力やな」なんてポツリと言われたことがあるけれども、自力を極めていくと、そこで見えてくるのだろうと思うんですね。
五木寛之
~中略~
玄侑 言葉でたどりつける範囲の世界とそれを超えた世界があると思うんです。言葉で理解できる範囲のことをおそらく自力というのではないか。しかし、そこを超えると念仏であろうと座禅であろうと言葉が及ばない世界が訪れる。
それを禅でも浄土門でも他力と呼んでいいのではないかという気がしています。
玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P212
しかるに雪崩に死すべかりしを不思議に命助かりしは一字念仏の功徳にてやありけん。
されば人は常に神仏を信心して悪事災難を免れん事をいのるべし。
神仏を信ずる心の中より悪心はいでぬもの也。悪心のなきが災難をのがるゝ第一也とをしへられき。
今も猶耳に残れり。人智を尽くしてのちはからざる大難にあふは因果のしからしむ処ならんか。
人にははかりがたし。
人家の雪崩にも家を潰せし事人の死たるなどあまた見聞したれども、さのみはとてしるさず。
鈴木 牧之 (著), 岡田 武松
北越雪譜
岩波書店; 改版 (1978/03)
P69
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