右は、あるドイツの戦史研究者が書いた文章の一部である。
確かにそうだ。世界史的常識の尺度で見た場合、この三つは日本史のなかにほとんどない。
~中略~
「小田原評定」などという言葉を生んで、長期攻防のの代名詞となっている北条氏の小田原城もちょうど三カ月で投降・開城しているのである。
外国では、数カ月程度のものは「籠城」とはいわないのが普通である。「本格的な籠城戦」というのはすくなくとも一年、一般には収穫期を二度以上過ごしたものをいう。
フビライの元軍に包囲された襄陽(じょうよう)は五年間持ちこたえた。十字軍の城、アッコンは七年間の包攻に耐えた。アサッシン教団の本拠、ペルシャのラムアッサール城は、フラグの大軍に蟻も這い出せぬほどに厳重な包囲を受け、なお十七年間戦い続けた。この堅固な城塞が陥落したのは、衣服がすり切れて凍死者が続出したためといわれて永る。
計画的に組織された皆殺しも日本史にはほとんどない。日本では、戦いに敗れ、亡国落城の悲運に見舞われても、生命を失うのは殿様とその一族や少数の重臣だけで、不運な戦死者を別にすれば、中堅以下の武士はたいてい助命され逃亡する。ときには、城主・大名でさえ生命ばかりは許されて入道して余命を全うすることができることもあった。
まして、非戦闘員の農民・町人になると、偶然の手違いか気まぐれ以外では殺されることはまずない。このことは現代に至るまで日本人の戦争観を支配している。
太平洋戦争中に、日本人はかなり大量の現植民を殺害したが、そのほとんどは将兵の逆上か不本意な手違いによるもので、計画的組織的なものではない。日本軍の「残虐行為」は刑事犯罪的ではあっても、計画的政治犯とはいえないのである。
ところが、ヨーロッパや中東や中国では、計画的に組織化された皆殺しが、何百回となく繰り返されている。敗軍の将兵はもちろん、非戦闘員たる農民・市民・女・子供に至るまでを殺し尽くした例がいくらでもある。
~中略~
一七世紀の三十年戦争においては、ドイツ皇帝の軍も、スウェ―デン王やフランス王の軍も、町ぐるみの皆殺しを何十回となくやっている。ために、この長い戦争の間にいくつかの大都市が無人と化し、全ドイツの人口は三分の一に減ったといわれている。現代史の範囲に入ってからも、トルコ人はアルメニア人に対して、ナチはユダヤ人に対して、緻密な計画のもとに伝統的な蛮勇をふるっているのである。
日本史におけるゲリラ戦の欠如も明白だ。日本では、戦争といえば戦闘要員同士が堂々の隊伍を組んで行なうものと決まっているらしく、森に潜み山に隠れてこっそり敵の寝首をかくような「卑怯な真似」をする者はまずいない。城を奪われ地府が陥れば、戦争は終るのが普通である。
~中略~
したがって、日本人が経験した戦争は、ほとんどすべて国内戦争であり、同一の民族の中での共通の倫理観を持つ者同士が争うものであった。つまりそれは、土地、住民の支配権や商業利益を争奪する一部上層階級の権力闘争に過ぎなかったのである。この意味では、日本人の戦争はみな、「秘匿性のないクーデター」だったといえる。
異なる民族、異質の倫理観―そのなかには宗教、思想、生活慣習などの一切が含まれる―の間の戦いと、共通の倫理観を持つ均質的民族同士の争いとは、全く違う。前者を革命戦争とすれば、後者は自民党内の派閥争い程度でしかない。
異なる倫理観をもつ異民族との戦いは、考え方と民族の存亡を賭けたものだから敵対者に対して峻烈を極める。異なる倫理を押しつけられてはかなわないからゲリラになっても抵抗する。ゲリラをやられては困るから皆殺しもしたくなる。皆殺しは怖いから非戦闘員も城壁のなかに入り、長期籠城に耐える。外国の都市がみな城壁に囲まれているのはこのためである。
~中略~
こう見てくると、日本はまことに幸せな平和な国だったことがわかる。したがってそこに住む人間も、軍事的発想に疎く、安全保障の概念を失っている。
歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか
堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P91

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)
- 作者: 堺屋 太一
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
- 発売日: 2004/03/02
- メディア: 文庫
P28
近代的とは、文明的と言い換えてもよい。事実において、日本は世界に誇るべき近代文明を有している。世界で最も治安が良く、豊かで、そこに住む人が親切な国が日本である。これは間違いなく誇ってよい。
だからこそ、他の国が何を考えているかを理解できないのであるし、「近代」「文明」の何たるかを理解しにくくなるのだ。「平和」「秩序」「自由」「清潔」などを、空気のように所与の前提と思っていまうのが日本人である。一回でも海外旅行に出たことがあるならば、日本のありがたさを思い知るだろう。
P104
本章では、絶対主義の確立と宗教戦争の終結、そして近代化の原初段階を概観したが、日本人にとっての当たり前が、ヨーロッパ人にとっては当たり前ではなかった。
この事実に対する無知と無理解こそが、歴史問題を考えるうえでの障害なのである。
P133
一八〇八年、イギリス船フェートン号が長崎で狼藉を働いたが、日本は何もできなかった。オランダ船を装って乱入し、ナポレオン戦争で敵国民であるオランダ人を拉致し、奉行所から身代金代わりに食料と燃料を奪い、悠々退散したのである。
この頃の江戸幕府は天下泰平に慣れており、警備の佐賀藩は兵を派遣していなかった。
江戸幕府には、オランダ商館から年に一度提出される「オランダ風説書」の情報から変化を読み取り、本国がナポレオンに併合されていることを見抜くような知見に優れた官僚も存在した。
しかし、後に「大御所時代」と呼ばれる長い統治を一七九三年に開始した十一代将軍徳川家斉の治世は、弛緩の極みであった。家斉が死ぬ一八四一年まで、日本は五十年に及ぶ太平の眠りにつく。
すでに日本が鎖国と称する武装中立を行なえなくなっていた時代、大御所時代の五十年をかけて、ヨーロッパ白人列強はユーラシア大陸を東進していく。
P142
天文十八年(一五四九年)のフランシスコ・ザビエルによるカトリック伝来以来、日本は白人の侵略を撥ね返してきた。それだけの実力があった。しかし、江戸時代を通じてロシアの脅威が迫り、アヘン戦争により大英帝国の摩手を実感したとき、日本は並大抵の自己改革では生き残れないことを悟った。
嘉永六年(一八五三年)、日本人はペリーの黒船に圧倒された。こっかの生存が鉄と金と紙によって決するならば、軍事力と経済力で日本人が劣っていることは明らかだった。すなわち、鉄と金では完敗だった。しかし、紙では決して負けなかった。
紙とは外交力と文化力である。判断力も範疇に含まれる。幕末動乱は平坦ではなかったし、明治維新への道は一直線ではなかった。しかし、嘉永六年から明治元年(一八六八年)までの十五年間の歴史を通観すれば、日本人は民族として、国家として、大きな誤りは犯さなかったと言える。
日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)

日本人だけが知らない「本当の世界史」 なぜ歴史問題は解決しないのか (PHP文庫)
- 作者: 倉山 満
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/04/03
- メディア: 文庫
0 件のコメント:
コメントを投稿