モンゴル軍がロシアを攻めた三十年後に日本の博多湾にやってくる(元寇)のですが、このとき鋳物の殻に火薬をつめた大型手投げ弾を鎌倉武士に対して用いました。~中略~
当時、ロシア平原には都市ができつつありました。その代表的な都市であるモスクワはモンゴル人によって破壊しつくされ、ひとびとは虐殺されつくしました。他の都市も同様でした。キエフも瓦礫の山になりました。
モンゴル軍ははるかに西ヨーロッパにまで侵寇するのですが、やがてその内部事情により軍勢を後方にひきあげ、ロシア平原に居すわって、いわゆるキプチャク汗国(一二四三~一五〇二)をたてるのです。
それまでのロシア平原は、つねに東から西へ通過してゆく遊牧民族にあらされつづけたのですが、この十三世紀(日本史にとっても西欧史にとっても、近代への準備として大切な世紀でした)において、かれらにはじめて居すわられてしまい、帝国をつくるはめになったのです。
以後、ロシアにおいて、
「タタールのくびき」
といわれる暴力支配の時代が、二百五十九年のながきにわたってつづくのです。
このモンゴル人による長期支配は、被支配者であるロシア民族の性格にまで影響するほどのものでした。
十六世紀になってはじめてロシアの大平原にロシア人による国ができるのですが、その国家の作り方やありかに、キプチャック汗国が影響したところは深刻だったはずだと私は思っています。
ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P21
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