P114
私は、民主化と言っても、イスラーム圏での民主化と非イスラーム圏での民主化には大きな違いがあると考えます。
~中略~
ヨーロッパにもドイツのメルケル政権の与党である[キリスト教民主同盟」という名前の政党があります。しかし、こういう政党を聖職者が牛耳るわけではありませんし、「神の名において」政治をするわけでもありません。「キリスト教」は、単に、精神的な基盤としての宗教倫理を意味しているに過ぎません。
しかし、イスラーム圏の場合、イスラーム政党が多数を握るとそうはいかないのです。イスラームというのは、神が人間に下した啓示を基にしていますが、そのなかには、信徒とその社会が従うべきルール(法の体系)があります。 したがって、「イスラームする」政党なら、イスラーム法に従う必要があるわけです。
イスラームというのは、心の内面の信仰だけでは成立しません。信徒個人や、その社会統べる法の体系でもあるのです。これはイスラームという宗教にとって本質的な性質です。
~中略~
しかし、二〇一一年までのところ、中東のほとんどの国で、イスラームに沿った政治をしていません。サウジアラビアやイランは明確にイスラームに基づいた政治をしていると主張しますが、実態がイスラームどおりになっているかについては多くに異論があります。
~中略~
イスラームの世界でも西欧をモデルに国づくりをしてきた国が多いので、政教分離によって政治と宗教を切り離そうとします。そうすると、ある程度まで社会も世俗的になっていきます。
~中略~
民主化を要求す人たちには、もちろん世俗主義を重視する人もいれば、イスラームを重視する人もいます。しかし、どんなに世俗主義を重視しても、ムスリムは、脱宗教化しません。
P119
話を基に戻すと、民主化を要求するということ、あるいは独裁者の退陣を求めるということについては、ムスリムのなかの世俗的な人たちと、敬虔な人たちとのあいだに差はありません。
しかし、次にどんな国家をつくるのか、という問題に直面すると、両者のあいだには鋭い亀裂が生まれるのです。 簡単に言うと、法律の中に、イスラーム法の要素を入れるのかどうかという点です。
国なんてものがなければ、ムスリムの社会はすべてイスラーム法の適用地域となりますが、現実には、世界中の人たちが、国家というものによって分断され、帰属する国家の法に服従しなければなりません。
そこで、国家の法がイスラーム法なのか、イスラーム法を一部取り込んでいるのか、イスラーム法とはまったく関係のない世俗の法なのか、によって話が変わってくるのです。
P130
イスラームでは、弱者を救済するために定められた喜捨(ザカート)が義務とされ、善行(サダカ)が奨励されます。これらは、現世での利益を誘導するためのものではなく、施しを与え、善行を積むムスリムが、最後の審判の後で楽園(天国)に迎えられるための条件の一つです。
イスラーム的公正を求める人びとが増えて、彼らが自由な選挙で勝利し議会政治をすれば世の中は良くなるだろう―民主化運動を経験したムスリムの国では、遅かれ早かれこういう方向に傾斜するはずです。
いまのところ、イスラーム的公正による世直し政権を創ろうというメッセージは、テレビでもインターネットでも多数出てきますが、それ以外の、つまり欧米諸国が望むような宗教色のない民主化を説くメディアはずっと少なくなります。
~中略~
イスラーム組織のNGOが喜捨を集め、それが自国や外国の弱者の救済に使われ、それをイスラーム系のメディアが大々的に報道すれば、イスラーム政党が勝利するというメカニズムです。ムスリム同胞団系の自由・公正党は、おそらくこのシステムをうまく活用して支持を広げてきました。
P134
イスラーム的価値を政策に織り込んでいくのに、イスラームやコーランをいちいち引き合いに出す必要などないのです。ムスリムの市民からみて、「ああ、イスラーム的正義に適った政策だな」と納得できるような政治をすればよいだけのことです。
イスラームから世界を見る
内藤 正典 (著)
筑摩書房 (2012/8/6)
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