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ロシア体制は、すでにのべてきたように、キプチャク汗国時代と同様、貴族と農奴という単純な二元構造でできあがっていた。モスクワ国家が強大になるにつれて、農奴制は強化された。農奴がいかにつらいものであるかを、私ども日本史の体験者が感覚的に理解することはむずかしい。
とこかくも、地主である貴族から生存だけは許され、労働をしぼりとられ、非道があれば、裁判権をもつ領主から生殺をふくめた刑をうける存在で、移動や移籍の自由もなかった。 コザックは、そこから(ときに都市からも)逃亡して辺境に住んだ人達で、定義は、前掲の原義どおり、自由な人という意味をもっている。 領主のむちと搾取から自由になった、という意味の自由だが、ねつに、ロシア体制からのがれ出た冒険的な生活者という定義も考えられるだろう。
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コザックは、粗暴で血なまぐさい。戦うにあたっては勇敢で、日常、怯者(きょうしゃ)を憎むというかれらの精神から選ばれ、支持される「英雄」は、当然ながら右のようなコザック的美徳を巨大にしたものであった。
ここに、イェルマーク・ティモフェーヴィッチ(?~一五八五)というコザック首長(アタマン)が登場する。かれらはヴォルガ川やカマ川流域で、船舶を襲ったり、沿岸の村々を襲ったりして、恐れられていた。
むろんかれの一団だけでなく、他の首長を戴くコザックも河川という、物資輸送の動脈をおさえこんで、その地帯は無政府状態におちいっていた。
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勇敢な首長(アタマン)イェルマークが、わずか五、六百ばかりのコザックをひきいて東方をめざしたのは一五八一年のことで、コロンブスの最初の航海よりも八十九年後のことでる。
かれが侵略者であるのか地理的発見のための冒険者であるのかはべつとして、ロシア史ではコロンブスに相当するのではあるまいか。
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信じがたいほどのことであったが、一五八一年秋に征途にのぼったイェルマークは、わずか二年後の秋、激戦のすえ、シビル汗の都のイスケルを陥し、その地を占拠した。
―盗賊にこれほどの使いみちがあるのか。
と、モスクワの城塞(クレムリン)にいるイヴァン四世は目をみはったにちがにない。
さらに、ストロガノフ家とコザックの首長(アタマン)イェルマークは、シビル汗を敗走させたことであらたにひろがった”ロシア領”を皇帝(ツアーリ)の領地として献上した。
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皇帝は、イェルマークだけでなくその配下たちをふくめて赦免した。その上、皇帝自身が着用していた甲冑をイェルマークにあたえた。~中略~
甲冑は貴族や騎士のつけるもので、コザックなどという乞食盗賊は、たれひとり甲冑をつけていなかった。それどころか、貴族といえども、双頭の鷲のついた科甲冑をつけている者はいなかったであろう。
これによって、元来が窮民であり、かつ多くが犯罪者でもあったコザックが、士族団とは別系列ながら、皇帝の股肱(ここう)―この時期ではまだイェルマークとその配下だけであったが― になったことになる。
このことは、抜擢、越階(おつかい)というような形容よりも、高度の政治的判断によって聖が賤(せん)に癒着したといってよかった。
皇帝とコザック(とくにその支配層)との関係は、以後多少の推移を経つつ、十八世紀末にはいよいよ密接になり、コザックは皇帝の親衛隊のような気分をもつにいたる。
ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
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