この本を書いているとき、トルコの東部ヴァンというところで、かなり大きな地震が発生し、六〇〇人あまりの犠牲者が出ました。
二〇一一年十月のことです。被災者を救援するために、日本のNPO法人「難民を助ける会」の人たちが現地に向かいました。 彼らが支援活動をして間もなく、十一月の初めに、イスラームの犠牲祭が始まりました。~中略~
犠牲祭というのは、その前の月に聖地メッカへの大巡礼を行なったことを神に感謝する祭りです。しかし、解体された犠牲の獣(おもに羊や牛)は、貧しい人びと、困難な状況にある人びとに分け与えられます。神に犠牲をささげるというかたちをとって、富の再分配をする行為なのです。
日本の援助隊の人たちも、厳しい寒さが迫るなか、牛を一頭買いして被災者に配って歩きました。その姿は、トルコの多くの新聞が報道し、遠方から来た日本人が、イスラーム的な道徳を理解していることに感謝の意を表していました。 それから数日後、再び大きな地震がヴァンを襲い、日本人ボランティアが泊まっていたホテルが一瞬のうちに倒壊してしまいました。 二人のうち、宮崎敦さんは十三時間後にがれきの下から救出され、懸命の手当てがなされましたが亡くなりました。もう一人、近内みゆきさんは、五時間半後に負傷しながらも救出されました。
それからの数日間にトルコの人びとと政府がとった行動は、イスラームとはどういうものかを示す典型的なものでした。~中略~
政党を問わず、あるいは政治的関心のない若者たちも含めて、被災者の救援のために日本からトルコに来て、一人が命を落とし、もう一人が負傷したことに対して、嵐のように、悲観と同情の声が沸き起ったのです。
被災者という、困難のなかにある人を助ける行為は、言うまでもなくイスラーム的な善行です。イスラームでは、弱者や貧しい人に対する手助けをことのほか重視します。神が人類に示した道徳的規範のなかでも、もっとも重要なものだからです。 旅人や病人、怪我人なども、もちろん、イスラーム的には弱者となります。しかし、手助けをするにあたって、その意図は、純粋に善意に立っていて見返りを求めるものであってはなりません。
二人は、地震の被災者のために遠く離れた日本から援助に来ていた「旅人」です。善き意志にもとづいて、遠く離れた地からやってきて、弱者救済に奔走したのちに、自らが被災したのです。
ムスリムとして、いたたまれない思いだったでしょう。トルコ中の人たちが、がれきの下から救出される二人の姿を食い入るように見ていました。トルコのテレビというテレビが、救出の状況を速報で伝え続けました。
不幸にして宮崎さんが亡くなられたと報じるや否や、トルコのツイッターには、「助けてあげられなくてごめんなさい」、「あなたがたは私たちに道を示してくださいました」、「トルコの人間は恥ずべきです。なぜ善意で救援に来た日本人を犠牲にしてしまったのでしょうか」という書き込みがあふれました。
~中略~
もちろん、トルコは伝統的に親日国ですから、国家として、たいへん丁寧に礼儀を尽くしたことは間違いありません。しかし、数日のあいだトルコ人たち、トルコ政府の対応をみていると、やはり、そういう「国家としての好意」ではなかったと私は思います。
国中のムスリムから、巨大なうねりのように心から犠牲になった方を追悼することばがあふれ、救助された方には最大限の助力をしなくては、という気持ちがあふれたのです。
イスラームから世界を見る
内藤 正典 (著)
筑摩書房 (2012/8/6)
P231
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