P195
実はアメリカの中国への援助は援蒋ルートに止まりません。真珠湾攻撃の一年前、一九四〇年十二月、ルーズベルト大統領、財務、国務、陸軍、海軍の四長官が集まり、中国南東部の基地から長距離爆撃機B17を用い、日本本土の工業地帯を爆撃する計画を相談しました。
この計画はさらに米統合参謀本部で詰められ、「JB三五五」という作戦計画となり、翌一九四一年七月二十三日に大統領の許可を得ました。
~中略~
フライング・タイガーズの初めての日本軍攻撃は航空機到着が遅れたため真珠湾攻撃の二週間ほど後になりましたが、問題は、ルーズベルト大統領が、順当に進めば一九四一年九月の、焼夷弾による東京、大阪への爆撃を許可したということです。
日中が宣戦布告をしていないのを利用してアメリカが一方的かつ大々的に中国への無償の軍事物質援助(武器貸与法)をしていたことを考えても、日米戦争は実質的に十二月の真珠湾攻撃以前に、アメリカの直接攻撃すれすれの間接攻撃により既に始まっていたのです。
P207
要するに、日米戦争は、自身社会主義者に近く、ソ連に親近感を持つルーズベルト大統領が、ソ連そしてイギリスを窮地から救い出すため、権謀術数をつくして日本を追い込み、戦争の選択肢しかないように仕向けたものでした。
日本が追い込まれ追い込まれ、国中が呼吸も苦しいほどになっていたからこそ、開戦の報を聞いたほとんどの国民は、勝敗について一様に不安を抱きながらも、「すっきりした」のです。
~中略~
軍部ばかりでなくすべての国民が、在米日本資産の凍結、全面禁輸、ハル・ノートと愚弄され続け、鬱屈していましたから、息苦しさから一気に解放されたような気分になったのです。 東亜新秩序などという美しいスローガンはあるものの、弱い者いじめに近い日中戦争は、武士道精神のまだ残っていた多くの国民にとって憂鬱な戦いだったのです。
それにくらべアメリカは、GNPで日本の十二倍、鋼材生産は十七倍、石油はなんと日本の七百倍もある国なのです。屈従や野垂れ死の淵に立たされた日本が、祖国の名誉と存亡をかけて、世界一の大国に対し敢然と立ち上がったことに、民族としての潔さを感じ高揚したのです。
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昭和の世界恐慌では、列強のブロック経済化という排他的政策により日本の輸出が締め出され、失業者は国中にあふれ、東北の農村などでは一日一回の食事もできない欠食児童が大量に現れ、若い娘たちが身売りされる中、朝鮮をこえ、中国の主権を踏みにじって満州に新しい市場を求めざるを得ませんでした。
これはコミンテルンの謀略により日中戦争まで発展し、アメリカの謀略により袋小路に追いこまれ、ついにはアメリカとの悲劇的戦争に至りました。
日本人の誇り
藤原 正彦 (著)
文藝春秋 (2011/4/19)
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