ヤルタは、黒海に対して北からぶらさがっているクリミア半島の沿岸にある。この地はかつてモンゴル帝国の一部分であったクリム汗の遊牧国家の領域であったことを思いだす必要がある。日本でいえば、江戸時代のある時期までである。
ロシアの自立は、その領域いっぱいに居た遊牧民族を気ながに征服してゆくで確かなものになって行ったが、一七八三年、やっとクリム汗国をほろぼし、クリミア半島をふくめた黒海北岸の草原(紀元前八世紀、遊牧文明を最初に興したスキタイ人の故地)をロシア領にしてしまった。
信じがたいことだが、遠いシベリアのブリヤート・モンゴルのロシア領であることが確定するのが一六八九年のネルチンスク条約によるものであるとすれば、ロシアの足もとであるウクライナ圏内のごく手近なクリミアの地の征服が、それよりずっと―百年も―遅れたことになる。
かつてクリム汗の遊牧地だったヤルタは半島南岸の港市で、気温が温暖なだけでなく、背後に山をめぐらし、前面に黒海の水を見、近くに帝政以来、国家の力の象徴ともいうべきセヴァズトーポリの要塞がある。ふるくから保養地として栄え、ソ連になってからも、この町の性格はかわらない。
第二次世界大戦中の一九四五年(昭和二十年)の初頭といえば、その前々年にイタリアが降伏し、前年にパリが連合軍の手で回復され、ドイツ軍は各地で撤退していて、戦いの峠は越えきっていたころである。この一月、ソ連軍は、弱体化したドイツ軍に対し、大規模な冬期攻勢を開始した。
二月、連合軍主要国家の首脳が、ソ連要人の保養地であるヤルタにあつまった。ヤルタ付近のリヴァディアの保養地を会場として、四日から十一日まで、戦争遂行の最後的段階の方針と、戦後処理についての会談がひらかれた。
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)
P236
0 件のコメント:
コメントを投稿