お山には、おおきくわけて三つの階層があった。学生と堂衆と、堂僧である。
名門貴族の子弟には、およそ二つの出世栄達の道がひらかれていた。朝廷で利口にたちまわり、高位高官をめざすのが普通の処世である。
もう一つが高僧となって、朝廷や世間からうやまい尊ばれる道だ。一族から高僧をだすことは、名誉なことであり、また後生の安心でもあったから、その選択はおおいに歓迎された。
比叡山は数ある寺院のなかでも、名門中の名門である。
権門高家の子弟は、こぞって比叡をめざした。財力と権力の庇護ものと、彼らは学生として入山し、とんとん拍子で出世してゆく。研学や修学に関係なく、世俗の身分がお山の階級としてまかりとおる時代だったのだ。
彼ら名門の子弟には、つきそう従者がいた。武士もいれば、舎人(とねり)という召使いもいる。彼らは主人とともに入山した。出家し、頭をまるめた者もいる。髻(もとどり)を切り落として禿頭(かぶろあたま)にしただけの者もいた。
彼らは学生となった主人の世話をし、さまざまな仏寺を手伝い、またお山の雑役をこなしてはたらく。そのうちに一つの集団となった。そういう者たちは、堂衆と呼ばれている。
堂衆のなかには、腕力と武芸をほこり、武器をたずさえて徒党を組む者もいた。山法師、悪僧などと世間におそれられた僧兵は、この堂衆が中心である。
学生、堂衆のほかに、もうひとつ堂僧という身分があった。範宴(はんねん)はその一人である。
堂僧は、名門の出ではない。大きな財力のうしろだてもない。ただひたすら修行にはげみ、あたえられた役目をつとめる。その役目とは、仏前に奉仕することである。
親鸞(上)
五木 寛之 (著)
講談社 (2011/10/14)
P171
五木 坂本とか、京の東山あたりに家を持って、そこから大事な行事がある時だけ、山上に通うんです。だから事実上の名誉職なんです。お山の上では僧兵が合戦の練習をやっているし、馬もいるし、牛もいる。しかもその当時の比叡山というのは、ものすごい経済力を持っていました。
祇園一帯の商業権とか、外国との交易権とか、あるいは牛馬の商いとか、行商人や鍛冶屋とか、そういうものからもミカジメのような形で上納金を取っていた。
また、貴族たちは、長男は政治家として育てるけれども、次男、三男はできるだけ仏教界で大きな地位を得るようにと、比叡山にいれます。そのときに、荘園や物を添えて渡すんです。そうするとそれらが、結局比叡山の荘園になり、知行地になっていくわけだから、その上がりも膨大になってくる。
親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P59
江戸社会というのは、身分による格差の大きな社会と思われているけれども、ヨーロッパ人の感覚からすれば、実際、殿様と庶民の差は小さかった。食事などは貴族も民衆も一様に質素なのに驚いている。ヨーロッパの感覚でいえば、御殿も衣服も格差は小さい。
江戸時代で、ずば抜けた格差があったのは武力で、これは将軍・大名権力に誰もかなわなかった。~中略~ ただ、富は将軍や大名に偏在していたわけではない。 さらに、ここが重要なのだが江戸時代は「知の身分差」が小さかった。武士も庶民も知識レベルの格差が小さかった。学問に関しては、わりに開かれた社会で、学問文化については、身分をこえて交流することがあたりまえに行なわれた。学問さえあれば、庶民でも、殿様は呼び寄せて意見を聞いたし、武士学者と町人学者・農民学者の区別も、知的格差もなかった。
江戸時代は、権力者に武力が集中しているだけで、富や知識の面は格差がすむなく、ひろく庶民までゆきわたっていた社会であった。
日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2017/10/18)
P147

日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで (中公新書)
- 作者: 磯田 道史
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/10/18
- メディア: 新書
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