御師の村は、立山にふたつある。岩峅寺(いわくらじ)と芦峅寺(あしくらじ)である。
峅(くら)という異様な文字は、漢字ではなく日本製の文字で、おそらく修験者が考案したものであろう。ある種の地形をさす。
これが大和の大峰修験の領域であった大台ケ原などにゆくと、大蛇嵓(だいじゃぐら)といったふうに、嵓(くら)という文字があてられる。これも日本製である。ある種の地形とは、おそらくビルのように大きい断崖にはさまれた谷間をさすにちがいない。
中世の修験者たちはこういう地形を神聖視し、とくにくらとよんだかとおもわれる。
修験道は、七世紀に出た役(えん)ノ小角(おずね)がそれをはじめた。
かれはやたらと山岳によじのぼった。好んで高山に登るということを、役ノ小角の同時代のどの民族もまだその例をもっていないのではないか。
人間にとって山は狩猟か、木を得るか、あるいは食料の採集のために存在したのだが、 ただ山に登るためにそれを登るという人間のあたらしい行動世界をひらいたのは、おそらく世界で役ノ小角が最初ではないかとおもわれる。
かれはしきりに日本中の高山に登ったが、しかし立山には登らなかった。奈良時代に入っても立山の頂上をきわめたという史的確証は得られないらしい。
平安初期になって、ようやく出た。僧名を慈興と名乗る佐伯有若(さえきのわりわか)という人物で、かれが発心し、はじめて登った。
おそらく原生林を斧でもって伐りひらきながら、幾夜もかさねてよじのぼったにちがいなく、神秘的な恐怖や感動をふんだんに味わったことであろう。
この人物が、立山御師の祖である。
街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P119
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