「巡礼」という宗教行為は、巡礼し巡拝する人間と神々や仏・菩薩たちとの精神的な出会いを象徴する行為であった。
いうまでもないことだが、聖地や霊山への道行きの旅の中で、巡礼者たちは神や仏のイメージを思い浮かべつつその加護を祈っている。彼らは現世利益という約束手形に期待の胸をふくらませながら、おごそかな社殿や伽藍に憧憬のまなざしを向けているのである。
受難のたびにも似た長い巡礼の旅路を終えたとき、彼らは慈愛の光にかがやく仏・菩薩のふところに包みこまれ、恍惚感にひたる。そして神域の森厳なたたずまいに一切の汚れが洗いながされ、心身の蘇りを確信するのである。
思うに、「巡礼」という行為を通した神や仏との出会いは、もう一つの人生の発見へと彼らをみちびくのではないであろうか。
山折 哲雄 (著)
神と仏
講談社 (1983/7/18)
P174
P188
現代の私たちがクリスマスをお祝いしたからといって、皆がキリスト教を信仰しているわけではない。
同じように江戸時代の人々も、伊勢に行くからといって神道に熱心なわけではないし、大山(おおやま、神奈川県)に行くからといって山岳信仰者であるというわけではない。
江戸時代になると、やはり目的は行楽や旅の楽しみなのである。
~中略~
しかし、本当にそこに信仰心はないのだろうか?江戸時代、神事や仏事を行なうための信者の集りである講は、現代に比べると膨大な数だった。そこには特定の宗教の信仰心というより、生活に溶け込んだ信心があったのではないか。
P191
「信仰心」というほどのものでなくとも、そこに「信心」が働いていたのは間違いない。信心とは、人知を超えた力を感じ取って、そこに安泰と幸運を祈ることである。
田中 優子 (著)
江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか? 落語でひもとくニッポンのしきたり
小学館 (2010/6/1)

江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか? 落語でひもとくニッポンのしきたり (小学館101新書)
- 作者: 田中 優子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/06/01
- メディア: 単行本
ただ恐ろしく静かで、沈黙があたりを支配していた。私は、淋しさに耐え切れぬ思いでいっぱいだった。
海か湖か知らないが、黒い波が寄せていた。私はその水に浮かんでいたのだ。ところが水のように見えたのは、ねとねとしたタールのようなもので、浮かんでいた私はその生暖かい感触に耐えていた。
私のそばには一本の白い腕のようなものがあって、それが私にまとわりついて離れなかった。その腕は執拗に私をタールのような水に引きずり込もうとしていた。
どこまでも、どこまでも離れようとしない。私は白い腕から逃れようとあがいていた。
あれは誰の手、私の手ではあるまい。でも誰の手であろうか。こんな気味の悪い経験をしたことはなかった。
~中略~
下は見渡す限りのスラムだった。荒れ果てて人が住んでいる形跡はない。それがさっきのタールのような海に続いていた。塔の上には一本の旗が立っていた。それが風に翻っているのが、夜目にもはっきりとわかった。これは死の国に相違ない。
それならば神様がいるかと思って探してみたが、どこにもその形跡はなかった。
こんなところまできてしまったからには、もう帰るわけにはいくまい。ものすごく寂しかったが、不思議に恐怖感はなかった。でも、あんな孤独感を味わったことはなかった。
もう諦めていたのに、目を覚ましたのはのは明け方であった。まず目に入ったのは妻の心配そうな顔だった。寝ずに見守っていたので。安堵の気持ちが表情に表れている。
寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P16
一二 季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。
子曰わく、未だ人に事うる能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能く鬼に事えん。
曰わく、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
先進篇
論語
孔子 (著), 貝塚 茂樹
中央公論新社 (1973/07)
P299
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