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蔵六(住人注;村田蔵六、のちの大村益次郎)が、この長州藩の青年政治家にもちこんだ話題というのは、日本海にうかぶ無人島のことであった。
その小さな島は隠岐島(おきのしま)から西北百五十八キロの海上にある。
「竹島」
と、漁民たちからよばれていた。
この島は、朝鮮でいう鬱陵島(うつりょうとう)とよくまちがわれるが、そうではない。この島は島のかたちをなす東島と西島を本体とし、その付近の岩礁をふくめて「竹島」と称される。
風浪がつよく、このためわずかに島の上に草がおおっているにすぎない。この島の存在は豊臣期に発見され、山陰地方の漁民が漁場としてひらいた。島には水がなく、人の居住をゆるさないが、漁場としての価値が大きい。
が、いったいこの無人島が日本のものであるのか韓国のものであるのか帰属がはっきりせず、江戸初期、日韓外交の一課題としてしばしば揉め、明治三十八年やっと日本領になり、島根県隠岐郡に属したが、第二次大戦後、ふたたびややこしくなり、韓国が主権を主張し、いまなお両国のあいだで未解決の課題になっている。
幕末、海防が時勢の大きな課題になるや、この島の領有を明確にすることがやかましい問題になり、土佐藩士岩崎弥太郎がここへ探検に出かけたこともある。
この蔵六の時期は、岩崎の探検よりずっと前のことである。ただし蔵六が先覚的にいいだしたのではなく、蔵六と同時代人で長州藩(長州藩の支藩)の侍医であった興膳昌蔵(こうぜんしょうぞう)が先唱者だったといっていい。興膳は京都の人だが、シーボルトについて蘭方医学をおさめ、長崎藩の侍医になった。かれの家は家はかつて長崎で代々貿易商をいとなんでいたため、東シナ海や日本海の事情に明るく、竹島のことも家系伝説としてふるかからつたわっていた。
「竹島を堂々たる日本領にせねばならぬ」
というのは興膳の持説で、吉田松陰もこの説をきいて大いに賛同したことがある。
後年松陰の門人の高杉晋作が、
―奇兵隊をもって占領しよう。
といっていたが、藩内の動乱のためそれどころでなくなり、さらに興膳昌蔵自身も、あるつまらぬ事件にまきこまれて暗殺されてしまった。蔵六は興膳とはべつに江戸において竹島という日本海の孤島の存在を知った。
―これは長州藩領にしたほうがよいのではないか。
とおもい、桂にそれをすすめたのである。
花神〈上〉
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
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